たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

死を考える <滝野隆浩の掃苔記 孤独死と生きづらさ>などを読みながら

2019-04-26 | 人の生と死、生き方

190426 死を考える <滝野隆浩の掃苔記 孤独死と生きづらさ>などを読みながら

 

今日も何かと忙しくしていて、いつの間にか業務時間が過ぎ、はたと今日のテーマをと考えるのですが、浮かびません。最近話題のネット大手による不公正取引(たとえば価格拘束)なども興味深いものと思いつつ、情報不足で今ひとつ乗り気になれません。

 

そんなとき毎日デジタル情報で、偶然<滝野隆浩の掃苔記孤独死と生きづらさ>を読みました。だいたい「掃苔」って何とひっかかりました。そえが孤独死とどう関係するのと、ひきずりこまれました。

 

で、本論に入る前に、今日の花言葉を取り上げます。長ーくまっていたのがようやく花弁が開き始めていて、まちきれずシャッターを切りました。翁草オキナグサです。名前が気に入りました。このなかなか花が開かない状態でいる様子もよかったです。で、花言葉は<オキナグサ(翁草)の花言葉>によると、<「奉仕」 「何も求めない」 「清純な心」 「告げられぬ恋」 「裏切りの恋」 「背徳の恋」>と前3者はある種の共通イメージがわきますが、4番目以降はあれれ という感じです。今日は前3者のイメージでこの翁草をとりあげたいですね。この見出しのテーマとどう関係するのか、いまのところ暗中模索ですが、欠いているうちに脈略ができればとおもうのです・・・

 

さて上記の毎日記事を書いたのは、滝野隆浩記者ですね。その「掃苔(そうたい)」の意味はデジタル大辞泉だと<墓の苔(こけ)をきれいに取り去ること。転じて、墓参り。>とのこと。でも滝野記者の文面を見ている限り、そのような限定ではなさそうです。

 

滝野記者は「孤独死」問題をフォローしているようです。もしかして私が以前、このブログで取り上げたかもしれませんが、一度書くとすぐ忘れるので、そこははっきりしません。

 

「特殊清掃」ということばも出てきたので、毎日記事で検索したら昨年1228日付け記事<記者の目平成とは 激変する葬儀と墓 最後は「お互いさま」で=滝野隆浩(東京社会部)>が上がっていました。

 

そこでは<部屋で突然死し、もし発見が遅れればそこで腐敗していく恐れがあるのだ。そうした「事故物件」の部屋を片づける「特殊清掃」の専門業者>という風に、特殊清掃を取り上げています。

 

滝野記者のこの問題の一端に遭遇した契機についても触れていて、<私が葬送というテーマに出合ったのは、平成が始まった1989年ごろ。東京と新潟に血縁に頼らない合葬式共同墓が誕生し、市民グループが初めて散骨を実施した。>というのです。

 

そう散骨は私が同士と一緒に始めたわけですから、その後のさまざまな問題が展開する契機になったかもしれません。90年代初頭は、都内で霊魂の行方や葬式のあり方、自己決定権とか、次々と多様なテーマでシンポを開催していました。それがバブル後の世相を反映していたのかもしれません。だいたいいつも大勢の人が来て立ち見状態でしたか。真剣な議論だったように思います。それは奉仕とは違いますが、純粋に何かを求めていたかのように思います。忙しくても結構楽しいひとときでした。当代の専門研究者、学者、宗教家にきていただいていました。そこに素人、一般が参加して議論していたのですから、面白いです。

 

でも滝野記者が指摘するように、<「墓じまい」(改葬)が進み、多額の「離檀(りだん)料」請求が問題になることも。「自然へ返れる」と散骨は人気だが、心ない業者がいて地元とトラブルになっている。激変ぶりは葬儀のほうも同じ。あっという間に、安く小規模で短時間にという「安・縮・短」傾向が主流になった。葬儀なしで火葬・納骨される「直葬」は地方でも急増している。>という、私たちの意図とは異なる方向に流れが加速化されたような印象もあります。

 

そのような恐れ、懸念に比べ、家制度や墓制度で自由を奪われてきた個人の尊厳、自由への熱い思いの方に、私の関心の重点があったように思います。今回滝野記者が取り上げるような問題は10数年前くらい前からようやく明確に意識するようになったわけですから、ずいぶんのんきな話です。

 

滝野記者が取り上げた横須賀の孤独死の事例、とくに<虎の子の預金15万円で「無縁仏」にしてほしいと依頼していた>ということを知り、同記者は<<私を引き取る人がいない> これほど深い絶望の言葉を、私は知らない。>と嘆きに近いことばは吐露しています。

 

私自身、横須賀で社協のお手伝いを長くやっていましたので、彼らが懸命に孤立している高齢者のために日夜苦労しているのを見てきました。実によくやっていたと思います。でも市も社協もスタッフが孤立する高齢者の数に比べればとてもわずかで、到底行き届いたサービスを全員に提供することはできません。

 

ただ、無縁仏にして欲しいと依頼した方が、絶望の淵にあったかはわかりません。むろん記者自身は自分のことと思いそう感じたのでしょう。私は諦念という思いと安らかな思いがそのメモにあらわれていないかとふと思うのです。そう思ってあげたいと考えているのかもしれません。

 

自分の遺体の引き取り手がいないことを認め、でもだれか、行政の人にでも、火葬・無縁仏として託すことで安心を得たのではないかと思うのです。託すことで安心したのではないかと思うのです。そう思ってあげたいと思うのです。それに絶望感を抱くのも人情かもしれません。でも私は安念のひとときを感じたいと思うのです。

 

記事では<「引き取り手のない遺骨」の急増を深刻に受け止めた同市は、今年5月から「終活登録」事業を開始した。緊急連絡先や遺言を記した書類の置き場所、さらに墓の所在地などの情報を市役所が預かり、事前の希望に沿って死後に開示する画期的な仕組みだ。>とのこと。横須賀市頑張っているなと、思うのです。私が関与していた当時も、身寄りのない人で判断能力が劣った人に対し、法人後見を開始したり、後見人として市民後見制度を立ち上げたり、それ以外で私の知らない分野でもいろいろ行政ニーズに対応していたように思います。

 

ところで最初の記事に戻ります。<菅野久美子さん(36)の新著「超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる」>が取り上げられています。それは高齢者でない、もっと若い世代にも孤独死がいて、そこに「超」がついているのでしょうね。

 

その現場を菅野さんがどのように掬い上げたかですね。<布団や食べ残したカップ麺、尿の入ったペットボトルに交じって、故人の文庫本やCD、家族から贈られた鉢植えが出てくる。モノは人の内面を映し出す。だから、見えてきた。「ゴミの部屋にいた人はずっと、『生きづらさ』を感じてきたんだと思います」>と生きづらさを指摘しています。

 

菅野さんはいじめを受けた経験から<孤独死しないためのさまざまな具体策が挙げられている。IT機器を使った安否確認のサービスや、自治体による各種取り組みも取材した。>というのです。このようにゴミの部屋になった状態であれば、やはり救済の措置を検討されてよいと思うのです。しかし、そうでない孤独死もあると私は信じています。

 

以前少し書いた記憶がありますが、死後事務委任のことです。終活とか死の作法とか、いろいろな表現で、喧伝されていますが、私は人は一人ひとりが自分で死にまじめに直面して、考え、多様な選択の道を自らの考えて選んでいくものだと思っています。むろん死後の世界にあれこれいうのはどうかと思う面もあります。他方で死後の処理をきちんと収まりつけるのも自由を享受する人であれば、けじめかなと思うのです。

 

立つ鳥跡を濁さず、ということがほんとかどうか知りませんが、人生を閉じるときそうありたいと思うのです。それはいつやってくるかもわかりません。まだ当分やってこないかもしれませんが、いつやってきても安心して迎えを受ける覚悟というか、気持ちが大事だと思うのです。その場合死後事務委任というものがうまく働くといいなと思いながら、実際にはなかなか機能しにくいかもしれないとこのことを考えるようになって思っています。

 

有形物についてはたいていはなんとか自分の責任で処理し、死後においても対応できる措置は可能だと思います。ただ厄介なのは自分の遺体ですね。まだこれはイタイというか、いい考えが浮かびません。

 

と脈略のない話となりました。おつきあいありがとうございます。どこまで花言葉の前3者と符合するかは?ですが、今日はこれにておしまい。また明日。

 

 

 

 

 

 


原発テロ対策とは <検証 原発テロ対策、一転厳格 規制委、施設設置延期せず>などを読みながら

2019-04-25 | 原子力・エネルギー・地球環境

190425 原発テロ対策とは <検証 原発テロ対策、一転厳格 規制委、施設設置延期せず>などを読みながら

 

以前、歩く道のブログで、歩いているとき空き家が目立つことを改めて気づいたことにふれたことがあります。そのとき歩いている道は広いところで幅3mくらい、狭いところで人がやっと通れる幅60㎝未満といったところでした。歩くには雰囲気のあるいい感じに思えるところが割とあったかなと思うのです。

 

でも道路が私道であったり、そうでなくても認定道路でなかったり、あるいは建築基準法の2項道路の要件を満たさないといったことで、接道条件を欠いているところがほとんどであったかな思うのです。戦前とか戦後初期に建てられたものであれば理解できるのですが、バブル前後まで、そういう建て方がされているのもありますね。銀行も無審査状態に近い状況があったかもしれません。それが時折、現代でも見受けられるのでニュースを見て驚きます。

 

空き家に関してはいろいろな背景・理由があると思いますが、やはりきちんとしたまちづくりの基本思想が現場で活かされてこなかったことが底流にあるように思うのです。

 

さて花言葉に移ります。今日はサマーナイトドリーム『サチ』という真っ白の花です。なんという名付けかと思うのですが、まあ、商売ですから、私のように名前を見ないで買う人は別にして、ネーミングで売れ行きが変わることもあるのでしょう。

 

花言葉を探しても見つからず、このブログでは<花言葉は「まごころ・思いやり」>ということです。品種はよく見るデンドロディュームだそうです。まあ、見た目が色合いといい、形といい、すっきりしているので、この花言葉も悪くないと思っています。

 

その花言葉とは全然関係のない、今朝の毎日記事<検証原発テロ対策、一転厳格 規制委、施設設置延期せず>を取り上げようか迷いつつ、結局、これを本日のお題にしました。

 

だいたい原発テロ対策って何という、そもそも出発点から判然としない思いを抱き、今回の<施設設置再延長を認めず>から原発稼働の停止の経過も、なんとも不思議な流れを感じてしまったのです。

 

ただ、電力会社は別にして、地元は安全優先ということで、規制委の対応を評価しているようですね。毎日の別の記事<原発規制委方針 伊方3号機、2年後停止の可能性 四電に衝撃 知事「安全最優先」と理解 /愛媛>。

 

さて、原発テロ対策とは何かについては、規制委が定めている要件は次のようです。

<航空機の衝突で制御室や建屋内の注水施設などが破壊されても炉心溶融(メルトダウン)を遠隔操作で防げることが重要だとして、例えば原子炉建屋から100メートル以上離れた場所への設置などを要求。緊急時制御室▽冷却用の注水設備▽電源>などとのこと。

 

原発テロのリスクで想定されているのが、<2001年の米同時多発テロ>を契機にしていることからでしょうか、<航空機の衝突>が最も重大な脅威のように思えます。これで大丈夫と思いたくなります。わが国の原発にとってもっと可能性があり、最も脅威となるのは北朝鮮の核ミサイル、あるいは他のミサイル攻撃ではないでしょうか。まあ、北朝鮮と名指しすると、テロとは違うという人もいるかもしれません?他方で、核ミサイル自体はテロ攻撃を標榜しているさまざまな組織が狙っていますね。そこまでいかなくても同等もしくは航空機テロが最大の脅威と限定するのはどうかと思うのです。

 

現状で対策が可能な方法ということで、この脅威を想定しているのでしょうか。それが実現可能な措置・対応としては自然かもしれませんが、万全かと言われると疑念は残ります。

 

そのことは置いておいても、<原子炉建屋から100メートル以上離れた場所>という離隔距離の基準はどこから生まれたのでしょう。たしかに航空機の衝突であれば、国際貿易センタービルの崩壊のときも、100m以内に崩壊による重大な影響がほぼ収まったのでしたか。多くは衝突されたビル自体で衝撃を受け止め、ビル構造物が破壊して遠くへ飛散することがないということかもしれません。これまた航空機衝突のみを想定していますね。航空機内に爆発物を持ち込むことは現在のセキュリティーシステム上ありえないから、航空機衝突に関してはそうかもしれません。

 

たとえば、戦闘機のハイジャックはありえないのでしょうかね。ソ連崩壊時に核ミサイルが相当数行方がわからないという見方もありましたか。そういったミサイルを利用して攻撃するテロの可能性もなかなか消しがたいかもしれません。平和国家で他宗教・多民族に寛容なわが国にテロ攻撃は考えられないといった見方は通用しないでしょうね。

 

規制委が定めたテロ対策施設の要件が妥当かどうかはそのくらいにして、設置期限を一旦5年延期し、再び延期を、現在稼働している原発を抱えている電力全社が要請したのは一体どういうことでしょうか。赤信号みんなで渡れば怖くないではないありませんが、該当する全社がすべての稼働原発について、設置期限を守れず、危険な状態にさらすことをあえて規制委に要請したこと自体、安全軽視と見られても仕方がないと思うのです。

 

稼働原発10基のうち、設置遅延の見通しがたっていない2基を除き、8基は1年から2.5年の延期の見通しと言うことのようです。むろんこれら8基は施設設計自体は承認されているのでしょう。その工事完了が遅れたということのようですが、遅延期限が明確な8基のうち6基が1年と横並びとなっているのは、奇妙な偶然でしょうか。

 

100m以上の離隔距離をもって電源などの緊急時対応施設を設置することになっていますが、原発自体の立地条件はそれぞれ異なっていますし、100m以上離れるだけでなく、緊急時に有効に作動するような地理・地形的条件も必要でしょうし、地盤の安定も求められるでしょう。一体何が遅れの原因かは分かりませんが、このように一様に1年というのはいかがなものか、さらに遅れる見通しがでそうと勘ぐってもおかしくないかもしれません。

 

それにしてもこのことで、このままだと、運転停止は避けられない状況で、そうなると脱炭素社会を目指すわが国としても、火力発電にその間依拠することはコストの面だけでなく、地球温暖化対策の遅れが顕著となることになりそうです。

 

そもそもこういったテロ対策施設に巨額の費用をかけないといけない、しかもそれで十分かと疑問が残る中で、その設置が遅れ、そのために費用支出が増大するわけですから、原発政策の今後について、改めて見直すいい機会ではないかと思うのです。

 

テロ対策により有効な措置は原発を極力動かさないことでしょう。その特定施設建設費用を再エネの普及、送配電網やシステム構築に回すことの方が望ましいのではと思うのです。

 

施設設置の延長ができない以上、原発稼働を一旦停止し、施設設置後再び稼働するといったリスクとコストのかかることは明らかです。しかも施設ができてもテロ対策として十分とは言えないわけです。原子力政策見直しのいい機会でしょう。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 


お金と資産の使い方 <多様性富むアイデア支援 米国の社会起業家育成>を読みながら

2019-04-24 | 人の生と死、生き方

190424 お金と資産の使い方 <多様性富むアイデア支援 米国の社会起業家育成>を読みながら

 

今日は久しぶりに和歌山まで往復しました。最近は、『きのくに荘園の世界』のおかげで、行き帰りの道中、ここはどの荘園かなとか、川やため池の名前を思い浮かべながら、走っています。車を運転するのがあまり好きになれないので、こういうこと体の不調も乗り越えようと思っています。

 

ほんとは2030km/hくらいののんびりしたスピードで走るのが一番ですが、それはできませんね。将来、自動運転車が実用化されたら、そういった低速走行もOKとなるとうれしいのですが。

 

さて今日の花は、ネメシアメロウです。さらにピンクスワンという品種?のようですが、花言葉はネメシアしかなく、<ネメシア (宿根ネメシア) 花言葉・誕生花>を引用させてもらいます。どうもここで取り上げられているネメシアとは少し異なるようですが、大目に見てください。花言葉は<正直・偽りのない心・包容力・過去の思い出>ですね。花言葉はたいてい気持ちのよいことばが選ばれているようですが、この花からの受けるイメージでは想像を超えますが、これもよしとしましょう

 

正直と偽りのない心とでは少しニュアンスが違う感じです。後者は神聖な正直さを感じて、素晴らしいという面とちょっと大変かなという面とダブります。正直で包容力があれば言うことなしですか。そんな花と思うと、大事にしようかとふと思ってしまいます。

 

ところで、特殊詐欺の被害に遭う人がなかなか減らないですね。当初は家族をかたるといったパターンが多かったようですが、最近は行政、銀行、警察、なかに弁護士など、多種多様ですが、それなりに信用される職種が選ばれているような感じでしょうか。

 

以前は現金そのもの、あるいは銀行や郵便局を介した送金方法といったことが多かったようですが、近頃はカードを含め多種多様ですね。資産の保全の仕方が問われているのかもしれません。他方で、お金とか資産の使い方について、学ぶ機会があまりなかったかもしれないと思ったりします。倹約が美徳ということで、使わない、貯めるということでしつけられた世代として私以上の高齢者層は思い当たる節があるかもしれません。

 

実際、私の仕事上、あるいは周辺でも、使わないで貯めることはできるのですが、その貯まったお金をどう使うか、あまり考えられない人が結構いるように思うのです。まあ、それでお金に苦労せず一生を送れれば、それもいいかもしれません。

 

そんなときふと渋沢栄一翁のことを思い出します。一万円札の顔になるということで、評判になっていますね。韓国では批判的に報道されているようです。まあ、私は昔、彼について書かれた本を読んだ程度あまり知りませんが、お金の使い方をしっかりわきまえた方であったように思うのです。日本の経済的基礎、骨組みを作ったことで知られていますが、将来に向かってどのようにお金を使うか、百年先を考えていたのかなと思うのです。

 

現代では、100年先はおろか、10年先、いや1年先も考えてお金を使え得る人がどの程度いるのでしょう。家族や親族のことを考えて使うことはできても、社会のため、人のために使うことを考える人はどの程度いるでしょうか。それが少し心配です。

 

少し前の411日付け毎日記事<幻の科学技術立国第4部 世界の潮流/2 多様性富むアイデア支援 米国の社会起業家育成 個人の力、最大限発揮を>は気になって手元に置いていました。

 

写真に写っている豪華な建物は<約230年前に建てられたハルシオンハウス。今、社会起業家のためのインキュベーターになっている=米ワシントンのジョージタウンで2019年2月11日、須田桃子撮影>とのこと。

 

私もカナダで、こういった古い建物が共同利用されているのをよく見かけました。都市計画のゾーニングでも、歴史的建築物を保存しながら利用するという方式で、そういう特別のゾーニング地区を設けたりしていました。私が知り合った人がそういう建物で共同生活をしていたので、一度訪問したことがありますが、利用しながら建物保全を図る有効な手法の一つかなと当時、感心しました。

 

さて、この記事では単に建物を共同利用するために提供するのではなく、若く意欲のある社会起業家のために、施設・資金を提供する一環として使われています。

 

この<ハルシオンの特徴は、最初の5カ月間はフェローが隣接する寮で寝食を共にし、この間の生活費などとして計1万ドル(約110万円)が給付されることだ。寮生活の最後には投資家らを前に起業の意図や計画を発表して投資や協力者を募る機会があり、その後も13カ月間は無料で施設を利用できる。>というのです。

 

その創設者が日本人女性というのですから、素晴らしいですね。< 「非日常的な空間を似た境遇の仲間と共有し、一人で考える部屋もあれば新たな出会いもある。そんな環境が人を成長させる。私自身の経験から、個人の力を最大限発揮する環境を考えて作った」。創設者の久能祐子(くのうさちこ)さん(65)は語る。>

 

また、<社会起業家・・には三つの行動指標があると久能さんは指摘する。利益に加え、社会と地球環境に対するインパクトだ。「お金が全てではないという意識が強く、商品やサービスを売れば売るほど世の中がよくなるビジネスモデルを模索している。投資もそういう起業家に集まり始めている」>

 

そう、現代における、お金が生きる使い方を久能さんが示してくれているように思います。

 

高齢者はお金を貯め込み?、若者は仕事も金もなく生活に窮している、それを家族間で融通しやすくする税制などの仕組みが考案されているようですが、多様で社会的な価値を生むアイデアはそういう狭い関係で資金移動があってもはたして有効な働きをするのかなと思うのです。

 

他方で、若い人たちも、もう少し共同生活という空間・時間に親しむことも大切ではないかと思うのです。そういう仕掛けがこれから検討されてよいのかなと思って、この記事を取り上げてみました。取って付けていえば、久能さんに、正直さと包容力を感じました。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


+補筆

2019-04-23 | 災害と事前・事後

190423 避難対策と多様な価値 <天路山城跡 日高町、一部破壊 位置把握せず造成工事>などを読みながら+補筆

 

今日はようやく花言葉、再開です。リビングストーンデージーという花です。デージー(雛菊)という名前がついていますが、デージーとは異なる品種のようです。<3月12日の花リビングストンデージー(紅波璃)>によると、花言葉は<瞳の輝き・気前よく与える・華やかさ・賑やかな人>前2者はともかく、後の2つはなんとなく納得でしょうか。<南アフリカケープ地方原産の非耐寒性の一年草>と、異国情緒たっぷりです。私が興味をひいたのは花弁ではなく茎のところの少し光り輝くような部分でしょうか。写真ではとげとげがあるように見えていまいちですが・・・

 

 

さて今朝の毎日新聞を見て驚きました。<天路山城跡日高町、一部破壊 位置把握せず造成工事 /和歌山>との見出しで、昨日取り上げた「湯川氏」が登場していたのです。あまり城郭には関心がないのですが、ついつい読んでしまいました。

 

記事の冒頭では<日高町は19日、同町比井にある戦国時代の山城跡「天路山(てんじやま)城跡」の一部を公共事業の造成工事で誤って破壊したと発表し、陳謝した。担当者が城跡の正確な位置を把握しないまま工事を進めていた。県教委は文化財保護法に違反したとして埋蔵文化財の保護に努めるよう町を指導した。【山成孝治】>と城跡跡地の一部を公共工事で破壊したことが取り上げられていました。

 

紙面記事では、去年10月に町が謝罪(誰に?)したそうですが、城郭愛好家のブログでしょうか<紀伊 天路山城>では昨年1月(投稿)にはすでに大きく削られています。

 

私自身、ようやく紀ノ川沿いの地形や地名に少し馴染みが出てきた程度で、県西部とりわけ海岸付近はまったくの不案内です。それで早速、グーグルアースで見たら、小浦崎と馳出の鼻という左右に突き出た岬に両手で囲まれたような内湾の中に、ある小さな港の一つ、比井という漁港を間近に守るような唐子崎という岬部分の頂上部内側が大きく削り取られています。

 

地形図アプリでみると頂上部が標高56mですね。ところが国土地理院の地形図だと、双子の頂があり手前が64m、先が69mとなっていて、先の頂上部がおそらく城跡なのでしょうか。

 

もう少し記事を引用します。

<天路山城跡は、戦国時代に日高地方を中心に権勢をふるった湯川氏の拠点の一つ。標高約70メートルの天路山にあり、規模は東西約300メートル、南北約120メートル。戦国時代の紀伊を代表する領主だった湯川氏を研究するうえで貴重な遺跡という。>

 

この<東西約300メートル、南北約120メートル>というのは斜面地形状を保持した形での山城だからその規模として比定できるのでしょうね。平坦部はグール具アースで見るとわずかしかない感じです。

 

町の工事ということですが、その目的はというと<産業建設課が2014年、津波襲来に備えた避難場所2カ所と集落道の計2660平方メートルを整備するため、予定地内に遺跡がないかどうか町教委に問い合わせ、「ない」との回答だったため15年度に工事を始めた。>

 

南海大地震への対策はこのような海岸周辺では当然の措置ではないかと思います。安政の大地震津波のときに村人を救って高台に避難させた濱ロ梧陵は、隣の広川町ですね。日高町も避難対策を真剣に考えてやってきたのでしょう。

 

とはいえ、本工事で<本丸や二の丸、「土居」と呼ばれる主屋跡の一部、城の周囲に巡らせた「曲輪(くるわ)」と呼ばれる土石の囲いが破壊されていることが分かった。>ということで、問題になったわけです。

 

<県内の考古学に詳しい日本考古学協会の冨加見泰彦・地区委員は取材に「天路山城跡は地域の歴史を語るうえで貴重で、破壊されたのは極めて残念。保全に努めるだけでなく、専門職員を配置するなど対応すべきだ」と指摘した。>と厳しく町の姿勢を批判しています。

 

なぜこのような事態になったかについて、<町教委によると、これまで埋蔵文化財の専門職員の採用実績がなく、遺跡の確認が十分にできていなかった。さらに、城跡があるとみられる範囲を示した地図を2002年に作っていたが、実際より狭く表示されていたという。今後は遺跡の確認を複数の職員で行うなど態勢を強化する。>とのこと。

 

学芸員といった専門職を採用していなかったとしても、それだからこそ、県教委など専門家に問い合わせするべきであったのではないかと思うのです。町の歴史的遺産の保全をきちんとやってこなかったと批判されても仕方ないかもしれません。

 

ところで、この問題を取り上げた理由として、この歴史的文化的価値の保全策の問題とともに、グーグルアースの写真を見て気になった点があります。

 

当該場所は結構な急傾斜地です。手前の傾斜地を削っていますが、これは急傾斜地保全工事のようにも見えます。今回の城跡破壊となった工事箇所も、相当な傾斜で、法面保全工事が相当大変だと思われます。ここを津波避難場所2カ所とするようですが、避難場所としてそれだけの面積を確保するとなると大規模な人工地盤になるのではと思うのですが、そのような大規模工事をするだけの費用対効果が認められるのか心配です。だいたい、津波がやってくる岬に向かって避難するといった避難方法自体、住民の意識として自然かどうか気になります。

 

この比井港には奥に小高い標高70m級の山があります。いや頂上部を平坦にすれば50mくらいになりそうです。少しくらい高いかもしれませんが、その他の山も含め他の選択肢はなぜ排斥されたのか不思議です。

 

南海大地震津波は一挙に海岸線を襲う分けですから、こういった高台の避難場所の準備は各自治体の優先課題だと思います。でも場所選択に問題はないでしょうか。今回は文化財的価値を見逃して一部破壊したということで問題になりましたが、それ以前に場所選択が適切であるか、部外者ですが気になります。

 

仮に今問題となっている山林所有者の所在が不明、あるいは一部に反対があるといったことで、他の選択肢が排除され、この場所が選ばれたのだとすると、改めて山林所有者不明・所有者意思の確認方法など、新たな立法措置での対応を今後より進める必要があるのではないかと思うのです。現行の法制ではとても間に合わないでしょう。

 

最後に、「湯川氏(湯河氏)の城―その歴史と魅力」という歴史講座が今年3月に開催され、大勢が参加したそうですが、私も参加したかったですね。残念。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。少しずつ元気を取り戻しつつあるようです。


補筆

 

避難場所について、300m×120mという4.2haの大きさから、人工地盤と言った指摘をしましたが、斜面を掘削して平坦にすれば標高4050mの場所でそのくらいの面積を確保できるかもしれません。

昔、経済成長真っ盛りのころ、私が子どものころ遊んだ「ぎょんさん」という小高い山が全部、掘削され海浜の埋立用の土砂として利用されました。山がなくなり、平坦な土地になりました。風林火山ということばとは裏腹のような体験でした。山が動かないどころかなくなること、ふるさとの原型をなくすような経験をしてしまったのです。そんなことを思い出してしまいました。60年代というのは脅威の列島改造だったかもしれません。負の遺産も大きかったように思います。

今回の計画が城跡の一部破壊に加えて、場所の選定が妥当かという点、さらに大規模土砂の行方も気になります。



 

 

 

 

 


大畑才蔵考23 <大畑才蔵翁頌功祭に参列して><才蔵空白の30年を少し考えてみる>+補筆

2019-04-22 | 大畑才蔵

190422 大畑才蔵考23 <大畑才蔵翁頌功祭に参列して><才蔵空白の30年を少し考えてみる>+補筆

 

先週、仕事でブログを書く余裕がないと思い、1日の休筆を告知しました。ところが、体調不良となり、途中午前中なんとかしのぐと午後にはダウンして夜は早々に寝床に就く状態となりました。昨日までとてもブログを書く気力もありませんでした。 

 

今日は夕方になっても体調が安定していて、書けそうなので、タイピングを始めました。

 

花の写真も撮りました。が、ちょっと作業するだけの気力が残っていないので、今日は止めときます。書いているとまた調子が悪くなりそうな雰囲気になっていますので、要領よくまとめたいと念じています。

 

先週土曜日朝、快晴の空が広がる中、紀ノ川中流域にある粉河寺で、大畑才蔵翁頌功(しょうこう)祭が行われました。10年に1度で、9回目と言うことですから90年続いているのですね。小田井と藤崎井の両土地改良区が主催して行われ、大勢の方が参列していました。

 

粉河寺中門の手前、左側に大畑才蔵翁の頌功碑が大正1412月に建立されたとのことです。先般の歴史ウォークでもこの碑を見ましたが、大きく立派なもので、それだけ地域の人たちが敬意を表したのでしょう。

 

法要と言うことで、管長さんほか2名の僧侶、3名で行われました。私は、大畑才蔵ネットワーク和歌山の会長が所用で参列できなかったので、代役で参列しました。最前列でしたので、管長さんの読経の声が小さなところから大きく響くところまで、よく聞こえてきました。粉河寺は天台宗ということで、密教的な点では真言宗と少し似ているかなと思いつつ、お経の中身とか抑揚とか少し違うなと思いながら聞いていました(信仰心があまりないのでそういうところに関心がふとわきます)。

 

管長さん、ちょうど日あたりのよい場所でしたので、汗だくだくで読経されていて、なんども頭の汗をぬぐっていました。私はというと、ちょうど木陰でしかもそよ風がいい具合にずっと吹き抜けてくれ、気持ちよく過ごすことができました。なにか申し訳ない気分になりましたが、おかげで私の体調はそのときとてもよかったです。葉桜の樹の下でしたが、才蔵翁を偲ぶには最適でした。

 

ところで、才蔵について、55歳から20年間、紀州藩における灌漑事業をはじめ農地調査、農業指導、年貢徴収法の立案など、農政全般の実務を担ってきたことはよく知られたことです。この頌功祭も、小田井、藤崎井という大灌漑事業を成し遂げた功績を顕彰しようということだと思います。

 

他方で、才蔵が高野山金剛峯寺の内偵役を紀州藩から任命され、30年近くその任にあったことは知られているものの、才蔵自身が後半の人生と異なり、わずかしか記録が残されていないこともあり、あまり研究されていない部分で、古代でいう空白の5世紀とかというのを、あえて空白の30年と評してみようかと思うのです。

 

才蔵が内偵役になったのは、橋本市編纂の『大畑才蔵』所収「高野山品々頭書」では、寛文9(1669)となっています(それ以前との記述をどこかで読みました、後記の南紀徳川史もそのような前提?)。その職を退いたのがいつかは定かではないように思えます。

 

他方で、「南紀徳川史巻第一」の中で「大畑才蔵は・・・寛文四年より正徳五年まで五十二年間、郡方に勤務。かの有名なる小田堰・藤崎堰を開鑿(かいさく)。」とあります。これは明治期に作られたものですから、どのような資料に基づいたか明らかでないものの、紀州徳川家当主・徳川茂承によって編纂されたものですから、紀州藩の資料によっている可能性も否定できません。才蔵の記録には時折、元号の誤記があったり(あるいは謄写時に誤り?)奉行名が存在しないと思われるものもあり、才蔵の勤務期間についても慎重に検討されてよいと思っています。

 

どうも前置きが長すぎて(その代わり書いているうちにフラフラしていた頭が少しだけすっきりすると言う功罪半ばする?)、なかなか本題にたどり着けません。

 

再び「高野山品々頭書」に戻りますが、ここで才蔵は、内偵役として選ばれた理由らしきこととして、自分がいる学文路(かむろ)が高野山の麓に位置し、当時は主たる高野道の出入り口に当たり、行き交う人を見聞して見張ることができるといった趣旨のことが書かれています。たしかに学文路は高野街道を経て紀ノ川を渡り高野山に登る入り口に位置しますから、出入りする人物、、物資を探ることはできますね。しかし、それだけで才蔵が選ばれたとは考えにくいと思うのです。

 

そもそも才蔵の系譜がなにかを感じさせます。甲斐武田が元祖でしたか、南北朝時代には日高郡に城郭を構え湯川氏として足利公方に仕え、天文二年(1533年)学文路に移った後大畑姓になり、関ヶ原合戦にも出陣したものの、徳川政権になってからは慶長十二年(1606年)には才蔵の祖父が庄屋になり、以後代々続いているようです。

 

学文路という場所はとても興味深い場所です。交通の要衝でもあり宿場などもあったと思われますが、紀ノ川の氾濫源で割合肥沃な農地が広がっていたのではないかと思います。江戸時代の石高が村ごとに残っていて、意外とあります。その中心は紀ノ川左岸で安田島(あんだじま)といわれる平坦なところです。明治35年の地形図でも川岸周辺は桑畑となっているものの、現在南海高野線の軌道があるところまで田んぼが広がっていました。

 

元禄五年(1692年)の元禄高野裁許は行人方の寺院千カ所の廃寺、行人600人ほどの追放などの大処分が行われたわけですが、それはいくら江戸から寺社奉行が500名を連れてやってきても、数日間の審理でその判断を行うことは不可能でしょう。内偵役の才蔵らが綿密な個々人の罪状を調査していないとできないことではないかと思うのです。

 

才蔵の家系を見れば、長年武士として武勇をあげ、由緒のある武家として家系を誇っていたと思われるのです。最近のドラマで武家の娘という台詞が評判でしたが、江戸初期農民身分に自ら転じた大畑家としても、藩士に劣らない家系という誇りを教育・躾などで維持していたのではないかと推測できます。

 

当然、才蔵も農民であっても紀州藩士に比肩する以上の能力をもっていたことをうかがえます。彼が指摘する年貢徴収法に関する記述などは藩士のあり方をも指導するような内容に思われるのです。そのような彼だからこそ、行人という当時は武勇に長けた人たちが跋扈していた中でも調査ができたのではないかと推測するのです。

 

で、高野山内の紛争自体、そもそも秀吉が、そして家康が、高野山に与えた21000石の領域がグレーであったからではないかと思うのです。紀ノ川以南が安堵されたとも言われますが、それなら学文路はなぜ紀州藩領なのか不思議です。なぜ徳川政権が学文路を高野山領にしなかったか(私の知る限り南岸では唯一の例外ではないでしょうか)。

 

他方で、北岸(右岸ですね)は紀州藩領ですが、高野山の支配が及んでいなかったとは言えないと思うのです。秀吉に高野山領を安堵させた応其上人は、南岸にある平谷池(へいだにいけ)、風呂谷池、宮谷池の修復等を行ったほか、北岸でも岩倉池、引の池(ひきのいけ)、畑谷池(はたたにいけ)など、多くの修復、築堤の土木工事を行っています。紀州藩領内でのため池事業を高野山のトップ(聖派ともいわれていますが、領地自体は行人派が半分以上を支配)である応其上人が行ったかとなると、やはり高野山支配が紀州藩領内に及んでいたとみるのが自然ではないでしょうか。

 

元々、官省符荘や静川荘など高野山領が北岸側にもありましたし、徳川政権、ましてや徳川頼宣が藩主になって以降も、行人派を中心に従来の荘園支配的な事実上の勢力を維持していた可能性があるかなと思っています。

 

他方で、水争いは江戸時代に入ってもたとえば桛田荘と静川荘との間で度々起こっています。その一例が慶安三年(1650年)賀勢田荘絵図です。その後も両者の間繰り返し訴訟沙汰になっています。

 

秀吉の刀狩りは、高野山では断行されていませんでした。そのため元禄高野裁許の時、初めて多くの刀槍などが押収されたのです。

 

小田井開削の条件は、やはり高野山の中世的荘園支配から抜け出したときにはじめて可能になったのではないかと愚考するのです(誰もそんなこと言っていないようです)。

 

もう一つ、小田井を選んだのは、地形的条件のみならず、庄屋であった才蔵だからできたのではないかと思うのです。小田井の左岸(南岸)は広大な氾濫源であり、学文路の田畑があるところです。堰が新たにでき、もし洪水が発生しやすくなると考えれば、農民は決して認めないでしょう。それを説得し理解させたのは、庄屋としての人徳、力量をもつ才蔵だったからではないかとも思うのです。

 

フラフラした頭の中でしたが、とりあえず最初ふと考えたものの一端に触れることができました。いずれ資料を踏めてもう少し整理して書いてみたいと思います。

 

今日はこれにておしまい。また明日(と思っています)。

 

補筆

 

普段は読み返さないのですが、少し内容に手入れしました。昨日はふらふらで書いてしまったことと、書きたいことが抜け落ちていたので、今朝少し補筆します。

 

一つは領地支配と水争いです。水争いは、まさに農民、つまりそこを支配するムラがその権限をもっていて、領主といえども上意的に一方的に決められませんでした。江戸時代においても、水争い、訴訟は、果てしなく続いており、そのような記録が全国で残されています。紀ノ川筋でも少なくない裁許記録があります。紀ノ川北岸に関して言えば、灌漑用水源は小田井、藤崎井ができるまでは、和泉山脈麓につくられた多くのため池、南行して紀ノ川に注ぐ多くの小河川しかなく、小氷期を迎えた江戸初期から中期は気候変動の影響をもろにうけて水の枯渇リスクに晒されていたと思われます。

 

17世紀は紀州徳川家も藩主になって容易にこの水争いに対応できず、その中で中世以来の高野山行人派が農民の背後で蠢いていた可能性があるのかなと思うのです。元禄高野裁許では、学寮派と行人派の宗教規則を巡る争いが江戸初期からなんども江戸の寺社奉行で訴訟沙汰になっていたことの最終的な解決として、位置づけられていますが、その一面だけではないと考えるのです。やはり紀州藩の領地支配の妨害への対応という側面を無視できないと思うのです。

 

そう思う一つは、赤穂浪士事件でも喧嘩両成敗が当時の通念であったことが事件の背景とされていますが、この元禄高野裁許も行人方だけの片面的処断で、しかも廃寺、流罪など極刑に匹敵する厳罰であり、本来なら忠臣蔵的な話が生まれてもおかしくないじょうきょうだったと思われるのです。そうでなかったのは、紀州藩はじめ周辺での世論操作がうまくいったのかもしれません。あるいは高野山のそれまでの横やりがひどかったのかもしれません。たとえば佐倉惣五郎のような義人として、戸谷新右衛門の高野山による不当な年貢徴収に対する戸谷新右衛門の強訴事件も一つの例でしょうか(これははたして史実かは記録が鮮明ではありませんが、伝承が残るくらいですから高野山支配に問題があった可能性を示唆します)。

 

もう一つ、学文路の位置について、うっかり九度山との関係を落としました。真田幸村・信繁が大阪城冬・夏の陣まで滞在していた九度山は、学文路の隣です。というか、幸村が居所にした九度山は高台にあり、農地はあまりなかったと思われます。崖下の低地であり氾濫原であった学文路の農家が農産物を提供したりして、幸村との交流があったかもしれないのです(これは推測というよりほんの可能性です)。九度山の百姓の中には幸村について大阪の陣に参じた人も少なくなかったともいわれています。大畑の先祖は関ヶ原の戦陣には参加していますが、大阪城の戦陣には参加していていないようです。ただ、大畑としては、幸村が抱えていた忍び?というか有能な家来の出入り行動をつぶさに知り得たのではと思うのです。同じ甲斐武田ですし、もしかしたら大畑家の先祖の方が位も上だったかもしれません。

 

書いてみましたが、やはりすっきりしません。しっかり記録に当たって整理してから、再構築の必要がありますね。