徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

「漢字展-4000年の旅」@東洋文庫ミュージアム

2019-09-22 | 歴史
「漢字展-4000年の旅」@東洋文庫ミュージアム

 駒込はちょっと遠いし、展示ホールも手狭。優待券を持っていても、通いづらい。特殊文庫の古典籍の連携展示というので出向いた。

 やはり、目玉は「科挙の答案」。活字かと見紛うばかりの答案に目を丸くする。この1点できた価値はある。

 重要文化財 論語集解は、わが国に伝わる『論語』の完本としては最古のもの。鎌倉幕府に仕えた清原教隆が、仁治3年(1242)に書写したものにより、さらに正和4年(1315)に書写したもの
。加点の仕方について解説がされていた。
 節用集なるものが展示されていた。「伊勢」ではじまる「伊勢本」。昔「用字苑」なる用字辞典を使っていたが、それを思い出した。今もあるとちょっと便利そう。
 エジプト・ヒエログラフ辞典も展示されていた。辞書として刊行されているとは初めて知った。
 モリソン文庫について、「G・E・モリソンと近代東アジア 東洋学の形成と東洋文庫の蔵書」とか出版されているらしい。今後手に取りたい。
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五島美術館 大東急記念文庫創立70周年記念特別展示 - 海外との交流

2019-05-19 | 歴史
五島美術館 大東急記念文庫創立70周年記念特別展示
第2部 海外との交流 -無学祖元、王陽明の筆跡や高僧像


 大東急記念文庫創立70周年記念特別展示が第二展示室で開催されていた。開催についてまったく知らなかった。4回に渡って展示される「第2部 海外との交流の展示」だった。海外との交流といえば僧侶の記録であり、鑑真にかかわる唐大和上東征伝(高山寺本)、無学祖元にかかわる墨蹟、五山版、さらに東福寺了庵和尚の王陽明との交流の記録、瑞渓周鳳の表した外交史書の「善隣国宝記」の写本、蘭人と結婚して海外に出た日本人妻からの手紙などが展示されていた。展示解説を読むといずれも興味深い。

興味深かったものをリストしておく。

  • 重文 唐大和上東征伝(高山寺本)

    『唐大和上東征伝』は、宝亀十年(七七九)に淡海真人三船(元開)が著した鑑真の伝記で、鑑真の従僧思託の撰した『大唐伝戒師僧名記大和鑑真伝』(三巻)などをもとに一巻にまとめたもので、思託の撰した伝が失われたため、この『東征伝』が鑑真の伝記の基本資料となっている。
     『唐大和上東征伝』の最古写本としては、十二世紀前半頃の書写になる観智院本が知られているが、本帖はこれにつぐもの。

  • 重要文化財 無学祖元墨跡 開長楽和尚嗣法書上堂語
  • 仏光禅師語録(五山版)
     径山の無準師範禅師の法嗣で、北条時宗の招請で来日し、鎌倉の建長寺5世、円覚寺開山となった仏光円満常照国師無学祖元禅師の語録。侍者徳温、真恵、一愚等編。(NDL解説) 新日本古典籍総合データベース http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100260259 によれば、仏光禅師語録(五山版)には、鎌倉末期、応安三版(五山版)、嘉慶二版(五山版)、南北朝時代版(五山版)、室町時代版(五山版)があり、各所で所蔵している。江戸にはいっては寛文4年、宝永2年、享保11年の版がある。


  • 東福寺了庵和尚語録序 黄隆筆 明時代・成化二十一年(一四八五)

  • 送日東正使了庵和尚帰国序 王守仁(王陽明)筆 正徳8年(1513)
     王陽明と東福寺了庵和尚の交流を物語る品

  • 山陰学記 王守仁(王陽明)筆 正徳15年(1520)


  • 了庵桂悟頂相  室町時代・延徳三年(1491)賛

  • 善隣国宝記/瑞渓周鳳著(写本)江戸時代・17世紀
     
     室町幕府の外交文書は五山の僧が担っていたとは聞いたことはあったが、瑞渓周鳳は幕府の外交を批判していた記述があるとのこと。

  • 物産ノ蘭名 大窪昌章・シーボルト自筆
  • おらんだ文 江戸時代・嘉永三年(1850)
     結婚して海外に渡った女性がかいた文、日本が恋しいと。
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    ガレオン船が運んだ友好の夢

    2010-02-06 | 歴史
    日本メキシコ交流400周年記念特別展「ガレオン船が運んだ友好の夢」@たばこと塩の美術館

     日本メキシコ交流400年を記念した史料が展示されている。
     面白かったのは、400年前のいきさつ。1609年に、前フィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが房総半島沖で遭難した事件のが始まりだということ。背景は、スペイン領のフィリピンーメキシコ航路があったということ。しかし遭難をきっかけにして、家康とロドリゴとの間で日本とスペインそしてヌエバ・エスパーニャとの外交・通商関係樹立に向けての協定案が協議され、三浦案針の助けもあり、ロドリゴは帰国。ヌエバ・エスパーニャ副王からの答礼使節セバスティアン・ビスカイノが1611年6月10日来日した。このときに家康に土産として渡されたのが、久能山東照宮博物館蔵の洋時計(重要文化財)(ハンス・デ・エバロ作 1581年 スペイン、マドリード製 徳川家康所用)ということ。(初じめて拝見。)ところがビスカイノは、オランダ(オランダがスペインから独立のために戦っていた時代だが)との交易をやめろとか、日本の近海を測量とかを行い、幕府を不審がらせる。結局、伊達政宗により支倉六右衛門常長を大使とする使節一行が、ビスカイノを送り届けるという目的もあり、ヌエバ・エスパーニャにいくことになったようだ。だれが建立したのかアカプルコにある支倉常長の像の写真も展示されていた。裏面史的だが1599年ヌエバ・エスパーニャに連れてこられた日本人の奴隷が主人が亡くなったので開放してほしいとの嘆願書のコピーもあった。秀吉のバテレン追放令にある「大唐、南蛮、高麗{こうらい}江 日本仁を売遣候事曲事。付、日本ニおゐて人の売買停止の事。」『御朱印師職古格』(天正十五年六月十八日)(この条文にはいろいろ解釈があるようだが。)があるというのを思い出した。
     日本は、別に鎖国したかったのではなく、管理貿易がしたかっただけのようだ。侵略的なスペインと一体となったカトリックは排除されたということのようだ。

     1874年(明治7)には、金星の太陽面通過を観測するためにメキシコから観測隊が来日(野毛山に碑があるとのこと)。1888年に締結された「日墨修好通商航海条約」は平等条約だったことなど、いろいろ面白い史実の知識を得られた。
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    読書:東アジアの動乱と倭国  森公章著

    2009-06-21 | 歴史
     NHKのETV特集 日本と朝鮮半島2000年(2)「“任那日本府”の謎」(2009年5月31日放映)を見た。
     昔の教科書では、「任那日本府」という記述があった。しかし、3世紀から6世紀中頃の朝鮮半島には任那ではなくの伽耶という、鉄器文明をもった国があった。この1月に韓国国立中央博物院を訪問でその史実を知り、なにかいい書籍はないかと探していたところに、この番組を見つけた。

    『日本書紀』や、中国東北部の『広開土王碑文』の記述など、伽耶の鉄をめぐる交流や、韓国で発見された日本特有の前方後円墳など、最新の研究成果をもとに、交流の実像に迫るという内容。すごくよくわかった。森公章 東洋大学教授が出演していた。
     この先生が第一人者ということで図書館で、森公章先生の著作「東アジアの動乱と倭国」(2006年)という書籍を見つけて読む。すこし難解だったが筋ぐらいは終えた。

    東アジアの動乱と倭国 (戦争の日本史)
    森 公章
    吉川弘文館

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    目次

    倭国の登場 プロローグ
     倭国の存立とアジア
     東アジアの動乱の時代
     本書の構成
    百済と対高句麗戦争と倭国
     倭・百済関係の形成
     倭の五王の外交と内政
     百済の滅亡と復興
    伽耶諸国をめぐる紛争
     任那四県割譲と己汶・帯沙をめぐる問題
     南加羅・㖨己呑と近江毛野の出兵
     任那復興会議と倭国
    白村江への道程
     倭国の任那復興策と百済の動向
     朝鮮三国の接近と倭国の方策
     東アジアの情勢の変動と倭国の選択
    白村江の敗戦 エピローグ

    (本書の主張ではなく)個人的な感想だが、本書の扱う4-6世紀世紀の倭国は傭兵の供給地域だったようだ。倭国は東西に長く(そのため、ジャレド ダイアモンド (「銃・病原菌・鉄」が喝破したように文明が伝搬しやすく)、さらに瀬戸内海という内海をかかえ、豊かで人口が多い場所だったのだろうか?

    「白村江」以後 国家危機と東アジア外交 森公章 講談社も読んでみるつもり。
    「白村江」以後―国家危機と東アジア外交 (講談社選書メチエ)
    森 公章
    講談社

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    なお、テレビの放映内容の昨今の学会の説などは、WIKIPEDIAの伽耶の項などにも出ていた。

    なお、シリーズ 「日本と朝鮮半島2000年」の第三回は、6月28日放送。再放送の予定は、7月24日 から26日のAM1:10-2:40
    「第1回 古代 人々は海峡を越えた」7/24(金)(2009年4月26日放送)  
    「第2回 “任那日本府”の謎 」7/25(土)(2009年5月31日放送)
    「第3回 仏教伝来 」7/26(日)(2009年6月28日放送)


     百済伝説といえば、日経ビジネスのサイト(残念ながら読者限定サイト)に
    何もない村が成し遂げた国家的プロジェクト
    「神社の銅鏡は、どげんかならんもんじゃろか」で始まった「西の正倉院」建造物語

    宮嶋 康彦
     
    が掲載されていた。百済の禎嘉王を祀る神社の宮崎県の町の紹介。禎嘉王を祀る神門神社(旧延岡藩(美郷町))、長男の福智王を祀る比木神社(旧高鍋藩(木城町))にまつわる話だ。神門神社には、伝世品の銅鏡33面が伝わるという。銅鏡は一般に、出土品と伝世品(代々受け継がれる鏡)に大別され、伝世の鏡を有する正倉院と八代神社(三重県神島)と神門神社は、三大伝世地といわれているそうだ。この銅鏡を展示するために西の正倉院をつくるというプロジェクトの秘話。すこし感動的だ。南郷区では宮内庁の協力、奈良国立文化財研究所の学術支援、さらに建設大臣の特別許可により、門外不出とされていた正倉院原図を元に樹齢400年から500年の木曾天然檜により忠実に正倉院を再建したという。

     ただ、百済の最後の王は、義慈王(599年 - 660年)なので、禎嘉王ではない。南郷村・神門神社の社伝によれば、禎嘉王が宮崎に流れついたのは孝謙天皇の天平勝宝8(756)年ごろのことという。というわけで年代も少し合わない。でも銅鏡は本物なのだから何か由来はあるのだろう。

     宮崎は古代ロマンの地です。(宮崎県 南郷町のHP
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    読書:なぜ多摩は東京都となったか

    2009-05-06 | 歴史
    なぜ多摩は東京都となったか (けやきブックレット)
    梅田 定宏
    けやき出版

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    なぜ多摩は東京都となったか
    梅田定宏著
    けやきブックレット13
    けやき出版 1993年

    三多摩は明治4年の廃藩置県の際に入間県への編入が決定して間もなく神奈川県への管轄が変更された。神奈川県知事であった陸奥宗光の強い要求のためという。

    三多摩とは北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡。廃藩置県時に郡はなかったが、明治11年に郡区町村編成法で復活。多摩郡は東西南北に分割された。東多摩郡は廃藩置県時(明治4年)から東京府にされていた。

    明治26年(1893年)、三多摩は東京都に移管。
    要因は
    1.玉川上水の水源確保のため、という東京府側の要因
    2.神奈川県知事が県議会で手こずった神奈川自由党の分断という神奈川県の要因
    3.甲武鉄道(中央線)開通(1889)による東京圏への結びつきという三多摩側の要因
    4.自由党の衆議院議長星亨が自由党を現実主義路線へ変えるとともに首都東京の自由党による乗っ取りのため、三多摩自由党もその星に近づきつつあったという自由党側の要因
    だという。

    都制がひかれたのは昭和18年、東京府と東京市がひとつになり東京都発足。三多摩は東京都に編入された。これは、三多摩側の強い要望による。戦後、三多摩が東京のベッドタウンとなるにつれ、区部との格差が、三多摩格差として認識され、是正運動が起きた。という。

    自由民権運動の盛んだった三多摩地域、横浜開港と結びついた生糸で栄えた三多摩というイメージがあったが、これは、神奈川県下での時代の話だったようだ。いみじくも中央線120年のイベンドがJRによって行われているが、歴史的に三多摩にとって中央線の果たした役割がこれほど大きかったというのも初めて知った。
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    長崎 旧外国人居留地、出島

    2008-11-23 | 歴史
    長崎 旧外国人居留地、出島

    長崎の旧外国人居留地、出島を旅する。長崎4回目にして初めて。はじめの2回は卓袱を食べただけの訪問だった。

    大浦
  • 旧香港上海銀行長崎支店記念館
    NYKラインによる長崎ー上海のほうが長崎ー東京より時間的には近かったという戦前の事実。NYKラインは豪華だった。ちょっと感慨深い。

    南山手
  • 「聖コルベ館」(聖コルベ記念室) 旅する長崎学の説明
     聖コルベ神父(1984-1941、1982列聖)(WIKI)が昭和5年に仮の修道院と印
    刷所を構えたところ。暖炉跡(長崎県指定文化財)が残る。聖コルベ神父のアウシュビッツでの話を知って涙する。
  • 国宝 大浦天主堂(1864年建築)
     正式名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」
     プチジャン神父の協力を得て、ジラール、フューレ両神父の設計図による。
     『信徒発見のマリア像』を見る。信徒発見は1865年3月17日。
     キリシタン資料室のド・ロ 神父の木版画は、背の丈ほどもあった。
  • グラバー園 http://www.glover-garden.jp/
     旧三菱第2ドックハウス 、旧長崎地方裁判所長官舎、旧長崎地方裁判所長官舎、旧リンガー住宅、旧オルト住宅、旧スチイル記念学校、旧自由亭、旧グラバー住宅(1863年建築のあと増築を重ねたらしい、昭和32年(1957)三菱重工業株式会社長崎造船所より旧グラバー住宅及び庭園の寄贈を受け、一般公開を行なったのがグラバー園のはじまり。)高島炭鉱が、グラバー商会と佐賀藩との間で始められた。グラバーは、日本初の蒸気機関車「アイアン・デューク(鉄の公爵)」を現在の市民病院から大浦川附近まで約400mに及ぶ線路を敷設し国産の石炭を燃料に公開運転を行った。グラバーが三菱の傘下にはいったのはグラバー商会が倒産したのち、1881(明治14)年三菱商会が高島炭鉱を買い上げてから。キリンビールの前身もグラバー氏が立ち上げる。

     霧笛の長崎居留地―ウォーカー兄弟と海運日本の黎明 (長崎新聞新書) (新書) ブライアン バークガフニ (著)を購入。
    霧笛の長崎居留地―ウォーカー兄弟と海運日本の黎明 (長崎新聞新書)
    ブライアン バークガフニ
    長崎新聞社

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    東山手
  • 孔子廟
     孔子廟自体は台湾でもいったのでなんということはないが、付設の長崎孔子廟中国歴代博物館の展示がよかった。北京故宮宮廷文物展の展示。今回は清朝の陶磁器が展示されていた。優美。
     http://www4.cncm.ne.jp/~rekidai-museum/hakubutukan/index.htmlに展示品のPDFがある。
  • 東山手十二番館 (旅する長崎学
     活水学院など明治はじめのキリスト教教育について展示あり。
  • オランダ坂

    出島
  • 出島和蘭商館跡 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/dejima/
     復元中、西側10棟が公開中。順路どおりに進むと出島通になれる。幕府の貿易統制の仕方。オランダがナポレオンに占領され、蘭領インドネシアも占領されたとき、オランダ国旗が翻っていたのは世界中で出島だけだったという史実(日本は極東のアジールか)など、興味深かった。
     「出島のプリントウェア」展が開催されていた。
    (11月23日)
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    特別展 大徳川展 (その1)

    2007-10-15 | 歴史
    特別展 大徳川展
    2007年10月10日から12月2日
    (前期11月4日まで、後期11月6日から)
    東京国立博物館 平成館

    徳川将軍家、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家、さらに久能山・日光・紀州の東照宮、また寛永寺や増上寺といった徳川家ゆかりの地に伝えられた宝物を一堂に集めた展覧会。博物館に相応しくいろいろなものが展示されている。

    ■1.将軍の威光
    まずは、武具。
    鎧、刀。旗(金扇馬印 伝徳川家康所用 1本 江戸時代・17世紀 静岡・久能山東照宮博物館蔵 とか)など。

    次の部屋には、家康大権現がずらっと。
  • 76 徳川家康坐像(芝東照宮御神体) 1躯 安土桃山時代・慶長6年(1601) 東京・芝東照宮蔵
  • 77 東照宮御影 九月十七日拝礼 1幅 江戸時代・正保2年(1645)9月16日 東京・川記念財団蔵
  • 78 東照宮御影 四月十七日拝礼  1幅 江戸時代・慶安元年(1648)12月16日 東京・川記念財団蔵
  • 82 重文 東照大権現霊夢像 寛永十六年十二月十六日 1幅 狩野探幽筆 江戸時代・寛永16年(1639)12月16日 栃木・日光山輪王寺蔵

  • 102 国宝 日光東照宮造営大工道具 1具 甲良豊後守寄進 江戸時代・寛永13年(1636) 栃木・日光東照宮蔵; なぜこのような立派な大道具がと思いきや、普請の無事を祈願のために奉納したものとか。

    家康が出版に興味があったというのも面白かった。伏見版という木版活字もあれば、グーテンベルクの技術を輸入して銅版活字をはじめて日本ではじめたのが、家康というのも興味深かった。
  • 103 伏見版『孔子家語』 第一・四冊 2冊(4冊の内) 安土桃山時代・慶長4年(1599)刊 宮内庁書陵部蔵
  • 104 伏見版『貞観政要』 第一・八冊 2冊(8冊の内) 安土桃山時代・慶長5年(1600)刊 宮内庁書陵部蔵
  • 105 駿河版『大蔵一覧集』 第一・二・十冊 3冊(11冊の内) 江戸時代・元和元年(1615)刊 愛知・名古屋市蓬左文庫蔵
  • 106 駿河版『群書治要』 第三十四・三十七冊 2冊(47冊の内) 江戸時代・元和2年(1616)刊 愛知・名古屋市蓬左文庫蔵
  • 107 重文 伏見版木活字 4箱(52320個の内) 安土桃山時代・慶長4年(1599) 京都・圓光寺蔵
  • 108 重文 駿河版活字(銅大字・銅小字・銅罫線・銅輪廓・摺板) 2箱・1組 江戸時代・慶長12年(1607) 東京・凸版印刷株式会社 印刷博物館蔵

    このあと各将軍のゆかりの品々がならぶ。

    また、西洋から品物。洋時計、望遠鏡や地球儀があった。望遠鏡は、ヨーロッパで発明されてすぐに(1年で?)伝来したという。
  • 40 重文 洋時計(1581年マドリッド製刻銘) 1個 ハンス・デ・エバロ作 スペイン・1581年 静岡・久能山東照宮博物館蔵
  • 153 望遠鏡 徳川義直所用 1点 ヨ~ロッパ・17世紀 名古屋・徳川美術館蔵
  • 187 地球儀 徳川斉昭所用 1基 鱸重時作 江戸時代・嘉永5年(1852) 水戸・徳川博物館蔵

    キリスト教関連の資料も保存されている。
  • 154 キリスト像 1点 ヨーロッパ・16~17世紀 水戸・徳川博物館蔵
  • 155 デウスの十戒 1枚 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 水戸・徳川博物館蔵
  • 156 重文 萩蒔絵螺鈿聖餅櫃  1合 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 水戸・徳川博物館蔵

    寛永行幸図巻は、記録なのだろうが、すばらしい保存状態でかつ立派。
  • 166 寛永行幸図巻 巻第一狩野永納筆・寛永行幸記 1巻・1冊(3巻・1冊の内) 江戸時代・寛文7年(1667) 御物

    このあと歴史文書が並ぶ
  • 162 徳川家康任征夷大将軍宣旨 1通 江戸時代・慶長8年(1603)2月12日 栃木・日光東照宮蔵
  • 163 位記・宣旨箱 1合 江戸時代・17世紀 栃木・日光東照宮蔵
    からはじまって幕末の動乱の記録まで
  • 184 大政奉還上意書 1巻 江戸時代・19世紀 東京・寛永寺現龍院蔵
  • 185 大政奉還勅許写 1通 徳川慶喜筆 江戸時代・慶応3年(1867)10月15日 個人蔵
  • 186 徳川慶喜将軍辞職につき御沙汰書 1通 江戸時代・慶応3年(1867)12月 個人蔵

    ■2.格式の美
    こちらは、その2で記録しました。

    ■3.姫君のみやび
    何とも立派でありゃりゃというのが正直な感想。
  • 263 国宝 千代姫婚礼調度 江戸時代・寛永16年(1639) 名古屋・徳川美術館蔵; 名古屋の徳川美術館でも一部拝見したが、長持の覆いまで多数のお道具具が展示されていた。

  • 274 竹葵牡丹紋蒔絵女乗物 伝従姫所用 1挺 江戸時代・寛文4年(1664) 東京国立博物館蔵;はじめて公家で江戸に下った鷹司家従姫所用とのこと。

  • 280 東福門院入内図屏風 6曲1双 江戸時代・17世紀 名古屋・徳川美術館蔵;三井文庫の屏風と違い記録性はないが状態はいいし、人物も大きく描かれていて行列の細部がよくわかる。
  • 281 唐衣裳のうち表着・唐衣・桧扇・髪上具 東福門院所用 1具 江戸時代・17世紀 京都・霊鑑寺門跡蔵

  • 284 萌黄地葵唐草筥牡丹文二陪織小袿 天璋院所用 1領 江戸時代・19世紀 東京・川記念財団蔵

    でも流石天皇家の格。和宮の持ち物はすごい。
  • 286 白綸子地雲立涌菊折文打掛 伝和宮所用 1領 江戸時代・19世紀 東京・川記念財団蔵
  • 288 白麻地紅葉桜蝶文四つ身 伝和宮所用 1領 江戸時代・19世紀 東京・川記念財団蔵
  • 290 白綸子地菊牡丹藤麻葉蝶文打掛 伝和宮所用 1領 江戸時代・19世紀 東京・川記念財団蔵
  • 296 六玉川蒔絵袖机 和宮所用 1基 江戸時代・19世紀 東京・川記念財団蔵
  • 297 文房具 和宮所用 江戸時代・19世紀 東京・川記念財団蔵
  • 299 金糸楓に雀文刺繍懐紙入 和宮所用 1点 江戸時代・19世紀 東京・川記念財団蔵 こちらに解説

    でも、家斉が京で和宮への土産にと、もとめた西陣織は一寸涙を誘います。
  • 306 空蝉の袈裟 和宮所用 1領 江戸時代・19世紀 東京・増上寺蔵

    (12日)
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    これを見ずして江戸は語れない 特別展 江戸城

    2007-01-08 | 歴史
    これを見ずして江戸は語れない
    特別展 江戸城
    2006年1月2日から3月4日
    江戸東京博物館

    江戸城が太田道灌により築城されたのは長禄元年(1457年)。築城550年を記念して、江戸城の全貌を明らかにする、初の「江戸城展」が江戸東京博物館で開催されている。

    歴史を展示する特別展で、人出は少ないだろうとタカをくくって出かけたのですが、予想外の混雑ぶりで吃驚。2時間も見るのにかかってしまいました。一つは会場が狭いこと。意外にも人出が多いこと。展示物の殆どが古文書の類で、見るのに時間がかかる割りに250点もの展示があることです。屏風類は複製展示が多々あり、美術品を見に行こうとすると裏切られます。

    展覧会の構成は、以下の通りです。
    プロローグ
    1 江戸城のなりたち
    2 天下人と城
    3 徳川将軍の城
    4 登城
    5 儀礼-政治の舞台-
    6 大奥と将軍の暮らし
    7 バーチャルリアリティ「よみがえる江戸城」
    エピローグ

    いろいろトリビアの宝庫です。
  • 江戸って江戸氏が住んでいた。阿佐ヶ谷と中野とかは、その阿佐ヶ谷氏と中野氏が住んでいた場所。(名前と地名とどちらが先かはよくわかりませんが、他にも下町にも同様な地名が沢山ありました)
  • 東京駅八重洲北口には、墓地があって、キリシタン墓副葬品が発見されている。
  • 太閤分銅金が地図の銀行のマークの元になった。
  • 江戸城の天守閣は、高さ60メートルもあって、松本城の倍の高さ、大阪城より一回り大きい。でも、振袖火事で燃え落ちた後には再建されなかった。皇居前の東京海上ビルが100メートルと記憶しているので、異様に大きかったでしょう。大阪夏の陣で大阪城がなきあとは、もう権威を示す必要がなく再建されなかったのでしょうか?
  • 江戸城の本丸は、平屋のため、二条城と同じ雰囲気で、ひたすら部屋が並ぶ。松の廊下には、浜松図が描かれていた。何回か火事が起きているので、狩野派御用絵師も襖を描くとなるとPAINTERに徹しないと、凄い面積です。
  • 江戸城に一斉登城となると御付のもので門外の広場がごった返すとを描いたのが、江戸城年始登城風景図屏風(部分) 明治31年(1898) 佐竹永湖画。現在も官庁の前に黒塗りのタクシーが並んでいるのと同じですが。
  • バーチャルリアリティ「よみがえる江戸城」は、よくできたビデオで江戸城本丸の内部の絢爛さがよく判りますが、重文旧江戸城写真ガラス原板<パネル展示>明治4年(1871) (29枚)をみるとやはり貧相な建物でガッカリしました。

    確かに「これを見ずして江戸は語れない」という展覧会。



    常設展示室で「徳川家茂とその時代」展が展示されていた。
    以前どこかで見たような気がする資料も多かったが、「徳川家茂」の責任感というものを感じた。

    激動の幕末を生きた 14 代将軍家茂 【いえもち】 (1846 ~ 1866) の生涯を、徳川家伝来のゆかりの品々を中心に紹介します。13才という若さで将軍に就任した家茂は、皇女和宮との婚姻・桜田門外の変・西洋諸国との外交・上洛・文久の政変・禁門【 きんもん 】の変・長州戦争とつづく激動の時代を、江戸幕府最高責任者として誠実に職務を全うし、 21才の若さでこの世を去ります。本展では、将軍が直に発したことばを書き付けた「御意之振 【ぎょいのふり】」という史料を初公開し、 新たな視点で 将軍の姿にせまります。また、久能山東照宮に奉納された家茂所用の武具類や、家茂の正室皇女和宮 (1846 ~ 1877) の調度類など、彦根城博物館所蔵の井伊家伝来資料、福井市立郷土歴史博物館の越前松平家伝来資料など、家茂を支えた幕閣の資料もあわせて展示し、幕末期の将軍の姿を多角的に検証してゆきます。

    御意之振という資料は、台本のような資料でそのまま読み上げたのかと思われたが、真相は?
    家茂の漫画チックな肖像画や天障院と和宮の写真(肖像画?記憶が定かではありませんが)が展示されていますが、人物像を表しており面白い。
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    ポンペイの輝き @Bunkamuraザ・ミュージアム

    2006-06-11 | 歴史
    ポンペイの輝き
    古代ローマ都市 最後の日
    POMPEI STORIE DA UN'ERUZIONE
    2006年4月25日から6月25日
    Bunkamuraザ・ミュージアム

    西暦79年8月24日午後1時、ヴェスヴィオ山の噴火に埋没したポンペイ。あまりにポンペイが有名なのでちっとも知らなかったが、町ひとつが埋没したわけではなく、周りの町や別荘も埋没していた。

    本展覧会では、ローマ貴族や裕福層が別荘を構えていた地中海を望む保養地エルコラーノ、田園地帯オプロンティスとテルツィーニョの別荘の遺品から始まる。

    彫刻は、いかにも貴族の別荘の中に飾られていそうな大理石の立派なもの。《アマゾンの頭部》はヘレニズム彫刻だそうだ。このあたりまではローマ文明だからと、想像通りだが、エメラルドと金の宝飾品が大量に展示されている。1世紀の話である。余りに豊かな世界に吃驚してしまう。ローマではなく、一別荘から、これだけの遺品が出てくるのである。「ルキウス・クラッシウス・ティルテイゥス荘」といわれると、「ローマ人の歴史」に出てくる支配階級の別荘かとは思うのですが、お金持ちですね。

    ポンペイのコーナでは、メナンドロスの家出土の《アポロ像》の彫刻や宝飾品などが並ぶ。

    そして、ポンペイ近郊のモレージネ地区から出土した《竪琴弾きのアポロ》のフレスコ画。この壁画はトリクリニウム(食堂)を囲う三面を復元する形で、コの字型に展示される。中央の人物は芸術を司る太陽の神アポロ(ギリシア神話ではアポロン)でそれを取り囲む形で女神ムーサ(ミューズ)たちがさまざまなポーズで描かれている。なおこのアポロについては、建物を訪問した皇帝ネロを表わすものとも言われているそうだ。素晴らしいですね。緋色背景を特徴とする鮮やかな色彩。水銀の色合いでしょうか?

    ポンペイといったら、ローマの小都市の生活がみな当時のまま埋まっているという喧伝が多く、近代都市に住む私たちと同じような生活が行われていたというイメージがありました。タイル、レンガ、フレスコ画と暑いナポリの日差しのイメージでした。今回の展示で、周辺の別荘に支配階級は住んでいて、庶民はポンペイに住んでいたということがすこし判りました。現地を一度訪れたいものです。

    P.S.この手の博物館系の催しは久々なのですが、結構混雑していました。展示が細かいものが多いからですね。(11日)
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    東京大学史料編纂所の国宝・重文名品展

    2005-12-07 | 歴史
    東京大学史料編纂所の国宝・重文名品展
    2005年11月18日、19日開催

    19日に、無料、国宝もあるという言葉に引かれて東京大学史料編纂所の国宝・重文名品展にいってきた。ほとんど歴史資料で、知っている人物も多少はあったが、素養はまったくないので文字は全く読めない。しかし本物の花押をみると、一寸歴史というものを感じる。

  • 国宝 島津家文書のうち 歴代亀鑑・宝鑑
    歴代亀鑑二帖、歴代宝鑑二帖は鎌倉期、室町期の文書から選ばれたもので仕立てられている。足利高氏書状、後村上天皇綸旨、足利尊氏御判御教書、足利義満御判御教書など。
  • 平安鎌倉古文書集 源頼朝下し文など
  • 室町時代武家関係文芸集
  • 久芳文書、佐藤文書
  • 小笠原文書
     足利尊氏自筆書状など、ここも花押が楽しめた。
  • 平安鎌倉記録典籍集
    - 和歌真字序集 書跡・典籍・重要文化財:平安時代の歌会における漢文体の序を類聚した書籍
    - 南無阿弥陀仏作善集 書跡・典籍・重要文化財:東大寺復興に大きな功績を俊乗坊重源(1121-1206)による記録
    - 台記古写本 仁平三年冬記 古文書・重要文化財:左大臣藤原頼長(1120-1156)の日記。古写本。三条家旧蔵。頼長は関白藤原忠実の次男で保元の乱で敗れて没した。
    - 他3点
  • 国宝島津家文書から「江戸大地震之図」
     安政二年(1855)十月二日の安政大地震非常に精緻な大地震絵図。家や壁の倒壊、火災の様子がリアルに描かれている。
     本絵巻とほぼ同内容のものとしてアイルランド・ビーティー・ライブラリー所蔵の旧近衛家所蔵「安政大地震災禍図巻」が知られている。島津家の絵巻は、近衛家の絵巻の模本なのではないかという推測もされているとのこと。
  • 「江戸幕府儒官林家関係資料」重要文化財
     林氏の寄贈による文書・記録・著述類・典籍類・絵画・器物等からなる史料。
     徳川将軍家実名呼名撰進記録:徳川将軍の名前の撰進を林家がしたときの記録。
     韓人書:朝鮮通信使との文書。やはり韓国の人の漢字は素晴らしい。
     などなど
  • 新収史料
    - 康道公記:徳川秀忠室浅井氏の孫の二条康道(1607-1666)の日記。
    - 綱平公記:関白二条綱平(1672-1732)の日記
    - お湯殿の上の日記(高松宮家本):天皇に近侍する女官がかな文字で書いた宮廷日記。文字が流麗。
    - 薩摩藩奥女中文書:天璋院(篤子)へのご機嫌伺いを献上したことに対する大奥からの礼状など

    参考
  • 東京大学史料編纂所史料集発刊100周年記念 特別展
    時を超えて語るもの―史料と美術の名宝―

    2001年12月から翌年1月にかけて開催された史料編纂所と東京国立博物館の所蔵品を中心とした公家日記、武家文書、絵図・絵巻類など国宝・重要文化財を含む貴重史料160余件を一堂に展観した特別展
  • 山本博文(東京大学 史料編纂所教授), 危機を乗り越えて伝存した国宝・島津家文書(学内所蔵特殊コレクションシリーズNo.14), 東京大学附属図書館報 Vol.42, No.4, 2003.4 :国宝に指定された島津家文書の由来来歴について解説。「前近代において、文書とは、その家の正統性を示す大切な財産であった。そのため、江戸時代の諸藩では、残された文書の整理や保存に非常に力を注いでいる。」という基本的なことをしりました。
  • 坂東雑事記にある本展覧会の記事。亜季多幸孝さんは非常に古文書に詳しくていらっしゃいます。



    東京大学にある国宝・重要文化財
    (文化庁のデータベース(平成14年6月)の検索結果)
    太字は今回出展されていた文化財

    拾芥抄 書跡・典籍・重要文化財
    南無阿弥陀仏作善集 書跡・典籍・重要文化財
    和歌真字序集 書跡・典籍・重要文化財

    愚昧記自筆本七巻 古写本一巻 古文書・重要文化財
    後愚昧記自筆本 古文書・重要文化財
    薩藩旧記雑録 古文書・重要文化財
    薩摩国伊作庄日置北郷下地中分絵図 古文書・重要文化財
    実隆公記 古文書・重要文化財
    上井覚兼日記 古文書・重要文化財
    西大寺寺領絵図 古文書・重要文化財
    台記古写本 仁平三年冬 古文書・重要文化財
    台明寺文書(百七十八通) 古文書・重要文化財
    島津家文書(一万五千百三十三通) 古文書・重要文化財
    (島津家文書は、2002年3月に国宝指定の答申がされたようですが。。)

    埴輪女子像 考古資料・重要文化財
    埴輪男子跪坐像 考古資料・重要文化財
    大森貝塚出土品 考古資料・重要文化財
    土面 考古資料・重要文化財
    銅戈鎔笵 考古資料・重要文化財
    本郷弥生町出土壺形土器 考古資料・重要文化財

    近藤重蔵関係資料 歴史資料・重要文化財
    江戸幕府儒官林家関係資料 歴史資料・重要文化財
    (こちらも、2002年に重要文化財に指定されたのですが、きちんとデータベースで検索できた)

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