たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

島国日本のこれから <入管法改正案 外国人就労拡大>などを読んで

2018-11-03 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

181103 島国日本のこれから <入管法改正案 外国人就労拡大>などを読んで

 

いま世の中、入管法改正案等による外国人就労の拡大をめぐって紛糾しているようです。恥ずかしながら、ずいぶん以前から新聞で取り上げられていたかと思いますが、あまり気にとめていませんでした。

 

私の立つ位置が明確に定まっていないことと、既存の入管法制度の実態もよくわかっていないこともあって、関心を呼ばなかったのかもしれません。

 

ただ、私自身、45年以上前、ドイツを訪れたとき、むろん驚くことばかりでしたが、とりわけ印象に残っているのは、たしかハンブルクだった思いますが、そこでの人種をめぐる強烈な体験です。朝早く通りを歩いていたら、きれいに清掃作業をしている人たちがいました。人相や肌の色から、すべて中近東周辺から来ている人に見えました。いわゆる白人は一人もいませんでした。職業差別というか、一定の職種が移民によって担われていることを意識したのです。別に清掃作業を蔑視するつもりはありません。私は日本における清掃作業ほど高い能力が求められていると思っていますので、より現場職員に分別をはじめ一定の権限を付与すべきと言ったことを30年くらい前にある雑誌に書いたことがあります。

 

さらに脱線しましたが、このような経験は、その後いろいろな国を訪れるたびに、感じることがありました。逆にブラジルでは白人(ポルトガル系?)の女の子が汚れた服装で、通りがかかった私たちの車に寄ってきて、なにかをねだることがあり、ガイドに無視するようにといわれ、そのまま通り過ぎましたが、これまた肌の色だけで社会の末端での生活を強いられているかは決められないことを感じました。

 

他方でわが国は、つい最近まで、在日中国人や朝鮮人の人たちが身近にいる人を除き、さほど外国人の存在を意識することがなかったように思います。

 

私が入管法上の問題に関わった90年代初頭ころ、就労制限が厳しく、たいていが闇で働いていて、そういう人たちと出会うこともなかったと思います。

 

それが2000年代に入ってからでしょうか、一定の職種で就労する日本人が確保できなくなり、一定の条件で就労の機会を外国人に付与しないと、産業自体が成り立たないこともあって、政府が外国人就労の樋門を少しずつ開けるようになり、その後は飛躍的に増加してきていますね。

 

それによってさまざまな問題が起こっているようです。

 

ここで記事の内容というか法案そのものを取り上げる前に、わが国の歴史を少し振り返りたいと思います。

 

わが国が単一民族の国といったことは何か裏付けがあるのでしょうか。そもそも島国で、どこかからやってきて住み着いたわけですね。そのことだけをとっても単一民族性は成り立ちにくいと思うのです。いやそれは昔のこととして無視するのも結構ですが、そこに本質があるように思うのです。

 

弥生時代に朝鮮半島から大量の移動があったとか、その後も神功皇后時代や百済消滅後とかに大勢が渡来したとか、言われることがありますが、それも一面ではないかと思っています。島国ですから、どこからでもやってこれます。大海を怖れなければどこからでも到着でき住み着くことができます。それを受け入れる風土があったのではと思うのです。

 

1000年以上、あるいは1300年以上かけて、単一民族国家を模索してきたかもしれませんが、日本人の気質は本来、誰をも受け入れるものであったのではと勝手に思っています。それは縄文文化や縄文人を勝手に解釈しているかもしれませんが、そういう人たちであったのではと思うのです。それは1万年以上をかけて形成され、培われた考え方ではないかと思っていますので、いくら為政者が人工的に変えようとしても、本質は変わらないと思いたいのかもしれません。

 

ギリシア・ローマは、高い文化・文明を作り上げましたが、まさに外人(アテナイというポリスに生まれなかったアリストテレスですら、アテナイでは外人とされたと言われています)、奴隷の労働生産性により、少数が市民的自由を謳歌したのではないでしょうか。それに比べ、縄文文化の自由・平等は差別がないか極めて平等性が高かったのではないかと思うのです。

 

また、韓国人や中国人、あるいは東南アジアの人たちでも、結構、日本人と間違うほど、似通っていると思うことがあります。国家がいつ成立したか、ローマほど明確でなく、わが国の場合、せいぜい天武天皇の政権確立期でいいかもしれないと思っています。その間、国家がないのですから、自由に人々は島国の外を出入りしていたのだと思います。倭寇は中世に初めて生まれたのではなく、元々縄文時代から交易から場合によって海賊に近い行為もあったのではと思うのです。

 

饒舌な前口上を意味なく書いてきましたが、移民を必要以上に制限することに、私の不明瞭な立つ位置を少しでも明確にしていくと、大いに疑問を感じていることを明らかにしようとしたのかもしれません。

 

移民解放によるトラブルは、地中海沿岸諸国(多くには難民かもしれませんが)、EU諸国、UKUSAも、長い移民受け入れ政策の後、最近では国を揺るがす問題となっていることは誰もが苦慮することでしょう。将来の移民対応を考えて、国内外の混乱を避けるため、段階的な移民政策をとることが求められることやむを得ないことと思います。

 

では今回の入管法改正案は妥当なものか、それは毎日記事で多くの紙面を割いて、議論の概要を取り上げていますので、関心のある方は後で引用する記事タイトルをクリックしていただければと思います。

 

私は毎日記事<時の在りか移民家族と共に暮らせば=伊藤智永>が少し参考になりました。これは法案の内容を個別に議論しているわけではなく、政府の法案が<事実上の移民解禁につながるかもしれない大転換なのに、福祉の整備などは走り出して考えるらしい。>として、受け入れる私たちの覚悟を問いかけているのです。

 

トランプ政権を支持する白人たちが問題にする移民に適用される健康保険制度。すでにわが国でも少しずつ問題が発生しているようです。<「外国人が日本の医療保険にただ乗りしている」>こういったただ乗りを見過ごすような制度のあり方は見直しが必要でしょう。

 

実質的な移民が増えることは間違いないわけですが、それに対応する社会福祉は対応できていません。<新制度では熟練した人材と認められれば、配偶者と子供も日本に住むようになる。在留期間は更新できる。多様な人種と国籍の「中身は日本人」が増える>

 

認可保育所の中で、すでに兆候が現れているようです。<豊島区の園は40%、江東区の園は25%が外国人。国籍は中国、韓国、米国、フランス、ネパール、ロシア、ミャンマー、ベトナム、インド、チリ、ポルトガル……。>これでは「聖徳太子」がいても対応できませんね。

 

よくいわれる言語の壁ですが、<保育士はスマホの翻訳アプリなどを駆使し保護者と各国語で会話する。>そうですね、この翻訳アプリは普通の日常会話なら結構つかえるのではと期待します。主要言語以外、どこまで本当に利用できるのか、検証が必要ですが、英語並みであれば、日常的にはなんとかなるように思うのです。

 

こういった翻訳アプリ、たとえば保育所用とか、医療用、介護用とか、目的別にするとより使いやすくなるとか、小型化・軽量化(たとえば胸ポケットに入るクレジットカードくらい)できるとより汎用性がでてくると思うのです。それだけで移民受け入れの壁が低くなると思うのです。

 

生活習慣の違いも大きな問題かもしれませんが、それはこういった移動社会、開放型の社会になれば(縄文文化的?)、あまり自分の慣習にこだわらず、おおらかに考えることも大事ではと思うのです。むろん母なる地球環境を大事にすることは共通の土台ですから、たとえばプラスチックゴミの抑制、分別の徹底という、日本人もあまり得意でないことを一緒に協力して進めていく度量が必要でしょう。


私がこんな立ち位置を書いたのは、おそらく現在の日本社会に住む人たちの中に、ごく狭い閉鎖社会を維持しようと、寛容性を弱める一方、自我を強調しすぎる傾向を感じたからかもしれません。さまざまな人と触れ合い、相互に相手を認め合うことにより、自我を弾力的にしてより本来の自由を獲得することに集中できるのではと思ったからかもしれません。

  

以下、今日の紙面で掲載された記事のみ出しを引用します。関心のある方はクリックすれば内容が見られると思います。

 

入管法など改正案 骨子

入管法改正案外国人就労、初年度4万人想定 国会提出

クローズアップ2018外国人材拡大 急ごしらえ新制度

入管法改正案外国人就労拡大 多文化共生、期待と不安 地域社会で賛否

 

一時間が過ぎました。今日も、論旨不明、文脈混乱となりましたが、ここまで読まれた方はお疲れ様でした。また明日。

 


第三者委のあり方 <障害者雇用 水増し問題 第三者委報告 不適切慣行>と<水増し「悪質だ」 進次郎部会長>などを読みながら

2018-10-23 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

181023 第三者委のあり方 <障害者雇用 水増し問題 第三者委報告 不適切慣行>と<水増し「悪質だ」 進次郎部会長>などを読みながら

 

パラリンピックをはじめ障害者の置かれている厳しい状況の改善がわが国でも少しずつ注目されるようになりました。

 

そんな中、障害者雇用・国の水増し問題について毎日新聞は継続的に取り上げてきました。そして今朝は第三者検証委員会の報告を受けて、第一面から4面をほぼ全面で取り扱っています。障害者雇用を率先して進めないといけない国の行政機関のほとんどで、そのガイドラインを逸脱して水増ししていたことについて、検証結果の内容とその評価が追求されています。

 

第一面の<障害者雇用水増し問題 国が3700人 93%手帳・診断書なし 退職後も補充せず 第三者委報告>では、<不正計上は昨年6月時点で国の33の行政機関のうち28機関で計3700人(実数)に上った。このうち約93%に当たる3426人で、国のガイドラインで定めた障害者手帳や指定医による診断書を持っていなかった。>ことを明らかにしています。

 

障害者手帳も診断書もなく、どのようにして障害者性を客観的に判断できるのでしょう。

<報告書は「障害者の範囲や確認方法を恣意(しい)的に解釈していた。極めて由々しき事態」と批判した。>また<報告書は「前例踏襲で長期にわたり多くの行政機関で不適切な実務慣行が継続していた」と結論づけた。>ともされています。

 

第三者委員会は、恣意的な解釈とか、前例踏襲で不適切な実務慣行とか、はっきりいえばあいまいな結論にとどまっています。

 

この点、松井委員長の記者会見を取り上げた<障害者雇用 水増し問題 第三者委報告 不適切慣行、漫然と>では、同委員長の見解を引用しています。

 

<「法定雇用率を充足するため、恣意的な不適切計上が行われていた」と指摘したが、「故意ではなかったか」との質問に「主張を覆す裏付け証拠が出てくれば別だが、故意性、意図性を認定できない」と繰り返した。>と。

 

証拠がない以上、故意性を認定できないといのは、検事出身ですから、当然の発言です。こういった不正・不適切な事例について、第三者委員会が求められるのは、すでに不正なデータがある中で、不正に直接関係した人たちの認識について、捜査経験を生かしていかに適当な弁解を許さず客観的証拠を踏まえて追求するかということが求められるのではないかと思うのですが、本件の記者会見での質疑でそのような調査経緯が合理的に語られたかというと、疑問を感じます。

 

松井氏の所属する法律事務所ホームページにそのプロフィールが掲載されていますが、長い検事経験をされていて、ある時期までは現場で相当の経験をされてきたことがうかがえます。弁護士になってからは第三者委員会の経験も結構されていて、高い評判を得ているのでしょう、いろいろなところで推薦される方のようです。

 

ただ、記者の質問<意図性を断定する証拠がなかったということだが、約1カ月という検証期間が制約となったのか。>に対し、<1カ月あまりではあるが、濃密に調査・検証ができたと考えている。>と答えていますが、どうしてそういえるのでしょう?

 

さらに<(不適切計上と認定された)3700人について徹底的に検証することになれば、捜査に近いものになる。>と回答していますが、なぜ3700人の個々に調べることが捜査に近いものになるのでしょう。だいたい「徹底的に検証」といって弁解していますが、そのための第三者委員会ではないのでしょうか。適当な検証ならやらないほうがましでしょう。

 

<(不適切な慣行を)共有していたのは、地方の人事担当の人が多い。そういう人たち一人一人を呼んで聞くというのが、長期間かけて本当にできるのか。私の過去の経験からは疑問がある。>そうこの方は、こういう考えをお持ちですから、依頼に当たっても、個別に担当者に聞き取ることはせず、だれか各省の担当者が聞き取ったか整理した上で、その担当者の話を聞いて検証したというのでしょう。

 

次の回答からは、そもそも相当先入観を抱いていたうえで検証にあたったようにも見受けられます。

<今回の問題については、「考えた」というよりも、「考えずに行われた」という感が強い。前例踏襲で新たな障害者を雇う努力をせず、独自の不適切な実務慣行が漫然と行われていた。法に従う公務員の仕事としては、あぜんとする思いだ。>

 

このような松井氏の感じ方が、個別に担当者から聞き取った上で(仮に全員でなくても相当数に絞った上でも直接聞き取った)、このような考えに至ったのであれば、そのような具体的な担当者の言葉を引き合いに出せますが、どうもそのようには思えません。

 

また<意図的な計上はなかったという認識か。>との質問に対する答えが<意図的だというケースは認められなかった。架空の人を計上するとか、障害の実態をまったく考えないででっち上げるといったものはなかった。>ということですが、<障害の実態をまったく考えないとしていますが、そういえるのか疑問です。

 

水増し問題 検証委員会の報告書 詳報>によると< ・視覚障害について、矯正視力ではなく裸眼視力で測定すると誤解。>としていますが、裸眼視力で障害を認定することは常識的にありうるのでしょうか。私も障害認定されそうです。悪質な民間企業ならそういった弁解もありうるでしょうけど、国家機関の人事担当がそのような認識であったとみるほうが不自然ではないでしょうか。

 

また<人事記録の自己申告や同僚職員らの供述、担当者の主観で判断。>といったことは、担当者はすくなくとも当該「障害」と認定した人を認識していて、根拠なく判断したというのですが、その人を知っていれば障害の実態をまったく考えないででっち上げたのに等しいのではないでしょうか。当該人物について、障害の種類・程度が明らかにされていないので、でっちあげかどうかさえ、これだけでは判断できません。個人のプライバシー保護の必要性を考慮しつつ、報告書の内容には詳細な言及がされていることを期待したいと思います。

 

さらにいえば<過去の計上例を参考に漫然と当てはめた。>と概括していますが、上記を含めこのような弁解が通るのであればわざわざ検証した意味がないと感じるのは私だけではないように思います。

 

個別の検討をすれば、それぞれ事情が異なるのですから、個々の担当者からの聞き取りをすれば、もっと具体的な事情が判明するでしょう。すでに省庁間で連絡して調整済みかもしれませんが。一ヶ月程度で調査を終える見通しであったのであれば、最初から結論ありきだった可能性も疑いたくなります。

 

これだけの内容をいったい実働何人でどのくらいの時間をかけてやったのでしょう。そのくらいは報告の中に入っているのでしょうかね。

 

ただ、調査方法については

<(1)厚生労働省

 身体障害者雇用促進法が制定された1960年から現在までの関連資料の提供を求め、2回にわたるヒアリングを実施。

 (2)国の行政機関

 33の国の行政機関を対象に、書面調査とヒアリングを実施。>

ということですから、この程度のヒアリングではあまり成果をあげられないと思うのです。いや松井氏は辣腕検事だから大丈夫とおっしゃられるのかもしれませんが、現実味に乏しいと思うのです。まあ第三者が(これも同じ名称ですね)勝手な口出しをしても糠に釘かもしれませんが、たまには岡目八目ということもありますから、世論の声はしっかり聞いてもらいたいとも思うのです。

 

障害者雇用水増し問題 故意性否定に憤慨 障害者「検証は表層的」>では、

<日本障害者協議会代表の藤井克徳氏は「なぜ長期間にわたり、これだけ大規模に水増しが行われてきたのか。検証委は障害者雇用に対する関心の低さや、法の理念に対する意識の低さという表現をしているが、なぜ関心が薄かったのか、その疑問に答えていない。検証は表層的だ」と指摘する。

 さらに、藤井氏は「根本には障害者を職場に入れたくないという障害者排除の考え方があったのではないか。真相をえぐってほしかった」と嘆き、・・・

 また「・・・当事者を入れて、障害者の労働や雇用制度について根本から議論すべきだ」と語った。【山田麻未】

 

当然の怒りでしょう。

 

最後に小泉進次郎氏の意見を採り上げておきます。

障害者雇用水増し「悪質だ」 進次郎部会長、初日からビシバシ>では、

<自民党の厚生労働部会長になった小泉進次郎衆院議員が・・・、中央省庁などの障害者雇用数水増し問題について「法律を破ることはあり得ない」と早速苦言を呈した。

 ・・小泉氏は障害者手帳を持たないうつ病の職員や裸眼で視力の悪い職員を障害者に算入した違反事例を挙げ「悪質だ」と指摘した。【原田啓之】>

 

違反事例としていますね、切れがいいです。安倍政権ではどうも表面だけを装って内容がないことが多いように思うのですが、どうでしょう。松井氏は自分は捜査のプロだから、裏付けがない以上、意図性を認めないという立場は理解できますが、でもほんとにこれで検証としていいのでしょうか、それが毎日がこれだけ大きく取り上げた背景ではないでしょうか。わたしもその疑問を共有しています。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


入場拒否と身分証 <安室さんコンサート 療育手帳で入場断られ>などを読みながら

2018-09-28 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180928 入場拒否と身分証 <安室さんコンサート 療育手帳で入場断られ>などを読みながら

 

安室奈美恵さんという歌手の人気はすごいですね。私の年代ではというか、私のような時代遅れの人間には、縁遠い存在です。

 

とはいえ今日の毎日記事<平成という時代第2部 この場所/4 渋谷・スクランブル交差点 多様性あふれる文化の発信地 育児・仕事、私が決める>では、安室さんの生き方に憧れ、自分の仕事、結婚、子育てにあたってもお手本みたいにしている若い子育てしながら働く女性が活き活きとこれまで歩んできた生活スタイルを語っています。ただ、この女性の場合夫はどうやら家事を一緒にするタイプではなさそうな感じなのが残念ですが・・・

 

そんな憧れの安室さんのコンサート、そういった仕事と家庭を両立させてバイタリティあふれるような女性だけが魅了されるわけではないようです。知的障害、身体障害、精神障害など障害をもつ人たちや家族にとっても、とても興奮したり楽しむことのできる内容のようですね。

 

障害のある人やその家族は、わが国の現状では、コンサートやさまざまなエンターテインメントの会場などに出かけて臨場感を楽しむことが容易とは言えないでしょう。いや、かなり厳しい環境下にあるのでしょう。バリアフリーという言葉がいつ頃から使われ出したのでしょうか。ハード的な措置については相当程度進展したかもしれません。しかし、それはあくまで身体障害者対応であって、それ以外の障害については十分ではないと言えるでしょう。

 

なによりもソフトの面では、障害者の種類に関係なく、進んでいないのが現状ではないでしょうか。先日のNHKテレビで、パラリンピックの選手が前回大会の英国を訪問したときの感想を聞かれ、ハード面は石畳が多く、それほどバリアフリーが進んでいなかったけれど、心のバリアフリーがなく、とても快適に過ごせたと言った印象を述べていました。

 

石畳を車いすで進もうとしたら、近くの人がすぐに支援の言葉をかけてくれ、快く手助けしてくれたとのこと。それがどこでもそういう人たちが周りにいて、心が解放されたような印象だったそうです。わが国は逆に、ハード面の改善を行政が進めるものの、周りの人は知らん顔が普通かもしれません。内心は違うかもしれませんが、気軽に手助けする意識はなかなか育っていないように思います。

 

さて本題の入場拒否の話に戻ります。今朝の紙面に載っていましたが、ウェブ記事では26日付けで<安室さんコンサート療育手帳で入場断られ…「取り返しがつかない」憤りの声>と問題を取り上げています。

 

なにが問題となっているかですが、<引退した歌手の安室奈美恵さんが2~6月に開催した最後のコンサートツアーで、知的障害者に発行される「療育手帳」を身分証として提示した客が入場を断られた問題で、当事者から「取り返しがつかない」と憤りの声が上がっている。>これは大変な事態ですね。入場拒否理由が療育手帳を身分証明にならないというのですから。これは合理性のない差別的取扱いと言われても仕方がないと思うのですが、なんらかの合理性があるのか、毎日記者は追求しています。

 

<本人確認の業務を請け負った電子チケットサービス大手の「ボードウォーク」(東京都千代田区、飯田尚一社長)は、入場を断られた客にチケット代を返金する方針だが、国会議員が厚生労働省に対応をただすなど、問題は広がりを見せている。【大村健一/統合デジタル取材センター】>

 

入場拒否の経緯は次のようだったようです。

<2番目の妹愛子さん(34)はダウン症。音楽が好きで、安室さんや浜崎あゆみさんのコンサートに姉妹でよく行った。「愛子はコンサートの後、うちわやペンライトを片手にいつも楽しそうに踊っています」と、雅代さんは話す。雅代さんは安室さんのファンクラブ会員で、会員向けの先行抽選でチケットを手に入れた。福岡にライブを見に行くことは、家族にとって数年に1度のぜいたくでもあった。>

 

そのライブ会場受付で、<愛子さんは係の男性に「療育手帳は国から発行されたものではないので入場できない」と言われたが、意味がのみ込めず、係員に何度も手帳を見せた。見かねた雅代さんが駆けつけて説明したが、係員は「入場できない」の一点張り。やむなく愛子さんの入場を諦め、母親が付き添って会場の外に残り、雅代さんと一番下の妹だけで入場した。>

 

本人確認業務を行っていたボードウォーク社は、身分証によってこれを行っていたようですが、<昨冬のチケット販売開始当初、障害者手帳も身分証として有効と公式サイトで説明していた。>

 

<障害者手帳とは一般的に療育手帳、身体障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳の3種類を指す。>のですから、療育手帳も含まれますね。それを同社が今年3月上旬に療育手帳を除外して残り2種類に限定したのです。

 

その理由は、療育手帳について<「複数の呼称や様式があり、多数を短時間に入場させる必要のある大規模コンサートにおける本人確認作業になじまない」>ということです。

 

愛子さんが入場拒否されたのはこの公表の前でした。

 

さて、療育手帳を身分証として認めない、身分証がないとの理由で入場拒否することが合理的な差別的取扱といえるのでしょうか。

 

国が発行したものかどうかといった理由は問題外でしょう。都道府県や政令指定都市など行政が発行したものを身分証明として認めないなんてことは不当な理由ですね。また療育手帳には<「複数の呼称や様式があ>ることは確かですが、<多数を短時間に入場させる必要>を理由に身分証と認めないのも、合理的な根拠とはなりえないでしょう。

 

これが発行者が民間企業や団体ならともかく、都道府県などれっきとした自治体が発行したものですから、その真実性になんの問題もないでしょう。手帳の名称や様式が異なるといっても、確認すべきことはそれが「療育手帳」で、その中に表示されている本人の住所氏名と写真により本人確認は容易にできますし、それ以外の記載は見る必要もないのですから、それぞれの手帳内容の違いは問題にすること自体、疑問です。

 

仮に同社が身分証の種類を指定して、それ以外は認めないとして公表した上で、入場拒否したとしても、それが合理的な取扱とはいえない以上、違法な差別的取扱として損害賠償の対象となると考えます。同社はチケット代の返金を行っているようですが、コンサートで安室さんの歌を楽しむことができなかったことの損害はそれではカバーできないとても重大なものですね。

 

チケットの転売やダフ屋など、これをめぐる悪質行為がはびこっているため、同社の対応も厳しくなるのかもしれませんが、それとこれとは違いますね。障害者対応の意識の低さを示しています。安室さんにはもちろん問題はないですが、コンサートの運営主体は彼女の最期の舞台をこういった面でもしっかり支えてもらいたかったと思います。知的障害のある方や家族に差別的取扱があったなんてことは、安室さんの気持ちに大いに反することだったと思います。彼女のことは知りませんが、沖縄問題に触れた姿を見て、きっとそういう方だと思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


法廷の公開性 <強制不妊訴訟 傍聴、全障害者に道 札幌地裁>を読みながら

2018-09-25 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180925 法廷の公開性 <強制不妊訴訟 傍聴、全障害者に道 札幌地裁>を読みながら

 

雨音はいいものです。といっても昨今の豪雨被災に遭った方にはとてもそんな気分には慣れないでしょう。とはいえ日本は雨を文化の中で取り入れてきたのだと思います。被災経験もそれを乗り越える精神的なバックボーンとして日本人の意識の中に悠久の歴史を超えて育ってきたのではないかと思うことがあります。

 

人間の生まれもいろいろです。五体満足に生まれることもあれば、さまざまな障害を自然の摂理として、生まれたときから、あるいは途中から、共存してきた人もいるでしょう。文献によると歴史時代以前、障害のある人も長く人生を生きた証があったとも言われています。

 

わが国に生まれた、あるいはわが国に移ってきた人たちは、そういった自然のさまざまな脅威に耐え、仲間の中で生まれる障害や高齢による衰えを相互扶助しながら、生き抜いてきたのではないかと思ったりします。

 

裁判の歴史はいつ頃からあるのでしょう。古代文明ではすでに成立していたといわれているようです。それだけ人が集まれば仲良くすることも争うこともあったのでしょうか。ギリシア都市国家では市民による裁判・評決が重要な要素だったようですね。むろん独裁国家ではないのですから、市民による裁判が保障されていたのでしょう。それは当然ながら公開性ですし、評決を担う市民も、200人単位で行ったというのですね。それが重要な公的な裁判だと500人だったとか。直接民主制ですから、政治も市民全員の総会で決めるわけですから、当然と言えば当然でしょうか。

 

翻ってわが国は文献が残っていないようで、せいぜい日本書紀で聖徳太子が7世紀初頭に、第17条憲法を作り、その中で、百姓による訴訟が多いことが指摘されています。でもその裁判の有り様はまったく明らかでないですね。聖徳太子も裁判に関与したような雰囲気が感じられますが・・・その聖徳太子は、貧富の差や障害や老齢や奴隷の人たちをも差別することなく公平に接したと、されています、書紀の上では・・・

 

理想としての、裁判のあり方がここにも現れているように思うのは私の勝手な解釈ですが、そもそも私が今読んでいる書籍を含め、少なくない研究者や素人歴史家などは、聖徳太子の実在に疑問を抱いていますし、不比等による歴史のねつ造という疑いは払拭できていないという見解に魅力を感じています。

 

とはいえ、仮にそうであっても、理想としての国家像や裁判像は、一部、日本書紀に示されているかもしれません。

 

そろそろ本題に移りましょうか。今朝の毎日記事<強制不妊訴訟傍聴、全障害者に道 札幌地裁>との見出しで、新たな法廷内傍聴席の仕切りを図示しています。

 

<札幌地裁(定塚<じょうづか>誠所長)は、旧優生保護法下で不妊手術を強いられたとして国に賠償請求を求めた男性の第1回口頭弁論がある28日を前に、「あらゆる障害者」が審理を傍聴できるよう弁論を開く法廷の約6割の傍聴席を障害者や介助者、手話通訳者に割り当てることを決めた。>弁護団や障害者団体の要請に応えたものですが、<今年1月に宮城県の女性が起こした初の国賠訴訟後、全国で同様の提訴が相次いでいるが、札幌地裁の取り組みは初めて。>

 

裁判長の定塚氏の英断でしょうか。本来、法廷のあり方とかは、訴訟規則で一定の限界はあるものの、それぞれの裁判の裁判長が、当事者の意見や裁判の特性とかを配慮して、自ら責任を持って審理に適切なあり方を柔軟に判断するのが筋です。わが国では基本的に司法研修所を卒業して社会に出ないまま、ずっと裁判官一筋(最近はさまざまな交流の幅がひろがってきたとは思いますが)で、弁護士任官も微々たるもので、組織的な運営というか最高裁を頂点とする統一的な運営が好まれる印象を抱くのは外から見た皮相な見方でしょうかね。

 

私の経験でも、東京地裁大法廷で、数百人の原告、弁護団も20人近く出頭するような事件では、国側・事業者側の指定代理人や関係職員も傍聴席を大半占め、さらに記者も多く、原告当事者が到底入りきれないとき、交代制をうまく使って、原告当事者の法廷傍聴に便宜を払ってもらっていました。むろん弁護団席は裁判官席の横の方まで作ってもらいましたが。

 

この裁判長、法廷指揮の面では、なかなか配慮があったかなと思います。ただ、判決文は国相手でもあり、長文ではあってもあまり心に響く内容でなかったことは当然かもしれません。その後最高裁判事となりましたが・・・

 

余分の話をしましたが、この定塚判断は、障害者の傍聴のため、金字塔を開いたように思います。それは次のような内容です。

 

<車いすを使う障害者らは通常の2人程度(傍聴席4席分)から10人程度(20席分)に拡大。聴覚障害者は最前列に10席で、これまで着席が必要だった手話通訳者は立って通訳できるようにした。同伴の介助者も傍聴の定員数に含めず、障害者の傍らの席を用意する。

 医療機器が必要な障害者はこれまで、人工呼吸器の稼働音やアラーム音などで傍聴が困難だった。しかし、これらの音を容認した上で、たんの吸引や廊下への出入りも認めた。知的障害者用も10席を配置し、近くのモニターには法律の専門用語を使わず分かりやすい表現で映す。>

 

これは単にそれぞれの障害者のための傍聴席を増やすと言った小手先ではなく、それぞれの障害に応じて、傍聴を支援する措置を講じた点で、優れたものと言えるでしょう。このようなことはこの裁判の特殊性もありますが、障害者のために基本ルールとして、このルールを今後拡充してもらいたいと思うのです。

 

今朝の毎日記事一面<強制不妊知的障害者被害調査へ 家族団体、相談窓口設置>では家族団体による本格的な調査が開始したようです。光がようやく当たり始めたようです。

 

30分を超えましたので、この程度でおしまいとします。


差別的表現と良心的抵抗 <新潮45・・「炎上商法」?>と<棚から撤去 和歌山の書店>などを読みながら

2018-09-21 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180921 差別的表現と良心的抵抗 <新潮45・・「炎上商法」?>と<棚から撤去 和歌山の書店>などを読みながら

 

自民党総裁選、安倍氏3選でしたが、石破氏の善戦で、党員・党友票と国会議員票との乖離、安倍政権への国民の疑問が露呈ないし反映した形になったように思います。NHK9時の番組で登場した安倍氏の質問への答えもちぐはぐで、彼の資質なのか、意外な結果に内心心の整理がつかないのか、長期政権を担うトップらしさは感じられませんでした。

 

むろんプーチン氏やトランプ氏のように、どんな批判も無視して(前者は国内では批判されにくい条件下にあるとは思いますが)、蕩々と持論を一方的に述べるのは、独裁的であってこれまた支持できません。が、安倍氏の言葉には、残念ながら言行一致とか清廉さとか、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、どうもこれらが弱いなと思うのです。それが国民全体の意識として形なりを整えて面従腹背が許容されるのではといった誤った信号が飛び交っているように感じてしまいます。

 

ところで、党員・党友票の得票数を示す毎日記事<2018自民党総裁選ドキュメント 伸びぬ党員票「反省会だ」>では、安倍氏の得票率がダントツ一位の山口県は地元ですから分かりますが、二位は和歌山県で80%を超え山口県と遜色がない比率に驚きました。二階氏の力もあるんでしょうけど、これは和歌山県民として、長いものに巻かれろ式のようで、気になる結果です。

 

と思っていたら、すてきな記事が和歌山の本屋さんのことでアップされていました。今日の朝日ウェブ記事で<新潮社の本を棚から撤去和歌山の書店、新潮45に抗議>です。

 

<自民党の杉田水脈(みお)衆院議員が同性カップルを念頭に「生産性がない」などと月刊誌「新潮45」で主張し>また<新潮社は18日発売の「新潮45」10月号で、8月号に掲載された杉田氏の寄稿に批判が寄せられたことに対して「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」とする記事7本を集めた企画を掲載した。>と「新潮45」はヒートアップしていますね。

 

これに対し、<この記事について、店主の三木早也佳さん(36)は「性的マイノリティーの方々への侮辱的であまりにひどい言葉の暴力が展開されており、一線を越えている」と話す。・・書店の立場から抗議の意思を示したいと、当面の間、新潮社の新刊本販売を停止することを決め、書棚の本も撤去した。>それが<和歌山市万町の書店「本屋プラグ」>です。

 

本屋さんは言論の担い手の一端を占めており、エンドユーザーである読者との関係では、直接の責任者的立場かもしれません。そのような意識で本屋さんを経営されている方は少ないかもしれませんが。売れればいい、というのは出版社だけでなく、本屋さんも同じような感覚でやっている人も少なくないでしょう。

 

この本屋さんは違っていました。

 

<言葉の暴力><一線を越えている>という指摘は、真摯で誠実な言葉ではないかと思います。そしてその対抗手段として、本の撤去は良心的抵抗といってもいいのではないかと思うのです。むろん消費者である読者の選択に任せるのも一つです。しかし、本屋さんもまた、選択の権利と責任があると思うのです。私たちはいつもその選択の権利と責任に対面していて、それをどう意識化し体現するかが試されているように思うのです。

 

私はこの本を読んでいませんし、読むつもりもありません。そういった不作為も、読む前から云々はあっても自己責任として引き受けたいと思うのです。他方で、本屋さんの姿勢もいま試されていると思うのです。和歌山県の本屋として、最初に手を上げた?のはうれしいですね。

 

ところで、毎日の本日記事は<アクセス新潮45「右寄り」に活路 出版不況で「ヘイト路線」「炎上商法」? 批判噴出「なぜ差別に加担」>と、同誌の<変節>を問題にしています。

 

<「新潮45」は45歳以上の中高年層向けで1982年に創刊。公式サイトは「ちょっと危険で深くて、スリリング。死角を突き、誰も言わないことを言い、人の生き死にを考える」とうたう。昨年2月号の特集「病の『人生学』」では人の死生観を掘り下げ、評価された。

 しかし、部数は下降の一途だ。日本雑誌協会によると、今年4~6月の平均発行部数は1万6800部。10年前の同じ時期に比べ約4割に落ち込んだ。

 同誌編集部に詳しい新潮社の関係者によると、昨年秋以降、上層部から厳しい声が出るようになったという。「右寄りの特集の時はよく売れた。他社の右派系の雑誌が刷り部数を増やしたという話も伝わり、『この方向しかない』となったようだ。今年1月号から路線が変わった印象だ」と話す。>

 

炎上商法なんて批判されることにどう対応するのでしょうね。

 

前日の20日記事<<新潮45社内から抗議投稿、創立の志「良心に背く出版せぬ事」 「生産性ない」杉田氏擁護に 岩波・河出も応援>では社内外から批判の声が上がっているのですが、我関せずなんでしょうか。それも出版の自由で押し切るのでしょうか。いやトランプ流の同誌の存亡に関わっているのだとか、売り上げが増えればいいのだとか、同誌担当者の地位が安定すればいいのだといった感覚ではないことを期待したいです。

 

最後に、私自身もLGBTなどについて、さほど意識したことがなかったので、そのレベルは低い方だと思います。多少影響を受けたのは、映画フィラデルフィアでトム・ハンクスが演じたゲイの立場と当時のAIDSLGBTに対する意識の低さが背景に描かれていて、90年代後半になり、少しずつ問題視するようになったくらいでしょうか。

 

そんな私には、和歌山の本屋さんが一店舗としてしっかりした態度を示してくれたのは、うれしい限りです。

 

これでおしまい。