千曲川の流れのように

年金生活者の徒然

2006-11-02 | Weblog
 めいとも読むが、今回は「いのち」と読むことにしよう。昔話だが、中学の頃の話だ。歴史の授業で、何とかの命を受けと言う記述があった。私は、命を「いのち」と読んだ。自分でも違和感があった。教師は「それは命(めい)ですよ」と言った。そうだ。命令の命なのだと気づいた。中学生の時、こんなことがあった。社会の授業だった。誰か、先生をやってみないかと問われた。結局、私が授業をすることになった。準備はできていた。その授業をやる前に、先生に突然のアポが入った。予定はずっと先だったが、突然「今日は急用が入ったので、授業は三宅君がやってくれますか」と言い、先生は教室から去った。「エー、うそ」と言う感じだった。なんとか45分の授業をやった記憶がある。人に教えることは、好きではなかった。そこから今の感情が生まれたわけではないが、「教師にはなりたくない」と漠然と思うようになった。自分が核心をつかないで、人に「教える」ことはできない。そんな気持ちだった。行為としての教師はできても、それは人と人のつながりの関係性の中でしか成立しない。きわめて、微妙な関係だ。
 話がそれて申し訳ない。命と書いた理由は別にあるのです。でもね、そのことをここで書くのは、気分がそうさせない。今日は皆さんへの裏切りになるけど、勘弁して下さい。結構へんこんでいます。
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