帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(81)枝よりもあだにちりにし花なれば

2016-11-24 19:02:08 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――                                                                                                  


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下81

 

東宮雅院にて、桜の花の、御溝水に散りて流れけるを

見てよめる                菅野高世

枝よりもあだにちりにし花なれば おちても水のあわとこそなれ

東宮雅院にて、桜の花が御溝水に散りて流れたのを見て詠んだと思われる・歌……皇太子が学芸を修められる雅院にて、おとこ花が御溝水に散って流れたのを思って詠んだらしい・歌  菅野高世(仁明朝の周防守という)

枝からも、はかなく散った花なので、落ちても、水の泡となって、すぐ消える・のである……御身の枝より、どうしょうもなく散ったお花なので、降り落ちても、女の・水の、泡となるだけなのである)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「枝…木の花の枝…男の身の枝」「あだ…浮かれたさま…はかないさま…無益・無用なさま…婀娜…なよなよとなまめかしいさま」「花…木の花…男花」「なれば…それ故…なので…それだから」「水…言の心は女…川・溝も言の心は女」「水の泡…消えやすいもの…空しく消える物…おんなの白い泡」「こそ…強く指示する意を表わす」「なれ…なり…断定の意を表す」

 

枝からも、無用で散った花なので、落ちても水の泡となるのですよ。――歌の清げな姿。

身の枝より、無用に・なよなよと艶かしく散った、おとこ花なので、落ちてもおんなの白い泡となるだけよ・男は散らさずに女を有頂天に送り届けるべしとか申します。――心におかしきところ。

 

このように、皇子に奏上する歌を「そへ歌」という。添え歌・副え歌は、未だお若い皇子らに、心を添え・助言し奉る歌である。この時の皇太子は誰かわからないが、成人して間もないお方と思われる。この歌を聞き知った男も女も皆、微笑み和んだことだろう。これぞ和歌である。

 

「そへ歌」の例は、「古今集仮名序」に有る。昔々、難波津の上の台地に都があった頃、皇子が四人居られて、互いに位を譲りあって(争いあったのではない)、皇太子の位にお付きになられず、空位のまま三年経ったので、和仁(わに)と言う人が、訝しく思って詠んで奉った歌である。

難波津に咲くやこの花冬籠り 今は春べと咲くやこの花

(難波の都に、咲くや、木の花・梅の花、冬籠り、今は春だと咲くや此の花……何は津に、咲くや、木の花・男花、冬籠りや、井間は春爛漫と咲くや、おとこ花)


 「難波津…地名…何は津」「津…言の心はおんな」「や…疑い・訝り・詠嘆を表す」「この花…木の花…梅の花…男花…此の花」「いま…今…井間…おんな」「春…青春…春情…張る」。

 

この歌の高徳によってかな、位にお付きになられたお方は、仁徳天皇(在位313400)である。この国に花が咲いて、民のかまども賑わったということである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(80)たれこめてはるのゆくゑも知らぬ間に

2016-11-23 19:16:41 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――                                                                                                  


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下80

 

心地そこなひてわづらひける時に風にあたらじとておろし

こめて侍りける間に、折れる桜の、散り方になれりけるを

見てよめる               藤原因香朝臣

たれこめてはるのゆくゑも知らぬ間に まちし桜もうつろひにけり

(気持が悪くなって、苦しんで居た時に、外気に当らないでおこうと、格子戸など・下ろし、籠っていた間に、枝折って活けてあった桜が、散りかけたのを見て詠んだと思われる・歌……気分を害して、男が・煩わしくなって居た時に、世間の風評に煩わされないでおこうと、男を・こき下ろし、籠もっていた間に、へし折ってやったおとこ花の枝が、散りはじめたのを見て詠んだらしい・歌)  藤原よるか(内侍所の女官で、典侍・次官にまでなった女性)

(すだれも格子戸も・垂らし、籠もって、季節の春の行方も知らぬ間に、咲くのを・待っていた桜の枝も、移ろい衰えてしまったことよ……垂れ、縮み込めて、張るものの行方も知らぬ間に、咲くのを・待っていた、あの男の身の枝・おとこ端も、衰えてしまったことよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

詞書も聞く耳が異なれば、異なる意味に聞こえるように書かれてある。「心地…気持…気分」「そこなひて…損なって…悪くなって…害して」「わづらひて…患いて…病気になって…煩いて…苦しんで…煩わしくて」「風…屋外の空気…世の風…風評など」「おろし…(格子戸など)下ろし…(相手を)こきおろし…おとしめ」。

歌「たれこめて…(格子戸や簾を)垂らし籠もって…(もの)垂れ縮み込めて…おとこを貶める言葉」「はる…季節の春…ものの張る…春情」「さくら…桜…男花…おとこ花…男の端」「ら…状態を表す」「うつろひ…移ろい…悪い方への変化…衰え」「に…ぬ…完了したことを表す」「けり…気付き・詠嘆」。

 

気持ちが悪く、部屋に閉じ籠っていて、知らぬ間に季節の春は移ろい、咲くのを待っていた活けた桜も衰えたことよ――歌の清げな姿。

もの垂れ、縮み込めて、張るものの行方知れず、それでも待っていた、あの男、へし折った、身の枝も・おとこ端も、移ろい・衰えてしまったことよ・やはりあの女に移ったか。――心におかしきところ。

 

見捨てられた女になったのだろうか、その間の事情は知れないが、そんな時の、女の心に思うことが詠まれてある。

桜の「言の心」が男である事さえ心得れば、「折れる桜」「待ちし桜」が何を意味し、「散りがたになれりける」「移ろひにけり」と言う詠嘆に至る女の心情が誰でもわかる。歌の解釈など不用なのである。

 

近世以来、歌の表層の清げな意味しか聞こえない情況に有るとすれば、国文学者たちは、自らの憶見を加えて、鑑賞に堪える歌にしたくなる。しなければならないと思う、それが歌の解釈だと錯覚することになる。

正岡子規のいう「くだらぬ歌」にしてしまったのは、国文学的解釈方法である。平安時代の和歌を自らの文脈に取りこんで、俎上にのせ切り刻んで料理するのと同じことである。旨い料理が出来たとしても和歌が痛々しい。門外漢としては僭越ながら、警鐘を鳴らしつづける。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(79)春霞なに隠すらむさくら花

2016-11-22 19:00:31 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下79

 

山の桜を見てよめる          (貫之)

春霞なに隠すらむさくら花 ちる間をだにもみるべきものを

(山の桜を見て詠んだと思われる・歌……山ばのおとこ花を見て詠んだらしい・歌) (つらゆき)

(春霞、なぜ隠すのだろうか、桜花は、散る間さえ、風情があって・見るべきものなのに……春の情が澄み・張るが済み、どうして隠れるのだろうか、おとこはな、散り果てる間をも、見るべきものなのになあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「春霞…はるがすみ…春情が澄み…張るが済み」「なに…なぜ…なにゆえ…どうして」「隠す…消す…果てさせる」「さくら花…桜花…木の花の言の心は男…男花…おとこはな」「ちる…散る…果てる…隠れる…逝く…尽きる」「見る…花見する…見物する…めを合わす」「見…覯…媾…まぐあい」「べき…べし…するはず…するのがよい…当然・適当の意を表す」「ものを…のに…のになあ…詠嘆を含む逆接条件を表す」。

 

春霞はどうして桜花を隠して見えなくするのだろうか、散る間の風情も見るべきなのに――歌の清げな姿。

張るが済めば、なぜ消え失せるのか、おとこ端、尽き果てる間際さえも、見るべきものを・と女はいうのに。――心におかしきところ。

 

桜散る様を見物すべきという風流な心は「清げな姿」である。裏に、はかない男の性情とおとこの性(さが)に、疑問をつき付けつつ、その永続を思う、「心におかしきところ」がある。
  前の法師の煩悩断つ歌とは、真逆の歌二首を並べたのである。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(78)ひとめ見しきみもや来ると

2016-11-21 19:01:07 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――      


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下78

 

あひ知れりける人のまうで来て、帰りにける後に、よみて

花にさして遣はしける              貫之

ひとめ見しきみもや来るとさくら花 けふは待ちみてちらばちらなむ

知り合いの人が参って、帰った後に、詠んで花に挿して遣った・歌……相知った女が来て帰った、後に詠んで、お花に挿して送り届けた・歌  つらゆき

 (一目見たあなたも、花見に・来るかなと、桜花、今日は待ってみて、来てくれた今はもう・散るならば散ってもいいでしょう……人妻、見た、あなたが、繰り返し・上り来るかと、おとこ花、京は・絶頂は、待って見て・来たので今は、散るならば散り果てることができるよ)

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ひとめ…一目…人め…人妻」「みし…見た…めを合わせた」「見…覯…媾…まぐあい」「くる…(花見に)来る…(山ばに)来る…繰る…繰り返す」「さくら花…木の花…言の心は男…おとこ花」「けふ…今日…きやう…京…山ばの頂上…感の極み」「ちる…散る…果てる…尽きる」「なむ…(散り果てても)いいだろう…当然・適当の意を表す…(散り果てることが)できるだろう…可能性を推量する」。

 

待っていたあなたが、見に来てくれたので、桜花は、散りたければ、何時散ってもいいでしょう。――歌の清げな姿。

一め見た・人妻見た、あなたに山ば来るかと、おとこ花、感の極みは待って見て、来たので今は・散るのならば、散ることができるよ――心におかしきところ。

 

法師の歌とは、真逆の艶書(懸想文)の歌である。一とめ目を合わせた女への男の思いを表現した。加えて、性愛においても精一杯の誠意を尽くすおとこであることを表現した歌。

 

女の返事は、「訪ねていらっしゃい門に錠ささず待つわ」となるか、「わが門にそのかしらうち当てひっくり帰れ」となるか。この歌の「清げな姿」に顕れる思いはほんとうかどうか、「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)に顕れるおとこの「京を待ち見て」から尽くし果てるという誠意はほんとうかどうか、歌のエロスに触れた女の感覚により決まる。

 

歌は人の「心に思う事を、見る物聞くものに付けて言い出せるなり(仮名序)」「此れを以て、花鳥(男と女)の使いと為す(真名序)」とあるのは、このような歌のことである。そして、それは想像以上に高度な表現方法で詠まれてある。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(77)いざさくら我もちりなむ                                                                                                                                                                                                                             

2016-11-19 18:50:12 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義―― 
                                                                         

 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下77

 

雲林院にて桜の花をよめる      承均法師

いざさくら我もちりなむひと盛り 有なば人にうきめみえなん

雲林院にて桜の花を詠んだと思われる・歌  そうくほうし

(さあ、桜花、我も散ってしまおう、一盛りあれば、人に、浮かれた事態を見せて・憂きめに遇わせて、しまうだろう……さあ、おとこ花、我も尽き果てよう、ひと盛りあれば、女に、浮きめを見せて終には・憂きめを見せてしまうだろう)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「さくら…桜…木の花…男花…男端…おとこ」「ちりなむ…散りなむ…果ててしまうだろう…尽きてしまおう」「む…推量の意を表す…意志を表す」「ひとさかり…一盛り…人盛り…男の盛り…女の盛り」「人に…人々に…女に」「うきめ…浮きめ…浮かれた体験…憂きめ…もの足りなくて嫌な体験」「みえなん…見えなむ…(うきめを)見せてしまうだろう…(うき事態に)遭遇させてしまうだろう」「なん…なむ…してしまうだろう…そうなってしまうだろう」「な…ぬ…完了の意を表す…意味を強める…きっと(そうなる)だろう」。

 

さあ、桜、我も俗世から散り果てよう、我に・一盛り有れば、他人に憂き事態を、きっと見せてしまうだろう。――歌の清げな姿。

いざ、おとこ花散らし果てよう、ひと盛り有れば、有頂天に浮かれ、終に逝けに堕ち、女に・憂きめをみせるだろうから。――心におかしきところ。

 

煩悩を断ち法師になろうとする男の思いを、「清げな姿」と「心におかしきところ」で包んで表現した歌。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)