時間の概念のない世界からの使者の成長を、このようにさらりと描いています。浦島太郎もそうですが、龍宮(蓬莱?)や月(黄泉の国?)は時間が地球とは違うのかもと作者はわかっていたのかもしれません。
かぐや姫が月を見て物思いにふけり泣いていたので老夫婦が尋ねると「自分は月の住人で帰らなければならない」と打ち明けます。
かぐや姫が老夫婦に月の世界のことを説明する言葉の中に、「あの都の人には物思いもない」ということも言っています。
感情(喜怒哀楽)というのは、地球人に与えられたもの。月の世界には無いのかもです。
確かに、老夫婦に「寂しい、帰りたくない」と言い、手紙や歌まで残しているかぐや姫ですが、月からのお迎えが来て天の羽衣を着せられたとたん、後ろを振り向かずさっと月へ帰ってしまうのです。
月の世界の羽衣は、地球人的な感情を消してしまいます。
月からの迎えの使者は、「かぐや姫は罪を作ったので、お前のような賤しいものの側にいたのだ。罪の期限は過ぎた。さあ早く出ていらっしゃい」と言います。
月の世界では、地球は島流しのような刑の場所という事になります。私の好きな神仙ドラマ、崑崙山を舞台に描かれる十里桃花。

ドラマの神界では、地球は生老病死から逃れられない苦難場所で神々が行きたくない場所、流刑地か、試練に耐えれば神の力を増せる場所として描かれていました。
月からの迎えの人たちがかぐや姫に、「いざ、かぐや姫。穢き所に、いかでか久しくおはせむ」(さあ、かぐや姫。こんな汚い所にどうして長く居られることでしょう」と言って「かぐや姫」をせかせます。
「穢き所の物聞こしめしたれば、御心地悪しからむものぞ」(こんな汚い所の物を食べてさぞかしご気分が悪いことでしょう)などといって薬を持ってきたりもします。
月からみると地球ってそんな感じに見えてるんですね。
こういう視点を持って物語を描く文化人。帝の権力を笠にきる藤原氏に反感をもち、もしかしたら流罪になったお方か、その憂き目を背負った人の関係者が都を地球と見たてたのかもしれません。
こんな嫌なとこさっさと出ていきましょう、私たちは神様と共に月で生きましょうと描いたのかもしれない、とふと思いました。
月の輝きを魂の輝きと信じて、望月ばかりでは無く欠けることもあるけれど、時が全てを変化させるからと世の無常を悟っていた方が作者なのかもしれません。
ところで、伊勢の月読宮、月夜見宮は初めて参拝したときに深く印象に残る場所でした。月は海の干満に影響するし、水とも深い縁があり、また、月がなければ地球は存在できないのです。
だから、大海原を治める素戔嗚尊は月(黄泉)にも深く関係のある神様だと思います。
日本のかぐや姫の話は、日本と宇宙の神秘に繋がる凄いストーリーですね。勝手に空想して、日本昔話かぐや姫を検証してみました。
おわり
【画像は竹取物語絵巻物検索画像より】