道徳経の恩師が童心説を紹介してくださいました。そのまま引用します。
「童心とは仮を根絶して純化したものである。…....もし童心を失うと、真の心を失う。真の心を失うと真の人ではなくなる」と、定義する。
「仮」とは、借り物・ニセ・エセの意で、もちろんホンモノ・真実を意味する「真」の対概念である。「査心」がなくなればホンモノの心が失われて、借り物・ニセの人ができあがる、というわけである。
それなら、その「童心」、「真」の心はなぜ失われるのか、といえば「見聞」、「道理」が外から入ってきて、圧倒してしまうからである。
その「道理・見聞は、読書を多くし義理を識るところから来る」のであって、いまの「学者」は、「読書を多くし義理を識る」ことで「童心」を得げて、外来の「見聞」「道理」がその心になってしまっている。
かくて、「発言はすべて見聞・道理の言うところであって、童心が自ら発する言ではない。
それがいかに巧みであっても、自分のものではない」
ここまで。。
滅茶苦茶反省します。本を読むこと自体は素晴らしいことだとは思います。ですが、その事により知識を増やし色んな見聞をあたかも偉そうにたくさんこのブログで長々と披露してきました。 😩
全くもって、反省の限りです。😓
ワカメオバかさんの趣味だと思って許してください。また、懲りずにやってしまぅかも。😅
ところで、童心説に戻ります。
学校の中で、童心を無くす教育をしている可能性がある気がしています。余白のない感じ。
童心🟰道心、言霊の響きが同じです。
道の心。
赤ちゃんのつぶらな瞳、柔らかさ、幼児の無邪気さ、純粋さ。。子供達の笑顔。それは真っ白。
大人になるまで真っ白な部分をどこまで保持できるのか、ワクワクしたら、あれこれ考える隙なくすぐに動いたり、道の心は童の心に回帰するような一面もあるのかもです。
学校の枠の中で、童心を失いたくないと抵抗する子の中に不登校の子たちがいるのではないかと思ったりします。不登校の子たちの中に、物凄く精神性の高い子や本来持つ独自の輝きが強い子がいるのではないかなとも感じています。
その子は、自分の大切なものをもしかしたら一生懸命に守っているのかも。今の学校の求めてくる枠が窮屈故に、おさまらない自由さや大人になると無くしがちな真っ白な繊細さを持っている可能性も感じます。
末娘が幼稚園から仲良くしていた友達に物凄く絵が上手な子がいます。学校が離れて、その後、不登校になったと聞きました。毎年、年賀状に物凄く上手な手書きの絵を描いてきてくれます。
何でも良いから、自分を肯定していたらいいなと思います。
学力で振り分けられる受験シーズンが始まりますね。悲喜交々、喜ぶ子がいれば、そうでない子もいる。
受験に戦争がつくあたりから、嫌な響きだなぁと感じます。
しかし、長い人生一度や二度、三度、誰しもが殆ど経験します。
勝った子には頑張ったね、おめでとう!と言いたいし、頑張ったにも関わらず涙した子にもエールを送りたい。
涙は必ず優しさの糧になるし、振り返るとそういう経験の方が自分を高め深めてくれていることもありますから。
勝つ人は負ける人の気持ちがわからないもの。どちらが良いかなんて、誰が言えるのか。
どのような進路🟰路に進んでも、未知の路が道へと繋がれば良いし、また、何処に進もうと、子供達が大人になるにつれ、本来の輝き、童心を失わないといいなと思います。
踏みとどまっている子も、自分を肯定してジャンプするためのエネルギーを溜めているだけかもしれません。
ゆっくりと時間の流れを忍耐を持って待つ事が必要な時もあります。充分待つ側も同じく自らを深め高めている気がしています😌誰しも自分を肯定して上げてほしいな。
子供たちの進む、歩む路に、幸多かれ。