先日の東博、本館の常設へ。
中でも、「赤坂離宮花鳥図画帖」というシリーズにはまりこみ、渡辺省亭に惚れこんだ。
四谷の迎賓館の壁に飾られている、七宝焼き30枚の下絵。
1909(明治42年)、東宮御所として建設された迎賓館。花鳥の間(大食堂)の壁を飾る花鳥画は、荒木寛畝(1831~1915)と渡辺省亭(1852~1918)に下絵が発注される。実際には渡辺省亭のものが選ばれ、涛川惣助(!)が七宝に作り上げた。
荒木寛畝も渡辺省亭も、洋風表現を学んだ日本画家。省亭も涛川惣助も、当時からリアルタイムで海外で人気が高かったらしいから、賓客のおもてなしに最適タッグといえましょう。
ベルサイユ宮殿みたいなあの建物にこの花鳥画たちが、と思うと、明治が生んだ産物にうっとり。
迎賓館 花鳥の間(内閣府のHPより http://www8.cao.go.jp/geihinkan/akasaka/photo.html 公開日の日程もでています)
下絵は、額のかたちの卵型。鉛筆のあとも見えました。
荒木寛畝のものも選にはもれたけれど、こちらもすごい。
荒木寛畝「蝦・鰈(えびかれい)」 緻密。口を上に開けたカレイといい、イセエビと言い、生々しい。もうすでに食材になっている感。生きてはいないのが伝わるのに、迫力。
「雉」も「秋草に鶉」も精緻。鳥の目の、なんというか日本刀のようなキレ。尊厳をみなぎらせている。
産毛のふんわりしたところも、長い尾も、眼を見張る写実ぶり。
寛畝の鳥に対する畏敬の念の凄み。
「鵞鳥」では、喉から胸へのラインがくなりくなりと。こういう野生の美に日々触れていたら、こんなに取りつかれたような絵になるのかな。
首から胸の張った肉感。二羽のこの様子は、”強い男にかわいい女”といったキャスティングかな。
寛畝では、同室に掛け軸も展示されていた。
「芦辺游鴨」1912(大正元年)
寛畝は花鳥一筋。時代が西洋化にさらされても、かたくなに貫いたらしい。
でもしっかり西洋画のいい所どりをしているみたいでもある。西洋の水辺風景のようなふんわり感。水墨タッチだけれど、すすきのふんわりとした奥行き。枯葉で守られた鴨ファミリーの安心感。
一方、水紋は応挙を思い出したり。
それにしてもこの鴨も細部まですごい。鳥に肉薄するまなざし。 鳥に人格すら感じたほどでした。
そして同じサイズの渡辺省亭の下絵へ。寛畝とモチーフは似ていても、全く違う。見ていくほどに、どんどん引き込まれる。
寛畝に同じく緻密。でも比べると、構図のバランスが絶妙。改めて、寛畝は鳥の独壇場だったと思う。
対して省亭は、鳥とまわりの全体からなる情感が伝わってくるような。
「水鶏(くいな)」は、まるでデュ―ラーのデッサンのような緻密さ。でも萩は月に透けて物寂しさが。くいなのたたずみ方にも、少し曲げた目線にも、孤独な気持ちになる。構図とかよくわからないけれど、きっと、月と萩と水鶏の配置と分量のバランスが、究極なんだろな。
「烏瓜に鶫(からすうりにつぐみ)」は、動きがライブで見える感じ。
からすうりも鳥も丸っこく、そこから三方につんつん出たくちばしのリズムが楽し。卵型の画面に、すくうようなおしゃもじ型の枝。なんだかおしゃれで心地よい。気づけば枝先もつんつん。
どれも構成のはめ込み方、配置の仕方が、きっと絶妙。
しかも一瞬の緊迫感。
「山蔦に啄木鳥(やまつたにきつつき)」は、こちらは後ろから見ているのだけれど、逆にこちらに視点を定めた鳥の目。たじろいでしまったじゃないですか。凝集した緊迫感。
省亭の世界は、花鳥を描きつつも、全く甘く優美な世界じゃない。線もストイック。柴田是真に傾倒していたというのもわかるような。リアリスティック。
「夾竹桃につばめ」は、色鮮やかな花びらの端は茶色びていた。
温室栽培の商品みたいに傷つかないで終わる花はないのかも。鳥はほんのり体温感じるけれど。
それにしても、華やかな迎賓館に省亭のこのまなざし。東宮御所の人々や海外からの賓客は、かえって記憶に刻まれたでしょう。
「黄蜀葵に四十雀(とろろあおいにしじゅうから)」に至ると、枯れることも堂々としたものだと思えてきた。
葉先は変色し欠け落ち、花も端から痛みはじめ。でもなんの遜色もない。花や葉の必定であり、生命のひとつの時期であるだけ。ぼろぼろの一枚の葉を改めて直視してみると、無常感と強さが同居したような世界。
四十雀はなにかを警戒して、影に隠れているのかな。画面を斜めに交錯するラインが何本も走っているような動きのある世界でした。
「杜若に小鳥」は、うって変わって停止した感。
こちらの存在に気付いて、固まったのかな。眼のきらめきが焦点をなしつつ、杜若の色合いが美しいなあ。
先ほどのトロロアオイの葉は斜め交錯でしたが、こちらは縦の直線。
省亭ワールドにすっかりはまりました。デザイナー的センスというのか。この卵型の制約された画面だから、よけいに計算された構成のキレと妙味にはまるのかも。省亭の生んだ黄金比率。
色も、印象的。大きく3色くらいの色に抑えているけど、ひとつひとうの色が効果的というか、色の分量も配置も計算しているよう。奥村土牛は「色の気持ちを大切に」とまるで自分が色の中に入ったようだったけれど、省亭の色は冷静に最大限に活かされている感じ。
幕末生まれの省亭の線のすばらしさは、厳しい修行の日々からきているらしい。16歳で入門した師の菊池容斎は、入門してから3年間は絵筆を握らせず、ひたすらお習字をさせた。迷いなく自在な筆致は下積み時代のたまものなんでしょう。
そして省亭の、緊迫感ある一瞬の焼きつけかたも、修業のたまものかも。お習字三年のあと、「容斎は省亭を連れて散歩し自宅へ帰ってくると、町で見かけた人物の着物や柄・ひだの様子がどうだったか諮問し、淀みなく答えないと大目玉食らわしたという。後年、省亭は以後見たものを目に焼き付けるようになり、これが写生力を養うのに役立ったと回想している」(wikiより)。
では、この洗練された構成はどこからきたのか?。才能を買われ、23歳で、輸出用の美術品を扱っていた日本最初の貿易会社である「起立工商会社」に就職し、ここでの図案の仕事を通じて養われたよう。画家であり、絵師であり、プロのデザイナー。
そして省亭の西洋的な写実表現は、この会社の嘱託としてパリに留学した間に、学んだらしい(1878年ごろ、26歳頃?)。ここで西洋風な色彩感覚や写実的な描写を身に着けた、と。印象派画家は彼の技術に驚き、特にドガは大きな影響を受けたらしい(かじり読みであいまいですがとりあえず書いておきます)。
制約ある画面の活かし方がすごいなあと思ったけれど、(何で読んだかうろ覚えなのですが)留学中にアールヌーボーに触れたことがあると。なんとなく納得できるような。
ウィキペディアに出ている、竹内栖鳳の「アレ夕立ちに」「絵になる最初」に対する省亭の毒舌ぶりが面白い。確かに納得してしまう。さすがの栖鳳も、わずかなスキが見抜かれているよう。省亭が重視したもの、一寸のゆるみも排した姿勢が、垣間見える。
日本で最も早く西洋留学した日本画画家が省亭だったとは(洋画でも黒田清輝より6年も早く留学)。それにしても吉田博といい川村清雄といい、最近はひと知れず留学していた画家(私が知らないだけか)に打たれることが多い。
晩年は画壇から距離を置き、悠々自適、すきなものを描いていたらしい。画集で見た限りですが、そのころのの掛け軸などが、しみじみと気持ちににじんでくるようで、美しくてよさそう。
来年平成29年は省亭の100回忌にあたる。観られる機会に恵まれそうで、うれしいです。(http://www.watanabeseitei.org/)