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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(77)
雲林院にて桜の花をよめる 承均法師
いざさくら我もちりなむひと盛り 有なば人にうきめみえなん
雲林院にて桜の花を詠んだと思われる・歌 そうくほうし
(さあ、桜花、我も散ってしまおう、一盛りあれば、人に、浮かれた事態を見せて・憂きめに遇わせて、しまうだろう……さあ、おとこ花、我も尽き果てよう、ひと盛りあれば、女に、浮きめを見せて終には・憂きめを見せてしまうだろう)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「さくら…桜…木の花…男花…男端…おとこ」「ちりなむ…散りなむ…果ててしまうだろう…尽きてしまおう」「む…推量の意を表す…意志を表す」「ひとさかり…一盛り…人盛り…男の盛り…女の盛り」「人に…人々に…女に」「うきめ…浮きめ…浮かれた体験…憂きめ…もの足りなくて嫌な体験」「みえなん…見えなむ…(うきめを)見せてしまうだろう…(うき事態に)遭遇させてしまうだろう」「なん…なむ…してしまうだろう…そうなってしまうだろう」「な…ぬ…完了の意を表す…意味を強める…きっと(そうなる)だろう」。
さあ、桜、我も俗世から散り果てよう、我に・一盛り有れば、他人に憂き事態を、きっと見せてしまうだろう。――歌の清げな姿。
いざ、おとこ花散らし果てよう、ひと盛り有れば、有頂天に浮かれ、終に逝けに堕ち、女に・憂きめをみせるだろうから。――心におかしきところ。
煩悩を断ち法師になろうとする男の思いを、「清げな姿」と「心におかしきところ」で包んで表現した歌。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)