たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

交通事故を考える リスクアセスとその回避・事故対応

2016-11-05 | リスクと対応の多様性

161105 交通事故を考える リスクアセスとその回避・事故対応

 

交通手段は飛躍的に便利になりましたが、他方で交通問題は地球温暖化から騒音振動、渋滞、そして交通事故など多種多様です。歩くことこそ一番の体の健康にいい地球環境にやさしい方法でしょう。いや行基、家持、空海、西行、一遍、一休、芭蕉、そして龍馬と適当に名前を挙げても、優れた人たちはいかに日本中を駆け巡ったか。歩くこと、風景とともに生きることは、頭脳明晰になるのではと愚考する次第です。私も以前は歩くのが好きでしたが、最近は車に頼りがちです。持病をかかえ乗るのが好きに慣れないのですが田舎ではやむを得ないと勝手に思い込んでいます。不健康この上ないと思いつつ。

 

前置きはそのくらいにして、交通事故を少し取り上げてみたいと思います。さまざまな交通対策もあって、死亡事故数は相当減っています。いま統計資料をみていませんが、事故件数自体も減っているのではないかと思っています。

 

他方で、悲惨な事故は結構大きくニュースで取り上げられています。要因はいろいろですが、多くは運転手側に一方的な問題があるケースです。飲酒、覚せい剤や大麻その他違法ないし類似品の使用、精神疾患、過労による居眠り、極端なスピード違反、多種多様です。しかも被害に遭う人は、横断歩道上とか、歩道を通行している人、信号待ちしている人、青信号を進む人です。最も安全と思われる場所で、しかも高齢者、幼児問わず、誰もが日常の平安を奪われています。

 

このような例の多くは、交通政策や交通計画、まちづくりなどのソフト・ハードの多様な手法でも解決策を提示することは困難ではないかと思います。車の持つ危険性について、運転する人、それを直接・間接に許容する人、組織、システムの中で、抑制する制度設計が必要ではないかと思うのです。個人の自由という大命題と衝突しますが、自動運転装置が将来普及して安全性が確保されれば別ですが、現段階では、現行法法制の見直しを改めて求めていく必要を感じています。

 

これらの規制措置は個別に慎重な審議が必要ですが、従前の対策の前提を見直す必要があるように思うのです。今回は詳細は避けます。また、アルコール感知装置のような、自動運転装置の前に、問題行動があれば運転を停止するような装置も開発が必要かもしれません。

 

これまで述べたことは前置きで、ここからが多少私が考えている思いです。私たちは、さまざまな危険を内包した社会に生きていると思うのです。アメリカでは、いつ銃の発砲に曝されるか(正当防衛基準が信じられないほど甘いのです)、西欧社会ではいつテロに巻き込まれるか不安な状況です。と同時に、平和な日本においても、死の危機は日常的にあると考えることも大事ではないかと思っています。

 

私は仕事柄、横断歩道中に車にはねられ、亡くなられたケース、青信号で車を発進したのに、猛スピードで赤信号を突き抜けようとした車に自車の横を衝突され、何回転もしてもうすこしで命を落とすところだったケース、などなど少なくない事例に対処したことがあります。そのようなこともあって、信号や交通施設、交通ルールは、絶対の安全確保ではないことを常に意識しています。

 

周囲の状況、走行に不自然な車がないかなど、注意しています。死傷の危険性を自らはもちろん、家族などにも理解してもらうようにしています。それはいつ死んでも覚悟できている状態を日常の中で意識して備えをするということにもつながります。そのための備えは、新渡戸稲造の「武士道」精神とは異なるものの、基底にはなにか通じるものがあるかもしれません。

 

こういった死傷の危険とは別に、交通事故で多いのが物損です。事故対応でいえば、死傷の場合119番や110番によりそれぞれがしっかりした対応をしてくれます(一般的には)。しかしながら、物損については、当事者任せとなります。そこで事故対応として一言触れておきたいと思います。

 

事故が起こった場合、どちらに責任があるか、過失相殺の割合はどうかといったことが問題となりますが、多くは人と人の信頼や保険会社の対応である程度の線で落ち着くと思います。ところが、過失相殺率の認定基準といったものは、相当詳細ですが、必ずしも個別の事故類型に当てはまるとは限りません。それ以上に、事故の具体的な状況がどのように生じたかの再現が容易でないことが多いのです。警察による現場検証も作成される図面では再現は不可能に近いのです。それは人損事故でもあり得ます。というのは警察官がやってくるのは事故直後でも事故車両が移動した後だと被害者が動転していると誤った現場を図面化することもあります。

 

何を言いたいかというと、事故が起これば、すぐに携帯を持ち出し、あれこれ言わずに、その場でそれぞれの車両の位置、衝突地点、周囲の状況をさっさと写真撮影しておくことだと思います。むろん、加害者であれば、まずは謝罪ですね。その上で、いずれの当事者も事故直後の写真は重要と思って欲しいです。きちんと撮影できていなくても、車の位置(道路や相手車両との関係)くらいはおおよそわかる程度あれば役立ちます。最近の写真ソフトと描画技術があれば、おおよその事故状況の再現は可能ではないかと思います。

 

このようなことを言うのも、最近の物損事故で、一方的追突事故などで、信じられない過失割合を主張され、立証するの手間取った経験が少なくないことから、言わずもがなの話しをしてしまいました。そういえば、私も停車中、追突され、すぐに写真撮影しましたが、なんと横の列にパトカーがいて、100%過失を追突車両の運転手が素直に認め、事なきを得ましたが。


地震国日本での安全性とは

2016-10-29 | リスクと対応の多様性

地震国日本での安全性とは

 

東日本大震災・大津波の影響は、福島第一原発のメルトダウンを含め東日本一帯にいまなお深刻な被害が各地で見られます。

 

3.11地震後に千葉県成田市で発生した地盤沈下による住宅の傾きは、多くの甚大な被害に比べれば、小さいかもしれないですが、当事者となればやはり深刻です。施主は住宅メーカー・積水ハウスを被告にして損害賠償請求の訴えを提起しました。積水ハウスは地震による液状化の結果、不同沈下したと反論しました。先月29日東京地裁が、被告の主張を否定し、適切な地盤調査がなされず、本来地盤改良すべきであるの、それを怠ったとして、債務不履行および不法行為責任を認め、請求額に近い約1400万円の支払を認めてました。

 

この概要は、3社による3つ地盤調査の内容を含めて「日経ホームビルダー」のホームページhttp://kenplatz.nikkeibp.co.jp/atcl/bldhbd/15/1611/101400001/ でわかりやすく紹介されています。

 

たしかに東日本大震災の直後、地盤工学の専門家などが震源地はもちろん、東京湾沿岸を含め、各地の調査に入り、地震による影響が即座に写真等で報告されていました。たとえば、千葉県浦安の分譲地は不動産業界のトップ企業が埋立により造成し、億単位が相場の優良住宅地と評判でしたが、その液状化による被害はとても言葉では言い表せないほどでした。

 

ところで、私たちは、時として、各種の科学的調査やデータが相当信頼できるとの前提で、日常の生活を営んでいます。その安全性への信頼は、科学的技術やシステムの発展で、相当程度高まっていると思います。とはいえ、このケースで実施されたスウェーデン式サウンディング試験(SWS試験)は、簡易な調査で、地盤構造からいうと表層部だけの強度を測定するに過ぎません。むろん、この調査は建築基準法上、有効なものとされ、一般的な戸建て住宅の建築では問題ないと思います。

 

ただ、前提として当該土地の形成の履歴がきちんとした資料に基づきあることが求められると思います。日経の記事だけだとそこははっきりしません。というか、わが国の土地開発の歴史はむろん古く、他方で造成等の地形・地質の記録はあまりありません。とりわけ昭和36年成立の宅地造成規制法は、乱開発による造成地崩壊などの被害を受けて生まれましたが、その後も大きな被害が発生し、昭和43年以降も頻繁に改正を繰り返しています。

 

当該地がいつ宅地造成が行われ、それが切り盛りされた地形かは重要な情報ですが、そのような記録が十分に残されていないことが少なくないのです。それだけではなく、開発許可制度が強化され、地滑り防止法などが施行されるようになって以降はある程度の情報が整備されてきましたが、それ以前は、地形図などの情報を頼りに、専門家が過去に地滑りがあったか、造成盛土されたかなど判断する傾向にあります。その判断は相当信憑性に問題があります。

 

それでもそういう地形・地盤の歴史を考察することは重要です。しかし、地盤の下は分からないことだらけです。それは強度や揺れへの耐久力といった面に止まりません。地下水脈や汚染などになると手探りです。それをボーリング調査で一定のメッシュ間隔で調査したからと言って、その限度で一定のデータを確認できるに過ぎません。

 

そのような安全性に関する信頼度が絶対的なものになりうることは困難だと思うのです。とりわけ地震については、ほとんど分かっていません。現在、裁判等で争われる場合でも、過去の分かっている地震データを基に、その耐震性を検討するに過ぎず、安全というのはその限度で図られていることを理解しておきたいと思うのです。

 

その点、維新前の日本は、西洋文明・科学技術が導入する前、みすぼらしいほどの家が建ち並んでいたと異邦人によって指摘されています。建物と言っても、すぐに火災や地震で倒れてしまう。でも人々は、平気な顔で、翌日には新に建て直し、その災難を気に留めないように、笑顔で日常を送っているといった言及もあります。

 

なにが人間にとって安全か、安楽なのか、もう一度振り返ってみたい、そんな思いを持つこともあります。