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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(72)
(題しらず) (よみ人しらず)
この里に旅寝しぬべし桜花 散りのまがひに家路わすれて
題しらず 男の詠んだ歌として聞く
(この里に旅寝してしまうだろう、桜花、散り乱れる、すばらしさに紛れ・家路のこと忘れて……このさ門に、度々寝て死ぬだろう、おとこ端、おとこ花の・散りの乱れに、女の・井へ路を忘れて)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「里…さと…言の心は女…ふるさと…生まれたところ…さ門…み門…おんな」「さ…接頭語」「と…門…身の門」「たび…旅…度…度々…何度も」「しぬべし…してしまうだろう…死ぬだろう」「し…す…為す…死」「ぬ…完了した意を表す」「桜花…木の花…男花…男端…おとこ」「はな…端…おとこ花…白いお花」「散り…離散…離れ離れ…果て」「まがひ…乱れ紛れ…入り乱れ見分けがつかない…乱れ見失う」「見…覯…媾」「家…いへ…言の心は女…井辺…おんな」「路…言の心は女…通い路…おんな」「わすれて…忘れて…記憶をなくして…我を忘れて…(別のことに気を取られ)わすれて」。
この里で旅寝してしまうだろう、桜花、散り乱れ・敷きつめられた花びらに、家へ帰る路、わからなくなって。――歌の清げな姿。
このさ門に、度々寝て死にそうだ、咲く白いお花、果ての乱れに紛れて、我を忘れて・貴女も井辺路のことも忘れて。―心におかしきところ。
山ばのの京(絶頂)に送り届けるべき女のことを忘れて、すばらしい身門に尽き果て、池(逝け)に堕ちた男のありさまが、言の戯れを利して表出されてある。
たぶん、(71)の歌のような「残すことなく、尽き果てるのが、愛でたいのよ」というような女の思いに応じたのだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)