鵺退治終話・頼政最後
平家物語現代語訳最終話
二条天皇のおぼえも良く、頼政に、御衣を授けることにしました。
今度は、大炊御門(おおひのみかど)・右大臣の藤原公能が受け取り、頼政の肩に掛ける時、「史記」にも登場する矢の名人である養由は昔、雲の外の雁を射て、今、頼政は、雨の中の鵺を射たのだなあ」と感心しました。
藤原公能は、
「五月(さつき)闇名をあらわせる今宵かな」
と詠みました。
頼政は、
「たそがれ時の過ぎぬと思うに」
と続け、御衣を肩にかけて退出しました。
頼政は、その後、伊豆の国を賜りました、子の源仲綱を国司にして、自分は三位となりました。丹波の五箇の荘園と、若狭の東宮河を所領としていました。
そのような人が、由なき謀反を起こし、以仁親王をも死へ導き、わが身も子孫も滅ぼしてしまったことは、情けないことです。
史跡
神明神社 藤原忠通(近衛天皇妃養父)屋敷跡・四条内裏
頼政が鵺退治前に祈願した神社・鵺退治に使われた弓矢の「やじり」二本が、宝物として伝わっていて、現在でも祭礼時に飾られる。
史跡
宇治平等院 頼政自刃の場
鳳凰堂
最勝院
平等院塔頭2ヶ寺の1・天台宗寺門派
書院 彫刻
境内 頼政の墓
治承4年(1180)5月、高倉宮以仁王の令旨を奉じ、平家打倒の義兵を掲げ、三井寺僧侶と共に宇治で決戦に及びも衆寡敵せず大敗し、平等院で辞世の和歌を残し自刃。享年76歳の老齢なり。
「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果 てぞ 悲しかりける。」
浄土院に安置されている救世船乗観音
戦後まもなく盗難により本体紛失、現品は、開創950年記念により復元
隣接 県神社 欄間(蛙股)
龍頭部欠損が残念
宇治川・佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」
めちゃめちゃ急流
史跡ばかりで彫刻ありませんね・・・・・彫刻編改め史跡編・・・・
もう少しつづく
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