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"死んだ戦友たちに報いるためにも 出世より自分なりの戦争責任をとる”
それが日本銀行に復職した金子兜太の選んだ道だった
それが日本銀行に復職した金子兜太の選んだ道だった
また 兜太はこうも言っている "私は反戦の塊です "私は俳句です"と・・・
そこで 今日は遡って兜太の戦争体験と句作について書く
【戦地への赴任】
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1944(S19) 25歳
海軍主計中尉に任官 トラック島(現ミクロネシアチューク)夏島に赴任
【句会の開催】
上官に詩人だった今西中佐がいて 隊員や工員の句会開催の命を受ける
食糧事情が悪化し士気が衰えるので句会で空気を和ますという理由だった
その今西中佐は転勤命令で帰国中 サイパン島で戦死 サイパンは陥落した
陸軍の戦車部隊長にもう一人の詩人・西澤少尉がいた
兜太は彼に今西中佐の話をすると 陸海軍合同句会でやろうという話に・・・
犬猿の仲の陸軍と海軍 多い時には三十人ほどが集まって月2回の句会実施
南方の島なので季語は無し 階級差無し 1人3句ずつ出す という形式
兜太の人徳 俳句の魅力もあって 句会は敗戦直前まで続いたという
兜太の戦場を詠んだ句をいくつか
足につくいとど星座は島被う (いとどは昆虫?)
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
古手拭蟹のほとりに置きて糞(ま)る
銃眼に母のごとくに海覗く
銃眼に母のごとくに海覗く
犬は海を少年はマンゴの森を見る
被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり
【兜太の忘れ得ぬ記憶】
武器弾薬に限りが出てきて 島内で手榴弾の試作実験を行った
実験する工員が海辺に立って 兜太ら仲間は離れた場所で見守っていた
しかし手榴弾が彼の手元で爆発し 右腕が吹き飛んだ
兜太らが駆け寄り 彼を抱き起こしたが 背中の肉がえぐれて即死
しかし工員らは死体を担ぎ上げて「わっしょいわっしょい」と病院へ向かう
即死とわかっていても 仲間への気持ちがそうさせるのだろう
兜太も一緒に泣いて走りながらこう思ったという
「人間っていいもんだ その人間がこんなむごい死に方をする戦争は悪だ」
1945(S20) 26歳
通信途絶 食糧事情悪化 栄養失調続出 総員虚脱状態のうちに敗戦となる
敗戦の時に詠んだ句
椰子の丘朝焼しるき日日なりき
スコールの雲かの星を隠せしまま
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
米軍機の爆撃を受けるトラック島
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トラック島の日本軍基地への爆撃
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1946(S21) 27歳
米軍捕虜となり航空基地建設に従事
最後の復員船で帰国 奥秩父へ行く
復員船の船上で詠んだ句
水脈(みお)の果炎天の墓碑を置きて去る
1947(S22) 28歳 日本銀行に復職 俳人・塩谷みな子(俳号・皆子)と結婚
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金子兜太が語る戦場トラック諸島
今日はここまで
次回は日本銀行に戻って 兜太のその後を追う
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]