■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(70)
(題しらず) (よみ人しらず)
待てといふに散らでしとまる物ならば なにを桜に思まさまし
題しらず 男の詠んだ歌として聞く
(待てと人が言うと、散らずに、止まる物ならば、どうして、桜にたいして、これほど愛でる・思いが増すだろうか……まだよ待ってと、おんなが・言うと、果てずにだよ、止まる物ならば、何を、おとこはなに加えれば、思い火ますのだろうか)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「ちらで…散らずに…果てずに」「し…強調・強意を表す」「物…物体(桜花)…男の身の端」「なに…なぜ…なにゆえ…どうして…何…どういうもの」「を…感嘆・詠嘆を表す…対象を示す」「桜…男花…男端…おとこ」「に…に対して…に添加する…に為し加える」「思…思ひ…思い火…情熱の炎」「なにをーまし…まよい決断しかねる意を表す…どうしたものだろうか…なにをすればいいのだろうか」。
待てと言っても、はかなく散るからこそ、桜花、ますます愛でたくなるのだ・いつも咲いていれば何が愛でたいか。――歌の清げな姿。
貴女が待てと言うと、果てないものならば、何を、ものに為すべきか、思い火増すにはどうすりゃいいのか。――心におかしきところ。
咲けばすぐ散るのは桜のさが、はかなく果てるのはおとこのさが。待てと言っても止まらない。すぐ散るのねと咎められても、どうすりゃいいのか。男の心に思う事を言い出した、男のささやかな言い分である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)