たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

歩きたくなる社会 <地方暮らしの「足」どう確保?>を読みながら

2019-04-11 | 事故と安全対策 車・交通計画

190411 歩きたくなる社会 <地方暮らしの「足」どう確保?>を読みながら

 

今日の花は「雲間草(くもまぐさ)」です。<雲間草(クモマグサ)の花の写真・花言葉・名前の由来>によれば、花言葉は<「活力」「自信」「愛らしい告白」「深い愛情」「活動」「可憐な瞳」「遠い思い出」>と盛りだくさんです。人間の複雑な感情の賜物でしょうかね、花言葉ですからそもそもそれぞれのことばに関連性を見いだそうなんてことは考えない方がいいのでしょう。この中で自分が気に入ったら、選べばいいのでしょうか。

 

といいながら、今日の見出しのテーマになにかと関連づけしてこれから書いてみようかとふと思ってしまいました。

 

さて記事410日付け毎日夕刊<特集ワイド進む高齢化 地方暮らしの「足」どう確保? 車を持たず、助け合いで 運転はリスク>です。このブログでも以前なんどか取り上げた車を持つか持たないかについて、地方での暮らしの中でその問題と各地の対応策を取り上げています。

 

奥村隆記者は<地方都市での生活には自動車が欠かせない。「移動の足」としての利便性は疑う余地がないが、超高齢化社会に突入し、運転はリスクでもある。「地方創生」が提唱されて久しい今、あえてマイカーを持たずに生活する方法を考えた。>と切り出します。

 

東京を含む首都圏での生活が長かった私自身、長く車を持たない、乗らない生活をしていました。車を持つようになってもたまに乗るくらいでした。ところが、当地にやってきてからは乗らない日がないというくらいのヘビーユーザーになりました。といっても運転の危険と腰痛などのため長距離運転はよほどのことがない限りとしません。10分、20分程度のリスクの少ない、のんびり運転です。

 

ところで奥村記者は、まず、社会のあり方として、<藤井聡・京都大大学院教授(都市社会工学)の持論>である<地方創生には「クルマ依存症」からの脱却しか道はない>を持ち出します。

 

その理由が明解です。<モータリゼーションの進展で鉄道が寂れ、駅前商店街はシャッター通りになり、地元商業に大きな打撃を与える。一方、郊外に建てられ、広い駐車場が整備された大型ショッピングセンターには地元の住民らが集まるが、「地域外の大資本」によってつくられた店であり、利益の大部分は地域外に流出する。つまり住民の金が大都市に吸い上げられる構図で、地域経済はさらに疲弊する。地元自治体への納税額も減り、行政サービスは劣化する>というのです。

 

このこと自体は、90年代から2000年代にかけて一部で(あるいは多くが?)言われてきたかと思います。私も、日弁連の07年の人権シンポではそのような視点から、脱車社会を取り上げた一人でした。LRTやコンパクトシティなど各地の取り組みを調査したものでした。

 

ただ、藤井氏のように、<「クルマに乗らずに歩きましょう」>とまでは言えませんでした。ただ、たぶん当時ならまだ地方の車依存社会の実態を知らなかったので、つい言ってしまったかもしれません。藤井氏もKBS京都のラジオ番組で訴えているということで、京都は最近地下鉄も普及していますし、歩くにいい環境ですので、いいやすいですね。私もずいぶん京都の中を歩き回りました。どこを歩いてもとまでいいませんが、とても歩くのに風情のあるまちなみです。とはいえ、京都のまちなみ景観、自然景観は発展進化の名の下に、壊される一方で、それを見るのも疲れますが。

 

ところで、藤井氏が<次世代型路面電車(LRT)を導入した富山市や、ローカル鉄道を再生して地域の足を確保した和歌山市など、各地の成功例を紹介している>そうですが、和歌山市が出ているのには驚きです。ローカル鉄道というのは和歌山駅から貴志駅までを走る和歌山電鉄貴志川線のことでしょうか。たしかにローカル鉄道としては頑張っていると思いますが、それでも日常生活の足としてどのくらい利用されているかとなると、それほどではないような印象です。私自身、数回しか利用したことがないので実際のところわかりません。だいたい、和歌山市中心街にはいわゆる路線電車がありません。バスだとやはり不便です。橋本から和歌山までJR和歌山線が走っていますが、のんびりしていてよいものの、通勤というレベルだと少し遅すぎ、本数も少なすぎます。そして和歌山駅から中心街に行くにはバスを利用すると、乗換も含めとても時間がかかりなかなか利用する気になれません。長くなりましたが、藤井氏の成功例という表現をどうとらえたらよいのか悩むところです。

 

また富山のLRTも一定の評価はできますが、これも以前指摘したことですが、そもそもLRTは単に段差がないといったこと以上に、車掌がいない、改札がないなど、利用ルールがとてもフリーなのです。私もカナダ・カルガリーで滞在中、車依存であっても利用の便利さを感じさせて、LRTの気軽さを楽しむことができ、よく利用したものです。そういったソフトの改革がなされてなく、またLRTにあうような都市計画づくりをしているかといえば、遠い道のりという印象です。それでも他に例がない導入ですから、市長のやる気はほんものでしょうけど、最近話題になった市議の不正支出など議会改革も必要でしょうね。現行の都市計画(藤井氏が指摘する郊外開発の制約がない)でつくられた町では、なかなかLRTを有効に活用することができないように思います。

 

また、藤井氏の指摘する経済的リスクということでしょうか、興味深い計算が紹介されています。

<年間5000人が交通事故で死亡している現状を前提に、ドライバー1人当たりの事故発生率を割り出し、50年間運転し続けると仮定すれば、確率的には125人に1人が事故で人を死なせる計算になる。>この確率論というか、計算は私にはどうも理解できません。でも、50年間運転し続けるという仮定自体、ちょっと無理筋かなと思いつつも、自分の運転で事故死を招く可能性は無視してよいといった甘い理解に立ってはいけないという渓谷としてはよくわかります。

 

ともかく自動車運転のリスクは若年層(保険料率が示していますね)だけでなく、高齢化すると高くなることはまちがいないわけですから、車依存症から脱却する方策を考える必要がありますね。

 

<東北工業大名誉教授の山下三郎さん(84)>が<依存症からの脱却を試みたが諦めた人>として紹介されています。地方暮らしでは無理というようです。<「コンパクトシティーとかスモールタウンにして、徒歩圏で暮らしが成り立つようにする必要があります。でも地域ごとに事情が違うので難しいでしょう」と浮かぬ顔だ。>とあきらめ気味ですね。

 

私のいとこも今年80才、神戸で暮らしていますが坂の多いところで、免許証返納を悩んでいます。コンパクトシティを掲げる都市の一つとして神戸市があげられていますが、高齢者は認知症のリスクもありますが、足腰が弱ったり、重い病気を抱えていて坂道を上り下りすることは容易でないといった人も少なくないのです。神戸の坂は有名ですね。どんなコンパクトシティを考えているのでしょう?

 

戦後自由奔放に開発が促進されてきていわゆるスプロール化して膨張した各地の都市構造は、なかなか車依存を脱却することができにくいのではないかと思います。

 

歩くことが困難になってきた人には、カーシェアリング思想にAIを活用した仕組みを活用しやすくするとか、車依存を緩やかに脱却できるような仕組みの構築が急がれると思うのです。いまから隣の人は何する人ぞといった都市内で、物理的な地域コミュニティを構築する以上に、AIを活用したコミュニティが使い勝手がよいのではと思うのです。

 

また遠い将来は別にして、この遠く離れた位置にあるさまざまなインフラを利用するのに、物理的な移動に代えて、医療、介護、行政サービス、さまざまな領域でAIITによるサービスが受けられるようにできれば、歩行圏内ですべて処理できるようになるかもしれません。

 

といいながら、他方で、歩くという人間にとっても最も本質的な動作を、誰もが少しでも多く行うよう、意識改革が求められているのではないかとも思うのです。そういう私も、ほとんど歩かない日々を送ってきましたが、最近ようやく、スマートウォッチを携帯し、日々の歩行数を増やそうとする意識が芽生えています。

 

<「国土強靱(きょうじん)化」政策>も大事ですが、なにより一人ひとりの強靱な体力作りではないでしょうか。歩く社会、それが人の「活力」「自信」を生みだしやすい仕組みではないでしょうか。歩いて楽しい社会を作り、積極的に歩きたくなる環境を作ることこそ、必要とされていないでしょうか。歩くのを補助する仕組みとしてカーシェアリングやLRTなどの公共交通機関があってよいでしょうけど、基本を「歩く社会」にすると、見方が変わるのではとふと思ってしまいました。

 

最初の花言葉「愛らしい告白」「深い愛情」以下にはなかなか結びつきませんでした。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

 

 

 


豪華さと会計処理 <ゴーン氏動画><ゴーン妻ラジオ発言><会計評論家の見解>などを読みながら

2019-04-10 | 刑事司法

190410 豪華さと会計処理 <ゴーン氏動画><ゴーン妻ラジオ発言><会計評論家の見解>などを読みながら

 

花言葉シリーズを終わりにしたつもりでしたが、ゴーン氏妻の動きなどを見ていて、つい事務所のダリアのことを思い出しました。たしか「華麗」といった花言葉であったような記憶でした。<ダリアの花言葉>で確かめると、それは間違いなかったのですが、それ以外に<「優雅」「気品」「移り気」「不安定」>となっていました。やはり一筋縄ではいかないようです。

 

華麗、優雅、気品といったら、誰もが憧れそうなことばですね。ところが、移り気と不安定といういわく付きのことばもあります。華麗・優雅を保つことは容易でないのでしょうか。不安定さもついて回り、移り気な性格も併せ持っているのかもしれません。

 

ゴーン氏妻のことは最近のニュースで知った程度ですが、ベルサイユ宮殿で結婚式をしたとか、15億円のクルーザーを購入した会社の経営者だとか。いずれも華麗とか優雅に近いようですが、どちらかというと「豪華」ではあっても気品が伴っているか?で、華麗・優雅とも違うかもしれません。キャロル夫人の姿は保釈中のゴーン氏に付き添っているときの映像ですので、むろん華麗・優雅という姿とは異なるもので、そこから判断するのは気の毒でしょうね。

 

ところで、ゴーン氏が逮捕前に用意していた動画について、国内外の報道で取り上げられ、ロイターでは<ロイター<ゴーン日産前会長「事件でなく陰謀」 現経営陣には「うんざり」=動画公開>と報じています。

 

ただ、ゴーン氏の動画を少し見ただけですが、中身があまりに抽象的で無罪という結論のみ述べて、一部の日産経営陣に責任転嫁しつつ、無罪の理由は述べていないに等しいものでした。むろん弁護側としては、公判準備前に手の内を明かすことができないわけですから、被告人が話す内容はこんなものでしょう。でも誰に対して、何のために動画配信したのか、その有効性に疑問を持ちますね。たしかにゴーン氏を支援する人たちへのちょっと弱っている姿を見せつつ、しっかり無罪を訴えることは、多少は効果があったかもしれません。でも日産グループ関係者はもちろん、第三者には逆効果であったかなと思ったりします。

 

しかもゴーン氏妻は、自ら特別背任容疑が疑われる中、ゴーン氏の逮捕を受けて、もう一つのパスポートを使って出国したのですから、後味が悪いですね。たしかにNHK報道では<ゴーン前会長の妻仏ラジオの取材に「人権問題訴えるため」>とフランスに向かった理由を述べています。またNHK出国したゴーン前会長の妻「身の危険を感じた」>では、東京地検特捜部が求めれば日本に戻る考えを示しました>とのことです。

 

その中で、彼女の出国について、弘中弁護人は<「事前に弁護団に相談はありいろんな意見があったが、最終的に出国を止める理由は何も思いつかなかった」>といういい方をされていますが、彼女の出国はできれば避けたかったと思っていないでしょうか。

 

むろんキャロル夫人が、今後検察の要請に従い、帰国して事情聴取に応じれば別ですが、その可能性は低い気がします。日本の司法制度を信頼していないでしょうから、わからなくもないですが・・・

 

他方で、ゴーン氏の特別背任容疑については、彼女の動きはプラスにはならないと思います。これで検察側が会社の金の私的流用について立証困難になるといった可能性は大きくないと思うのです。

 

この点、今朝のJBpressの記事<それでも検察はゴーン氏の特別背任を立証できない>は、会計評論家の見解を展開しています。

 

資金流出の容疑について、細野祐二氏は会計的視点に立ちながら、日産子会社からSBAへの資金使途のみが対象となり、そこから先はSBA独自の資金使途であって関係ないとしつつ、SBAへの送金は年間にすると約6億円で販売実績からは販売促進費として正常な金額であると、中東特有の商慣行から合理性があるとしています。

 

また、<還流資金500万ドルは、SBAからGFIを通して「ビューティー・ヨット」や「ショーグン・インベストメンツ」のクルーザーや投資金に化けている。>としつつ、いずれも貸付金や出資金となっていて、日産に損害を与えていないとしています。

 

いずれも会計処理としては、的確な指摘ではないかと思われます。しかしながら、会計的には妥当であっても、一体、誰がどのように金を動かしていたか、実際に誰が誰の金をどのように使ったかが問われているわけです。それは会計処理だけでは解明できないものです。

 

現在のところ、公判準備前ですし、むろん公判前ですから、証拠はもちろん検察側の主張もわかりません。当然、司法取引では担当していた副社長?でしたかがこの一連の取引について具体的に証言しているでしょう。また最近の報道ではこの取引を指示したり、報告を受けたメールなどが多くあるようです。ゴーン氏がどのように関わっていたかが問われるべきで、会計処理だけでは問題の本質を把握できないと思うのです。

 

また、朝日の記事<ビルの1室に40社登記、実態なしか 日産資金の還流先>のように、だれがこのような環流方法を作り出したのか、それは検察は相当の証拠で固めているのではと思うのです。そうでないと、保釈中に、裁判所が逮捕状、勾留状を発するとは思えません。

 

たまたま私も普通の刑事事件で、準抗告申立書を提出したところですが、普通の事件でも勾留決定を争うのは大変です。まして特捜事件ですし、国際問題にもなりかねない事件ですから、超特別でしょうね。刑事司法が検察側に偏っているといえばラクなのですが、そんな論理では戦えないですね。やはり双方、しっかりした証拠に基づく主張をしているでしょう。

 

そういえば田中角栄氏のロッキード事件の裁判を少し思い出しました。昔、公判記録を少しだけ読んだことがあります。今回の司法取引と同様、まだわが国にはなかった司法取引で入手したコーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力が大問題になりましたね。他方で、実際の公判廷での証拠調は特定の弁護人以外の尋問は残念ながらあまり参考になりませんでした。

 

ともかく今回の事件は、ロッキード事件ほどではないとしても、それに迫るほどの重大事件でしょう。今後の双方の攻防を注視していきたいと思います。実のところあまり関心がなかったのですが、ブログで取り上げているうちに、興味がわいてきました。いつまで続くか分かりませんが、弘中弁護団の弁護を楽しみにしたいと思うのです。ロッキード事件弁護団より優れているのではないかと期待しているのです。

 

今日はこの程度でおしまい。また明日。


美徳と競争 <アクセス もぐもぐタイムのイチゴは「盗用」!? >などを読みながら

2019-04-09 | 農林業のあり方

190409 美徳と競争 <アクセス もぐもぐタイムのイチゴは「盗用」!? >などを読みながら

 

消費者というものは安くて美味しいものを求めるものですね。農産物の場合品種改良の競争が国内はもとより世界中で行われているのでしょう。

 

私のようにほどほどでよいと思って、適当な果物や野菜を食べる人ばかりではないのですね。知りませんでしたが、<昨年2月の平昌(ピョンチャン)冬季五輪では、カーリング女子チームが栄養補給する「もぐもぐタイム」で食べた日本由来の韓国産イチゴ>が、「そうだね」のように人気沸騰したのでしょうか?いずれも私の関知しないところでした。前者は流行語になったのでしたか、後者は盗用問題で日韓軋轢に新たな火種になっているのでしょうか。

 

今朝の毎日記事<アクセスもぐもぐタイムのイチゴは「盗用」!? 「日本産」守れ 政府、海外無断栽培対策に本腰>は、後者の問題状況を取り扱っています。

 

ただ、イチゴの盗用問題と、ミカン登録出願受理による影響問題が並列的に書かれていましたので、イチゴ問題に対して、ミカン登録により問題が解決できるのかと一瞬思ってしまいましたが、ユポフ条約の解説部分を読むとそうではなさそうですね。

 

品種もいろいろな名前があってややこしやといった感じです。ともかく新品種のミカンについては、開発者の農研機構が国内では農水省の登録を受け、国外では韓国で登録出願するなど、韓国をはじめ諸外国の勝手な盗用を防ぐ手立てを取ってきたようです。

 

その結果、韓国農家は大打撃を受けることになったようです。

<韓国紙・中央日報電子版(日本語版)は昨年末、済州島の農家が日本で開発されたミカンの新品種「あすみ」と「みはや」を出荷できなくなったと報じた。みはやは2~3年前から人気の品種で、2品種は農家208軒が栽培し、出荷予定量は920トンに上った。>

 

この点、国内対応について次のような記事となっています。

<糖度が極めて高いあすみと、果汁が多いみはやは2014年、農林水産省から種苗法に基づく登録を受け、知的財産権の一種「育成者権」を取得した。開発期間10~20年の努力の結晶だ。国内では登録後30年間、種や苗を独占的に販売したり、他人に栽培を認める対価に利用料を徴収したりすることができる。>

 

他方で、海外については<開発した国立研究開発法人「農業・食品産業技術総合研究機構」(農研機構)>が次のように対応したようです。

<韓国で品種保護を行う国立種子院に登録出願し、昨年1月に審査開始が公表されたためだ。審査が始まると正式登録の前でも権利が保護され、無断で栽培や販売ができなくなる。>その結果、<韓国の農家が育てた日本産新品種のミカンが出荷できなくなっている。>わけです。また、<農研機構は韓国のほか中国やカナダでも登録を出願した。>

 

これに対して、イチゴは盗用対策が条約の限界もあって、適切な対応策が採れなかったようです。

<日韓など75カ国・地域は「ユポフ条約(植物の新品種の保護に関する国際条約)」で新品種保護のルールを定めているものの、当時の韓国ではイチゴは対象外。>となっています。

 

この点、農水省の<UPOV条約について>では、わが国は全植物を対象として、育成権者の及ぶ範囲も種苗、収穫物、特定の加工品とすべてにわたっていますが、締約国の多くは限定しているようです。韓国がイチゴを現在対象にしているかどうかははっきりしませんが、もし条約対象に含めているのであれば、イチゴの品種を登録出願しないのはどうしてかをも記事としてはフォローしてもらいたいですね。

 

ともかく韓国では(に限るとは思いませんが)、開発者が汗水たらして開発した農産物の品種を勝手に流用して大量に輸出して儲けているようです。

<韓国は農産品の輸出に力を入れており、特にアジア諸国へのイチゴの輸出が盛んだ。年間輸出量は4000トン程度と日本の889トン(17年)を大幅に上回るが、「章姫(あきひめ)」など日本産イチゴを勝手に交配した品種などが全栽培面積の9割以上を占めるという。>

 

<章姫は開発者の個人農家が1990年代、依頼されて韓国の生産者らに当人限りの利用を許可したが、現地で第三者に流出した。>上記の条約の対象外ということで、<開発者は泣き寝入りせざるを得なかった。農水省はイチゴの品種流出で年間44億円の輸出機会が奪われたと推計している。>というのです。

 

政府も手をこまねいてきたわけではないようです。

<政府は16年度から新品種の海外での登録出願の支援に乗り出した。代理人を通じた出願の費用は100万~200万円に上ることもあり、半額から全額を補助している。>

 

結局は、生産者の意識の問題もこういった盗用を許す要因かもしれません。

この点、<京理科大専門職大学院の生越(おごせ)由美教授(知的財産政策)>は、稲の大陸からの伝来から地域共同体での共有という美徳意識までとりあげています。そうかもしれません、農産物の品種開発者には知的財産権的な権利意識が強くなかった、みんなのためにという意識が強い方が少なくなかったのでしょうかね。

 

とはいえ、生越氏が指摘するように、<「改良品種を共有すれば地域が活性化して開発者の利益にもなった。一方、グローバル化した現代では海外での増殖を許し、競合相手を増やしてしまった」>わけですので、島国世界での論理はなかなかうまくいかないようです。

 

農産物の付加価値を輸出しようというのですから、その権利保護措置をしっかり講じていかないと、イチゴの二の舞になりますね。

 

なんてことはおそらく輸出を試みようとしている農家はすでに分かっていると思いますが、その方策を海外の個別事情に合わせて実効的に行ってきたかを改めて検証するいい契機かもしれません。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


選択と挑戦 <貿易自由化に挑む農水産業の現場>と<調達電力、CO2ゼロ条件>を読みながら

2019-04-08 | 農林業のあり方

190408 選択と挑戦 <貿易自由化に挑む農水産業の現場>と<調達電力、CO2ゼロ条件>を読みながら

 

そろそろ花言葉も底を突く感じになりました。むろんまだ始まったばかりですから、客観的には無尽蔵といもいえる花であり、花言葉ですから、そんなはずはありません。でも気持ちは一週間で一杯一杯でしょうか。花自体は1年でも何年でも種類はわが国はもちろん世界中から届けられているので大丈夫ですね。でも写真撮影自体、後で見るとがっかりするので、そろそろ終わりにしようかと思っています。

 

ともかく今日は春リンドウです。<竜胆(リンドウ)の花言葉>によりますと、<・悲しんでいるあなたを愛する・正義・誠実>と不思議な組み合わせです。

 

だいたい、この花言葉はリンドウで秋の花ですから、春リンドウとは違いますね。まあ、私のブログでは同じようなものとご勘弁ください。この最初の<悲しんでいるあなたを愛する>が言い得て妙です。といいたいところですが、誰が愛するということでしょう。そんな愚問を投げかけるくらい、花言葉に関心がないことの証でしょうか。でも、悲しみ人がいて、そんな心持ちにある人を愛するというのは、心に響くものがあります。

 

喜怒哀楽という人間の基本的な感情の中で、悲しんでいる様子へのシンパシーはたいていの人が感じる心持ちでしょうか。当たり前であっても、その悲しみを真に受け止めることができるかとなると別でしょうか。慈愛とか根本的なことかもしれません。そんなことをふと思ってしまいながら、改めて春リンドウを見ても、野に咲いている姿でないためか、今ひとつわかりません。いや、人間の勝手な解釈だといわれるとそうかなと思ってしまいます。

 

さて、先週金曜日の毎日記事2本を取り上げたいと思います。一つは<LookWESTけいざい貿易自由化に挑む農水産業の現場…輸出先で和牛調理の講習会、香り特長のユズを欧州売り込み>です。

 

今朝の日経ニュースでしたか、アメリカの農家が反トランプの気持ちを露わにしていました。多くの農家が廃業に追い込まれているようです。アメリカファーストと聞こえはいいのですが、欧州や中国との貿易戦争などで、農産物輸出が激減しているようです。大規模農業だからうまくいくとは限らないわけですね。規模の経済も世界的な貿易取引条件を前提にして成り立つものでしょう。

 

翻ってわが国の農業は、機械化・集約化といってもたかがしれています。規模の経済・効率化という点ではとても米豪などにはかないませんね。TPPなどで貿易自由化で他国から競争力のある農産物が大量に入ってくると、恐れおののいていたのでは、前途は真っ暗ですね。

 

わが国の農業における特殊性は個性として生かしてもらいたいと思うのです。小規模零細錯圃であったり中山間地という地形であったり、不利な条件も生かす意欲と気概があれば、成り立ちうるのではと思うのです。

 

その点、この記事では<挑む農業>がいろいろと取り上げられています。驚きました。13年から18年にかけて、2倍から10倍に輸出額を伸ばしてきた農産物が結構あるのですね。

 

リンゴ、日本酒、緑茶はいずれも2倍以上、桃、米、牛肉は34倍ですか。イチゴは10倍ですね。安価な農産物が大量に輸入されると、農家は廃業に追い込まれるといった不安ばかりが渦巻いていますが(その不安に対処する政策が必要です)、それに立ち向かっている農家も各地で生まれていますね。

 

たとえば和牛の調理法は生産・流通そして消費の一連のシステムで成立していますね。では海外では通用しないか、それにチャレンジしています。

<国内指折りのブランド牛、近江牛を生産・販売する澤井牧場(滋賀県竜王町、澤井隆男社長)が昨年12月にベトナムで開いた、和牛の加工・調理法の講習会。日本人の講師が肉をさばいたり、ローストビーフやすき焼きなどを作ってみせたりすると、参加した現地の精肉業者らは目を見張った。>

 

たしかに欧米で食べる肉は分厚く大きいですが、フランス料理は別にして、たいていは味付けなり肉の食感なり今ひとつのように感じます(安いのを食べているからでしょうかね)。

 

こういった挑戦がさまざまな農産物で試される時代でしょうか。

 

その他ユズ、搾乳などの工夫が紹介されています。

 

ところで、こういったチャレンジは農業の世界にとどまらず、一次産業全体で対応することが期待されているでしょう。

 

そのようなチャレンジ精神も大事ですが、他方で、全産業が取り組む必要がある温暖化対策については、農業分野、少し遅れていないか心配です。

 

同じ日の毎日記事<トレンド調達電力、CO2ゼロ条件 オムロン・パナ、投資家にアピール>では、<企業に再生可能エネルギー由来の電力を調達する動きが広がる中、オムロンは調達先を決める入札で「二酸化炭素(CO2)排出量ゼロ」を条件にする取り組みを始めた。>と、オムロンやソニー、花王、パナソニックの取り組みが紹介されています。

 

企業はさまざまな選択をしながら企業活動を行っていますが、その選択の中で、常にCO2ゼロ基準を意識することが求められているのが昨今の実情ではないでしょうか(パリ協定離脱した米国でも実際の企業活動ではその傾向は主流ではないでしょうか)。

 

<環境(environment)、社会(social)、企業統治(governance)を重視する投資手法>は、企業の将来を考えたとき、一筋の方向性となっているように思うのです。その点、農業分野で挑戦を試みる取り組みをされている人たち、企業も、その意識なくして効率化や高品質化を目指しても世界市場では戦えない恐れがありますね。むろん意識していると思いますが、農水省も制度的対応が求められているように思うのです。

 

そんなことを思いながら、春リンドウの花を見ながら、関係のないこの記事を思い出したのです。

 

地球という生命体が温暖化で悲しんでいる、その地球を愛するのであれば、真剣に取り組んでもらいたいと、取って付けたような切り口となりました。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


希望という生きる道標 <レンギョウの花言葉><イチロー最後の戦い><法廷通訳>

2019-04-07 | 人の生と死、生き方

190407 希望という生きる道標 <レンギョウの花言葉><イチロー最後の戦い><法廷通訳>

 

春爛漫です。わが家の前の桜並木も満開で、野鳥の声も軽やかです。こんな春の様子を花に託して多くの和歌が詠われていますね。レンギョウはどうかと思ったのですが、見当たりませんでした。というか和歌で詠われる花はあまり特定されていませんね。花と言えば桜と言うことでよかったのでしょうか。

 

春はいろんな花が咲いて賑やかです。桜は植樹されたこともあって山だけでなくどこでも見られます。そういえば関東にいたころ桜ヶ丘というところに住んでいて、谷間を挟んだ小高い稜線一杯に咲く桜木がとても目の保養になりました。ところで、レンギョウもわが国の街角で割合目に付きます。庭であったり山麓であったり、その鮮やかな黄色と枝が伸びやかな風情が元気さを与えてくれているみたいです。

 

レンギョウの花言葉>を見たら<『希望』『叶えられた希望』『豊かな希望』『期待』『集中力』『言いなりになる』>と、ありますね。まあ、希望と集中力はいいとして、最後の「言いなりになる」はどういった由来なんでしょうね。中国が原産ということで、たしかにそういわれてみると、そうかと納得しちゃいそうです。

 

レンギョウを見て希望を抱くというのは、その色でしょうか、枝のぐんぐん伸びる様子でしょうか。希望を感じさせるというのは違和感ないですね。でも花を見て希望を抱いたり、維持すると言うことは簡単ではないでしょうね。

 

希望を抱き続けるというのは、だれもが生やさしいことではないことと思っているでしょう。そんな中、懸命に励んでいる、人並み外れた業績を残したりすると、その人の姿に希望を感じるのかもしれません。日々の辛さ、苦労、悩みを抱えて生きている中、希望の星に覚えて、その英姿を追いかける、あやかるのかもしれません。

 

その象徴的な存在としてイチローが長く日本人、いやさまざまな国の人たちにも、注目され、敬愛されてきたのだと思います。

 

そんなイチローについて、NHKでは今日、再放送で、<イチロー 最後の闘い>を放映していました。イチローは、「野球人生としての死」という表現で、引退について語っていました。笑って死にたいと思っていたが、それは無理とも諦念していたようです。でも日本で迎えた最後のバッターボックスまで、多くのファンが期待を込め、またヒットが出ないで終わった後も鳴り止まない拍手・歓声を送ることで、イチローは笑って(喜んで)死を迎えることができたようです。

 

それはイチローがたゆまない日々の努力を重ね、MLBでも例ない技術の高みに達しても、さらなる頂を目指して日々鍛錬を重ねる姿勢に、生きる希望を多くの人に与えたからかもしれません。そして彼も、そういう人たちの思いを受けて「死」後の希望を見いだそうとまた新たな一歩を踏み出しているようです。止まらないその生き方に、希望の光を感じる人は少なくないのだと思います。

 

どのようなボールでもヒットする技量の持ち主が、バットが空を切ることばかりを繰り返しながらも、ひたすら鍛錬を欠かさない、前向きな姿勢に、そしてそれでも大勢の前でバッターボックスに立つ孤高の姿は、やはり感動させられます。

 

希望というのは、そういうイチローのような生き方に、なにか希望の抱き方、希望というものとの接し方、その対処の仕方のヒントがあるのものかもしれません。

 

高齢になった、重篤な病気になった、いじめにあった、障がいでうまくいかない、差別されている、大きな失敗をした、私たちが悩むことは事欠きません。でも希望をもつ、その希望に向かって一歩進もうとしたとき、人の心は変わりうるのではないかと思います。気持ちの持ちようかと思うのです。

 

ところで、もう一つのタイトル、今朝の毎日記事<検証減る法廷通訳 進む外国人材受け入れ、一方で… 過重な負担、報酬見合わず>は、以前このブログかfbで取り上げた記憶があります。まあ、希望とはなんの関係もなさそうです。でも一つの見方があるかなとも思うのです。

 

私も法廷通訳については、英語以外の通訳の事件をなんども取り扱ったことがあり、きつい仕事だということは理解できます。ただ、タイ語などの東南アジア系言語や中国語、あるいはスペイン語、ポルトガル語などのうち、とりわけ前者は当該国の人で日本に滞在している主婦といった人が多かったように思います。当然、日本語もそれほど流ちょうとはいえないですし、ましてや刑事訴訟の用語は現地語でも難解な上日本語で理解できているかというと少し気になるところです。

 

それだけでなく、あるスペイン語の教師の方が通訳した事件では、通常の通訳はスムーズにできるのですが、共犯事件で事実が争われているとき、細かい具体的な所作に質問が及ぶと、そのような質問・回答は日本語でもたいていの通訳は不慣れです。ましてや通訳するのですから容易ではありません。しかも被告人の会話は方言的な部分もあるでしょうし、さらに具体的な動きだと余計そういう要素が含まれるのだと思われます。その事件では、通訳と被告人が長時間、二人だけで話し合ってしまい、裁判官、検察官、弁護人がそれを黙って聞くだけといったことがありました。

 

刑事事件で事実に争いがあまりないときは、現在の法廷通訳でも割合うまく通じているのだと思います。しかし、事実を争う様な場合法廷通訳のあり方について見直す時期に来ているのかもしれません。なお、実際は事実の細かいな点で疑義のあることも少なくないのですが、争うことで審理が延びることを嫌がる被告人もいておおざっぱなところで認めることも結構あるように思います。。

 

それほど大変な法廷通訳なのに、記事で書かれているように、非常に安い通訳費用になっています。民間で依頼される通訳の報酬だと、その何倍、あるいはそれ以上だということも普通ではないかと思います。そうなると、刑事裁判での法廷通訳のなり手が減少するというのは経済事情、刑事事件という特異な場(裁判員制度への参加以上に厳しいかもしれません)ということから、今後もその傾向が続くのはやむを得ないことかと思います。

 

私が以前、外国人の依頼者の民事事件を担当したとき、証拠となる英文については、友人の弁護士と共同して翻訳して裁判所に提出したのですが、証人調べだと通訳が必要ですので、専門の通訳に依頼したら、かなりの高額となりました。結局、その訴訟は勝利したので、その費用をまかなうことができたのですが、敗訴のリスクがあるときは躊躇しますね。

 

長々と冗長な話をしましたが、裁判所の費用負担は、それほど予算がない中、法廷通訳費をさほどあげる方向にはいかないと思うのです。そうだとすると、AI音声翻訳を、裁判所用にプログラミングすることをそろそろ始めるいい機会ではないかと思います。その場合裁判所だけで行うのではなく、刑事で言えば、検察庁、日弁連と共同してチームを構成して対応してもらいたいと思うのです。他方で、民事訴訟や、人事訴訟については、それぞれ建築紛争、医療紛争、家事紛争など、類型毎に専門家グループと合同して行うことが望ましいのではないかと思うのです。

 

問題があれば、そこに希望の種がある、そう思えるのが、「希望」という意味合いかなと軽い感じで思っています。でも「希望」ということばは、生への一縷の望みにつながる、かけがえのない貴重な蜘蛛の糸であるだけでなく、日々の雑多な悩み・苦悩・煩悩の中にも一縷の光明になるのではと思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。