昨日、真っ白で綺麗な翅のままのモンシロチョウがいました。
翅は天地が逆でした。
そう・・・ハナグモに抱えられてしまっていました。
やっと蝶になったのに・・
と。
悲しみはいくらでもある。
蝶のことでさえ、悲しいと感じるのだから、人が一人の命を亡くしてしまうことはどれだけの悲しみがあるだろうかと。
一人ではなく、数人が・多くの人が・・一瞬にして亡くなることなど、その悲しみは当事者でなくても感じることができるでしょう。
悲しみが胸いっぱいになって潰れそうになっても前を向いて行かなくてはならない。
昔。
大切なわが子の命がもう僅かになろうとしている女性がいました。
子を抱いて名医を尋ね歩きました。
元気になる薬をと懇願するも、その子はもう亡くなっていると言われるが信じない。
さらなる良薬を求めて歩いていると、
「誰しも死んだ者が生き返ることを望んでいます。そういう良薬があれば誰もが欲しいです。」と。
泣き崩れる女性にその医師は言います。
そして、
「この子を生き返らせることはできないが、貴方を助ける薬なら・・・」と、釈迦がいる町を教えます。
女性は薬と言う言葉を頼りに、釈迦に会いに行きました。
冷たく動かない幼子を抱いて釈迦の傍に行った時、優しいまなざしを向けて釈迦はこう言いました。
「では、どこかでケシの種を貰ってきなさい。ただし一度も葬式を出したことの無い家でなければいけません。」と。
女性はただひたすらケシの種を求めて歩きました。
ケシの種はすぐにみつかりました。
しかし、その家には去年夫を亡くしていました。さらには、ケシの種はもらいましたが、そこの家では妹が亡くなったばかり。
めげずに女性はわが子を抱きながら探し歩きます。
ケシの種はすぐに見付かります。が、一度も葬式を出さずにいる家は有りませんでした。
やがて、多くの家家に悲しみの数があることを聞き、今まで胸一杯に詰まっていた苦しみが薄らいでいくのが解りました。
釈迦のもとへ戻り、人の悲しみが解る尼僧になったという・・・・・・話。
忘れること、乗り越えること、立ち上がること、全部誰のためじゃなく自分のため。
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