たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

性差と生き方 <人生相談 夫とセックスレス><性別変更訴訟 「手術条件」合憲><人間ってナンだ?超AI入門>などを見聞して

2019-01-28 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190128 性差と生き方 <人生相談 夫とセックスレス><性別変更訴訟 「手術条件」合憲><人間ってナンだ?超AI入門>などを見聞して

 

毎日の125日付け朝刊<性別変更訴訟「手術条件」合憲 最高裁決定 「残念だが区切り」申立人><性別変更訴訟「手術条件」合憲 最高裁決定 2判事「違憲の疑い」><性別に関係なく制服選択可能に 東京・中野区立中 小6アンケきっかけで>を読みながら、なにかもやもやしたものが残っていました。

 

LGBTに対する理解は私の頭の中で理解しようとしても必ずしもすっきりしているとはいえないというのが偽らざる事実です。とはいえ一人ひとりの個人の人格を尊重したい気持ちは揺るぎない思いですので、自分の中でなんらかの違和感があってもLGBTの人たちの考えは尊重したいですし、守られるべきとの思いも揺るぎないのです。

 

ですので、現行法に則り性別変更の手続をすることは当然ながら認められるべきですし、そこに何らかの制約的な圧力がかかるようなことがあってはならないとも思うのです。といっても私自身、この手続のことはこの訴訟で初めて知ったくらいですから、まだ実体を知らないままで書いています。

 

性同一性障害特例法は、同法3条で、性同一性障害者が以下の要件すべてを満たす場合、家庭裁判所に性別の取扱いの変更の審判をもとめることができるとしています。

それが次の5要件です。

一 二十歳以上であること。

二 現に婚姻をしていないこと。

三 現に未成年の子がいないこと。

四 生殖腺せんがないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。

五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

 

今回の性別変更訴訟では、4号要件に関連して、最高裁決定要旨によれば、<審判を望む場合、一般的には生殖腺除去手術を受けていなければならない。性同一性障害者によっては手術まで望まないのに審判のためやむなく手術を受けることもあり得、身体への侵襲を受けない自由を制約する面もある>と当該規定が自由を制約する面を認めています。

 

それは申立人には酷な要求ではないかとも思いつつ、LGBTの方で心と体の一致する手術をされている方も以前から相当いたかと思います。でも取り除くとか付け加えるとか、いずれも大変でしょう。

 

ところで性同一性障害特例法は、2条において、「性同一性障害者」の定義規定を置いていますので、LGBTの方がすべてこの主体要件に該当するわけではないでしょう。

 

その定義は「生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者」といういわばその人の革新的な意思を必要としています。まあこれはそれほど難しくないかもしれません。

 

他に専門医?2名以上の診断を必要としています。法文は「そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。」としています。

 

最高裁決定では、主体要件は問題になっていないようで、上述の法文が身体侵襲という要件を課していることに一定の合理性があるとして合憲としていますが、急速な時代風潮の変化からいえば、このような決定も暫定的なものにとどまるかもしれません。

 

4号の規定がないと、性別変更後に変更前の性別の生殖機能により子が生まれた場合とか、生物学的な性別に基づく男女を区別してきた社会に急激な変化をもたらすなどとして、<規定の憲法適合性については不断の検討を要する>と留保付きながらも、最高裁決定は合憲と判断しました。

 

他方で、少数意見は合憲性に疑義を指摘し、<性同一性障害者の性別に関する苦痛は、性自認の多様性を包容すべき社会の問題でもある。一人一人の人格と個性の尊重という観点から各所で適切な対応がされることを望む。>としています。

 

同法は平成15年成立し、昨年改正されたようで(関心が薄いのでしょうね恥ずかしい限りです)、今回の最高裁決定を受け、そう遠くない時期に見直しが検討されるように思われます。ただ、自民党政権が安泰だと?どうでしょうね。

 

と今日の話題がどうも最高裁決定みたいになってしまいましたが、これはさわりでして、これからが本題です。

 

実は今朝毎日記事<人生相談夫とセックスレス=回答者・高橋源一郎>を読みながら、夫婦ってナンだというより、男女とは何か、人間とは何かをふと考えてしまい、つい先日の最高裁決定を思い出したのです。

 

セックスレスの夫婦、妻からの悩み相談です。それに対し、源一郎さんは<夫婦の問題を、とりわけ、夫婦のセックスの問題を大きなテーマとしたアップダイクには、「若い無知な女の子を誘惑するのは難しくないのに、妻を誘惑することはひどく難しい」という一節もあったと思います。お互いを求め合うことから始まる関係も、いつしか変化を強いられます。しかも、別々に。>と書いています。

 

夫婦はセックスするものとの、原始以来の?考え方は必ずしも妥当しないこと、それは夫婦間でも、男女間でも、さまざまな交流のあり方の一つのようでもあるかもしれません。それは男性も女性も個々の自由が確立していく中で、それぞれの求めるものが微妙に変化し、それに応じて順応していかないといけないのかもしれません。

 

とはいえアップダイク氏の短編小説では<「夫妻はセックスが苦痛だったので、やめることにした」という一行で始ま>り、<一見、平和で落ちついた日々が続きます。けれども、そこには、なんともいえない「悲哀」のような感情が流れていました。それをのみ込んで、ふたりは静かに生きてゆくのです。>ということで、納得ずくながら単純ではないようです。

 

最後に源一郎さんは、<どのような関係も更新しなければ続けることはできないのですから。>と素直に話し合うことをアドバイスしています。緩やかな更新には意思疎通が不可欠ですね。

 

それだけ男女の仲、夫婦の関係は、昨今単純でなくなっているのかもしれません。それが結婚したくない人たちが増えている、孤独というのか一人生活を望むひとが増えているのかもしれません。

 

あるいは男女の性差を前提に、男女が一緒になるといったことが当然の前提とする考え方、土台が揺らいでいるのかもしれません。子どもを産むことが人口減少社会で望まれるとしても、それは個々の選択を制限するものであってはならないでしょう。

 

男女の仲、夫婦の関係も、セックスが必須でなくなってきたのかもしれません。精神の進化はいまそこまでたどり着いた?のかもしれません。

 

ここで先日も紹介したNHK人間ってナンだ?超AI入門 シーズン2 3回「発想する」>で登場したAIのことを少し取り上げたいと思います。AIはマンガの外観から男女差がわかるような彩色などさまざまな要素で当然のように区別した結果を示します。でもAIエンジニア?の話では、AIは性差を理解していないとのことです。人がその画像を見てさまざまな区別をしていることがビッグデータとして入力されているため、その結果として男女の違いが現れるようです。

 

まだ人間の細やかな心理状態には到達できていないようです。さて私たちは生物学的な性差をどこまで受け入れ、その機能をどう取り扱っていくのか、ますます混沌としそうですが、それぞれの自由な考え、生き方を大事にする世の中になってほしいと考える一人です。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


障がい者と建築対応 <机上のバリアフリー 都条例案「客室の浴室・トイレ入れぬ」>などを読みながら

2019-01-21 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190121 障がい者と建築対応 <机上のバリアフリー 都条例案「客室の浴室・トイレ入れぬ」>などを読みながら

 

人のために仕事をするというのはどんな仕事でも骨が折れます。まして建築となると、建築物の種類・用途によって違ってきますね。私も仕事柄多くの建築士さんと一緒に仕事をしましたが、弁護士も十人十色ですが建築士さんもそうですね。ましてや施主を含むステークホルダーが多様な場合余計ややこしいでしょう。

 

さらにバリアフリーというと多様な注意点がありますね。今回は障害のうち、車イス利用者に焦点をあて、ホテル客室を対象として、東京都が既存のバリアフリー条例を強化する改正案素案を示したところ、問題になっています。

 

今朝の毎日記事<ともに・2020バリアーゼロ社会へ机上のバリアフリー 都条例案「客室の浴室・トイレ入れぬ」>です。

 

<2020年東京五輪・パラリンピック開催を控え、東京都が示した改正バリアフリー条例の素案に対し、見直しを求める声が上がっている。>

 

理由は<全国に先駆け、ホテルの一般客室をバリアフリー化する内容だが、示された基準では一部の車いすが浴室やトイレに入れなくなるからだ。都は実験をせず、机上の検討で基準を決めたといい、障害者団体はバリアフリー促進を歓迎しつつも「誰でも使えるようにしてほしい」と訴えている。【成田有佳、市川明代】>ということです。これだけ読むと一体どういうことかと思ってしまいます。

 

具体的には<都が改正するのは「建築物バリアフリー条例」。東京大会や高齢化社会で車いす利用者が増えることから、新築・増改築部分の床面積が1000平方メートル以上のホテルの全ての客室について、段差をなくし、客室の出入り口幅は80センチ以上、室内の通路とトイレや浴室の出入り口幅は70センチ以上にすることなどを盛り込むことにした。>客室出入り口と室内通路やトイレ・浴室の出入り口の幅が問題になっています。

 

支援団体と研究者が<基準に従って段ボールで客室を再現して実験したところ、手動車いすは通路から曲がって浴室やトイレに入ることができるが、簡易電動や電動の車いすは壁にぶつかって入れないことが判明した。>ということで、手動以外はダメということです。でも曲がってはいるなんてことは若い人なら可能でしょうけど、高齢者だと手動でも無理かもしれませんね。つまり曲がってはいる構造自体、よほど余裕をもたせていればともかく、どうかと思うのです。

 

そもそも国の基準(ガイドラインですが)では幅80㎝となっているのに不思議ですね。

<国土交通省が17年に改正したガイドラインは、バリアフリーに配慮した一般客室の設計標準をトイレと浴室の出入り口は原則80センチ以上、通路幅は100センチ以上としている。>

 

東京都の説明は事業者が現状を変えなくて済む点に配慮して素案を作ったようです。

<素案策定に関わった都政策企画局の本木一彦担当課長によると、基準はJIS規格の車いすの幅が70センチ以下であることを参考に定めた。入り口幅が70センチなら、多くのビジネスホテルで使われているユニットバスの広さのまま対応でき、ホテル側が導入しやすいことなどを考慮したという。>

 

しかし、これではバリアフリーというのは羊頭狗肉(false advertising)と言われそうですね。どうも東京都は大きくなりすぎたのか、聞こえのいい看板を打ち上げるのですが、中身を伴わないことが少なくないように思います。そういえば小池都知事について以前ブログで書きましたが、彼女のキャスター時代はすてきでしたと過去形にならざるを得ないかもしれません。

 

それはともかくここから本題に入ろうかと思います。長い前置きでした。まずはこの入り口幅の広狭は手動車イスならOK、簡易電動や電動の車イスはダメということで問題にされています。

 

手動で車イスを移動させる方は割合元気な方が多いでしょう。また上肢は健康な方ではないかと思います。でも下肢だけでなく上肢も不自由な方にとっては一人でのホテル滞在はこのような東京都の姿勢ではあきらめないといけないように思われます。

 

このような人はいろいろな支援を受けて、移動はもちろんさまざまな手を使うことが困難な中努力してようやく一人でも簡単なことができるようになったのだと思うのです。そういう人にとって、トイレや浴室(多くはシャワーかもしれません)を一人で利用する場合、ドア自体に手の不自由さを配慮したものでないと使えなくなる可能性があります。

 

私は以前、住宅建築で障がい者の立場でそのような問題を担当したことがあります。工務店は障がい者の不自由さを一般的には理解しようと努めたのだと思われますが、不自由さをきちんと具体的に詰めていなかったため、もの凄い数の不具合が生じました。

 

おそらく障がい者の人もまた十人十色の多様な不自由さをお持ちでしょう。それに応じるにはとりわけ住宅では個別的な対応が求められるでしょう。これは極めて繊細な作業でないと不適合になります。むろん建築基準法やバリアフリー法にはそんな配慮がありません。まさに建築士・施工者の腕の見せ所、プロとしての力量が問われるのかもしれません。

 

費用対効果といいましょうか、工事費用との関係がありますから、そのような配慮が必要だと当然その分費用がかかる一方、それを受け入れてもらえるようにするか、他の費用を抑えるといった代替案で見積もるなど工夫が必要でしょうね。

 

では、ホテル客室の話に戻すと、本気でバリアフリーを考えるのであれば、足は不自由でも上半身は健康なアスリートタイプの方を対象にしたのでは、海外からはもちろん国内でも評価されるはずがないでしょう。ホテル客室の例だけでなく、わが国の多くのバリアフリーは極めて限定的な対応にとどまっているように思います。ホテル客室にたどり着く前に、移動するいろいろなところで躓くのではないかと懸念します。

 

公共空間の動線にそった的確なバリアフリー措置を東京都が率先して行い、その上でホテル客室など特定施設についてその障害に多様に対応する措置を抜本的に高じてもらいたいものです。

 

ところで参考までに

国交省の<建築物におけるバリアフリーについて

その中にある

建築物に係る単体規制の概要

建築物移動等円滑化基準チェックリスト

東京都の<建築物バリアフリー条例

を引用しておきますので、関心のある方は

 

相変わらず焦点の定まらない話となりました。はじめ書こうと思っていた内容がどうもピントがはっきりせず、ぼやっとなりました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


人はいろいろ <映画「いろとりどりの親子」>と<障害者採用 国要請に35自治体応じず>などを見読みしながら

2018-11-26 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

181126 人はいろいろ <映画「いろとりどりの親子」>と<障害者採用 国要請に35自治体応じず>などを見読みしながら

 

昨日でしたか朝のNHK番組で、<映画「いろとりどりの親子」>が一部紹介されていました。それはドキュメンタリー映画で、さまざまな親子の姿をそのまま描いていました。

 

たとえば、ろう者の子が親子で登場します。両親が手を焼いている姿も映っています。でもその子がアルファベットの文字盤のようなものを見せられ、一つ一つを知り、それを通じて両親と意思疎通ができるとみんなで大喜びです。ダウン症の子とか、自閉症の子なども似通った体験をしていました。

 

あるいは、手足が極端に短く車イスでしか移動できない男性。でも町の中を堂々と電動車イスで走り抜けています。それだけではありません、たしか大学教授だったように思うのですが、専門分野を教え、そして同じように障害のある女性と結婚し妊娠したことを両親と夫婦で祝っていました。普通の生活を成し遂げているのです。

 

映画化された著作の原作者はゲイで、長く両親から疎まれ、苦しみ、「普通」に生きることの苦しさ、難しさを体験する中で、他の人に感心をもつようになり、様々な親子を300組を取り上げたのです。映画は6組の親子をドキュメンタリータッチで描いたものです。

 

「体は不自由でも心は自由なのさ」と語っています。 

「普通」を超えて、それぞれの個性を認め、いろとりどりであることを認め合う親子として、生きがいをもって生きているのです。

 

私自身が直面したときどうなるかわかりませんが、できればこういったいろとりどりの親子の一人になったり、それを自然に受け入れる一人になりたいと思うのです。そうではなく「普通」という冠付きの親子とか、家庭生活とか、職場生活とか、そういった意識をもつ人間の一人にはなりたくないと思うのです。

 

今朝の毎日一面には<障害者採用国要請に35自治体応じず 種別を限定>という記事が掲載されていました。

 

地味な記事ですが、上東麻子記者の「一隅を照らす」いい内容です(むろん多くの記者の協力があったのだとは思いますが)。

 

<全国都道府県の正職員採用試験の障害者枠で35道府県が採用を身体障害者に限定していた問題で、これらの道府県は2016年8月、厚生労働省から障害種別を限定しない「公正な採用選考」を要請されていたにもかかわらず、門戸を開いていなかった。>

 

むろん<障害者雇用促進法では、精神・知的障害者の雇用も義務づけている。>にもかかわらず、あえて身体障害者のみに限定した採用をしていた道府県が大半であったことに驚きとともに、やはりそうかと思ってしまいます。

 

障がい者と聞いてイメージするのは身体障害者が多いのではないでしょうか。いろいろな障害の人がいます。精神障害や知的障害でもいろんなタイプがいます。でもバリアフリーでも取り上げられるのはもっぱら身体障害者ではないでしょうか。精神・知的障害者の方々に多くの人の注意が払われているとは思えません。

 

記事にあげられたように、職員採用において自治体の対応がそのことを如実に示しているように思えます。国のほとんどの官庁が障がい者雇用において不正をやっていたわけですから、自治体においても同様な結果がでるのも当然かもしれません。国の場合も精神・知的障害者を雇用した例はほとんどなかったのではないかと記憶していますが、この点は明確でありません。

 

<厚労省障害者雇用対策課が総務省を通じ、都道府県や政令指定都市に要請した。・・・地方公務員の募集・採用について「身体障害者に限定することなく、他の障害者にも広く門戸を開き、能力・適性のみを基準とした公正な採用選考の実施」を求め、精神・知的障害者の雇用を促した。>というのですが、厚労省自身が不正をしていたのですから、どの程度本気で伝えたのか危ういですね。

 

実際、地方では<富山県の人事担当者は「特段それ(厚労省からの要請)を受けてしたことはない。他県もやっているところは少ないのでしていない」と話す。>というわけですから、厚労省が1通の通知くらいで、要請したといってもそれは通らないでしょう。

 

でも自治体によってまじめに障がい者採用に取り組んでいるところもありますね。<今年度から3障害に門戸を開いた島根県の担当者は「法改正に加えて要請があったことで、制度改正に至った」と明かす。>

 

ところで、1122日毎日記事では<障害者採用常勤1200人 来年末までに 省庁計画で厚労省>とありますが、ここでは種別が示されていません。やはり心配ですね。厚労省がしっかりリードして自治体だけでなく国の対応について、常勤・非常勤の違いだけでなく、種別を示すべきでしょう。

 

私たちは、障がいがあること、それを多彩で多様な生き方として尊重し、社会で共に生きる道を歩むことこそ、自由平等と人権が保障された未来に向けた社会づくりの一環と考えて、戦後の憲法を大事にしてきたのではないかと思うのです。

 

むろん知的障害や精神障害のある人たちが仕事のできる場、仕事に就くことを支援する場、訓練機関など、まだまだその整備が追いついていない中、急に採用と言ったことが容易でないことも理解できます。どちらが先か鶏と卵ではないですが、対応が遅れている現状を把握して全般的に底上げが必要でしょう。

 

オリンピック・パラリンピックや万博も大事かもしれません。他方で、置き去りにしてはいけない問題について、映画「いろとりどりの親子」は異なる地平線で描きつつも、なにかを鋭く物語っているようにも思えます。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


外国人と文化の違い <インド人の町の現実>を見ながら

2018-11-25 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

181125 外国人と文化の違い <インド人の町の現実>を見ながら

 

一昨日、<外国人とのおつきあい>のテーマで移住を前提とした統合的な政策をとの意見に賛同する趣旨で書きました。といっても外国人もいろいろですし、それぞれ多様な独自の文化を抱えてやってきますから、文化・風俗をめぐる軋轢は起こることは確かです。

 

そんなことを取り上げたのは今朝の<報道プライムニュース>でした。ゴーンさんの話題の終わり頃から見ましたが、次のテーマが<インド人の町の現実>でした。東京江戸川区の西葛西周辺が最近、インド人が大勢住むようになったとのこと。

 

東京に住むインド人の大半が住んでいるというのです。といっても中国人街という各地の繁華街であるような形で町を形成しているまでには至っていないようです(そういった画像はなかったと思います)。

 

でもインド関係専門の食材店とかカレー専門店が目立つようです。なぜ西葛西に集まるかの問いに、荒川というのに驚きつつも、ガンジス川のような流れを感じることができるからというのは腑に落ちます。

 

私も四半世紀以上前、カヌーでよく荒川下りして、東京湾に出て、東京港まで出て、時折、空き地だらけの埋め立て地周辺を遊覧しますが、たいていは西葛西の海浜公園で上がって、造成中の公園を見ながら、西葛西駅に向かっていました。懐かしい場所です。

 

当時は荒川を下ったりしているのは私くらいでしたか、大空と水の流れとが一体となって気分は最高でした。とりわけ東京湾に出る河口付近は海流とのせめぎ合いで三角波が立ち、ちょっと大海にでる気分?になれたかなと思います。

 

ですのでインド人がガンジス川とは比べようもないですが、東京近郊で割合アクセスしやすい荒川河口付近の西葛西を選ぶ気持ちはなんとなく分かります。

 

ところで、番組は文化の違いをクローズアップさせていました。インド人はベジタリアンが90%ととか?その割合がどの程度正確かは分かりませんが、かなりの比率を占めることは確かなのでしょう。そのこともあり、インド人の人たちは日本人との交際をほとんどしていないというのです。男性同士、女性同士、異性間、いずれの場合も、ちょっと親しくなればどこか食べに行こうといっても、わが国は食天国といってもベジタリアン向けのお店は極めて希でしょう。それはイスラム教徒が遵守すべきハラールの場合も少し増えたとは言えまだまだ希少ではないでしょうか。

 

そのためかインド人は同じ国の人同士としか付き合わない、集団にならないというのです。そして番組でとりあげたのは、夜、インド人が集まって独自の祭りを開催していて、当然、見たことがないような催しであり、インド人以外はほとんどいない、奇妙な風景となっていました。

 

ますます孤立化する可能性をインド人の町での光景が示しているかのようです。それは日本での例が特別かと言うこと、おそらく他の国でも同様のことが起こっているのではないかと思います。

 

私がカナダで経験したのは、タクシーの運転手にインド人が多く、ある地域にはインド人が多く住み街区を形成していました。実際の風習は見ていませんが、おそらく番組で取り上げられたようなことは行われていたのではないかと思います。

 

それはインド人だけが例外ではないと思うのです。北米では韓国人街、中国人街、メキシコ人街など、それぞれの出身国の人たちが集団で暮らすのは普通のように思えます。

 

そのような人の動き自体は、それなりの合理性があり、ベジタリアンであることにより周辺になんらかな悪影響を与える分けではないので、問題とすることではないように思うのです。かえって日本人の中には江戸期以前のようにベジタリアンに戻るかもしれません。

 

ただ、インド人のことが取り上げられたので、ある事件のことを思い出しました。それは20年くらい前のイギリスでの出来事でした。イギリスには驚くほど水路が入り組んで田園地帯を流れています。そこに結構なボートが乗客を乗せて(多くは観光客)行き交っています。

 

事件は、インド人が集団で行った散骨を問題にしたことで大きく取り上げられたのです。私は報道をTVで見たのかどうかはっきり覚えていませんが、少なくともウェブ記事でしばらく取り上げていましたので注目してみていました。

 

インド人にとって母なるガンジス川のそばで遺体を焼き、船に乗って踵骨を撒くことが悲願なのですが、異国の地ではそれに代わるものとして、近くの川に散骨することで希望が満たされるようなのです。

 

その散骨が、わが国のように、静寂の中しめやかにおこなわれるのではなく、楽団がけたたましく鳴り響き、手向ける花なども膨大な数を川に流すようで、とても豪華絢爛さを誇るというか、大事にするようです。

 

その結果、さまざまな苦情が当局に訴えられ、話題になったのですが、その結末は仕事にかまけてフォローできず、どうなったかと思っています。

 

私がイギリスの散骨事情を調べたのが90年代初頭でしたが、そのとき散骨場所については制限がなかったと記憶しています。テムズ川に撒くことも問題ないということでした。たしかにテムズ川もロンドン市域だとその水質は決して褒められたものでなかったですね。ただ、少し上流に行けば清浄な流れになっていますが。

 

ともかく散骨におおらかなイギリスというのも、イギリス人の葬送の個人主義というか、清楚で静寂さを前提にしているように思えます。インド人を含め東南アジアの国々のように豪華(国・地域によって違うでしょうけど)に行う場合、散骨のイメージも違ってきますので、川の清浄さや静謐さに配慮した保全策を講じたのかもしれません。

 

そんな具合に、外国人が同じ地域に住むとなれば、衣食住はもちろん、生死という一生を通じてさまざまな文化の衝突があるのは当たり前でしょう。それをはじめからダメというのではなく、わが国の法制度・慣習との折り合いをつけながら、工夫してやっていくことが求められるのではないでしょうか。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 


外国人とのおつきあい <論点 「移民社会」 入管政策のあり方>を読みながら

2018-11-23 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

181123 外国人とのおつきあい <論点 「移民社会」 入管政策のあり方>を読みながら

 

今回の臨時国会では、入管法改正案をめぐって与野党が大きく対立し、他方で議論が深まっていない印象です。政府与党は、人手不足に対応すべく外国人労働者の受け入れ拡大に向けて、新しい在留資格を設けようと提案していますが、移民政策かどうかといった名前と本質論からはじまり、将来を見据えた議論が煮詰まっていない感じを受けます。

 

そんなとき毎日新聞は、<縮む日本の先に「移民社会」の足音/7 壁なくす支援模索>などの記事で、日本の現状を掘り下げています。そして今朝の記事<論点「移民社会」 入管政策のあり方>では、3人の論者が異なる立場で、入国管理と移民政策について議論していて、参考になります。

 

高宅茂・元法務省入国管理局長は、自身の経歴もあるでしょうけど、独立国としての入国管理の必要性を説いています。

 

<世界に独立国家が併存している以上、国家が無条件・無制限に外国人を受け入れることはあり得ない。通常は自国の経済・社会の発展を考え、政策として受け入れ範囲を決めている。我が国の場合は在留資格によって範囲を限定し、不法滞在や不法就労などで在留する範囲外の外国人は強制退去としている。>

 

私が仕事で、外国人の刑事事件や、在留資格の問題を取り扱っていたのは30年くらい前でしたが、一定の刑事犯で在留資格がなければ強制退去が普通でした。大使館の職員が傍聴にしていました。東南アジアや中南米だと中に、通訳も当時さほど能力が高くない人も登用されていましたので、意思疎通が大変でした。

 

他方で、不法滞在や不法就労が発覚することもさほど多くなかった(摘発も厳しくなかったと思うのです)ので、強制退去がそれほどあったかなと思うのです。

 

ところが、<近年、日本国内に生活基盤があることなどを理由とする本人の送還忌避や、母国の引き取り拒否により、送還できないケースも増えている。出入国管理政策が確実に実施されていないという点で問題と言えるだろう。>

 

たしかに外国人労働者が急速に増えている中で、上記のような事例は当然増えるでしょうし、それまでの出入国管理制度で対応できるかは問題でしょう。

 

高宅氏は<近年増加傾向にあるのが不法就労だ。>であり、在留資格外での就労が主要因として、これに対応するため、<新たな在留資格では、受け入れ企業などが日本人と同等以上の報酬を支払うなど一定の労働条件を確保しなければならない。不法就労者を雇用する企業には「負担増」になるため、新資格導入だけで不法就労が目に見えて減ることはないだろう。>と改正案の意義を指摘しています。

 

<新資格導入が「移民政策か否か」との議論>については<在留期間の更新などを重ね、結果的に一定の要件を満たした際に永住を認めることはあっても、最初から日本人にするつもりで受け入れているわけではない。>として、<ただ、「特定技能2号」(在留期間更新可、配偶者と子の帯同可)によって将来的に永住者が増える可能性はある。今後受け入れる外国人の処遇が重要であり、最初から移民か否かを議論しても空回りするだけだ。>と野党の議論に批判的です。

 

しかし、高宅氏が指摘するとおり<これまで出入国管理政策の基本は「受け入れるべきではない人の受け入れを防止し、そうでない人は円滑に受け入れて活躍してもらい、違反した場合には強制退去にする」>というこれまでの政策が今、問題となっているわけですね。

 

それをこの改正法案について、本質の議論をしないでいて、<今後はより中長期的な視点から外国人と日本人が分裂・対立することのないようにすることが重要だ。社会保障も含めてきちんとフォローする必要がある。【聞き手・和田武士】>ということでよいのか、しかも出入国管理だけを担当する部署の格上げをしても、外国人と日本人の間ですでに発生している問題を今後も自治体に丸投げするようなことにならないでしょうか。

 

日本はすでに日本人だけではやっていけなくなっていることもあるでしょう。また、元々、日本人自身が多元的な由来をもつのではないかと思いますし、縄文以前、弥生期や古墳時代の渡来、あるいは百済滅亡時の渡来などなんども繰り返されてきたのではないかと思うのです。

 

次の藤巻秀樹・北海道教育大教授が指摘するように、過去の外国人労働者政策の場当たり的な対応を反省すべきだと思うのです。すでに入管法改正案だけで対応するのは不適当な時代に直面しているのではないかと思うのです。

 

そういえば弁護士の場合も外国人弁護士が一定の職務制限で門戸が開かれ、20年くらい前でしたか、結構な数が入ってきたように思います。その中でドイツ人弁護士と意気投合して、飲食を供にしましたが、弁護士業界としてはさほど影響がなかったのではないかと今思っています。むしろその後の法曹改革でどっと弁護士の数が増えた影響は甚大でしょうね(余分な話ですが)。

 

<移民政策の両輪は「どういう外国人を受け入れるか」という出入国管理政策と、「外国人をいかに日本社会に迎え入れるか」の社会統合政策だ。>

 

<外国人に納税者、消費者、そして社会保障の負担者になってもらうには、彼らを豊かにすることも大切だ。「出稼ぎ留学生」や、就労目的の「偽装難民」が多いのは事実だが、彼らは働く意欲を持った人たちだ。不法だからといって全て排除するのではなく、労働者として受け入れるよう留学生や難民はきちんと審査した方がいい。>

 

年金・医療・介護を支える若い労働者がどんどん少なくなっていて、回復の見込みが少ない現実を受け止める必要があるでしょう。いや外国人を労働力という片面的な見方をすること自体疑問です。日本という国、環境を誇るのであれば、もっと外国人を受け入れ、単に観光インバウンドだけでなく、一緒に働き生活する場を提供することこそ、平和国家日本の生き方ではないでしょうか。

 

私はドイツなど西欧諸国で、あるいはカナダ・アメリカという北米でさえ、移民の人たちが特定の職に偏って配置されていることの問題も気になっています。むろんITなど最先端で働いている人も少なくないのですが、多くは清掃・土木とか、タクシードライバーとか限定されているように思えます。

 

ガブリエレ・フォークト 独ハンブルク大教授は、さらに至言ともいうべき<「未来の市民」か「客」か>と問いかけます。

 

<国際的な労働力に門戸を開放することは、多様な文化の人々に社会を開くことだ。そうでなければ、外国人労働者の社会統合は進まず、摩擦を引き起こしかねない。外国人との触れ合いが少ないためか、外国人に対する日本人の不安感は大きい。この不安にきちんと対処することが、日本社会への外国人統合の最初の一歩になる。【聞き手・念佛明奈】>

 

私たちは今、多元的な文化を受け入れる時代にあると思うのです。フォークト氏の言葉は当然ながら、私たちは本気で覚悟して受容することが求められているように思います。日本の文化はそれによって新たな脱皮が可能になり、日本文化がより輝きを増すように思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。