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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(73)
(題しらず) (よみ人しらず)
うつせみの世にも似たるか花さくら 咲くと見しまにかつちりにけり
題しらず 女の詠んだ歌として聞く
(現実の蝉の生涯にも似ているなあ、花桜、咲くと見た間に、すぐ散ってしまったことよ……現実の背身の夜にも・うつろな蝉の世にも、似ていることよ、おとこ花の咲く情態、咲くと見た間に、同時に果ててしまうことよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「うつせみ…現世の蝉…空蝉・虚蝉…現世身…現実の背身…現実のおとこの身」「の…のような…である」「世…生涯…女と男の世…夜…おんなとおとこの夜」「はなさくら…花咲くら…桜花の咲く状態…おとこ端の咲く情態」「ら…状態・情態を表す」「見し…花見していた…見た」「見…覯…媾…まぐあい」「かつ…且つ…ほぼ同時に…すぐに」「ちり…散り…果て…尽き」「けり…気付き・詠嘆の意を表す…やはりそうだったかあ」。
現実の蝉の生涯にも似ているなあ、花桜、咲くと見た間に、散ってしまったことよ――歌の清げな姿。
現実の背身の夜にも・うつろな蝉の生涯にも、似ていることよ、おとこ花の咲く情態、咲くと見た間に、同時に果ててしまうことよ――心におかしきところ。
古今和歌集「巻第二 春歌下」の最初の五首(69~73)は、女と男の問答歌のように並べられてある。振り返って見よう。
(69)女より言いがかりを付ける、
はるが澄み、張るも済み、盛りあがらない貴身の端、衰えゆくのねえ、あゝ、色情変わりゆく。
(70)男の問い、
貴女が待てと言うと、果てないで居られるものならば、何を、ものに為すべきか、思い火増すにはどうすりゃいいのか。
(71)女の応答、
残すことなく、わが中に身を尽くしてこそ愛でたいのよ、咲くおとこ花、残してもどうせ、女と男の仲、ものの果ては辛いのだから。身を尽くしてよ。
(72)男の応答、
このさ門に、度々寝て死にそうだ、おとこ端、果ての乱れに紛れて、我を忘れあなたも忘れ・井辺路忘れて。
(73)女嘆きて、
うつつのせみの世に似ていることよ、おとこ端、咲くと見た間に、すぐ尽き果ててしまったわ。
女は、とうぜん嘆きつつ、はじめの歌(69)に戻り繰り返される。平安時代のおとなたちは、歌の清げな意味とともに、このような意味を楽しんでいたのである。女と男の夜の仲は千数百年経った今も変わらないだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)