はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●川村清雄「ベニス風景」 (中村屋サロン美術館「近代洋画への道」2)

2016-10-23 | Art

先日東博で見た川村清雄(1852~1934)「形見の直垂」が心に残っていたところに、中村屋サロン美術館でも素敵な絵に出会えました。

川村清雄「ベニス風景」

クリアファイルになっていたので、購入したものです。

ヴェネチアの風景画といえばそうなのですけれど、なんだか重たさがなくて、気持ちが瑞々しくなる感じ。

解説には、左側の余白に水墨山水画を思わせるとありました。

1852年、幕臣の家に生まれた清雄は、子供のころから手習いとして南画や花鳥画を学び、開成所の画学局で高橋由一、川上冬崖らから西洋画も学びます。

清雄が画家になることを決意したのは、徳川家給費生としての19歳での渡米がきっかけ。画業のための留学ではありませんでしたが、絵を学びます。二年後にパリへ、24歳の時にヴェネチア美術学校へ入学。29歳の時に、留学の延長が認められずに、帰国。

ヴェネチアでの先輩格でジャポニズムを好んだスペイン人画家、マルティン・リコは、清雄に、日本的なものを失わないようにということを伝えたそうです。

この絵が、日本的なものを意識したのか、それとも幼いころから南画や花鳥画を描いた清雄の自然な感性だったのか。

構図は確かに水墨のような割り方。

でもそれ以上に、私は線に見惚れたのかもしれません。水墨の筆のような潔さ。木の葉には、溌墨のような。空を描く筆は、速さと集中した精神の軌跡のような。

屋根やヨットの帆、雲などは、塗り込めず下地の色を活かし、筆目を残しているのも、日本の古い絵に通じるような。

水墨や掛け軸や屏風が、余白を残してなにも塗らず描かず、それでもその余白に世界や気配が広がっているのは、構図のなせる技だけではなくて、花鳥や山水などを形づくったその線の意思が、筆を下ろしていないその先までも見せる力があるからではと思ったりするのですが、

清雄の線も、そんな力があるように感じ、目で追うと心地よかったです。墨が緑や白の絵の具に変わったかのような、一心の勢い。

清雄の絵は西洋画なのだけれど、系譜ということでいうなら、室町や江戸中期への流れにあるのではと思うくらい。

数年前には清雄展が続いた時があったというのに、知らずに残念。

 

ちなみに、マルティン・リコがヴェネチアを描いた作品も魅力的。(ウィキペディアより)

La Riva degli Schiavoni en Venecia (1873)

マルティン・リコの他の絵も、画像で見る限りですが、なんだかとてもよさそうです。


●山下りんの模写と工部美術学校 (中村屋サロン美術館「日本近代洋画への道」1)

2016-10-23 | Art

中村屋サロン美術館「日本近代洋画への道」 2016.9.1012.11

 山下りんと川村清雄を見たくて行ってきました。

 山下りん(18571939)については、以前の日記に書きましたが、イコン画がお茶の水のニコライ堂はじめ各地の教会に残されています。明治にイコン画を学ぶためにロシアの修道院へ派遣されますが、イコンよりもラファエロなどのイタリア絵画に魅せられ、エルミタージュへ模写に通い詰めていました。

今回展示されている模写は、その短いロシア滞在中のもの。

「ヤコブ像(使徒の図)」

グイド・レーニGuido Reni15751642、ボローニャの画家)の模写です。

りんは、晩年、故郷の笠間で暮らすようになってもこの絵を手元に置き、最後まで寝起きする部屋に架けておいたそう。

グイド・レーニの絵もこの絵のオリジナルも見たことがないですが、ロシアに渡る前からすでに、工部美術学校でフォンタネージの指導を受け、成績も学年10位、女子では1位と優秀であったりんですから、その腕は確か。

模写だとしても、この絵に心打たれました。ひたむきな絵だと思いました。

完成形の表面に塗り隠されたものまで写し取ることは難しいことだろうと思うけれど、この絵をみていると、それを補うものがあるように思えました。

尊敬していたフォンタネージの帰国を契機に、りんはじめ他の学生たちも工部美術学校を退学。そこで一度閉ざされてしまった自分の求める絵画への道が、エルミタージュで再び開けた。描きたいというあふれる思いが、模写にとどまらず、余りあり。

しかし その後、修道院ではエルミタージュに行くのを禁止され、半軟禁状態でイコンの習得を課せられることに。体調を崩し、予定を早めて1年半で帰国。また、好きなものを描ける環境ではなくなってしまいます。

 美の巨人では、唯一りんの署名があるイコン画「ウラジーミルの聖母」も終生手元に置いたことが紹介されていました。「ヤコブ像」の模写とともに、描きたいものを描ききったと思える絵だったのでしょう。

 

◆今回の展覧会では、りんが学んだ工部美術学校(1876~1883)ゆかりの、五姓田 義松、山本芳翠、小山正太郎の作品が見れました。

工部美術学校は、フランスではなく、フォンタネージ、ラグーザとイタリア人を招聘し、彼らは学生からも慕われていたようです。ここから出た画家の絵には好きな絵が多いので、当時の政府担当者、good jobですが、その後日本美術の再興を訴えるフェノロサの提言もあり国粋主義の台頭、さらには黒田清輝らフランス帰りの外光派が主流をなすなか、彼らは傍流へと追いやられてしまいます。最近見直されてきているというのは、もっと見る機会が増えそうでうれしいです。

 吉田博展以来見たかった、不同舎での師である小山正太郎の風景に出会えました。

小山正太郎(1857~1916)「青梅風景」1902

りんと同い年で、フォンターネージの帰国とともに退学。(りんは学校で10位でしたが、首位は小山。)その後、不同舎を主催し、廃校となった工部美術学校の学生たちは、ここの門をたたく者も。今回展示されていた中村不折、満谷国四郎、鹿子木孟郎、青木繁もここで学んでいます。高橋由一の息子も、ここで指導していたというのも興味深いです。

日本の景色を西洋画の技法で描く。ですが特に気負ったところも過ぎたところもなく、(本人たちは苦労したのかもしれませんが)、自然でいいなあとしばらく見ていました。とっても上手ですし。

コローの森のような癒し感があるからでしょうか。竹も心地よく、にわとりがかわいい。見てて心地よかったです。

 

ラグーザの妻の玉の作品も。ラグーザ玉「保津川の渓流」

制昨年は不明ですが、実践女子大学香雪記念資料館で見たシチリアの海を思いだします。やはりこの絵も明晰な感じがしました。

 

◆他には、五姓田芳柳「上杉景勝一笑図」(絶対笑わない景勝が猿をみて、フッと笑う)、山内愚僊「住吉神社」、岡精一「捜索」(障子にうつる刀をぬいた人のシルエットが怖い) が印象に残りました。


川村清雄は次のページに。