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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(79)
山の桜を見てよめる (貫之)
春霞なに隠すらむさくら花 ちる間をだにもみるべきものを
(山の桜を見て詠んだと思われる・歌……山ばのおとこ花を見て詠んだらしい・歌) (つらゆき)
(春霞、なぜ隠すのだろうか、桜花は、散る間さえ、風情があって・見るべきものなのに……春の情が澄み・張るが済み、どうして隠れるのだろうか、おとこはな、散り果てる間をも、見るべきものなのになあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「春霞…はるがすみ…春情が澄み…張るが済み」「なに…なぜ…なにゆえ…どうして」「隠す…消す…果てさせる」「さくら花…桜花…木の花の言の心は男…男花…おとこはな」「ちる…散る…果てる…隠れる…逝く…尽きる」「見る…花見する…見物する…めを合わす」「見…覯…媾…まぐあい」「べき…べし…するはず…するのがよい…当然・適当の意を表す」「ものを…のに…のになあ…詠嘆を含む逆接条件を表す」。
春霞はどうして桜花を隠して見えなくするのだろうか、散る間の風情も見るべきなのに――歌の清げな姿。
張るが済めば、なぜ消え失せるのか、おとこ端、尽き果てる間際さえも、見るべきものを・と女はいうのに。――心におかしきところ。
桜散る様を見物すべきという風流な心は「清げな姿」である。裏に、はかない男の性情とおとこの性(さが)に、疑問をつき付けつつ、その永続を思う、「心におかしきところ」がある。
前の法師の煩悩断つ歌とは、真逆の歌二首を並べたのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)