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1933年当時の三池炭鉱は、宮浦、万田、四山の3坑体制で三井鉱山出炭の半ばを占めていました。しかし宮浦、万田両坑はすでに老境に入り、四山も開坑以来14年を経過しており、坑内温度の上昇やガスの発生に悩まされ、増産の体制が困難でした。
そこで、さらに西方海面下を採掘するため、新坑開発として三川坑が計画されました。大牟田市西港町から有明海の海底下に向かって傾斜角11度、長さ約2,000mの斜坑2本を開さく、深度350mのレベルを基準坑底として四山坑とも連絡させました。
三川坑は1940年に採炭を開始しました。そして新たに海底区域の主要部分の運搬を使命とする新坑は、宮浦坑の集団ベルトコンベア方式が採用されました。
三川坑の坑底には貯炭層が6層あり、炭層別、部内別に貯炭ができました。その後選炭工場に送り、鉄鋼・ガス・コークス・電力・化学などの需要者の要望に沿った銘柄を生産しました。三池炭鉱で掘られた石炭は全て三川坑の斜坑ベルトから揚炭され、その石炭が選炭工場に入り、最初に通るのがホッパーでした。
戦後も三井鉱山の最主力鉱として活躍しましたが、1997年に三池炭鉱閉山とともに閉坑しました。
三池争議…1959年~1960年には戦後最大の労働争議が「総資本対総労働」の対決という形で、
三池に集約されました。
炭塵爆発事故…1963年11/9に坑内で事故が発生し、死者458人、重傷者675人、一酸化中毒患
者839人を出す戦後最大の労働災害となりました。今年で悪夢の事故から51年目
を迎えます。
炭塵爆発事故は、まだベルさんは子供だったけど、
メディアが新聞やラジオの時代ですから、あまり覚えてません(^^ゞ
でも、炭鉱の事故はいくつか有ったと思います。
逃げ場のない坑内では、沢山の犠牲が出ますね。
そう言う場所も見て置きたいと、年を取ってから思うようになりましたね。
此方でも、東洋のマチュピチュ(東平=とうなる)と言う、
山奥の炭鉱に、足を運んでみましたよ。
冬は雪で通れなくなるので、夏に行きました。
また行ってみたいと思ってますが・・・
なかなか消え去ることは出来ない感じがしています。
お写真の廃墟を見ると
さすがに時の経過はうかがえますが
「つわものどもが夢の跡」という言葉が思わず頭をよぎります。
コメントありがとうございます。
炭塵爆発事故があったのは高校2年生の時で
ちょうど土曜日の夕方近くでした。
突然大きな音と地中からのすごい地響きがあり
家が揺れました。。
7時のニュースの時間TVを付けると犠牲者の数が
次々に増えるので大きな事故だとわかりました。
三川鉱の事故があった日は鶴見でも列車事故が
あり、「魔の土曜日」と言われています。
コメントありがとうございます。
三池争議の時は、ちょうど小学6年生の時から
中学1年生までありました。
1週間に1度、小浜社宅の方面に勉強を習いに
行っていた頃、バス停の前のアパートには赤い
色の旗が翻り「団結」の白い文字が書いあった
事を覚えています。
炭鉱が閉山して約20年近く経ちますが野ざらし
状態だったのですっかり荒れています。
昨年12月から試験的に、三川鉱の跡地を巡る
ツアーをしたところ来場者数が予想を上回った
そうです。
逃げ場がないので仕事してる方は絶えず心配しながら
ご家族もでしょうね、炭鉱事故のことは覚えてますよ。
壮絶な戦いだったのですね
今は争議やストライキという言葉が死語になってしまいした
コメントありがとうございます。
各地で炭鉱事故があっていた当時「三池炭鉱は安全だ。」という神話が
あったそうですが炭鉱事故は大きいですね。
坑内下がりの家族の皆さんは、仕事を終えた夫が無事に地上に上がって
来るまでは心配だったと聞いています。
コメントありがとうございます。
小学校6年生の晩秋の頃に三池争議は起きたので
覚えています。
大牟田警察署の前では炭労の旗を持った人を先頭に
ジグザグ行進をしていました。
また、各地からオルグ団の人たちが大牟田に集まって
来ていましたよ。
今は、ストライキなどは決行寸前に解決していますが
当時の労組のエネルギーは何処に行ったのでしょうね!
近代化のための大きな犠牲があったのですね。
世界遺産になって欲しいですね、そうすれば、設備と当時のことが歴史に確実に刻まれます。
三池争議の頃は小学校を卒業し、中学生に
なったばかりの頃でした。
毎日TVでは三池争議のニュースを報道して
いました。
石炭から石油の時代になったので会社側も
経営が難しくなったのでしょうね。
三川鉱は昭和の時代に採炭が始まったので
「明治日本の産業革命遺産」の構成資産では
ありませんが、世界遺産として認められれば
大牟田の街も変わると思います。