アンペルギャラリー「「椿絵」コレクション ーひかり輝く明日へー」
Part Ⅰ
Part Ⅱ
東京駅のアンペルギャラリーで、椿の絵を見てきました。
毎年この時期に、あいおいニッセイ同和損保 のコレクションの中から、椿の絵を展示しています。
昨年も伺いまして、今年も楽しみにしていました。
(撮影ご希望の方は、スタッフに声をおかけくださいとありました。作品にもよるそうですが、基本的に全体で撮るのは大丈夫のようです。)
展示目録はHPに出ていないようでしたので、こちら↓(前期分)。
今年は、椿のひと枝だけを描いた絵に、特にひかれました。
特に、上村松篁、奥村土牛、河出幸之助。
上村松篁《椿》1957年(上の画像の左端)は、花が一輪につぼみがひとつ。
葉にこっそり隠れるつぼみの、ほんのり赤みがかわいいです。花のしべが少し変わっていて、珍しい種類のようです。
最初はさりげないのですが、見ているとどんどん引き込まれるのが、葉っぱの一枚一枚でした。
墨の濃淡と微かな金泥だけで描かれた葉の、どの一枚一枚もが生きている(‼)。葉は、意志をもって向きを作り、その先端の先まで生命が息づいていました(‼)。
そして、無地の背景にも驚きました。椿のまわりに薄くはいた金がやさしいニュアンスを醸し、背景が椿と意志を通わせているようなのです(‼)。
松篁は、空気すらも花と同じ空間を生きる存在として、生命を持って感じているんでしょうか。
下の画像の右端の、奥村土牛《椿》1950年代 も、土牛の人柄を感じるようなひと枝でした。
見えにくいですが、白い椿のひと枝が横たわっています。
その枝の根元は、手で折りとられたらしく、割れた断面になっていました。
「折枝画」という画があり、東洋的な死生観を表すことがあるそうです。土牛は割れた根元をしっかりと描いていました。
それでも、白い花が頭を上に起こしているのに気づいたとき、突然、土牛の愛を感じてしまったのでした。
折られてはいるけど、しべも乱れることなく、きちんとそろっていて、愛らしく生きている。なんだかいじらしく見えました。
土牛の愛というか、慈しみ深い視線を感じた気がしました。
土牛のもう一作(下の画像の左端)は、白に赤い線が入った花びらの椿をひと枝。1980年代の作品。
90歳近いのですから、だいぶ朴訥な手元になっていましたが、なのに空間とのバランスというか、完璧というか、なんだかすごいというか。
なんか素人のくせにえらそうなのですけど、とにかく、朴訥な手元から発する椿ひと枝の、オーラの強さときたら。
それで、金色と黄色でひとつひとつしべの点をうち、花の赤い模様をいれ。描く行為ひとつひとつに土牛の喜びがあり、花を仕上げていく愛や慈しみがあるようで。
しべのつぶつぶに、土牛が次の世代の子どもたちを見るのと同じような目線を感じました。
河出幸之助《椿》(昭和時代)のひと枝も、特に心に残った作品。(写真はチラシから↓。)
華美でなく、しかし気品。椿ってそんな花だなあと改めて思ったり。がくのところに、かすかに緑が見えます。墨のたらしこみがとてもきれいでした。
ひとつ上の画像の左から2番目は、堅山南風。3,4番目は小倉遊亀。どれも、花器も楽しい絵でした。
特に、4番目の小倉遊亀の《椿》1984年 は、青い花器に、いくつかの紅白の大輪の椿のおしゃれな作品。88歳の作品ですが、水を思わせる花器からどんどん水を吸い上げ、まだまだ華やかに咲くわよ、みたいな、エナジーあふれる印象でした。
画像がないのが残念ですが、黒田悦子《春華》1964 の油彩画も印象深かったです。濃密な金の地に、細い首の青磁のような壺に活けられた椿。気を吐く深紅の椿といい、カルロ・クリベッリのような不可思議で神秘的な緊張感ただよう空間でした。
後期は、尾形光琳や狩野山楽も展示されるそうです。来年になりますが、東京駅に行ったときには行かなくては。