白いノート~アラフィフ南天の備忘録

50代半ばを過ぎました。日々気づいた事を忘れないよう書き留めていきます。

50数年の時を経て

2010-06-09 20:28:39 | 介護の仕事
利用者のH子さん

このところちょっと他の利用者さんとのトラブル多し
ご自身も認める気の強さが表に出すぎているのです。

双六をしていても、負けそうになると投げだし・・・・・
勝っていると、他の人をダメ呼ばわり・・・

自分が苦手な事は
『手が痛い』『目が見えない』と言ってやらない。
他の人がやっていると、自分の自慢話を始めたり、得意な歌を歌い出して邪魔をする。

その他にもここでは書けない事いろいろ・・・


H子さんなりにいろいろ理由はあるので、問題行動と決めつけることはしません。


そんなH子さんが何かの拍子で昔話を始めました。
昔働いていた温泉旅館の話は、H子さんの自慢のひとつですが今日は
その話ではなく

『私、昔ミシンを習いに行っていた』と初めて伺う話でした

H子『私、昔ミシンを習いに行ってたの。○○ショウイチさんの家へ』

南天『え?』

H子『○○ショウイチさん、キンジさん、マサコさんの家、ショウイチさんと
お母さんが先生だった』

南天『それ・・・・私の父です』

私、南天の実家は私が生まれる前、洋裁学校を開いていました。
文化式の洋裁が出来た祖母と、病弱で外に働きに出られなかった父が先生


ショウイチは父で、キンジは父の弟、マサコは妹

今から50年以上前の話です


私が子供の頃は母がワンピースを縫ってくれましたが、流行の衿や袖の形を
縫ってくれたのは、洋裁をやめた後も時々手仕事を頼まれてはしていた父でした。



実家はその後時代の波に乗って洋裁店をたたんでお菓子屋さんになり
更に小さな喫茶店に変わりました

父も叔母も祖母も亡くなり、父の身内で一番長生きをした叔父も8年前に他界
実家の建物は人手に渡りました。


長い長い年月を経て
こんな所で
思いがけず
父を知っていた人に出会えた。。。

病気がちで、気難しく、父との思い出はほとんどない私。
それでもやはり
元気だった頃の父を知っていた人に出会えて
胸がキュンと痛かった・・・・・南天デシタ