たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

名を遺すことの意味 <NHK「風雲児たち」解体新書>を見て

2018-01-01 | 医療・医薬・医師のあり方

180101 名を遺すことの意味 <NHK「風雲児たち」解体新書>を見て

 

年明けは、ブログを書き終えた後、そばを食べ終えたころに迎えました。そして近くの八坂神社にお参りに行きました。松明を前に小さな人込み、さい銭箱の奥には町内の関係者が新年を祝う集いをしている人たちで活気がありました。

 

疲れもあってお真理した後すぐ帰宅して横になり、静かな新年の朝を迎えました。

 

懇意の人から富山の鱒寿司をいただき、それが今年の正月料理の主役となりました。量が多くて今日が賞味期限となっているのに食べれるかと心配したのですが、それは杞憂に終わりました。認知症の母親が帰宅時は自分で食事もできない状態でしたが、介添えで食べさせているうちに次第に元気を回復し、この鱒寿司が気に入ったのか、次々と自分で食べるのです。よほど気に入ったのでしょう。鱒寿司様さまです。

 

人の生命は奇妙なものというほどわかっているわけではありませんが、先人が人の命の不思議、身体の不思議をいかに解明しようと努力してきたかは、時折触れる情報でいつも圧倒されます。

 

その一人、前野良沢については、かなり以前歴史小説を読んだ記憶があり、そのときほとんど文献もなく辞書もないという時代に、驚異的な努力と着想で解体新書というわが国初の西洋医学書を翻訳した姿にはとても感銘したものでした。

 

その内容について、今晩のNHKで、みなもと太郎・原作、三谷幸喜・脚本として見出しのテーマで放送されました。私が読んだのはたしか吉村昭著作だった記憶なのですが、はっきりしません。ただ解体新書として翻訳し発刊するに至る経緯は、とても真剣で真摯なものでした。まさに吉村流ともいうべきタッチだったような感じを残しています。

 

それに対しNHK番組は三谷作品らしい、人偏模様を対立先鋭を笑いを大いに織り交ぜて、わかりやすく描いていたように思います。

 

ただ、小説もTVのいずれも前野良沢がその名前を世に残すことより、医学書としての完全な翻訳を求め続ける求道者的な存在として描いていたと思います。他方で、杉田玄白は、ほとんど蘭学的知見がないなかで、前野良沢の驚くべき才能・努力を活用して翻訳書を世に出すことに多面的な、その意味ではフィクサーというかプロデューサー的な役割を果たしたのかなと思わせるものでした。いずれもわが国における医学の発展、漢方治療で救われない多くの人を救うという気持ちの点では共通する熱い心を抱いていたように思うのです。

 

ちょっと話は変わりますが、NHK番組ではあまり明確にされなかった当時の蘭学通事の能力については、私が読んだ本では驚くべき事実が指摘されていました。通事は世襲制で、その得た情報は門外不出で、第三者が蘭学を容易に知る機会を閉ざす制度があったというのです。

 

しかもその通事は、蘭書原本を読んだり書いたりできるかというと、それがまったくというほどできないということでした。つまり、通訳はできるけども、文書でのやり取りはできないということでした。当然、蘭語で書かれた医学書「ターヘルアナトミア」などは医学の知識はもちろん、一般の翻訳の力もないのですから、当然、ちんぷんかんぷんだったと思われるのです。

 

NHK放送では、通事役は解体新書を読んだふりをして前野良沢をほめちぎりましたが、実際はどうでしょう。彼らの能力が疑われ、世襲制の地位を危うくすることにもなりかねないわけですし、三谷脚本の面白さを創出する演出かなと思いました。

 

実際は、小説のように、通事に力添えを頼んだ前野良沢ですが、ほぼ門前払い的な扱いになったのではないかと思われます。

 

それにしても前野良沢らは、刑場に無断で出入りして、腑分けに立ち会うという国禁を犯し、また、蘭書医学書を翻訳発刊するという同じく国禁に反する行為をあえて行ったのですから、それはとてつもない危険な行為だったと思います。

 

明治維新を担った多くの志士について、死を賭した有意の人と評されることが少なくないのですが、前野良沢たちのような、それ以前の地道な勇気ある行為は意外と低く評価されてきたように思うのです。

 

さてその前野良沢は、当時唯一蘭語に通じている通事であっても辞書すらまともなものをもっていないときに、まさに真っ暗闇の海に見えない遠くにあると思われる到達点を目指して右往左往しつつ、一歩前進2歩後退といった状態で、翻訳作業を行うさまは、NHK放送でもその一端を示していましたが、それはとてつもなく大変だったと思います。

 

青木昆陽が簡単な辞書を作っていたようですが、それはほとんど役に立たないレベルだったと思います。前野良沢一人ではおそらく成し遂げられなかったと思います。放送でも小説でもその一つ一つの翻訳作業はある種ブレーンストーミングや推理感覚みたいに、能力のあるチームによる会話の中でしか生まれなかったかもしれません。

 

現在でも翻訳作業は大変むずかしいと言われています。私も簡単な英文を下手な翻訳をして文書化することがありますが、いかに外国語で書かれた内容を日本語の文書にすることの困難さを感じます。まして前野良沢の時代の蘭語、しかも医学書は絶壁の断崖のように到底超えることができないものであったと思うのです。

 

それをやり遂げた、というかおおよそを成し遂げた前野良沢は、その書の不完全さを納得できず、決してクレジットを求めないというか、拒否しています。良心の在り方でしょうか。では杉田玄白は違うのか、それは異なる良心の在り方、というか未完でも世に出すという翻訳書の意義を重視したのでしょうね。それは三谷解釈でも、両者の違いを双方とも理解していた、しかし相いれなかったという形で、時代を経て和解に近い結論を見出したのでしょうか。

 

自分の名前を世に出すかどうかは、重要なことではない、そこに意味があると思うのです。そして世に出すことによる利害得失を担うに適切な人が神様が?選ばれるのでしょうか。

 

この話とは別に、前野良沢が所属していた中津藩、10万石の小藩ですが、藩主ができた人ですね。その中津藩出身といえば、福沢諭吉が出ていますね。前野良沢が死亡した後に出てきた緒方洪庵による蘭学を中心とした先端教育、緒方塾で塾頭を務めた福沢のその後の活躍は有名ですね。中津藩にはなにかそういう有能な人を輩出する土壌があったのでしょうか。

 

それにしても福沢はどちらかというと、自分の名前を売り出すことに一所懸命だった?ようにも見えるのですが、前野良沢の生き方は異質なのでしょうか。いやそれが生き方として素敵ではないかと、新年の初めに思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


抗がん剤と廃棄物 <抗がん剤 廃棄738億円 年間推計、残薬活用が急務>などを読みながら

2017-12-30 | 医療・医薬・医師のあり方

171230 抗がん剤と廃棄物 <抗がん剤 廃棄738億円 年間推計、残薬活用が急務>などを読みながら

 

今日はとても気持ちの良い澄み切った空、しかも穏やかで暖かく感じるほどでした。年の瀬とは思えない感じです。とはいえ行動はまさにそれ。実家の片づけを手伝い、粗大ごみがわんさとでてきました。認知症の母親も、以前は絶対に捨てないという大正時代の申し子?みたいでしたが、認知症が進行してからは明確な意思表示がなくなり、物がなくなっていくとも気にならないようです。クリーンセンターも今日が最後の受付日ということで、門前には家庭用廃棄物を入れた乗用車がずっと並んでいました。みなさん考えることは同じでしょうか。

 

おかげでかなり片付きましたが、まだまだという感じです。新車のトランクに入れるにはどうかと思いつつも、ま、いいかと粗大ごみを入れて2度運び込みました。

 

物資不足の戦前戦後に青春を送った母親は、なかなか気持ちの転換ができず、捨てるということができなかったようです。代わりに私が終活をやっています。日常的な介護世話はできませんが、この程度なら多少は役に立ちたいと思うのです。

 

こういった廃棄物はそれぞれの家庭がそれなりの努力をすれば、商品選択やリサイクルなどで廃棄物の発生・処理を減少することができるわけですね。最近はそういった意識や知識が普及してきたことはいいことだと思っています。とはいえ、なかなか廃棄物になることを考えて商品選択をしている人、廃棄物にならないようリサイクル・リユースなど再資源化に配慮する人、といった人たちはまだまだ多くないように思っています。

 

さて、医療廃棄物については、一般に有害性に注目され、その処理に適切かつ安全に処理される方向が確立して長いですが、そのコスト増大について着目されることはさほど多くなかったように思います。

 

今朝の上記毎日記事は、下桐実雅子記者によるもので、医療廃棄物の一部である抗がん剤に着目していますが、そういった側面の一端に新しい視点で光を当てるもので、当を得たものではないかと思います。

 

<使い切れずに廃棄された抗がん剤は、2016年7月からの1年間で738億円に相当するとの推計を、慶応大の岩本隆特任教授(経営学)らがまとめた。社会保障費の抑制が課題となる中、医療費削減のため残薬の活用が急がれる。>ここでは抗がん剤で未使用のまま廃棄された分が金額ベースで年間738億円相当というのですから、信じられない金額ですね。

 

具体的な内容に身を落とすと、腑に落ちる部分があります。

<慶応大は国立がん研究センター中央病院と共同で、同病院の抗がん剤の平均投与量を基に、抗がん剤ごとの廃棄率を算出した。さらに各抗がん剤の市場規模のデータから廃棄額を計算すると、抗がん剤の廃棄額は合計738億円に上ると推計された。廃棄額が大きかったのは、アバスチン(99.3億円)、オプジーボ(90.7億円)など。>

 

具体的な廃棄量や金額というよりは、抗がん剤の平均投与量から抗がん剤ごとの廃棄率を算出、そのうえで各抗がん剤の市場規模のデータから廃棄額を計算ということで、一つの推計手法でしょうか。

 

いずれも高額の薬価であるのに、未使用のまま廃棄される理由については<瓶入りの液体の抗がん剤は患者の体格によって投与量が異なり、1瓶を使い切れない場合もある。しかし1回開封した瓶は、細菌が混入する可能性があるとして、薬が残っていても廃棄するのが一般的だ。>

 

ほんとに開封した瓶だけの廃棄物と特定されたものなのか、これだけではわかりませんね。もう少し具体的な検証が必要ではないかと思いますね。このような高額なものをポイ捨てのように扱っていいのかですね(ポイ捨てとは違いますが)。

 

この点は、すでにこの取り扱いに批判的な立場で改善策が提示されています。

<瓶の残薬を別の患者に活用した場合、細菌の混入を防ぐ器具のコストなどを考慮しても、560億円の薬剤費を減らせると試算した。廃棄額が年間10億円を超える16薬剤に限定し、規模の大きい病院のみで実施しても528億円の削減効果があるとしている。>

 

そんな簡単に改善策があるのであれば、これまで<細菌の混入を防ぐ器具>のアイデアとか開発がまったく検討されてこなかったのかと疑問に感じます。

 

それも「廃棄額が大きい」とされるのが、あの高い薬剤ですね。

オプジーボについては、その薬価が以上に高いということで問題となり、一挙に半額になりましたね。

 

商品名オプジーボについては、ウィキペディアで<ニボルマブ(Nivolumab)>は、悪性黒色腫治療を目的とし、後に非小細胞肺癌・腎細胞癌に適用拡大された分子標的治療薬の一つで、ヒト型抗ヒトPD-1モノクローナル抗体医薬品であり、当時の京都大学医学部の本庶佑博士の研究チームが開発に貢献した[1][2]。日本においては2014年7月4日製造販売が承認され[3]、2014年9月小野薬品工業から発売が開始された[4]>とされています。

 

またその特徴は<ニボルマブは、癌が免疫から逃れるためのチェックポイント・シグナルPD-1を抑制することにより、リンパ球による癌への攻撃を促進する[2][3]。>とされています。

 

ただ、その値段がべらぼうに高いのですね。

<オプジーボの薬価は、100mgで72万9,849円であり(2014年)[19]、1年間使用すると3,500万円になる[20]。>

 

ところが世界の薬価に比べてわが国は極めて高いことが指摘されました。

<100mg当たり、イギリスでは約14万円、ドイツ連邦では約20万円、アメリカ合衆国では約30万円となっている[24]。>

 

これは当然批判の対象となり、昨年<11月16日に開かれた中医協において、2017年2月1日からの50%の薬価引き下げが了承された[25]。>わけですね。

 

でも、この問題は根が深いように思います。薬価がきわめて高額に維持されつつ、他方で未使用のまま廃棄される、ますます手に入りにくい状態をこの業界を作り出してきたともいえるのではないかと思うのです。というとうがった見方との批判もあり得ましょうが、高額の薬価と未使用廃棄を維持してきた医薬の一部にはそういう問題を潜在的に抱えているとの疑惑に適切に答えてもらいたいと思うのです。

 

人は健康で長生きしたい、そういう場合にがんは降ってわいたような突然の不幸(とりわけ抗がん剤による苦痛と倦怠などは生き地獄ともいう人もありますね)と感じる人も少なくない、それに効果的に対処する抗がん剤ならいくらかかってもよいと考える人もいるでしょう。

 

私の場合、人の命は自然の寿命に任せるのがよい、命尽きたところにはなにも残らないと思っているような人間にはあまり関係のない話かもしれません。いや素粒子レベルだ生だと、生もなければ死もないのかもしれません、空即是色かもしれません。

 

生に執着してというか、懸命に生きようとあらゆる手段を駆使する生き方も大事でしょう。とはいえ、抗がん剤で骨や細胞がボロボロになってしまうこともあったといいますが、高額な薬価の薬だと大丈夫なのでしょうかね。私の場合は骨になんの意味も認めないという見方をするような人間ですので、そのような治療を受けることもないと思いますし、治療の結果を悩むこともありません。ただ、それに多額の費用をかけることは、社会経済的な意味合いでも、私の選択肢にはありません。

 

医療や医薬の世界では、私のような生き方は無視されるのでしょうから、それはそれでよいのですが、3分の1が借金財政の中で、将来の世代の負担増を考えないで、この状態を持続することには責任の一端を感じます。ましてや医薬品・医療分野の廃棄物処理はライフサイクルの視点で全面的な見直しを考えてほしいと思うのです。

 

今日も片づけとごみ処理に追われてようやく一息ついた後、遅いブログ書きとなりました。それでもまた一日続けることができました。感謝、感謝です。

 

今日はこれでおしまい。また明日

 

(なお、これは調子のよくないラップトップで書いていまして、普段より誤字脱字が多いと思いますが、いつものように校正まで手が回りませんので、ご寛容ください)

 

                                                                                                                 

                                                              


医療の進化と情報の壁 <キズとカタチの総合医 「何針縫う」はナンセンス・・・>などを読みながら

2017-11-26 | 医療・医薬・医師のあり方

171126 医療の進化と情報の壁 <キズとカタチの総合医 「何針縫う」はナンセンス・・・>などを読みながら

 

昨日、白鵬関が早々と優勝を決め、40回目という隔絶した天井を開けて新たな世界を一歩踏み出したようです。

 

他方で、日馬富士暴行事件の行方が今後関心の的になるというのも皮肉なものでしょうか。そんな中、今朝の毎日記事は、<キズとカタチの総合医 「何針縫う」はナンセンス=桜井裕之・東京女子医科大学形成外科教授>という内容で、外科医の世界では常識かもしれませんが、縫合技術の進化をビジュアルに説明されていて、参考になりました。私自身、この年になるまで縫合の経験は中学生くらいに一度あった程度で、ほとんど記憶はないですが、ここで語られている縫合後の消毒のため毎日のように通院したり、抜糸の際の痛みを思い出しました。

 

桜井医師もあえて指摘していますが、いま騒がれている日馬富士暴行事件では、東部裂傷について10針縫ったとかの情報がどこからともなく流れていて、その重症性が話題の一つになっています。そのことと関連して、10針も縫っていたとしたら、当日、巡業に参加した貴ノ岩関が元気に相撲をとっているだけでなく、髪結いがきちんとされていることから、その際頭髪を強く引っ張るので、果たして縫合していたのだろうかとか、縫合していたらとても痛くてきちんと髪結いができないのではないかとか、いろいろな意見があったのをTVで垣間見ました。

 

でもこの点は桜井医師の話では、<確かに、治すだけが目的で、どんな傷も同じ針や糸を使っていた時代では、何針縫ったかは、けがの大きさの指標でした。しかし、その点で、今や意味のない数字になったと言ってもいいでしょう。>とのこと。

 

<現在の形成外科医は、細い糸で表面の縫合部分をピタリと合わせ、下層の組織も別の特殊な糸を使って丁寧に合わせます。この特殊な糸には、組織に残っても徐々に分解される性質があります。>

 

私が受けた負傷の縫合例は50年前のもので、現在では細い糸で皮膚の深くまでする必要がないため、目立たないようです。その比較の断面図も示されています。

 

ただ、夜間に急患で訪れた?貴ノ岩関に対して、大学病院や専門医が対応したら、上記のような最新の技術が採用されたかもしれませんが、どのような治療方法がとられたかは、担当医が判明していないので、まだおぼろげです。ただ、たしか三日後に広島の医師の診断を受けていることから、毎日消毒のため通院するような古いタイプは当然使われていなかったのでしょう。

 

で、もう一つの問題点、髄液漏の疑いについて、別の医師のいろいろな発言があり、これは確定診断だといった話を取り上げている記事もありました。え、それほんとと思ってしまいました。実は交通事故で、脳脊髄液減少症・脳脊髄液漏出症の勉強を始めたばかりで、先日も専門医の医師から教授を受けてきたばかりでして、多少の知識を培養中の私としては、その確定判断という医師の説明に?を感じてしまいました。

 

従前、外圧による(起立性)頭痛やめまい、耳鳴り、視力の低下、四肢の痺れなど多様な症状が起こることはない、とりわけ頭痛との因果関係は医学界は否定的でした。

 

国際頭痛分類では、従前は外圧によるものは認めていなかったそうです。それが交通外傷などで頭痛など上記の多様な症状の患者について、MRI見えろグラフィーや脳槽シンチグラフィー、CTミエログフィーによって、髄液の減少とか、低髄液圧といった診断が少しずつ広まっていき、その症状を改善するため、ブラッドパッチの措置をすることで軽減することが各地で先進的な医師によって成果があがるようになったそうです。

 

ただ、大半の医師は、その事実を認めず、画像診断でも否定的な意見が出たため、交通事故外傷などで、各地の裁判所で後遺障害の有無程度が争われてきました。

 

まだ裁判例の多くを調べていませんが、平成2961日の名古屋高裁判決では、一審名古屋地裁が全面否定した結論の一部を認め、脳脊髄液減少症を認め、後遺障害等級も変則的に、症状固定後7年間を9級相当、その後14年間を12級相当とする画期的判断をして、原告は主婦ですが、相当高額な損害を認めています。

 

この裁判長の藤山氏は、東京地裁時代にいろいろ小田急線連立事業訴訟、圏央道土地収用事件訴訟など多数の著名事件で、原告勝訴の画期的判決を下しており(国や行政を敗訴させている)、なかなかの判断をされる方です。私も土壌汚染事件で、和解を強力すすめていただき、大満足とは言えませんが、この種の事件としては画期的な和解をしてもらった記憶があります。優秀な方なので最高裁判事にならなくても、どこかの高裁長官にでもなっているかと思っていたら、まだ現役で活躍でした。最高裁の人事からすると、出世コースには乗らない方でしょうね。他方で、別の事件で担当した方は、有能かつ審理も如才なかった方は、最高裁判事になっています。こういうのを見ると、違いが最高裁のメガネにかかるかどうかがわかる感じがします。

 

いろいろ脱線しました。NHK囲碁戦を垣間見ながら書いているので?、脇道に堂々とそれています。

 

で、本論に戻りますと、この髄液漏出については、2000年代に入り、次第に厚労省も医師会も対応を迫られていたようです。それで、まず2007年に、厚労省は、<脳脊髄液減少症ガイドライン2007>を発表して、「減少症」という診断の基準を示しました。

 

しかし、診断をめぐっては反対派も賛成派もさらに議論が起こったようでして、続いて厚労省が厚労省研究班により、<CTMRIなどによる漏出所見で診断「脳脊髄液漏出症」の診断基準>をまとめ、従来の減少症などの科学的根拠がないとして、「漏出症」で統一したわけです。

 

その基準<脳脊髄液漏出症画像判定基準・画像診断基準>は、画像そのものがないため、定性的な基準の記載で診断するような意味合いになるかと心配します。少なくとも素人の第三者的な視点は排除されています。というか、画像自体は、先日に相談させていただいた医師が指摘する画像の中に漏れ認めることができるのです。

 

それは上記画像判定基準でいえば、<硬膜外に脳脊髄液の貯留を認める。」というのは次の場合ですが、

 

    硬膜外に水信号病変を認めること。

    病変は造影されないこと。

    病変がくも膜下腔と連続していること。

 

   だけだと、「疑」所見

   だと、「強疑」所見

   も「強疑」所見

さらに②と③があれば、「確実」所見とのこと。

 

で、貴ノ岩の診断書は「疑」ですね。これは上記判定基準からすると、レベル的にはまだ疑いにすぎず、主治医が相撲協会に対する回答では、脳脊髄液漏出を認めたわけでなく、疑いに過ぎず、そんな重傷とは考えず、相撲をとることは可能との判断を示したとのことでしたか。

 

たしかに判定基準に従えば、そのとおりかもしれません。入院も検査入院で妥当なものでしょう。

 

しかし、先の私が相談した専門医によると、この判定基準は、この症状について消極派が体勢を占めた研究班により意思形成がなされ、そのため、基準はきわめて厳しい内容となり、本来なら脳脊髄漏出症の症状があり、画像判定でも認めることができるのに、ハードルが高くなってしまったと批判的に述べられていました。

 

となると、貴ノ岩の症状がいまだにはっきりしませんが、安易に2度目の医師の協会に対する回答(しかも協会が伝え聞いた内容)だけで、相撲が取れるはずだとか、休業届けは虚偽であるとか、そういった安易な判断はさけるべきではないかと思います。

 

私の依頼者も事故当初はさほど重くない症状でしたが、その後ひどくなり、たちくらみ、視野がぼける、重い頭痛、耳鳴り、吐き気、手の痺れなど、多様な症状が持続的に続いています。ようやく専門医の診察を受け、平成284月から保険適用となったブラッドパッチを施行して、かなり軽減してきたということです。

 

このような従来の医学基準で診断が容易でない(認められにくい)症状はたくさんあります。私たちも報道などのさまざまな情報によって安易な結論や意見を述べるのは避けたいものです。たとえば、報道では、診断書など・・・として、診断書と別の情報源を一緒くたにして、いろいろ症状を重く述べたり、軽く見たりしていますが、これは不適切な記事です。私も「など」を使いますが、それは情報源をアバウトにしたいとか、内容自体に漠然差が必要なときなど、さまざまな理由で使いますので、要注意ですね。

 

とながながといろんなことを書いて、またまた論旨不明瞭となりました。ま、ブログですのでご勘弁を。もし手の痺れが強くなければ、少し休んでもう一件書いてみようかと思います。続きがなければ、今日はこれでおしまいです。


救命への真剣さ <プロフェッショナル 仕事の流儀「ドクターヘリ出動!地域を守り抜け」>を見て

2017-11-14 | 医療・医薬・医師のあり方

171114 救命への真剣さ <プロフェッショナル 仕事の流儀「ドクターヘリ出動!地域を守り抜け」>を見て

 

今日もいつの間にか業務時間が過ぎています。私の場合は超過勤務とか過労死とかには縁がなさそうですが、電話対応と文書作成をしているといつの間にか時間が過ぎます。だからといって、意義のある仕事ができているかは神のみぞ知るでしょう。

 

今日も時間がないので30分程度で仕上げたいと思います。

 

昨夜見たNHKの上記番組は、救命医療の実態を軽く見ていたような気がします。ここで登場するドクターはまさに救命医療に命をかける、そこに生きがいを充実させているというのをまざまざと見せられました。

 

矢継ぎ早に119番を通じてドクターヘリへの呼び出しがかかります。現場に行く途中でも、また、瀕死の患者に対応しているときでも、さらに手術中でも、次々と要請があるのです。

 

番組紹介で<小林誠人は、出動回数全国一位を誇る病院の救急チームリーダーだ。格闘の現場に密着した!>という僻地医療を実践する医師です。

 

小林医師は、どのような連絡も、どのような事態になっても、冷静沈着に、チームスタッフの機動力を最も機能的になるよう指令を発揮して、個々の患者に全身全霊で対置向かっているように見えます。

 

僻地と言っても豊岡市ですから、それなりの人口がありますが、山間部が多いため、救急車ではとても間に合わない状態です。救命利用は一分対応が遅れれば、回復に何十倍もかかる、あるいは死に直結することになるわけですから、小林医師も真剣勝負を日々重ねています。

 

そういえば、豊岡は、野生のトキを再生する水田事業を営むことで有名ですね。仲間は訪問していますが、私は都合が悪く言ったことがありませんが、この映像でも里山の広がるいい景観です。でも救命医療の立場だと、ドクターヘリでないと対応困難なことがよくわかります。

 

いくつもの救命医療の現場をよく撮影できたなと思うほど、生死をさまよう患者に肉薄してスタッフも撮影しています。驚いたのは、倒れた患者を運ぶドクターヘリの中で開胸し、心臓マッサージなど処置を行っていたことです。これはドクターですから当然でしょうか。それよりも心臓でしょうか、鷲づかみというか、しっかり手で握ってマッサージしているのです。いやいや内臓を直に触れるのは当然としてもそんなことして大丈夫と、素人は心配します。

 

だいたいTVや映画でも医師がAEDないしはそれ以上強力な機器を使ったり、ものすごい勢いで心臓マッサージを行っている場面が映像で流されますが、胸骨というのは強いものだと感心していました。いや、それでは不十分な場合があるんだということがわかりました。心臓自体?を直接マッサージすることも必要なのだというのが、小林医師の行為ではじめてわかりました。すごいですね。

 

むろん患者は心停止していました。小林医師の懸命で大胆な行為(救命医療では当たり前なのでしょうか)でも、心臓に変化は見られません。もうだめかと医療スタッフのほとんどが思った頃、それでも小林医師は繰り返したのです。すると動き出したのです。いや、すごいですね。人間の臓器の蘇生力というものは。

 

こういうことがあるから、最後まであきらめない、小林医師の信念のようなものが見事に結実したように思うのです。患者は、その後回復して自分で食事をとれるまでになっていました。後遺症もさほど感じられないほどです。脳には影響がなかったのでしょうか。

 

他方で、懸命の努力にもかかわらず、一旦蘇生したものの、交通事故で脳に重篤な損傷を受けた患者は、永遠の旅路に立ちました。そういう生死の悲喜こもごもを瞬間瞬間で体験しつつ、次をすすめるのも相当な体力と気力と、その他人間力が必要でしょうね。

 

小林医師、まだ50前です。でもまさにプロの道を先端切って走っているように思います。過疎地に住む人、そうでなくてもいつ交通事故で受傷したり、重篤な病気が発症するかもしれないのが現代社会ですから、こういう頼りがいのあるドクターヘリの医師がいることは救いですね。どうようのチームが各地で生まれることを期待したいです。

 

他方で、静かにたんたんと死を迎える道を選ぶことができる生き方ができればよりすばらしいと思いつつ。

 

今日はこの辺でおしまい。

  


医師の倫理 <さい帯血違法投与 背景は 日本医師会常任理事・今村定臣氏>などを読みながら

2017-10-16 | 医療・医薬・医師のあり方

171016 医師の倫理 <さい帯血違法投与 背景は 日本医師会常任理事・今村定臣氏>などを読みながら

 

最近、企業の不正や弁護士の倫理とかについて取り上げ、今日は医師の倫理を話題にしています。私自身がそれほど倫理観がしっかりしているとは思えないので、天につばする行為と言われるかもしれません。他人のことは言えても自分はどうなんだと言われると、冷や汗をかくかもしれません。でもそれくらいの気持ちをもっていないと、マンネリ化で真摯な仕事ができなくなるおそれがあるというのも感じています。

 

ま、こういう話題を取り上げるのも、私自身、他山の石として、いろいろ自分の問題を鑑みるチャンスかもしれないと思っている節があります。どんどん新しい事象が発生し、なにがほんとうに問題かよくわからない、自分で考える五感を磨いていないと、何も感じなくなるおそれもありますね。ふとそんなことを考えながら、他方で、そういう自分が独自の存在としてあるのか、報道などの表面的な見方にすぎないのではなか、などいろいろ思うところもあります。いずれは整理してみたいところです。

 

さて本題に入りたいと思います。上記記事では、<医療機関が他人のさい帯血を国に無届けで患者に違法投与していた問題が明るみに出た。再生医療安全性確保法=1=違反容疑で医師ら6人が逮捕され、民間のさい帯血バンクからの流出も判明。>した事件を契機に、その背景と対策をインタビューしています。

 

今村氏は、再生医療への期待の反面、今回の事件の背景として、<医師の倫理がないがしろにされている面>を指摘しています。

 

今村氏は<今回の事件では、相当高額な費用を医師が利用者から徴収している例もある>として、その倫理性を問題にしています。その前に取り上げている<科学的な妥当性、有効性が担保・・・されていないものを医師が医療行為として行って良いのかという根本的な問題>を指摘していますが、これも倫理性の問題でもありますね。

 

事件で問題となったのは横流しされたさい帯血ですが、本来の取り扱いについても問題提起されています。火葬場での焼却が多いようで、処分されない残り数%がさい帯血バンクに預けられ、<日本赤十字社などが運営する公的バンク>と<民間事業者のバンク>があるそうです。前者は<有効性が確認されている医療分野で、必要としている患者に広く使ってもらいます。>他方で、後者は<預けた妊婦の子どもらが病気になった時に使うことを想定しています。>とされ、その預けること、利用すること自体は医療上の問題とはされていません。

 

ただ、後者の場合に、インフォームドコンセントが適切に行われていたかについては調査の必要を訴えていますので、やはり倫理上の問題が残るでしょう。

 

この点、今村氏は、<今回の調査では民間バンクに4万3700人分のさい帯血が保管されていることが分かりました。また、契約終了後も廃棄せずに保管し続けているさい帯血が約2100人分あることも判明しました。しかし、さい帯血がどのように管理され、家族らが病気の治療で必要になった場合にどんなケースで使えるのか、さい帯血を預けた妊婦さん自身が理解しているでしょうか。契約の際に利用者へのインフォームドコンセント(十分な説明に基づく同意取り付け)がきちんとなされていたのかどうかを調べる必要もあったと思います。>と指摘しています。

 

他方で、<民間バンクが廃業に追い込まれるリスクなどは明かさず、利用すると良い結果があるように説明し、ともすれば利用へと誘導するような、ある種の「商売っ気」で契約者を集めている業者があったとすれば、責任を問われると思います。>と業者の問題になっていますが、医師が介在しないまま、業者だけの話で事が進むとは考えにくいように思うのですが、どうでしょう。民間バンク事業者についての一定のルール指導、さらに規制といった方向性も今後検討される必要があるのでしょう。

 

この点今村氏は公的バンクの有用性と普及を訴えています。<今後、さい帯血の有用範囲が広がり、数が不足する事態が起こるかもしれません。それに備えるなら、公的バンクでの保管数を増やすべきです。産科として対応するとしたら、公的バンクを充実する必要性を妊婦さんに伝えていくことが妥当なやり方だと思います。>

 

さて、<医師の職業倫理指針[第3版]>が昨年10月改定されています。この内容は相当具体的で、医師だけでなく、患者をはじめ関係者にとっても有用だと思います。

 

ただ強いて言えば、本来は最初の<医の倫理綱領>の6点だけだと品格があり、美しいのですが、そうもいかないのが価値観が多様化し複雑化し医療技術を含め科学技術・ITなどの進展がとどまるところをしらないわけですので、こういった詳細な指針が必要なのでしょう。それでも今回の再生医療については具体的な規定がないわけですから、むずかしいですね。

 

この指針では、<1.医師の基本的責務><2.医師と患者>という一般的規定を置いた後、個別的テーマとしては<3.終末期医療><4.生殖医療><5.遺伝子をめぐる課題>をとりあげ、最後に再び基本的な事項として<6.医師相互の関係><7.医師とその他の医療関係者><8.医師と社会><9.人を対象とする研究>(これは個別的テーマでしょうか)とわかりやすく項目をたてています。

 

で、今回問題となったさい帯血事件との関係で、今村氏が指摘した倫理上の問題についても、2.の<(14)科学的根拠のない医療>では、現代医学の前線における微妙な舵取りについて次のように定めています。

 

<医師は患者の状況や背景等も考慮し適切な医療を選択することになるが、原則として科学的根拠をもった医療を提供すべきであり、科学的根拠に乏しい医療を行うことには慎重でなければならない。たとえ行う場合でも根拠が不十分であることを患者に十分に説明し、同意を得たうえで実施すべきである。いやしくも、それが営利を目的とするものであってはならない。>とされています。

 

また<(17)医療行為に対する報酬や謝礼>では、昔は何か当然のように行われていたことについて次のように厳しく定めています。

 

まず<医師は医療行為に対し、定められた以外の報酬を要求してはならない。>と当然のきていがあります。そのうえで、次のように厳粛な姿勢を示しています。

 

<患者から謝礼を受け取ることは、その見返りとして意識的か否かを問わず何らかの医療上の便宜が図られるのではないかという期待を抱かせ、さらにこれが慣習化すれば結果

として医療全体に対する国民の信頼を損なうことになるので、医療人として慎むべき

である。>

 

インフォームドコンセントについても、<(3)患者の同意>の箇所で、次のように記載されています。

 

<医師が診療を行う場合には、患者の自由な意思に基づく同意が不可欠であり、その際、医師は患者の同意を得るために診療内容に応じた説明をする必要がある。医師は患者から同意を得るに先立ち、患者に対して検査・治療・処置の目的、内容、性質、また、実施した場合およびしない場合の危険・利害得失、代替処置の有無などを十分に説明し、患者がそれを理解したうえでする同意、すなわちインフォームド・コンセントを得ることが大切である。>

 

この内容自体は特別目新しいものではないですが、上記<(14)科学的根拠のない医療>での患者の状況や背景事情を考慮した上での具体的な説明義務の規定との関係ではやはり意味があると思うのです。

 

さて一時間がすでに経過しました。今日はこの辺でおしまい。