
【上田城本丸北東隅櫓跡】
上田城は真田昌幸によって天正11年(1583)に築城が開始され、徳川氏の攻撃を二度にわたって退けるなど、近世城郭としては稀有な戦歴を誇る名城でしたが、慶長5年(1600の関ヶ原合戦後に徳川支配下の諸将によって徹底的に破壊されてしまいました.
廃城同然となっていた上田城を現在の姿に復興したのは、真田氏の次に藩主となった仙石忠政です.忠政による再築城は寛永3~5年(1626~1628)にかけて行なわれ、基本的な縄張りは真田時代の形を継承しながら、各小虎口(こぐち)(出入口)には、石垣を築き、本丸には7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられました.
本丸の北東部には2棟の隅櫓が建てられていたことが江戸時代のさまざまな絵図によって知られていましたが、平成6年度と7年度に発掘調査が行なわれ、正確位置や大きさが確認されました.発掘調査の結果、隅櫓は石垣を築かずに土塁の上に直接建てられていたことがわかりました.また、隅櫓の規模は現存する西櫓などと同じく桁行5間梁間4間と推定され、北側の隅櫓は東西方向に、南側の隅櫓は南北方向に棟の方向が向いていた事が確認されました.
現在、この場所には隅櫓の中心に建てられていた芯柱の礎石がそれぞれ残っていますが、いずれも明治時代以降に動かされ、本来に位置ととは少しずれています.
【鬼門除け】
上田城の本丸と二の丸の土塁と掘は、北東の隅が直角ではなく、内側に折れて切り欠きが設けられています.北東(丑寅)の方角は「鬼門」と呼ばれ、古来より災いや物の怪(け)が侵入してくる方角と考えられてきました.北東の隅に切り欠きを設けて鬼門を封じる風習は京都御所の土塀などにもみられ、真田昌幸による縄張りの遺構と考えれています.昌幸はさらに城下の北東の地(上田市新田)に八幡社を建立し、上田城と城下町を鎮護しています.上田市教育委員会
上田城は真田昌幸によって天正11年(1583)に築城が開始され、徳川氏の攻撃を二度にわたって退けるなど、近世城郭としては稀有な戦歴を誇る名城でしたが、慶長5年(1600の関ヶ原合戦後に徳川支配下の諸将によって徹底的に破壊されてしまいました.
廃城同然となっていた上田城を現在の姿に復興したのは、真田氏の次に藩主となった仙石忠政です.忠政による再築城は寛永3~5年(1626~1628)にかけて行なわれ、基本的な縄張りは真田時代の形を継承しながら、各小虎口(こぐち)(出入口)には、石垣を築き、本丸には7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられました.
本丸の北東部には2棟の隅櫓が建てられていたことが江戸時代のさまざまな絵図によって知られていましたが、平成6年度と7年度に発掘調査が行なわれ、正確位置や大きさが確認されました.発掘調査の結果、隅櫓は石垣を築かずに土塁の上に直接建てられていたことがわかりました.また、隅櫓の規模は現存する西櫓などと同じく桁行5間梁間4間と推定され、北側の隅櫓は東西方向に、南側の隅櫓は南北方向に棟の方向が向いていた事が確認されました.
現在、この場所には隅櫓の中心に建てられていた芯柱の礎石がそれぞれ残っていますが、いずれも明治時代以降に動かされ、本来に位置ととは少しずれています.
【鬼門除け】
上田城の本丸と二の丸の土塁と掘は、北東の隅が直角ではなく、内側に折れて切り欠きが設けられています.北東(丑寅)の方角は「鬼門」と呼ばれ、古来より災いや物の怪(け)が侵入してくる方角と考えられてきました.北東の隅に切り欠きを設けて鬼門を封じる風習は京都御所の土塀などにもみられ、真田昌幸による縄張りの遺構と考えれています.昌幸はさらに城下の北東の地(上田市新田)に八幡社を建立し、上田城と城下町を鎮護しています.上田市教育委員会