藤田嗣治展+ブリヂストン美術館の藤田
藤田嗣治展
LEONARD FOUJITA
東京国立近代美術館
2006年3月28日~5月21日
石橋財団50周年記念 雪舟からボロックまで
ブリヂストン美術館
2006年4月8日~6月4日
18日の木曜日の夕方、もう一度藤田嗣治展に行ってきました。木曜日夜開館もだんだん知られるようになってきたのか、十分問題なく見れるもののかなり込んでいました。そのあとブリヂストン美術館を回りました。藤田嗣治展についていえば
一回目は、藤田の一生を辿るうちにだんだん涙してしまったのですが、今回は、音声ガイドなしで、素直に絵に向かいました。ブリヂストン美術館では3点の藤田の作品が展示してあり、今まで見落としていたことを発見、感動新たに鑑賞できました。
藤田嗣治展。意外にも面白かったのは、はじめの一室
「パリとの出会い」。藤田がピカソ、モディリアニやスーチンなどの影響を受けていた時代。
《幻想風景》(1917)横顔の女性にギリシャやエジプト美術の影響はすぐに見て取れるのですが、たしかに山水画のような険しい山を見つけて東洋美術の伝統も取り入れているとは、なるほど。
白と黒の対比に拘った作品。《礼拝》(c.1918);白のベールと黒のベールを被った二人の女性の礼拝する姿。白のベールの女性の足が細く、衣装から足が透けて見えるよう。《聖誕 於巴里》(1918 松岡美術館)。こちらの作品もよく見ると、白と黒の対比をした作品。白のジョセフと黒のベールに褐色の衣装をまとったマリア。白と茶と黒の3頭の馬が描かれています。
《二人の女》(1918 北海道立近代美術館)は、アーモンドの目などにモディリアニの表現を見て取れるとあるが、隣の《花を持つ少女》(1918 栃木県立美術館 )は、目がピカソです。
初めて自分だけの絵が出来て「でんぐり返しを打って喜んだ」と藤田が語っていた作品《巴里城門》(1914年)。前回はよくわからないと思っていたのですが、《パリの要塞》(1917)、《パリ風景》(1918 東京国立近代美術館)と何度も行き来するとなるほどと思えてきます。ルソーを目指していたという藤田が、色合いを変えてオリジナリティを発揮しています。
そして、
「裸婦の世界」。「乳白色の肌」を持つ裸婦像がやはり藤田のオリジナリティなのでしょうが、肌合いを意識した画面にやはり目が行きます。細筆で木目を描いたワックスをかけた床板の表現、いかにも塗っただけの壁、猫の毛の表現。《眠れる女》(1931 平野政吉美術館)の墨で塗られた黒の空間。 細筆で描いた細密な模様の花。
当時のブームだったようだが、藤田は大作を模索する。パリで描いた《ライオンのいる構図》 (1928エソンヌ県議会、フランス)、日本に戻ってきて描いた《銀座コロンバン壁画》(迎賓館)が並ぶ。これらは決して構図的には成功しているとはいえない。(後者の作品は、その完璧でないところとロココ調のところが個人的には好みだが)そして
「戦時下で」のコーナの戦争画5点がつながる。この1942年から1945年の5点の作品は、いかにも絵画としては西洋絵画の伝統に則った作品。構図も以前の藤田とは見違えるほどだ。《神兵の救出到る》は映画の1シーンを見ているようだし、《サイパン島同胞臣節を全うす》など、三角形に人々を配置し、動きを捉えた構図は藤田のアカデミック絵画の研究の成果だという。
解説では、「1930年代に入ると、藤田は、それまでの繊細な線描の作品から、より写実的な作品へと移行します。こうした傾向は、パリを離れ、中南米をまわって日本に帰国したあたりからより明らかになってきます。色彩は強くなり、また人やものの描写は重量感を増しました。こうした表現は、二科会での活動を経て、戦時中に描いた戦争画で頂点に達したように見えます。」とあるが、それ以上にこの時期に藤田は、西洋絵画の技法を取得している。
年譜によれば、藤田が従軍画家として活動をはじめたのは1938年。この従軍画家の経験をつんだ後に1939年5月に一旦パリに戻っている。この2度目の(実は短い)パリ時代(と思われる)の作品を、ブリヂストン美術館で2点見つけた。1点は、実は、私にとっての藤田といえばこの作品という《猫のいる静物》(1939-40)。初心に戻ったような白と黒をベースにした作品。ただし人物は描かれていない。鳥、果物、蝦、野菜などが白い板の上に並び、それを猫が狙っている。後年の《ラ・フォンテーヌ頌》を想像させるような題材。静物といいながら、それまでの例えば《五人の裸婦》のような藤田とは違って猫には動きを感じる。鳥にも動きが。そして、もう1点は、《ドルドーニュの家》である。1939年9月ごろから過ごしたドルドーニュ州レゼジー村の室内風景だろう。がらんとした真っ白な部屋の様子を描いているが、中央の壁に銃がかかっている。人生をはかなむ時計。消えた蝋燭。異邦人としてフランスに生活する恐怖感を描いたのだろうか。戦争で帰国しなければならなくなった無念だろうか。1938年に描かれた《私の画室》(1938、平野政吉美術館)とは様変わりである。そして1940年5月に戦争が激しくなりフランスを離れる。
しかし、このパリ滞在は、藤田にとって別の意味で大きかったと想像する。ドラクロワのような戦争画を描きたいと座談会で述べていたという。この言葉が1940年帰国以降なのかは調べてもいないので想像の域をでないが、1938年に従軍画家を経験した藤田は、パリに戻り、ルーブルでドラクロワやジェリコーの作品を見たとき、このような作品を描きたいと思ったのではないか。そして、ドラクロワなどの躍動的な作品の構図を研究していたのではないか。
そして、1940年に描かれたもう一点の絵画が《猫》(1940 東京国立近代美術館)。14匹の猫の動きを描いた作品。《猫のいる静物》では、動きのある猫1匹と鳥一羽であったものが、14匹の猫の動きにより画面を構成している。この動的な画面、14匹の猫による画面構成は、このあとに描かれる戦争画の習作ではなかったか。
でも、このような観点で戦争画を眺めてみれば、《サイパン島同胞臣節を全うす》や《アッツ島玉砕》(1943)は、バロック的、ドラクロワ的作品。一方、《神兵の救出到る》は、《猫のいる静物》に近い動的要素のはいった写真的な世界だろうか。
戦後の藤田の作品。主題で言えば、《ラ・フォンテーヌ頌》は、フランスへの帰属の思いを秘めた作品。アメリカへ脱出し、フランスに帰化したメランコリーを主題にした《カフェにて》。また子供のいない夫妻の思いを秘めた作品。キリスト教への帰依を示す作品が並ぶ。
《ラ・フォンテーヌ頌》や《黙示録》の細かな造形による画面の構成は、戦争画の構図に通じる。この細かさは、藤田がフランスで絵にだけ没頭した表れだろうか。それとも鳥獣戯画以来の日本の伝統の表れだろうか。
西洋絵画伝統の技法もいくつか見られて面白い。《すぐ戻ります(蚤の市) 》(1956)は、プッサンかセザンヌかという構成。《礼拝》(1962-63)の画面下に、画枠の縁にちょこんと止まる鳥たちの表現は、ルネサンスの作品の遠近法表現を髣髴とさせる。
戦争画でトライしたバロック的な動的な技法で戦後に描いたのは、《黙示録》ぐらい。《アージュ・メカニック》(1958-59)でも《校庭》でもちょっと動的要素のある静止画といった風情に戦後は、また戻っている。
いつの日か、1966年に完成したランスのノートル・ダム・ラ・ペ礼拝堂と現在は記念館になっているというヴィリエール・バクルの住居兼アトリエ(パリ南西20kmのエソンヌ県)を訪れたいものだ。
P.S.結局、東京会場は、20日土曜日に30万人目の入場者があったと報道があった。