日本橋高島屋「日本美術と高島屋~交流が育てた秘蔵コレクション~」2016.10.12~10.24
日本橋高島屋の8階ギャラリーにて、無料でした。
横山大観「蓬莱山」昭和24年(1949) が入口で大きく出迎えてくれました。二帖くらいあります。
希望、あたたかい、そういう言葉が浮かぶ。大観の絵を観てあたたかいと思うことは、あまりなかったのですが。
戦後の混乱の中、大観はじめ日本美術院の画家たちに協力したのが、高島屋の当時の社長、原田直次郎。高島屋大阪店の地下食堂跡で、戦後間もない1947年に再興院展が開催されます。大観はその感謝の意を込めて、この絵を描いて贈ったのだそう。
蓬莱山に鶴と定番の取り合わせですが、金で描かれた雲海のむこうに富士山。
蓬莱山は、墨の色みも筆の置き方も朴とつであたたかい感じ。
同じ方向へ飛ぶ鶴たちがかわいい♪。小さいけれどちゃんと赤と黒の模様も。
一羽だけが木にとまっていて、そこは安心感のようなものが醸し出されていて。
雲間から見える満開の桜は小さな赤い点々も添えられて、細やかな心遣い。
81歳。大観ってたまに偉そうだな~と思うけれど、これは大御所の威光とは無縁の作。画力をゆったりと使い、気持ちが伝わる絵のように思いました。
この展覧会は、高島屋の美術部門の歴史とともに、明治以降の画家たちとの交流が紹介されていました。
第一章
1831年、京都の米穀問屋、飯田家の婿養子となった飯田新七が独立し、古着木綿の店を開いたところから高島屋の歴史が始まります。
明治維新を迎えた三代目の時代、外国人客の求めるお土産物の需要の高まり。今のインバウンドと重なります。人気の壁掛けや綴錦に仕立てる友禅や刺繍の下絵を描く画工室が設けられます。1885年のこと。
1889年当時の画工さん(デザイナーさん)たちの勤務簿が展示されていました。25歳の竹内栖鳳の名も。若き彼らにアトリエや住まいも用意したり、経験を積ませようと保津川や正倉院へ写生に連れて行ったり。直近の成果だけにとらわれない支援の在り方が、質の高い商品を送り出すことにつながったとありました。
栖鳳は在籍したのは一年余りのようですが、その後も原画を描くだけでなく、4代目社長に助言したりプロデュ―ス的なかかわりを続けたようです。
竹内栖鳳「富士」1893(明治26年)は、墨と筆意の迫力に圧倒されました。
竹内栖鳳「アレ夕立に」1909(明治42年)は、「アレ夕立に濡れ偲ぶ」清元「山姥」の一説から(清元とは、浄瑠璃の流れをくむ音楽で、独立して歌れたり、歌舞伎の伴奏にもなる、と初めて知った)。帯をたくさん高島屋から取り寄せたそうですが、結局柄は水墨タッチで創作したそうです。
画像で見たときは繊細な絵かと思っていましたが、栖鳳の荒いタッチの筆目まで見えます。速水御舟の「京の舞妓」の青い沃火が立ち上るような細密な絵を見た後ですので、正反対な印象。明快な青や赤が澄んでいました。
栖鳳では「国瑞」1937(昭和12年) が個人的にイチオシ。
文化勲章の喜びの中で描かれたそう。墨の濃淡だけで描かれた鯉の頭。ぬるりと黒々、迫力。鱗と尾の付け根のあたりの重量感にぞわりとしたほど。
1910年(明治43年)の日英博覧会に出展したビロード友禅壁掛「世界三景 雪月花」の下絵は驚きました。
畳二枚くらいの大きい掛け軸、三点を三人がかりで。
都路華香「吉野の桜」
流れるような圧巻の桜。花びらの上に、刷毛で散らした花吹雪も舞っていました。これを再度友禅で描きなおすのは至難の業では。
竹内栖鳳「ベニスの月」1904
山紫水明なベニス。うっすら月と雲、透き通る海に見とれました。ベニスの地形の魅力が水墨でこそ引き出せせているかもしれない。建物は荒い筆致でとらえていました。
何段階もの墨の色のグレード。無から黒に至る間にはこれだけ多くの色があり、しかもにじみ、ぼかし。これも友禅の職人さん泣かせな。。
栖鳳も1900年から視察のため渡欧しています。でも西洋のモチーフを描いても、全くぶれない姿勢。帰国後の講演で栖鳳は、
・実物観察や光の陰影など西洋美術の形態把握の手法をとりいれること
・同時に日本の水墨表現は是非保存すること、
というようなことを述べています。この強さが栖鳳の筆意にそのまま出ているようでした。
山元春挙「ロッキーの雪」1905
墨でロッキー山脈。そびえる山並みも雪も大気も、墨ならではの表現だと感心。前の栖鳳の墨よりも青みがかった墨で、雪山の空気がすがすがしいです。もう一枚、豊田家所蔵の「渓山帰牧図」の雪山も心に残りましたので、春挙って山岳画家なのかなと思うほど、実感と迫力がありました。前年に渡米しているようですので、実際に見たのでしょうか。ロッキーには山小屋が、渓山帰牧図には人が、どちらも小さく描かれていました。それでますます山の実感を感じたかもしれません。
仕上がったビロード友禅も見てみたいですが、「吉野の桜」は行方不明、「ベニスの月」と「ロッキーの雪」は大英博物館所蔵だそうです。
他にも外国人向けの商品は、下絵のすばらしさはもちろんとしても、友禅や刺繍の超絶な技術の高さに感嘆しました。
「金地虎の図」は、岸竹堂の下絵と、村上嘉兵衛の友禅が並んでいました。(写真は友禅)
もふもふ感も、金をはたいた感じも、そっくり。なにか違うとこあら捜ししたくらい。村上嘉兵衛の技術の高さに感動。
同じく岸竹堂と村上嘉兵衛の「旭陽桐花鳳凰図」は、どことなく若冲のような。(写真は下絵)。羽のすじ目から色彩のグラデーションまで、友禅の染色の細密ぶりのほうに、見とれました。
今尾景年「秋草に鶉」1890(明治23年)には、見入りました。
これが下絵をもとにした織物とは思えないほど。伊達彌助(五代)の唐織です。表装も一体の織物で、現代では再現不可能だそう。銀地のきらめき、葉の少しゆるりとした筆のスピードまで感じられました。景年の原画も観たいところですが、これほどの唐織ならば満足かも。
川端龍子「潮騒」1937は圧巻。
この原画をもとに仕上げられた綴錦の壁掛けが、ヒトラーへの手土産として藤原銀次郎(米内内閣以降、終戦まで大臣を歴任した)に納められたそう。8曲もある大画面の壁掛け、その後どうなったのだろう?
それはともかく、左隻の海の青さ、深さ。高揚感、浮遊感がすごい。カモメの目線を見ていると、スパイラルに巻き込まれ、くらり。白波がカモメの残像のように感じました。
右隻になると、カモメがどんと地に足をつけ、一気に安定。海は浅いのか、碧色。
大田区の川端龍子のアトリエを訪ねたことがありますが、あの広さも納得です。
緞帳の下絵もありました。高島屋は歌舞伎座など多くの緞帳を受注し、現在も続いているそう。
都路華香「岩戸開き図」1910は、大阪の帝国座の川上音二郎のこけら落とし公演の緞帳のもの。
前田青邨「みやまの四季」は、毎日ホールのもの。一部の刺繍が展示されていましたが、下絵がさらに糸の輝きを放って美しかったです。横一列に職人さんたちが縫って、一日に15センチほどしか仕上がらないそうです。
部分
ポスターも見ものでした。
北野恒富「婦人図」1929 肌の美しさときたら。
原画では、パーマをかけた髪のつやも見えました。着物からちらり除く赤い袖口。微妙な漆黒加減のバックと女性の間にも、赤いラインが入れてありました。
第二章は、1911年高島屋に美術部が創設されて以降。関係の深い画家の絵の所蔵品が展示されていました。
大観と観山の合作の金屏風に引き込まれました。「竹の図」
右隻が観山。まっすぐ進めれば楽だけれども、まわり道、曲がり道、戻り道を余儀なくされ。でもなんとか伸びていく。感じるところがあったりします。そして最後に竹の先端は消えているけれども、小さな枝葉がいくつも伸びている。
左隻が大観。筆致も異なっていました。大観の気質か、まっすぐ伸びています。若いタケノコが伸びてくることへの期待も込めているよう。
どちらも、一筆ではらった笹の葉が心地いいです。
大観、観山、今村紫紅らの合作、東海道五十三次絵巻もありました。皆で一か月かけて旅しながら、順番に描いたもの。四日市でお金が尽き、高島屋に電報を打ったところ、美術部の「谷口君」がお金をもって駆けつけてくれたとか。
富岡渓仙「風神雷神」1917は、天真爛漫。
風神は座って風を送る手抜きぶり、雷神はつまずいてこけそうになっているのかな。トラしまパンツに顔が♪。ネコっぽくてかわいい。
渓仙は狩野派を学び、都路華香に師事。大観に見出され日本美術院の同人に。早くから高島屋美術部を舞台に個展を開催していたそうです。
山本丘人「雨季」は特に心に残りました。
湖のむこうの山が拒絶するように見えたからかも。水田には雲が映りこんで、あじさいも見えますが、うらはらに山と湖は厳しく荘厳な感じ。
丘人の弟子の稗田一穂は「高島屋は本流から外れた新生団体に早くから門戸を開き(中略)。丘人も感謝していた。」と語っているそう。
高島屋がお客様に配った扇子の原画もありました。加山又造、上村淳之、山口蓬春、秋野不矩など、どれも花をアレンジしたきれいな原画。一番好きなのを選ぶとしたら、今回は片岡球子に。
≪特別展示≫として、飯田家・豊田家の寄贈品も展示されていました。
高島屋とトヨタが親戚筋であったとは。4代目の飯田新七の娘が、大正12年に、トヨタ自動車を創業する豊田喜一郎と結婚しての縁だそう。(喜一郎はトヨタ創業者の豊田佐吉の息子。)
その婚礼の着物の豪華さ、細やかな仕事ぶりに見とれました。
色打掛は、友禅、絞り、刺繍、金の箔置き、と技術の粋を尽くしていました。刺繍の鶴が色鮮やかで美しかった。
掛下は、総絞り!鶴の模様を絞りだしていました。
これらの着物は、現在でも豊田家で使われているそうです。
豊田家の所蔵品のなかでは、特に竹内栖鳳「小心胆大」にひかれました。
蟻がいる(!)
薄い色彩で、ヘチマのこの重さ。迷いない筆で描き出されたヘチマには、三匹の蟻が堂々と上っていきます。ぐしゃしゃっと一瞬で描かれた葉も感嘆。栖鳳の筆のReady Go!の瞬間を見てみたい。
木島櫻谷「雪中松鹿図」1908は、8号くらいだったか、わりに小さな絵。でも、鹿の目線で見上げていくと、そびえる山やま、雪雲。とても大きな世界に上りあがるの。雲を見ていると、この絵の小ささをすっかり忘れます。松はどこか激しい。
他には、前田青邨「立葵」、金島桂華「鯉」、山口華陽「春蘭」が心に残っています。
飯田家所蔵の中では、都路華香「果物尽くし」が、迫力でした。たわわにこぼれるほどの枇杷、葉からのぞく西瓜、四方に散るキイチゴ。果物はそれを食べる人間や動物の生命の糧であるけれども、自らも生命として結実させている。力と豊穣感があふれていました。
他には、竹内栖鳳「白梅」、佐藤朝山「女神」、平櫛田中「内裏雛」など。
これでもかと見ごたえある作品の数々でした。