十牛図の第4図「得牛(とくぎゅう)」です。牛の全身が描かれているのは、初めてです。
旅人は、牛を探し、足あとを見つけ、牛の姿を見ることができました。牛は自分の心です。
その牛は、長いこと野外の草むらにかくれていて気づかなかったが、今になってようやく会うことができた。
しかし、その喜びの心境は、「牛に出会えた」ということで満足してしまい、かえって牛に追いつくことを難しくするし、また牛のほうでも、すきをみては香りのよい草を求めて草むらに逃げていこうとしてしまう。
牛(心)は自分なのに、肉体のある自分(旅人)とはまだ慣れていない段階ですね。牛を見つけたっていっても、また、いつでも牛が逃げてしまう段階のようです。
牛(心)を自分に溶け込ますのに時間がかかるのは、自分を覚信したり、様々なことに挑戦しても慣れて自分のものにするのに時間がかかるのと同じかもです。辛くなる時にムチや縄を使いたくはないですね。心のようなとりとめのないものをぎゅうぎゅうに縛ると、鬱血しそうですから、厳しさも時には大切かもですが、ゆる〜くありたいです。
自己理解や他者理解にもいえるかもですが、まずは自分を理解して見つめ見つける。そして他者も同じように理解しようと努め、見つめ認めることが出来るといいなぁと思います。
そして、辛そうなヒトがいたなら、優しく寄り添う。黙ってても寄り添う気持ちがあれば、それは伝わる。静かな中に優しさを感じ取ることができるといいですね。
瞑想や坐禅の中、静かな場所ですわっていると、いろんなことが次々と思い浮かんできますが、座禅は禅宗からですし、瞑想中の雑念は、あばれる牛にもたとえられているようです。
十牛図は色々なケースを想像させますから奥が深いです。
長い目でみる視点があればいいですね。今が良くない時も、「いつかはできるようになる、よくなる」と思い続けて生きながら、少しずつ乗り越えて行きながら、ふと振り返ると、随分遠くまできたもんだと心が鳴ればいいなと思います。
牛は心とすると、和する方が楽なのかもですね。やっと牛の姿を全て現して目の前に出てきてくれた暁月には、まずはニコッとして、その姿を現してくれたことに感謝を伝えよう思います。
昨日仕事に向かう朝、空をみると青空に白い半月の月が残っていました。日の光に照らされた部分だけが光り夜に様々な姿を見せる月が、朝の日に負けずに半分だけ白く残る姿が不思議と美しく感じました。
つづく