たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

<ノートルダム大聖堂火災><ボローニャ大学>そして<紀ノ川にあった『3大学』>などを考えてみる

2019-04-16 | 景観の多様性と保全のあり方を問う

190416 遺産の活かし方 <ノートルダム大聖堂火災><ボローニャ大学>そして<紀ノ川にあった『3大学』>などを考えてみる

 

今日の花は数日前からこれに決めていました。<ボロニア・ピナータ>という名前のカラフルで気持ちを明るくさせてくれそうな花です。その花言葉は<心がなごむ、的確>とのこと。前者は納得ですが、後者は?ですね。

 

実のところ、ボローニャという西欧最古のボローニャ大学のまちで、歴史的景観をまちづくりに活かしてきた町の名前から来ていると勘違いしていたのです。前者はBoronia pinnataというスペル、後者はBolognaですから、全く違っていました。ただ、ボロニアという名前は、イタリア植物学者の名前が由来とのことですので、かすかに糸が繋がっていそうともいえましょうか?

 

ボローニャは、四半世紀前、日弁連で西欧のまちづくりを学ぶと言うことで、調査団を派遣したところでしたが、私は当時いろいろ掛け持ちしてて、この調査には参加しませんでした。その後たしか20年くらい前、ボローニャの近くを流れるポー川を今度は湿地保全の調査をすることになったときも、都合が付かず参加できませんでした。なんとなく気になりながら、もういまでは飛行機に乗ることも、遠距離旅行することもとても体調的に無理な状態になってしまいました。それで少しボローニャの面影を追っていたのかも知れません。

 

ボローニャを思い出してしまったもう一つは、今朝のノートルダム大聖堂が火災で炎上し、あの尖塔が崩壊するショッキングな映像を見たからかもしれません。ここには45年以上前一度だけその前に立った記憶があります。パリではルーブルが一番印象に残りましたが、この尖塔も、他の様々な教会を見てきましたが、教会の中の教会のように感じさせられるものでした。私自身はルターのように教会というものにあまり関心がないのですが、この景観要素は別かも知れません。

 

ボローニャ大学も、ノートルダム大聖堂も、ほぼ似たような時期にできた(後者はその後長い時間をかけて完成したようですが)そうですね。日本で言えば平安末期でしょうか。

 

そんな古い歴史があるノートルダム大聖堂、なんで火で燃えるのと不思議に思いました。目の前で見た建築物は石造りであったはずと、いい加減な記憶ながら、はてなと思っていました。

 

するとFNNが<世界遺産ノートルダム大聖堂火災“石造り”なのになぜ炎上したのか?>という記事で、その疑問に答えていました。

 

火災の経過については<現地時間、415日午後7時前に尖塔がある屋根の付近から出火。その後、火は屋根全体に広がり1時間後には高さ約90mあるシンボルの尖塔も焼け落ちてしまった。>というのです。

 

構造・材質について、<巨大石造りでゴシック建築の代表作として知られるパリのノートルダム大聖堂。なぜここまで火が燃え広がってしまったのだろうか?>と疑問を提起しています。

 

一部木造だったのですね。<外壁や中部の柱など多くの部分は石でできており本来火には強いはずだが、屋根の一部には上記のように木が使われており、そこから火が広がってしまった可能性がある。>まだ出火原因や箇所が特定できたわけではないでしょうから、推測の域を出ないとは思いますが、掲載された写真では屋根裏はまさに日本家屋並みですね。石造り、中身は張り子の虎だったとはいいませんが、案外そんなものかもしれません。

 

仮に屋根裏の木材部分から出火したとしても、なぜそのようなところに発火要素があったのでしょう。わが国では多くの世界遺産に登録された歴史的建築物は木造がほとんどをしめているでしょうから、防火対策は念には念をいれて行われてきたように思います。他方で、石造りを基本前提としているような西欧の歴史的建造物の場合、意外と落とし穴があったかもしれません。

 

それにしても残念な結果です。今後の原因調査を待ちたいと思います。そしてどのような復元が今後検討されるのかも注視したいと思うのです。

 

さてボローニャ大学を思い出したのは、もう一つ理由があります。『きのくに荘園の世界』上巻で、編者の山陰加春夫氏が冒頭で、「総論 中世紀伊国の位置―キリスト教宣教師の二つの記述を手がかりに」と題する論考を載せています。

 

フランシスコ・ザビエルが書いた手紙の中に、「ミヤコの大学のほかに他の五つの主要な大学があって、(それらのうち)高野、根来、比叡山、近江と名付けられる四つの大学は、ミヤコの周囲にあり、それぞれの大学は三千五百人以上の学生を擁しているといわれています。」と書かれていたのです。

 

山陰氏は、高野は高野山金剛峯寺、根来は根来寺、比叡山は比叡山延暦寺としつつ、近江は園城寺ではないかと指摘しています。前2者はいずれも9世紀に始まっているわけですから、西欧最古よりも古い歴史を持っているといってもよいかもしれません。

山陰氏は、ザビエルが日本国内有数の大学として、紀州国に2つをあげていることに着目しています。

 

さらにルイス・フロイスの『日本史』では、紀州には四、五の共和国があったと指摘されていることをとりあげます。それは高野、粉河、根来衆、雑賀の四つであり、もう一つは熊野に違いないと山陰氏は指摘しています。

 

多くの日本人も、高野、根来、雑賀、熊野は理解できるかも知れませんが、粉河となると近畿の人は別にして、それどこと疑問をもつかもしれません。でも山陰氏は、他の四つの共和国に匹敵する、粉河寺を中心とする共和国の内容を掘り下げています。

 

高野山金剛峯寺は山内には町というか都市国家といえそうな雰囲気もありますが、どうも領域が狭いですね。根来寺も当時の境内が広大であったと思いますが、どうもまちづくりとしては秀吉によって壊滅された後は跡形もないですし、現在の周辺の町との関係も素人的には判然としません。それに比べて粉河寺は粉河町の領域をまちづくりとしていかしていたのではないかと思われるほど、その残影を感じさせてくれます。

 

今週末、粉河寺を訪れる予定ですが、そんなこともあって、山陰氏の指摘になるほどと思ってしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日といいたいところですが、明日は日程が混んでいておそらく書ける時間がとれそうもないので、明後日となるでしょう。


意思確認とは <検証 東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし>などを読みながら

2019-04-15 | 医療・医薬・医師のあり方

190415 意思確認とは <検証 東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし>などを読みながら

 

今日の花はラベンダーを選びました。<ラベンダーの花言葉|種類、特徴、色別の花言葉>によると、花言葉は「沈黙」「清潔」というそうです。でも写真のラベンダーからはちょっと違うなと思ってよく見たら、<フレンチラベンダー>でした。花言葉のラベンダーは<イングリッシュラベンダー(コモンラベンダー)>で、<寒さに強くて、高温多湿に弱い>ということで、北海道に向いているようです。前者の方は<耐暑性>があって地中海のような温暖向きでしょうか。形も香りも異なりますね。写真からは清潔といった感じとは異なるイメージを受けます。同じような名前だからといって一緒にしてはいけませんね。

 

30年くらい前、旭川で日弁連大会に参加した後、ふらっと富良野を訪ねました。そのときラベンダー畑を見たのか記憶に残っていませんが、当時、富良野の写真集が気に入っていたので、立ち寄ったような記憶です。目的は富良野にある東大北海道演習場でしたが、そこの記憶はわずかに残っているものの、ラベンダーの思い出が全くないので、咲いていなかったのでしょうね。

 

ところで本日のお題、意思確認について、福生病院透析中止事件で、410日付け毎日記事が気になっていました。その日は別のテーマにしたので、そのままになっていました。今日は朝刊が休みでしたので、ちょうどよい機会ですので、これを取り上げたいと思います。

 

その記事<検証東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし ずさん体制露呈 都指導>では、紙面で、「意思確認ずさん」と大きな見出しが掲載されていました。

 

私も日常的に依頼者、相手方、関係者などの意思確認をする仕事をしていて、そのことの難しさを感じています。それが「ずさん」と言われないように心がけつつも、どうしたらよいか日々悩むことが少なくないと思っています。まして医療の現場では時々刻々と事態が変わり、患者の意思、病状は変わるでしょうし、家族の意思も微妙に影響するでしょう。他方で、医学知見も日進月歩で進展しているわけで、そのフォローと実践が試されるわけでしょう。容態が急変することもあり、生死に影響することもあるでしょうから、医師の判断は過酷な勤務条件の中厳しい選択を迫られていると思うのです。しかも患者・弁護士からの医療ミスを追求されるおそれも気にしないといけないかもしれないのでしょう。他の仕事に比べて、過酷な負担を抱えているのかも知れません。

 

ここで何を書こうとしたのか、ちょっとあいまいになったようで、本題に戻ります。

 

では毎日記事は意思確認がずさんであるとしたのはどういうことだったのでしょうか。

<同意書を取らずに治療を中止、または非導入で死に向かわせる>ということをもってそう言及しているようです。

 

【斎藤義彦、矢澤秀範、市川明代】ら記者の指摘では、その判断の前提として、<公立福生病院(東京都福生市)の人工透析治療を巡る問題で、都は9日、医療法に基づき病院側を文書で指導した。>ことから<そこから浮かんだ>のが上記の意思確認のずさんさというようですが、では東京都の指導はどのような内容だったのでしょう。

 

都の指導文書自体が明らかにされていないのはどうしてでしょう。それとは別に、<都の立ち入り検査の内情を知る関係者>の話として、<最大の驚きは、透析治療中止の1人、最初からしない非導入の20人全員の計21人で患者本人の同意書がなかった点だ。>

 

たしかに同意書がなかったのであれば、インフォームドコンセントの観点から疑念を抱かれても当然かも知れません。しかし同意書があればよいということではないと思います。医療過誤事件を取り扱っていると、手術など重大な治療行為について必ず同意書をとっていますが、形式的なものが少なくなく、理解できる内容で適切に説明がなされたかが問われる事例が何十年にわたって何度も争われてきたのも事実です。

 

最近の電子カルテでは、詳細な説明内容が記載され、第三者からみて説明が理解されるものとしてなされていて、患者もその説明に納得して同意したという一連の手続が記載されていれば、その方が一片の同意書を残すより、望ましいあり方ではないかと思うのです。むろんその上で同意書をとることでしょう。逆に同意書がなくてもそういった説明記録が残っていれば納得して治療あるいは治療中止を受け入れたと見てよいのではと思うのです。

 

また、専門家の見解を掲載していますが、前提事実が明瞭であればともかく、必ずしも適切かどうか気になります。

 

たとえば<甲斐克則・早稲田大教授(医事法・刑法)は「命にかかわる選択の説明は口頭では無理で、透析のメリット、デメリットを本人及び家族に文書で詳細に説明し、文書で同意を取るのが通常の手続き。>との指摘は私も基本同感です。ただ、文書で詳細に説明しても、その内容が患者に理解できる内容になっていなければ意味がないでしょう。そういう前提で「詳細」と指摘されているのだと思います。医療用語はいくら詳細に説明されても余計わからなくなることもありますからね。医師にとって常識で丁寧な説明であっても、その点は注意を要するでしょう。

 

他方で、同意文書がないことをもって、<これは決して『軽微』ではなく、生命に関する重大な決断で、今回はずさんだったと言える。口頭で同意を取ったつもりだったというのは(医師が患者を無視する)専断的医療で、違法とされる可能性もある」と指摘する。>のはいかがでしょう。口頭か文書かで判断基準を置くのは少し形式的ではないでしょうか。同意書にサインしたからといって本人意思の確認ができたとはいえないと思うのです。同意書を取らなかったことが軽微かどうかという視点で、杜撰と結論するのは少し飛躍があると思うのです。

 

福生病院の透析治療の施行や中止についての手続体制、システムがある程度確立していて、その手順にそって行われていたのであれば、同意書がないということで、杜撰とか、さらに違法だとかとの判断に結びつくのはどうかと思うのです。

 

翻って、意思確認そのものの問題に関わることで注意しないといけないのは、患者に精神疾患などの病状・病歴がある場合です。記事では<昨年8月、透析治療をやめる選択肢を外科医から提示されて亡くなった女性(当時44歳)について、1999年に自殺願望のある抑うつ性神経症と診断されていたとする他の医療機関からの病歴を病院は見落としていた。外科医は精神科医に意見を聞かないまま治療中止を判断。同意書は撤回できることを女性に説明しておらず、腹膜透析など代替治療の提示もしなかった。>とされています。

 

<自殺願望のある抑うつ性神経症と診断>とありますが、それが当時もその症状が認められていたかどうか、この点は注意を要すると思います。記事は<病歴を病院は見落としていた。>と指摘していますが、そう判断する根拠があるのかどうかですね。また、99年ということで約20年近く前の診断ですので、その病歴を重視してよいか、入院時の診察でそのような症状が見られたかによっては、その病歴を踏まえて、専門医に診断を仰ぐ必要があったと思うのですが、これまでの情報でははっきりしません。

 

また記事は<死の前日の15日、治療中止の撤回を女性が何度も訴えたことがカルテに残されていた。>ということですが、カルテは患者の遺族から入手したのでしょうか、誰がどのような記録を残していたのか、具体の表現や全体を見ないとこれだけでは判断しかねるのではと思うのです。

 

この点、<長江弘子・東京女子医大教授(老年看護学)は「患者の意思は絶えず変わる。いったん決めたから終わりではない。苦しくなって治療再開を求められたら、『やらないって言ったでしょ?』ではなく、『生きていこうと思ったのね』と受け入れるべきだ。そうしないと医師の価値観の押し付けになる」と批判している。>という見解を引用していますが、長江氏の見解も一般論としては同意できます。しかし、本件でそのまま妥当するかは、慎重であってよいと思います。

 

ところで、その後、412日付け毎日記事では<公立福生病院の院長が発表したコメント全文 都の文書指導受け>として、病院長の見解が全文掲載されています。この点は、毎日記事が病院に批判的な論調の記事を連続して掲載している中で、これまでも担当医の見解を掲載したり、今回は病院側の見解をほぼ全面的に掲載している点は評価されてよいと思います。

 

それによると、<この度の指導は、診療記録の不備が認められたという点に関して指摘がなされたものです。「患者への説明が不十分だった」「意思確認が不十分だった」等として指導がなされたと一部報道がございましたが、そのような指摘を受けた事実はございません。>

 

また<当院の医師が積極的に透析の見合わせの選択肢を示した、患者の再開の求めにもかかわらず透析を再開しなかった等との指摘も、当然ながら、ございませんでした。>

 

その他<日本透析医学会の提言(維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言)>違反の指摘もなかったと述べています。

 

東京都の指導は、医療法に基づくもので、問題の<透析治療の中止や非導入のあり方>は対象となっていないので、毎日記事が指摘するように、グレーな状態かもしれません。

 

とはいえ、人の意思を確認するということはさほど簡単に理解できるものではないと思っています。

 

最近、私が担当している方が入院中、食事の摂取を拒絶し、点滴での水分・栄養補給も困難となり、他方で衰弱していく中、病院側が家族と協議して胃瘻を開始しました。むろん胃瘻になると、その方にとっては余計嫌なことだと推測できます。この方の意思はどのように考えればよいのか悩むところです。医師も困ったのでしょうね。あらゆる栄養を拒絶したら、衰弱死するかもしれません。それでもその方は拒もうとしているのでしょうかと。私もどうしたらよいのか悩みます。

 

そんなことを思いながら、どのように丁寧にその方の意思を大事にして確認して対応すればよいのか、悩みつつ、ひょいとラベンダーを眺めて、心を少し穏やかにしています。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


不動産所有のあり方 <TV放映で見た歩道を塞ぐ空き家・廃屋のリスクと対応>

2019-04-14 | 不動産と所有権 土地利用 建築

190414 不動産所有のあり方 <TV放映で見た歩道を塞ぐ空き家・廃屋のリスクと対応>

 

今日の花は何にしようかと迷ったものの、枯れてしまいそうなミニカトレアを選びました。花言葉がいいですね。<弥生おばさんのガーデニングノート「花と緑の365日」>によると<「殊勝」>ということです。カトレアだと「優美な貴婦人」とか華麗さが表に出ていますが、「ミニ」がつくだけちょっと控えめなのでしょうか。たしかにカトレアと比べるとそんなイメージをもちますかね。

 

ところで、不動産の所有者というと、その権利性だけが強調されるこの頃で、権利がある一方で節度をもつという点が見失われたかのような事案がときに目立つようになりました。殊勝さなんてものが感じられないわけです。

 

木庭顕著『新版ローマ法案内』では、「そもそもコモン・ローにおいて、所有権概念は本来存在しない。」そして「所有権は完全に大陸法独自のものであり、そこでまさに、それはローマ法から来る、と言われる。」と述べて、そのローマ法について、詳細に解説されているのですが、なかなかぼんくら頭ではついていけません。

 

それで最近、塩野七生著『ローマ人の物語I』を読み始めました。以前から気になっていたのですが、とても難解な内容ではないかおもって尻込みしていました。ところがその語り口はナレーション風でわかりやすいのです。まあ、法的概念については割合、あっさりしていますが、木庭氏の見解の背景を理解できる資料としてはとても参考になります。といっても読み出したばかりですが。

 

そこには所有者には義務が伴うことが具体的に書かれています。この内容はいずれ機会を改めて書いてみようかと思います。

 

前置きはこの程度にして、本題の不動産、とくに放置された不動産、そして所有者不明に絞って、少し考えてみたいと思います。

 

今朝の民放でたしかさいたま市でしたか、幅員4mの歩道を塞ぐように、空き家が出っ張っている状況を放映していました。その建物は、長年風雨にさらされて今にも壊れそうな危険な状態で、廃屋に近いといってもいいでしょう。その建物が張り出しているため、歩道は⑷mの幅があるのに、そこだけ0.9mに狭まっています。歩道を利用する人はとても危険です。隣地にはマンションが建っていて、その駐車場からの出入り口になっているため、その建物によって視界が遮られ、交通事故の危険にさらされています。

 

空家等対策の推進に関する特別措置法(便宜、空き家法と呼称)は、こういう空き家に対処するために14年に成立したはずですね。

 

取材班は近隣の苦情を聞き取り、たしか行政にも取材に行ったと思いますが(全部見ていませんのではっきりしません)、どうやら空き家法で認められている行政措置がとれないようです。前提として、その処分等の対象を特定する必要がありますから、所有者が判明していている必要がありますが、その建物については、そうでないようです。

 

取材班が調べたところ、当該不動産の登記は明治時代のものだそうで(建物は映像からは戦後のように見えましたし、そうでなくても昭和の時代でしょうね)、当然、当時の方はお亡くなりになっているので、相続が発生しているわけです。取材班によると、相続人が40人を超える?とか。まあ、それは普通でしょうね。私も最近の事案で、30人弱の相続人を調査したことがありますが、戦後の登記であっても、これくらいですから、明治時代の登記であれば、驚くに値しません。

 

相続人らしき人を発見したようですが、取材を拒否されていました。明治時代の登記であっても、家督相続が戦前まで行われているので、そこまでは容易に相続人が特定できるでしょう。でも戦後は共同相続ですし、すでに相続人が亡くなっていたり、代襲相続人も亡くなっていたり、中には結婚されずお子さんもいないままなくなった方もいらっしゃるかも知れません。それに海外に居住されている方などいらっしゃるかもしれません。所有者を解明し特定するのは容易でないでしょうね。

 

たしか不動産評価では数億円とかということですから、相続放棄される方は少ないかもしれません。他方で巨額の担保権が設定されている可能性もありえませので、躊躇されている方もいらっしゃるかもしれません。相続人が特定できても、大勢だと遺産分割も容易でないでしょう。いろいろ問題が内在していそうです。

 

こういった相続に関係する所有者不明の問題は、わが国では権利変動に登記義務を認めていないことが要因の一つです。とりわけ相続の場合に登記しないままで長い間放置することが少なくないですね。使用者がいる場合はまだいいのですが、使用者が亡くなったり、どこかに行ったりすると、途端にその使用をめぐって問題が起こりますが、対処する法制度がありません。

 

ようやく成立した空き家法でも、所有者の探索については、10条で「空家等の所有者等に関する情報の利用等」として、情報利用を少しだけ容易にする程度で、これだけでも以前に比べれば行政としては利用しやすくなったとは言えるかもしれません。しかし、これだけで所有者の解明・特定につながると考えるのは早計でしょう。

 

たとえば、転籍したり、結婚・離婚したり、養子縁組・離縁などしている等で、その追跡自体できますが、かなりな作業となるでしょう。しかも最近のように印字されたものでなく、手書き(それも達筆な筆など)だと判読が容易でないものもあり、その作業は大変手間がかかること請け合いでしょう。それが一人くらいならさほどの負担ではないでしょうけど、数10人となるとなかなかです。そうそう最近は相続放棄も増えていますので、厄介なことに巻き込まれたくないと思われる相続人もいますので、家裁で調べる必要もありますが、どうもそこまでの手当はこの種の法制度ではなさそうです。

 

空き家法に比べて、農地法や森林経営管理法は、調査方法としてはより突っ込んだ内容になっています。

 

改正農地法は遊休農地(たしか法律の中で定義規定がない)について、森林経営管理法については集積計画対象森林について、それぞれ似たような所有者不明の場合の探索法を定めています。

 

農地法32条(利用意向調査)3項で「相当な努力が払われたと認められるものとして政令で定める方法により探索を行つてもなおその農地の所有者等(括弧書省略)を確知することができないときは、次に掲げる事項を公示するものとする。」として公示して遊休農地について措置できるようにしています。で、農地法施行令は18条(不確知所有者の探索の方法)で、次のように「探索方法」を定めています(探索という表現はなにか違和感を感じますが)。

一 当該農地又は採草放牧地の登記事項証明書の交付を請求すること。

二 当該農地又は採草放牧地を現に占有する者その他の当該農地又は採草放牧地に係る不確知所有者関連情報を保有すると思料される者であつて農林水産省令で定めるものに対し、当該不確知所有者関連情報の提供を求めること。

三 第一号の登記事項証明書に記載されている所有権の登記名義人又は表題部所有者その他前二号の措置により判明した当該農地又は採草放牧地の所有者と思料される者(以下この号及び次号において「登記名義人等」という。)が記録されている住民基本台帳又は法人の登記簿を備えると思料される市町村の長又は登記所の登記官に対し、当該登記名義人等に係る不確知所有者関連情報の提供を求めること。

四 登記名義人等が死亡又は解散していることが判明した場合には、農林水産省令で定めるところにより、当該登記名義人等又はその相続人、合併後存続し、若しくは合併により設立された法人その他の当該農地若しくは採草放牧地の所有者と思料される者が記録されている戸籍簿若しくは除籍簿若しくは戸籍の附票又は法人の登記簿を備えると思料される市町村の長又は登記所の登記官その他の当該農地又は採草放牧地に係る不確知所有者関連情報を保有すると思料される者に対し、当該不確知所有者関連情報の提供を求めること。

五 前各号の措置により判明した当該農地又は採草放牧地の所有者と思料される者に対して、当該農地又は採草放牧地の所有者を特定するための書面の送付その他の農林水産省令で定める措置をとること。

 

結局、登記事項証明書と戸籍謄本、原戸籍、除籍謄本、住民票といった一般的な相続資料の入手を容易にする内容にほぼとどまっています。農水省令も特段、新たな方法を認めるものではありません。

 

同様に森林経営管理法も24条(不明森林所有者の探索)で、25条(所有者不明森林に係る公告)前に、その探索方法を政令に委任して、「確知することができない森林所有者(以下「不明森林所有者」という。)の探索を行うものとする。」としています。森林経営管理法施行令1条(不明森林共有者の探索の方法)で、上記とほぼ同様の方法を定めています。

 

結局のところ、相続で登記手続が行われていないような不動産については、相続しない、できない事情がいろいろある中で、相続人の探索について少しだけやりやすくなったので、少しでも所有者不明土地について、適切な対応がなされることを期待したいです。

 

ところで、所有者不明不動産については、抜本的な対策が検討される必要があることは、繰り返し報道で取り上げられてきました。所有のあり方が根本的に検討されるべき時がきている、いやそもそも十分検討されないで所有権観念が導入されてしまった弊害ではないかと思うこともあります。

 

そんなとき、ドイツの所有権放棄の登記制度などを紹介して、不動産財産権放棄について、示唆に富む議論をされている平瀬敏郎氏の論考<空き家の現状とそれをとりまく制度の状況について(その2)>は興味深いものでした。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


勝敗と生き方 <葉桜>を見ながら、<国連の「幸福度」><WTO逆転敗訴>などを読んで

2019-04-13 | 災害と事前・事後

190413 勝敗と生き方 <葉桜>を見ながら、<国連の「幸福度」><WTO逆転敗訴>などを読んで

 

満開の桜が春爛漫を謳歌しているかのようだったのは、たしか数日前のこと。さっと多くの花弁が落ち桜の小道ができています。そしていつの間にか若葉の新芽が顔を出しています。そこで一枚パチリ。実はがく片だけになった桜もなかなか清楚で、なんどかパッシャッとシャッターを切ったのですがピンぼけばかりでした。

 

桜の花言葉は<花言葉辞典>では<「優れた美人」「純潔」「精神美」「淡泊」>とのこと。葉桜に魅了される人も多いと思うのですが「花」ではないためか花言葉はなさそうですね。

 

子規の

葉桜に人千人のさわぎかな

葉桜や昔の人と立咄

十日早くばと思ふ葉桜の道もあり

など、多くの俳人が題材にしていますね。

 

葉桜は夏の季語ですか、わが家から見える桜木は満開を過ぎると葉桜のスタートですよと頼もしいです。そういえば当地の小高い丘というか谷間というか、あちこちが若葉の新緑がまぶしくなりました。冬枯れの木々で埋まっていたのがとても軽やかな気分にさせてくれます。

 

桜の花言葉の中で「優れた美人」というのは有名な桜の木なんかはそうかなと思いますが、一般的には「精神美」がいいですね。

 

ところで、毎日の昨夕記事<特集ワイド日本58位、国連の「幸福度」って何? 生き方考えるたたき台>では、<国連が3月に発表した「世界幸福度報告書2019年版」で日本は156カ国・地域中58位(前年54位)と過去最低だった。>という結果を踏まえて、日本人にとって(というか一人ひとりの人間として)幸福って何を石塚孝志記者は問うています。欧米と日本との尺度の違いを指摘する学者や、国連が尺度にしている個別の指標に疑義を述べる学者などが紹介されています。

 

石塚記者が最後にあげた<京都大こころの未来研究センター教授の内田由紀子さん>のことばが割合腑に落ちました。

<「幸福とは個人のものなのか、社会で考えるべきことなのかがずっと問われてきましたが、その両方を大事にしながら、人々との関わりの中で、どう自分の生きる意味を見いだしていくのかというように移り変わっています。幸福の研究とは人々が求めていることを正しく知り、議論するためのたたき台みたいなもの。私たちが次の世代に、どういう国を残そうとするのかにもつながる大切なことなのです」。>

 

幸福って主観的なようで、周りとか、社会とかの見方と相互に触れ合いながら形作られていくのかも知れません。葉桜というものに感じる私の感覚なんかも、先達や他の人、社会の見方に影響されつつ形成されてきたのかも知れません。

 

話変わって、今朝の毎日記事<東日本大震災福島第1原発事故 日本敗訴、水産輸出に逆風 韓国に協議要請 WTO>はなにか落ち着かない気分にさせられました。

 

原発事故による福島県産の水産物は国内で水揚げできない状況(正確ではないですが)が続いているということはある程度分かっていますが、福島県以外の宮城県など日本産水産物が多くの国で現在も輸入規制されているということも漠然とした認識しかなったのです。韓国については話題になっていたのでちょっと知っている程度でしたが、大変な事態が続いているのですね。

 

それにしてもWTOの紛争解決制度について理解できていないので、記事を読む限り、その判断に一定の合理性を認めつつも、政治性も感じさせる印象をもちました。

 

事実経過は、<韓国は2013年、東電の汚染水流出問題をきっかけに規制を強化。青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉の8県産の水産物の禁輸対象を一部から全てに拡大した。>のが始まりです。この韓国の措置に対して、<日本は「科学的根拠がない」と15年にWTOに提訴。>

 

<1審の紛争処理小委員会(パネル)は昨年2月、韓国による輸入規制は「差別的」かつ「必要以上に貿易制限的」でWTOルールに違反するとした日本の主張をおおむね認め、韓国に是正を勧告した。>

 

この一審の判断については、もう一つの記事<クローズアップWTO逆転敗訴 政府誤算、復興に打撃>では、<原子力の専門家らも審議に加わっており、水産庁と外務省の担当者は10日、「専門家が検討した1審の事実認定が覆ることはほとんどない」と楽観的だった。>とされています。

 

ところで、二審の判断で覆った理由について2つ指摘されています。まず、<上級委は「パネルは製品サンプル中の(放射性物質の)実測値のみで安全性を調査しており、潜在的な汚染の可能性を説明できていない」と指摘。>これに対し<日本は放射性物質のモニタリング調査などデータを示し安全性を説明してきたが、上級委は放射性物質の影響が将来、顕在化するかもしれない潜在的リスクを考慮しなかった1審の判断を問題視した。>となっています。

 

サンプル実測値とモニタリングで安全性を科学的に証明したとする日本側の主張に対し、二審では、潜在的リスクが考慮されていない判断したのです。原発被爆によるリスク一般については、国内でも潜在的リスクが問題になっており、ただ、医学的知見なり科学的知見の多数は否定してきたのではないかと思います。

 

私のように高齢者になると、世の中一般に潜在的リスクがあるので(一緒にはできませんが)、できれば福島産のものを食べたいと思うのですが、身近にはないですね。それも困ったものです。他方で、潜在的リスクに不安を感じる人たちの気持ちは大事にしたいと思うのです。

 

他方で、二審の判断が合理的であったかというと、疑念が残ります。記事によれば、第一の争点について、<韓国は、放射性物質のレベルが今は低くても将来、影響が現れる潜在的リスクを訴えてきた。上級委は、1審はこの潜在的リスクについて検討が不十分だったと指摘。>というのです。第二の争点については<韓国の措置が貿易制限に当たるかどうかについても、1審は韓国と日本の地理的な事情などを十分考慮していなかったとした。>というのですが、この論理は理解に苦しみます。

 

福島県産については一定程度、合理性があるかもしれません。でもそれ以外の7県についてはどういうデータの基に、地理的関係を考慮して、潜在的リスクを持ち出したのでしょう。

 

また、一審が考慮していないと指摘する<韓国と日本の地理的な事情>って何でしょう。むろん実際の報告書には具体的な記述があってより説得的なのでしょうね。不思議な根拠です。

 

で、有識者の見解として、法律論で覆ったとか、人員不足で十分審議されたか疑問と言った指摘がありますが、どこが法律論なんでしょうね。

 

他方で、<「日本産食品は科学的に安全で、韓国の安全基準を十分クリアするとの1審の事実認定は維持されている」(菅義偉官房長官)>ということですが、潜在的リスクという科学的でもあり曖昧さも残る問題をしっかりとらえていないと、今後も問題の解消につながらないおそれが高いと思うのです。

 

また、記事では宮城や福島の漁業関係者の不安を訴える声を掲載しつつ、<岩手県の達増拓也知事は「WTOの判断は残念だが、むしろ漁獲量の減少が大きな問題」と水産業が抱える構造的な課題も指摘する。「きちんと検査をしていて、我々も韓国からの旅行者もおいしくいただいていることをアピールしていけば、悪いことにはならないと思う」と訴えた。【百武信幸、柿沼秀行、小鍜冶孝志】>と多くの韓国旅行者が口にすることで(実際そのようですね)自然に理解が深まることを地道に、また広報を通じてやっていく熱意を示しており、期待したいと思うのです。

 

葉桜の心は、桜の花弁を見て純潔さにのみ心ひかれていると、その散り落ち次の段階に進む移ろいに自然の妙がある、あるいは本質があるということを見失うおそれを気づかせてくれているようにも思うのです。

 

そんなことを思いながら葉桜の季節を堪能しようかとも思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


清楚さと決断 <1型糖尿病「障害基礎年金の打ち切りは違法」>などを読みながら

2019-04-12 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190412 清楚さと決断 <1型糖尿病「障害基礎年金の打ち切りは違法」>などを読みながら

 

花を見てもどうも花言葉がぴんとこないことが少なくありません。でもこの桜姫千鳥(セントラデニューム)は腑に落ちます。<エピデンドラム:虹手毬蘭の花言葉・誕生花>によりますと、こちらが正式名のようです。で花言葉はこれまた多彩で、<判断力・ささやき・浄福・可憐な美・孤高へのあこがれ・日々豊かに・清らかな幸福>とあります。

 

私は、この花から<可憐な美>とか<清らかな幸福>を感じました。苔むしたところから糸のように細い茎を伸ばしてすくっと立ち、可憐な花を咲かします。厳しい環境の高山帯にでも清らかに咲くかのようです。

 

今朝の毎日記事<「年金停止は違法判断、立ち上がって良かった」1型糖尿病の原告、勝訴に喜び>で勝訴した原告の一人として映っていた滝谷香さんの姿を見て、この花をふと思い浮かべました。1型糖尿病の症状と言ってもよくわかりませんでしたが、次のように語られています。

 

1型糖尿病は、生活習慣が主な原因の2型とは違い、幼少期に発症することが多い。滝谷さんは5歳で診断を受け、20歳から障害基礎年金を受給。保育士として働いていたが、勤務中に低血糖を起こして倒れ、退職を余儀なくされた。

 血糖値を下げるインスリンが体内で分泌されないため、毎食後の注射が欠かせない。頻繁に血糖値を測っているが、自覚症状がないまま意識を失うことも。根本的な治療法はなく、「いつ倒れるか分からない」という不安が常につきまとう。>

 

夫婦とも同じ病気で、<国は2016年、理由も説明せず香さんへの支給を停止。和之さんは翌年度に更新した。夫婦とも症状は変わっておらず、香さんは「なぜ自分が打ち切られるのか。社会に見捨てられたように感じた」と振り返る。>

 

こんな中で裁判を起こすのは大変勇気がいったでしょう。<「裁判を起こして良かったのか」とくじけそうになったこともあった>というのは本音でしょうね。

 

冒頭の記事<1型糖尿病「障害基礎年金の打ち切りは違法」 患者9人が全面勝訴 大阪地裁>で、<幼少期に発症することが多い「1型糖尿病」の患者9人が、理由を明示されずに障害基礎年金を打ち切られたとして、国に処分の取り消しを求めた訴訟の判決で、大阪地裁は11日、患者側の主張を全面的に認め、全員の処分取り消しを命じた。>と報じています。

 

<判決は、支給停止について「生活設計を崩す重大な不利益処分」と指摘。通知書は「2級には該当しない」という結論のみが示された簡素なもので、不利益処分の場合はその理由を説明するよう定めた行政手続法に反すると結論付けた。>ということで、一見、形式的な理由に見えます。記事も<2級に該当する症状だったかについて判断はなかった。>ということで実質的な判断誤認とまで判示していません。

 

念のために、原告側の主張について、訴状段階の171121日付け記事を見ますと、<1型糖尿病年金再開求め提訴 患者「打ち切りは違法」>では<川下清弁護団長は「国は患者の生活の厳しさを分かった上で年金を支給してきたはずなのに、なぜ打ち切ったのか。訴訟を通じて、処分のおかしさを明らかにしたい」と訴えた。>と当然ながら支給停止の実体的な誤りを指摘しています。

 

とはいえ、理由を示さない不利益処分は行政手続法に違反します。

同法141項では

「行政庁は、不利益処分をする場合には、その名あて人に対し、同時に、当該不利益処分の理由を示さなければならない。ただし、当該理由を示さないで処分をすべき差し迫った必要がある場合は、この限りでない。」と規定されています。

 

厚労省は2級に該当しないと指摘したことが理由と考えたのでしょうか。そうだとすると、それはおかしいですね。2級に該当するかどうかは、年金受給者にとって重大な事柄ですし、症状認定の理由を具体的に示す必要がありますね。たとえば自動車損害賠償責任保険の後遺障害等級の認定票では、結論の理由を具体的に記載して通知しています。それは当たり前です。

 

ところで、厚労省は、判決を受けてやっと重い腰をあげたようです。

別の記事<1型糖尿病訴訟年金通知方法見直し 厚労相表明>で、<根本匠厚生労働相は12日の閣議後記者会見で「今後通知する書面で、どの程度丁寧に理由を記載できるか検討したい」と述べ、受給者への通知のあり方を見直す考えを示した。>ということです。

 

この厚労相の発言からは、訴訟ではこういった通知でいいのだと主張して違法を争ってきたのでしょうね。しかし上記の通りそれはおかしいですね。

 

実際、厚労相の実務上の取扱は、<問題が新聞報道された後、打ち切られた会員はいないという。>ことですから、それは単に通知の形式なミスにとどまらず、等級非該当という判断自体が合理的な根拠を欠いていた可能性を示唆するものですし、大阪地裁としても判断の背後にはそういった事実経過も踏まえているように思えます。

 

今回の1型糖尿病についての一斉2級非該当・支給停止は、国から等級の審査を委任された現・日本年金機構大阪広域事務センターによるものですが、適切な処理が行われているかどうかに大きな懸念を抱かざるを得ません。

 

それにしてもわずかな年金できつきつの生活をしてきたでしょうに半額が突然受け取れなくなれば生きていけないと嘆きたくなるでしょう。苦しく厳しい日々の生活を送る中、原告となって戦ってきた滝谷さんら皆さんの苦労が報われることを祈っています。

 

今日はこれにておしまい。また明日。