情報と物質の科学哲学 情報と物質の関係から見える世界像

情報と物質の関係を分析し、心身問題、クオリア、時間の謎に迫ります。情報と物質の科学哲学を提唱。

「環境から情報が入る」のどこが問題か?

2019-04-27 08:52:11 | 情報と物質の科学哲学

環境から動物体内に入るのは情報化される前の物質です。
物質が情報化されるのは、生体に取り込まれた後です。

認知科学/脳科学/生物学の本には
「環境から情報が入る」
という誤解を招く安易な説明が蔓延しています。
この表現は、あたかも情報が環境に備わる客観的な概念であることを意味します。
しかし、これは事実に反します。

環境から生体に入るのは物質的刺激であり、それが受容器に入ることにより初めて情報化されるのです。

認知科学の有名な古典も例外ではありません:
マー(乾敏郎、安藤広志共訳)
 『ビジョン-視覚の計算理論と脳表現-』、産業図書(1987)

一方、「環境から情報が入る」という見方に対してマトゥラーナとバレーラが批判しています:
マトゥラーナ、バレーラ(菅啓次郎訳)
 『知恵の樹-生きている世界はどのようにして生まれるのか-』、朝日出版社(1987)
 第6章[行動域] ”かみそりの刃の上で”、筑摩書房”ちくま学芸文庫”に再録

入力物質が動物の体内でどのように情報化されるのかは難問です。
それにも拘わらずこの認識をもつ研究者は皆無に近いのです。

情報を利用するシステム(脳/生物/心/ロボット/測定器/認識器)の理解には、「情報と物質との関わり」についての議論が不可欠です。
しかし、脳科学/認知科学/哲学/物理学/生物学にはこの視点による議論がありません。

動物の感覚器(受容器)は、検出器と似た機能を持ちます。
検出器はしきい値素子の一種です。
そのしきい値は、検出器の都合で決められる恣意的なものです。
それに基づいて検出器が生成する情報は、客観的なものではなく検出器が定義するものなのです。
詳細は、ブログ「検出器が定義し生成する情報」を是非ご覧ください。

「環境から情報が入る」という説明のもう一つの問題点は、情報がヒトに無関係に環境に備わる客観的な存在になることです。

この考え方として「アフォーダンス」というパラダイムがあります:
ギブソン(古橋敬ほか訳)
 『生態学的視覚論-ヒトの知覚世界を探る-』、サイエンス社(1997)

しかし、同じ入力でもヒトの違いによって多種多様な情報になります。
(1)ある図形がAさんにとっては文字として認識できるのに
(2)Bさんにとっては意味不明の図形としてしか認識できない
ということがあります。
虹の色の数が民族の違いによって3色から7色まであるという例もあります。

同じ色紙を見る場合でも左目と右目では微妙に色が違います。
嘘だと思ったら、是非実験してみて下さい。
この場合、どちらの色が正しいのかという問いは無意味です。
色の見え方は、真偽を問える対象ではないからです。

「環境から情報が入力される」という不正確な言い方が蔓延している理由は、次のようなものです。
(1)意識されるものは環境に関する情報(視覚/聴覚/触覚/嗅覚/味覚情報)なので、
 恰もそれらが環境から直接入ると錯覚してしまう
(2)情報が環境から入力されるという前提のもので議論するのが思考の節約になる
(3)善意の偽り pia fraus; クライン『19世紀の数学』、p.1、共立出版(1995)

詳細は、パソコンサイト 情報とは何か 情報と物質の関係から見える世界像 を是非ご覧ください!