雑感 独り善がり

日々の思いや怒りを自分勝手な考えで綴る

徳之島・沖永良部島・与論島・沖縄。私の南の島の思い出②

2020-08-09 12:29:14 | 日記

前回よりの続き。

沖縄らしき島影が見えた時はどれほど安堵したことか・・・。

砂浜に船を寄せ足を卸し『ああ・・無事沖縄の地に着いたんだ』と、生きてたどり着いた実感。ひと仕事

終わった気分。船頭さんにお礼を言い、帰り1人だけれど気を付けて下さいねなどと言って見送る。

『ここどこだろう?』 目の前に学校があった。塀から多くの子供たちが鈴なりになってこちらを見ている。

不審者?闖入者?そんな気分だったのだろう。『ここからどうやって那覇まで行くのよ』大問題だ。

勿論路線バスなどあるはずもなく、タクシー?ある訳ない。本当に無鉄砲でお粗末な計画で、今考えれば

恥ずかしいの一言。野宿?イヤだよ・・・。

とにかく探そうよとアテもなく歩き出すと1台の乗用車発見!聞くと東京の雑誌社の人2人。取材に来ていた

らしい。事情を話し拝み倒して街まで乗せてもらうことに。しかし5人乗り乗用車に7人だ。これも見つかった

ら大目玉だよね。7人も乗った重い車が砂利道を行って、車壊れないかしら?と申し訳なく思ったものだ。

次月号の雑誌に載せても良い?と聞かれ、どーぞどーぞと何のお礼も出来ない私たちは快く了承した。

その雑誌買ったよ。確かに記事載っていたわ。

 

街で東大生と別れた。その日はとにかく寝て、翌日は色んなところに行った。すんごい岬(名前覚えてない)

で、海に落っこちそうな先端で写真撮ったりして、沖縄のきれいな海と空と空気を満喫。透き通ってるよ。

中が丸見えよ。海に入れば友だちがサンゴ礁で足をケガし、薬局探して大丈夫かな?ばい菌は入らないかな?

で、びっくりはその翌日。朝、黒塗りの車がユースホステルの前にお迎えに来ていた。父の知り合いの

琉球泡盛の会社から。『えっ!?何で?いいの?』みたいな感じで、場違いな汚い格好の私たちは誘惑に負け

車に乗せてもらい、足を怪我した友人は病院にまで連れて行ってもらい、何だか至れり尽くせり。

あのー私たちケチケチ旅行しているんですけれど・・・とは建前上思ってはみたが、ご厚意は受けなくては。

その日の夜は何社かの琉球泡盛の会社の社長さんたちが歓迎し料亭で一席設けて下さってお座敷であの沖縄の

踊り迄見せてもらい、こんな汚い若造相手に申し訳ない気分。翌日は会社も訪問させてもらった。

結局沖縄を離れるまで、黒塗りの乗用車のお世話になった。那覇港から鹿児島行きの船に乗る時まで、

どこへ行くにもずっと運転手さんは付いてて下さり、船が出る前には又社長さんたちお見えになって見送って

下さった。小さな緑色のバナナの房は船に持ち込めなかったわ。5月15日以前はパスポート要ったんだよね。

おとーさんさぁ、一体何を言ったの?と文句?かお礼?か分からないけれど、帰って父に言ったことは

間違いない。

大阪大学に息子さんが行っておられたある会社の社長さんは、後日大阪行くよと教えて下さって、皆で

ホテルまで会いに行ったりもした。

 

沖縄にも与論島にも良い思い出しかない。沖縄にはその後仕事で何度か行っているが、仕事して帰るだけ

なので、その時のような強烈な印象はない。

沖縄のコロナ感染拡大もひどいことになっている。

医療体制が本土ほど整っていない南の島で(南の島に限らないだろうが)コロナが拡がると島中が大変な

ことになる。どうぞ今以上ひどくならないようにと祈るしかない。

若い人は重症化しにくいだろう。症状が表われないもので自分たちが既に感染しているかもと言う自覚は

無いだろう。でも誰が感染しているか分からない。自分がもしかしたら持っているかもなのだ。自分が

感染源なのかもなのだ。たまにマスクをしていない・大きな声で喋る 人を見るけれど、もっと意識して

欲しいと見ていて思う。”自分は罹らないもーん”ではないのだ。”自分が移しているかも”なのだ。

国中皆で気を付けなければ。感染を拡げたくは無いが、経済も回して行かなければならない。

皆が協力努力するしか無いんだよ。コロナが1日も早く収まるよーに。


徳之島・沖永良部島・与論島・沖縄。私の南の島の思い出①

2020-08-09 11:25:30 | 日記

もう2週間くらい前になるのかな?”与論島でコロナ感染拡大”のニュースを観た時、与論島に思いを

馳せた。一度きりだけど、私は50年近く前に与論島に行っている。

1972年(昭和47年)の5月に、友人3人と徳之島~沖永良部島~与論島~沖縄と、旅行しているのだ。

1972年(昭和47年)と言えば沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカから日本に返還された

年で、おまけに5月15日だ。いわゆる沖縄の本土復帰ね。そんな5月に沖縄行ったのかい・・・💧

 

最初の計画は沖縄からスタートするはずだった。確か5月16日?沖縄着だったか、とにかく返還から

1週間も経たないうちだったのは間違いない。政治的なことに何の興味も知識も持たない何も考えて

いない当時の呑気な私は、計画を知った父にすんごく怒られた。女4人で旅行自体ブツブツ言われて

いたのに、そんな返還された直後の混乱しているであろう危険かも知れない(父はそう思ったのだろう)

沖縄に行くとは何事かっ!!と、えらい剣幕で、しかしながら旅行は私一人で行く訳じゃないから今更

キャンセルは出来ないし・・。

で急遽、少しでもほとぼりが冷めた頃にと、逆コースから行って沖縄に入るのは少しでも遅くすることで

何とか許してもらえた。

 

鹿児島から飛行機で徳之島に着いた時の興奮は忘れられない。徳之島だよっ!徳之島っ!海がキレイっ!

めっちゃキレイっ!。勿論訪れた全ての島で私たちは泳いだ。ほとんど人が居ない貸切状態の砂浜で。

確かユースホステル全盛の頃で、ジーンズ(ジーパンと言った)に汚いリュック?みたいな恰好で行く

のが流行ってた。島の人たちはどこでも誰もが親切だった。

沖永良部島では鍾乳洞?見に行ったような。自転車レンタルして島をぐるっと周ったのはいいが途中で

1台パンクして、『こんなところでどうするよ?連絡のしようも無いし』と途方に暮れたのも思い出。

(携帯電話なんて勿論ない時代)。結局どうやって連絡付けたのか、自転車屋のおじさんが軽トラで

代わりの自転車持って来てくれた。

そして与論島。百合が浜?で星の砂を探したのを覚えている。瓶に入って売っていたんだけれどね。

夜は夜で星が降るように美しく、広大な空を見上げては心洗われる思いだった。

東京から1人で来ていた同い年の男子東大生が、私たちにエラく懐いていて、結局その後の行動を

少しの間共にすることになる。

 

週に1~2本しか沖縄に行く定期便が無い。急遽逆から行ったものだから与論島⇒沖縄の船まできちんと調べ

られてなかった。遊び惚けて次は沖縄よと気が付いた時は定期便が出航したばかりで、数日待たなければ

ならない。なんてことだっ!!周りの人たちに相談すると、小さな船を出してくれると言う。私たち5人は

お金を出し合って、それで沖縄まで行くことにした。

今から考えてみれば恐ろしい話だが、私たち4人とその東大生を乗せた船頭さん1人の計6人の小さな船は

与論島から波に揺られながら沖縄の最北端を目指した。

救命胴衣って言うの?それは皆付けていた。船に動力が付いていたかどうかはっきりは覚えていない。

船頭さんがずっと船の後ろで櫓を漕いでいた。もしかしたら違法だったかも?

サンゴ礁を出る時は凄く揺れたし外海に出ると波が急に高くなって、改めて怖いと思った。

無事に生きて沖縄に着けるのかしら?と不安だったのを覚えている。

遭難なんかしたら父は激怒だろうな・・・とそんな時にそんな心配までした。

しかし私たちは意外と冷静だった。怖い怖いと震えていたのはたった1人の男子だったよ。

『泳げないの?』なんて聞いたが、泳げたところであんなところで船が転覆したら、意味は無いよね。

結構長い時間だったような気がする。不安な気持ちを抱えながら、皆押し黙ってた。

 

沖縄編は次に続く。


イソジンで叩かれても吉村知事の人気に影響は無い。むしろ何もしないグダグダの政府は恥を知るべき

2020-08-09 02:48:46 | 政治

吉村知事、イソジンのことで結構叩かれているけれど、私はそんなこと位で吉村知事の評価を

下げたりはしない。

むしろあれは、”少しでも役に立つなら””何とかコロナを抑えられるなら””府民を守れるなら”という

吉村さんの熱い思いが、ああいう形で出たんだと思うから、非難なんかする気には全くならない。

イソジンでコロナを治せると言った訳ではない。重症化を防げるかも、抑止に効果があると思われると

言っただけでは?

私は買いに走ったりはしないが、たまたま家に掛かりつけ医から貰ったイソジンがあったので、

あれ以降たまにそれを使ってうがいをしてはいる。

吉村さんの言うことだから聞いてみようかなと言う気になったし、もしかしたら本当に当たっているかも

と今も思っている。

第一、後でネットで見たけれど吉村さん、口の中の説明と言うか実演もやってたが、めっちゃ真剣だった。

Go To キャンペーンだの、それでいてお盆の帰省は控えろだの自粛しろだの、いや一律に求めるものでは

無いだの、一体どーしろと言うのか?何が言いたいのか?支離滅裂ぐちゃぐちゃな政府の対応に比べれば

余程立派だ。真面目に対策・対応しているもの。政府はしてないよ。

 

新型コロナ対策分科会の尾身さんに先に自粛だのなんだの言わせておいて、その後で『専門家の意見にも

ありますよーに』みたいな言い方でいつも逃げているズルい西村にしろ、タイムリーにスポークスマンの

役目を果たせていない菅にしろ、真面目に質問に答えてない安倍首相にしろ、中央はほんとおバカでお粗末。

何一つ決定しない政府は、結局はお金を出すのがイヤだから”行くな”も”休め”も言えないんでしょ?

状況説明や意見は専門家が言ったとしても、その上で対策・対応を発信するのは政府の役目でしょ?

ズルいよね。ほんとズルい。国を挙げて国民を救えよ。国会議員全員報酬辞退すれば?何一つ働いて無い

んだもの。政府も野党もだよ。そして自治体に全権委譲してお金をあげれば?

何もしてない政府に吉村さんを責める権利は無いわ。責めてるかどうか知らんけど。

 

吉村さん、ちょっとくらい叩かれたり評判下げたりしてもいいよ。持ち上げられっ放しは良くないと

思っていたから、これ位で丁度いい。痛くも痒くもない。まだまだやるんだから、吉村さんは。

これからの人なんだから。

人間にパーフェクトは無い。逆に”パーフェクト”なんて在ったら怖い。失敗もするから人間なんだ。

失敗し挫折し、そこから学んで行けばいい。そして大きくなればいいのだ。一度や二度の失敗位

何てことないよ。吉村さんのあの発言あの発表が例え失敗だとしても、そんなこと位で吉村さんの

人間性に傷が付く訳ではない。あんなに一生懸命の知事さんだ。

吉村さんの言うことなら聞こうと私は思うよ。信じられるもの。

 

あっ、そうそう。ふるさと納税で新型コロナウイルス助け合い基金とやらに10万円寄付したんだよね。

5月のGW中だった。先月『ありがとう』のお手紙貰って、『えっ!?2ヶ月待ってこれだけ?

吉村さんの感謝状貰えるって言うから寄付したのにな・・』と憮然としていたのだが、本日その感謝状が

届きましたわ。私の名前もちゃんと書いてある感謝状が、筒に入って送られて来たよ。

私がネットで見て刺激を受けて寄付するきっかけになった知らないおにーちゃんにも感謝状届いたかな。

𠮷村知事の感謝状が貰えるから寄付するって書いてあったから、お互い良かったね。


読み書きそろばんが出来れば充分生きて行けるよ

2020-08-09 01:13:17 | 日記

仕事も忙しくてしんどかったし、ちょっと事情があってしばらくはブログも書く気がしなかった。

だけどやっと今日からお盆休み。お盆の間も多分仕事はそれなりにするだろうけれど、気分は楽だ。

今日は月イチの掛かりつけ医に。

一番小さい孫(小5)も診てもらいたいこと有ったので迎えに行き一緒にお医者さんへ。

行き帰りの道中色々話をした。

彼女も今日から夏休み。『成績どうだった?』と聞くと『普通』と。『あらそう?悪くなくて

良かったね』。そのTが言う。『J(中2の兄)はずるい』と。『何で?』と聞くとT曰く

『Jは4が2つで後は全部5。1年の3学期なんか4が1つで後全部5だったんだよ』と。

通知表のことね。彼女は兄との違いをずるいと言うのだろう。

私はTに『Jが本の虫だったり歴史が好きだったり成績が良いのはJの個性よ。たまたま本が好き

だったり、勉強に向いている頭だったのかもね』と。『Tにも個性があるでしょ?得意なことあるでしょ?

なりたいこと有るんだったよね?それがTの個性よ。学校の成績だけが全てじゃないよ』と。

いつもTに言うのは、小中の義務教育の間は授業しっかり聞いてと。足し算引き算掛け算割り算が出来て

ひらがなカタカナ、そしてそこそこの漢字が読めれば、それで生きて行けると。

義務教育の間の知識で生活して行けるからと。

買い物するのに計算出来ないと困るからね。漢字読めないと何て書いてあるのか解らないからねと。

おばーちゃんが言えるのはそれくらいのことよ。

学者とかにならない限り、数Ⅲだの微分積分なんて要らんでしょ。私は数学全くダメだったから、

ちんぷんかんぷんだったよ。

私『Tのなりたい職業に数学はちょっと要るかもね』 T『うん。英語もちょっとは要るの』

私『そしたら頑張らんとアカンね』 そんな話をしながら帰った。

 

世の中のありようも人の価値観も、私らの時代とは大きく違う。

何が良くて何が幸せなのかも、人によって違う。

元気で機嫌良く普通に暮らしてさえくれればそれで結構と思うのは、むしろ贅沢なのかも?

普通に暮らすことが既に難しい世の中なのかも。