安土街道 築城日誌 (安土らくらく倶楽部)

安土山下の日々と塚又商店主の日常・・・

的場浜の金刀比羅神社

2015年07月11日 | まちの話題
☆今年も、安土町常楽寺橋本町の金刀比羅神社祭礼が、七月十一日に開催されました。
 常楽寺区の人でも、「この行事が毎年欠かさず開催されている」ことを知らない人は多いです。

☆私の子供の頃は、7月9日と決まっていましたが、現在は、その9日に近い土曜日となっています。
 まだ、梅雨明けではありませんが、この日は雨の心配がいらない、とても暑い日となりました。(安土町内で一番早い「夏祭り」のように思います。)

☆午前11時から、この金刀比羅神社と縁の深い沙沙貴神社宮司の岳眞杜氏による祭典(神事)が執り行なわれ地元橋本町住民をはじめ、周辺の住民が参拝されました。
 

☆祭典の後、橋本町町内会の主催による模擬店が開催され、子供会のカキ氷・フランクフルト、女性部のこんぴらうどん、自警団の生ビール・焼き鳥、シニアクラブ(橋本町老人会)の助六寿司が販売されました。
 僅か40軒弱の橋本町町内会ではありますが、毎年恒例の親睦の場となっています。

☆模擬店の後、今年は特別に、金刀比羅神社宮係主催で、「浅小井ふれあい劇団」によるチンドン・コミック・ショー(私的表現)がありました。
 この劇団は、主に近江八幡市浅小井町在住のメンバーで組織され、一昨年から活動されています。招待した側も変装して参加するなどアットホームな雰囲気が評判を呼び、あちこちから出演依頼があり忙しそうです。
☆また、ショーの後には、環境学習として橋本町自治会館横に流れる北川に、子供会の皆がニゴロブナの稚魚を放流するイベントがありました。

☆ところで、この橋本町の「金刀比羅神社」の歴史を紹介する時、必ず参考にするのが上の写真の橋本町ゆめづくり委員会の今昔部会(今は無いです)が、平成22年3月に発行した『常楽寺今昔』と云う冊子です。
☆これは、当時の安土町の補助金を利用した活動で作成したものです。
☆一言で内容を紹介するのはなかなか難しいのですが、要するに・・・、常楽寺村(区)の歴史を調べて解りやすく解説したもので・・・、微妙に?なところもあるとは思いますが、それまで誰もこういう冊子を考えなかったし、創ろうとも思わなかったので画期的なものです。
☆この素晴らしい内容の冊子を、精力的に企画・取材・編集をされた方は、橋本町の千貫昌一(せんがん・まさかず)さんでした。(悲しい事に、昨年、亡くなられました。年齢は親子ほど離れていて、こうだと思うと突っ走られる頑固な「おっさん」でした。懐かしいな。)
 実はこの事業には私も助手として関わったのですが・・・、写真の提供や座談会の準備ぐらいで、ほぼ完成した原稿をチェックするぐらいで、その殆どの作業は千貫さんが一人でやっておられました。本当に申し訳なく、なのに、冊子の最後に共同執筆者みたいに氏名をかいていただいて、ホント、ありがとうごさいました。脱帽(お浄土へ御礼云います。)感謝

☆さて、金刀比羅神社ですが・・・、それまでは地元民の間で口伝えで「神社のいわれ」らしいものは語られていましたが・・・、常楽寺地下(区事務所)に保管されている古文書に記録が残っている事がわかり、平成18年にその解読を安土城郭調査研究所に依頼して判明したのでした
☆その内容は・・・、『明治14年9月に当時の常楽寺村戸長(村長)より蒲生郡長に「常楽寺村が湖水沿いの村であり港を有し農業をするにも船を利用することがあり水害にあうことも多い事」を理由に、常楽寺村字的場(現在地)に昆比羅大物主大神の分霊を祀りたい、と申したのが始まりです。
 明治14年11月に創立の趣旨、建設資金、将来にわたる維持運営についての仕組みなどを記し、発起人、信徒総代、沙沙貴神社宮司の連著と村長の押印をそえて滋賀県知事に申請しました。
 その後、県の許可がおり、準備を整えたうえで、明治21(1888)年5月5日に讃岐の金毘羅宮より勧請し、橋本町的場浜(現在地)に祀られました。
 信徒人連名簿も残されており、総勢105名の名前が記載されおり、当時の常楽寺村の大半の人々の協力があったことがうかがえます。
 昭和20年の終戦までは当初の信徒により管理運営されていましたが、現在は橋本町町内会の担当役員を主に町民や近隣の皆さんの志納金や寄進で管理運営されています。』
☆付け足しですが・・・、信徒人連名簿には、私の御先祖の「塚本又右衛門」の名前も記されていました。しかも、発起人の一人で「船持社中総代」です。
 何でも、当時、この「常の浜(常楽寺港)」を利用しての廻運業をしていたようです。
 でわまた。
 

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