三木市吉川町福吉 高野山真言宗 姑射山 東光寺
本堂 国指定重要文化財
永正14年(1517)の墨書ある蛙股より室町時代中期から末期頃の建立
多宝塔 県指定重要文化財
室町時代中期 三間多宝塔
銅鐘 三木市指定文化財
慶長6年(1601)奉鋳
姫路野里鋳物師 「平末次」作
神亀年間(724~728)行基より開創されたと伝わる古刹
本堂には、めぼしい彫刻なし。
古刹につきネット等紹介がありますが、ほぼ取り上げられていない、庫裏に彫刻あり。
彫刻 推定 新井弥三郎正次 銘なし
なかなかの力作 蛙股(枡合)獅子は独特
改めて新井弥三郎正次の紹介
居 摂津国有馬郡藍曲村 現・三田市藍本
生誕 不詳
江戸後期~明治初期にかけて 有馬、丹波で活躍した彫師
社寺仏閣はもちろん祭礼山車(地車、太鼓台等)も多く手がけている。
庫裏
名称不明お堂
彫刻推定 新井弥三郎正次
本堂
銅鐘楼
北町の町人なんですが宜しければぜひ地車及び特に彫物師のほうを詳しく教えていただけませんか。
はじめまして。
さて、さっそくですが古市北町の彫刻師についてお尋ねのようですが、あいにく私、1度見ただけでしかも彫物じっくりみれませんでした。
画像もあまりなく非常にあいまいですが・・・
他地車サイトでは、相野一門又は相野伊造となっていますが、おそらく根拠はないもの推測します。
たしか古市北町地車彫刻に目につく範囲では、彫師の刻銘、墨書等はなかったと思いますが?いかがですか?
奈良県葛城市当麻地区竹内・竹内地車見送り三枚板に相野伊造の銘があります。おそらくは、その彫刻に似ているところからきているのではないかと推測します。
この相野伊造ですが、刻銘確認できるものは、竹内地車のみ。
よってまだまだ解明されていない彫師です。
私的には、相野徳兵衛、伊兵衛、藤七など浪花を代表する相野一門とは少し遠い彫師と思っています。
他地車サイトでは、江戸末期から明治初期と推測されていますが、もう少し時代が後年に思います。明治後半から大正、昭和前半かも?
そんなことから古市北町地車彫師断定できません。
似ているといえば似てますが、違うような気もします。
いずれ機会あれば確認させてもらい当ブログで報告させてもらいます。
もし、当ブログにきていただいてます、研究者の方で詳細ご存知の方ありましたらあとよろしくお願いします。
当町にも言い伝えや資料も何も残っていないので、ただ奈良から購入して竹之内街道を曳いて帰ってきたとは聞いたんですが。
また、何か分かりましたら宜しくお願いします。
古市の6台の内東町と中之町(今は中町かな)以外は、
他所新調で大正期購入と聞いていますが何か購入時期
について言い伝えはないですか?
後、馬乗りの正面向きの馬は、伊造独特だと思いますが、
あにきさんどうですかね。
見解メールしょうかなぁと思っていたところです。
たしかに部分的には似てますね・・・・
全体的にはなぜか?少々違和感あり。
伊造は、竹之内だけですよね?
正直なところ1台では少し判断しにくいです。
ところで伊造は伊兵衛・藤七系統の相野一門なのでしょうか?
どう思われますか?
やはり相野という名前は大きな名前のようですし、
伊の文字がついているところをみても
遠い、近いの差はあるかもしれませんが
伊兵衛系の門下などではないでしょうか?
花押は伊兵衛と同じですものね。
そうなるとやはりかなり時代下りますね。
明治後半と言うより大正、昭和前半。
古市北町彫刻・竹之内同じと考えるなら、口伝から大正時代に譲り受けとなると。大正か明治後半。
明治初期以前とは考えにくいですが・・・・・
古市ですが、庄屋である森田家文書に江戸期から当地に、地車があったことを示すものがあります。また、西町の提灯箱には、大正の年号がきさいされたものがあり、断定はできませんがその頃に購入されたのではと考えています。
北町は、そんなのは見当たらないんですかね。
また、購入時庄屋からお金の借用やお伺いをたてている可能性もあり、森田家文書を調べるのも一つのきっかけになる可能性もあります。
By 新幹線
解説ありがとうございます。
古市北町様参考にしてください。
町役員さんや会館などで古い資料を探したみます。
また報告さしてもらいます
よければ近くに来られる機会があれば小屋あけさしてもらうんで声かけて下さい。