金曜新シリーズ!♪
いつまでつづくが疑問ですが・・・
川面東地車後部車板題材 「源頼政 鵺退治」
この部分は懸魚に隠れ覗きこまないと見えませんが私のお気に入りの彫刻題材
彫刻・源頼政鵺退治を追求シリーズで紹介
頼政の史跡を訪問兼ねてのレポート・もちろん彫刻視点
源頼政鵺退治とは、「平家物語 巻第四 一四 ヌエ」より
現在放映中NHK大河ドラマ・平清盛もこの物語内
川面東後部懸魚 鷲の裏部分
平家物語鵺退治そもそも史実にあまり登場しなかった源頼政が平家打倒のクーデターを起し敗れるにあたり、頼政の武勇を上げるため後日後付にて書き込まれたとの意見もあり、真相はいかに?
まず、源頼政とは。(以下ウッキペディアより)
平安時代末期の武将・公卿・歌人。摂津源氏の源仲政の長男。平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。
保元の乱、平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平氏の専横に不満が高まる中で、以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ自害した。
平家物語現代語訳(HP竹内みちまろ氏訳以号同じ)
源頼政の昇進、昇殿
そもそも、源頼政は、摂津の守・頼光の5代目、三河の守・頼綱の孫、兵庫頭・仲政の子。
頼政は、保元の乱の時も、味方に先駆けていましたが、たいした恩賞に預かりませんでした。平治の乱では、親類を捨てて後白河法皇方に味方しましたが、そのときも、恩賞をおろそかにされました。頼政は、長く大内守護でしたが、昇殿はゆるされませんでした。
頼政は、年老いてから、述懐の和歌を一首詠み、ようやく昇殿がゆるされました。その和歌は以下。
人知れず大内山の山守は
木がくれてのみ月を見るかな
この歌で昇殿を許され、頼政は、正下の四位にしばらくいました。頼政は、なお昇進を心にかけ、また、歌を詠みました。
上るべき便り無き身は木の下に
しえを拾いて世を渡るかな
そうして、頼政は三位に叙されました。やがて出家し、源三位入道頼政となり、今年75歳になりました。
つづく
書き込みありがとうございます。
そうなんですか!
今でこそ多くの方が彫刻の研究勉強されてますので、題材の解明当等進みましたが一昔前は関心も薄くなかなか知らない方が誤って解説等されてるケースが多かったのではと思います。
私の場合近畿地方の特に大阪市内・河内・北摂・阪神・丹有の山車の中でも地車(だんじり)とちまたで呼ばれる物を中心に見てます。
豊田市山車も有名なようですね。私の友人も山車彫刻見にいっているようですが、私はまだ見たことありませんので、今後ともご教授よろしくお願いします。
ちなみに地車の中でも上地車に分類させている山車彫刻の題材で源頼政鵺退治がある数はそう多くはなかったと思います。
10基(台)もなかったと思います。
泉州地方の地車も見ていないのでわかりません。
上地車(大阪市内・河内・北摂・阪神・神戸地方に多く見られるだんじり)に限れば、どうですかね築造不詳のものが多いですね。あまり数がないのでこのコメントで金曜日のネタがなくなってしまいそうですが、江戸期を古い?それ以外を新しいとするなら新しいのでしょうかね?
私的には、江戸後期~明治期の彫刻が多いのかなぁと思ってます。
不詳推測なら我が町川面東がひょっとして一番古いのかもしれませんね。もちろん上地車に限ってですが。