もとは、生花は仏教の伝来と結びつき供花に由来すると言われています。故人に喜んでいただきたいという日本人の美しい心の露れ。お供えするなら、より美しくお花をお供えしたいということです。
植物を「立てる」というのは、植物が依代となり神を招くという考えがあるようです。あと、採取した植物を住居などの空間に再構成する行為だともされていて、狭い空間に自然を再生させるというのは、盆栽にもいえます。
神様は偉大で無限。大宇宙だとすると、自分には神の分け御魂があるから小宇宙。植物に置き換えると大自然という大宇宙を小さく再現したのが日本の誇るべき伝統文化の盆栽であり、生花かなぁ、とふと思いました。
私は植物が好き。沢山の植物を育てると、大きくなり少し鉢植えに収まらなくなるから、切ります。切って捨てるのでは無く、水につけます。すると、切り口から水をすい、根がピョロピョロとでてきます。
可愛くて、そうなると、土に還りたいのね、と思い、新しい鉢に土をいれ植えてあげます。すると、ありがとう!と言わんばかりにぐんぐんのびる。だから、家は植物だらけになる。私は、この子たちの母になった気分。笑。
話は戻ります。ウィキペディアによると、華道についてこのように書かれています。植物は動物とは異なり、切り落としても適切な処置すればある程度生命を維持することができることから、そのような植物の特性に神秘を見出す常緑樹信仰に通じ、人間の手の及ばない神秘の力を花器の上で包括的に管理してしまおうとする試みである、とのことです。
生花は、花だけを愛でることをしません。草や枝、幹、蕾に至るまで全て。数少ない枝で、草木に息づく命に重点を置いていけられます。
また、生花全体を3つにわけ、万物の基礎と考えられてきた三才(天・地・人)になぞらえた真(しん)・副(そえ)・体(たい)と呼ばれる三つにわけます。
また、生花は剣山に立てられます。
剣山!ですよ。剣と山。徳島の剣山!を想像します。なんだか、山の神様みたいだし、剣から素戔嗚尊をも感じませんか?
剣山に立てられた草木の蕾が花を咲かせそして枯れていくまでの移り変わりをいけめでるのです。人が大地に生まれ、素立って(育って)花を咲かせ枯れていく感じ。芽出たい(愛でたい)感じ。
生花は、正面からだけでなく、どの位置からみても美しく生けます。日本の美意識を体現した華道は、切られても生きる命を細部まで拘り魅せる道かなと思います。 人も、見えるとこだけで無く、どんな位置からも、中からも美しくありたい。
人間は、命の終わりが誰しもあるけれど、実は、命は終わっても魂は生きているし、生きている人が供花を華道という道にまで深めた所に、故人の美しい御霊を忘れないという日本人の心を感じました。そして、そういう文化を育み愛する日本の国柄を私は誇らしいなと思います。