たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

オムツゼロ <『100の特養で成功! 「日中おむつゼロ」の排泄ケア』>紹介記事を読みながら

2018-12-11 | 医療・介護・後見

181211 オムツゼロ <『100の特養で成功! 「日中おむつゼロ」の排泄ケア』>紹介記事を読みながら

 

昨日でしたか、NHKおはよう日本だったと思いますが、オムツゼロの取り組みをしている介護施設が紹介されていました。

 

オムツをすることで、トイレ以外で排尿したり、排尿漏れを防ぐことができ、ご本人も介護をする人も負担が軽減するでしょう。他方で、排尿という人間にとって基本的な行為が意識的に行われなくなり、人としての能力が劣化していくことが避けられなくなることも予想できます。

 

介護施設を訪問していると、入所者のほとんどがオムツをしていて、その表情に活気というかやる気をあまり感じることができません。車イスの人も多く、寝たきりの人も少なからずいる施設もあります。オムツだけが要因ではないでしょうけど、オムツをすることで人間としての基本的な能力が減衰して、脚力も自然衰えていくように感じてしまいます。

 

そんな思いをもちながら施設を訪問しているとき、NHK番組でのオムツゼロの取り組み、しかも一旦、オムツをしていた人も外して、しなくてもすむようになるというのですから、これはすごいと思いました。

 

紹介された施設では、介護職員の中にも反対者がいて、余計な負担が増えるとか、かえって悪化することをおそれる人もいたように思います。でもよく話し合って実行したら、オムツを外すことで、入所者に元気が出て、車イスだった人が立って、歩くことができるようになったとか、たいてい全身の能力が改善しているようです。

 

オムツを外した当初がどうだったかは、私が見落としたのか、記憶に残っていませんが、それほど大きな問題にならなかったようです。

 

さて冒頭で紹介したのは書籍で、その内容を<100の特養で成功! 「日中おむつゼロ」の排泄ケア』>という見出しで紹介しています。せっかくですので、これを参照しながら、より詳しくみたいと思います。

 

2015年8月現在、全国老人福祉施設協議会が認定した「おむつゼロ」の特別養護老人ホームは全国で75。>ということで、15年段階ですでに100に迫る状況だったのですね。この書籍が162月に発行されていますから、相当知られていると思われます。当然、実践する施設も相当増えていると思われます。

 

<著者:高頭 晃紀(たかとう・あきのり)さん 介護施設組織開発コンサルタント、システムエンジニア。>で、<監修:竹内 孝仁(たけうち・たかひと)さん 国際医療福祉大学大学院教授、医学博士。>

 

著者のオムツに対する意識は明確です。<著者は、「おむつはずしは、利用者の尊厳を取り戻す旅」だと書いている。>つまりオムツは個人の尊厳を奪うか、貶めるほどの問題ある「分明の利器」といってもよいかもしれません。

 

最近、人工呼吸器や胃瘻、心マッサージなどの延命措置について選択の道が広がってきたかと思いますが、その根底には個人の尊厳を背景とした個人の意思の尊重があるかと思います。私はオムツもその一角にある問題ではないかと思っています。

 

ところで、<オムツゼロ>が進まないのは、私たち自身があきらめているからというのです。

<それは、私たち介護に関わる者が、失禁は改善不可能なものだと諦めてしまっているからです。諦めているのは私たちばかりでなく、高齢者も同様です。>

 

ではなぜあきらめるのかですね。それはオムツゼロに向かう適切な指南書がないからというのです。

<「便失禁をなくし、トイレに座ることができれば、おむつははずれる」というシンプルな考えは、監修者である竹内孝仁氏が提唱する、いわゆる『竹内理論』が元になっている。>

 

それは次の4つの柱を守ることだそうです。

<●水分:一日1,500cc以上の水分摂取

●食事:一日1,500kcalの食事

●排便:下剤をやめて、自然排便

●運動:とにかく歩く>

 

そしてオムツ外しは、関係者がその意識を共有し協力することが大事で、それはゴールでなく、その先を目指すための一歩というのは理解できます。

 

<おむつはずしの過程で、利用者への接遇、声掛け、座位姿勢の重要性、歩くことの重要性などを学んでください。それはおむつはずしにとどまらず、利用者の自立に向けた支援そのものです。>

 

利用者の自立、尊厳の回復ですね。賛成です。道は困難なものかもしれませんが、明るい光を当ててくれました。各地で取り組んで欲しいと思います。さらに在宅介護でも。

 

なお、トイレがあれば解決というのがここでは一つの解ですが、私はもう一つのテーマ、<Zeroトイレ>に賛意を表しているので、次のステップも考えておく必要があると思っています。この話題も途中で止まっていますので、いつか再開したいと思います。

 

今日は別の用件があり、ここでおしまい。また明日。


高齢者の生き方 <NHK人生100年時代を生きる 第1回「終の住処はどこに」>を見て

2018-11-18 | 医療・介護・後見

181118 高齢者の生き方 <NHK人生100年時代を生きる 第1回「終の住処はどこに」>を見て

 

私は仕事柄、これまで特別養護老人ホーム(特養)、介護老人保健施設(老健)、サービス付き高齢者住宅(サ高住)など、高齢者が終の棲家として選択するような施設を見る機会が普通の人よりは多かったかもしれません。

 

といっても親族に利用経験者がいなかったこともあり、目線という濃厚な見方はできていないと思います。他方で、介護職員側や経営者側、施設利用者側といったいくつかの立場で仕事上関わってきたので、ちょっと複眼的な見方ができるかもしれません。最近はブログでユマニチュードを書いたように、少し勉強しつつあることもあり、より関心が強くなっていることも確かです。

 

それでも昨夜見た<NHKスペシャル 人生100年時代を生きる 第1回「終の住処はどこに」>は、その実態をある程度理解していたり、予測していたものの、やはり少し衝撃的でした。

 

このNHKサイトは中身がほとんど書かれていないので、もし関心が芽生えたら、次のヤフーニュースサイト<人生100年時代の「終の住処」どこに――サ高住で高齢者「選別」の実態>がかなり詳細に番組内容をアップしていますので、番組の一部を見たような感覚になれると思います。

 

サ高住の施設は、仕事上、いくつかの事案で、以前何回か訪れたことがありますが、実際はそのとき関係者が退所した後、その入所・退所経緯の記録を見せてもらいながら説明を受けたので、利用者の様子はちょっと概観した程度で、よくわかっていません。

 

それに比べると、老健や特養はそれなりに訪問してきましたので、利用者の状況や職員の様子など、ある程度わかっているつもりです。

 

特養、老健のいずれも、徘徊防止の趣旨で、少なくとも各フロアー内は自由に動けても、別のフロアーには移動できないようにエレベーターとか非常階段は職員を介して出ないと利用できないようにしています。

 

他方で、サ高住だと、基本、利用者の自由な移動を認めていますから、認知症の方だと、自由に外出して徘徊することになり、職員は大変な思いで探し回ることになりますね。

 

そういった場合サ高住の施設長がもっぱらその責任を負っているようで(老健とか特養は施設長が医師だったと思いますから、かなり職務内容が違うでしょうが)、NHKで取材した2つの施設の施設長の考え方に大きな違いがはっきり現れていました。

 

最初の施設長は、介護の精神にもっぱら特化し、自分の眠る時間や食事時間などを削っても、その幻覚、奇声、徘徊する認知症利用者(番組では100歳でした)を必死に対応したり、探したりしている姿が印象的でした。人を増やしてもらうにも、施設経営が赤字のため、現在の人員で対応しないといけないのです。サ高住の場合、施設利用者の要介護度が2以下のため、介護報酬が低く抑えられており、他方で、認知症による介護サービスの増大について報酬加算されていないことから、認知症利用者を引き受けると、介護職員の負担が過重される結果となるのですね。

 

徘徊や重い認知症の利用者を引き受けているサ高住では、施設長の負担が過重過ぎ、今後将来も持続するのか懸念されます。

 

現在においても有吉佐和子著『恍惚の人』の状況はあまり変わらないかもしれません。誰かが担わなければならないですが、この施設長のように、何人もの認知症の利用者に一人で対応するのはあまりに酷だと思います。

 

他方で、NHKが取り上げた別のサ高住の施設長の場合、経営の合理化を優先して、入所者の選別を厳しく行い、認知症患者を引き受けなかったり、介護報酬の高い要介護度3以上で移動しない(寝たきりとか座り放しとか)高齢者を受け入れているそうです。

 

こういった施設は病院との連係という形の営業が大事で、この施設長は各病院に連絡して入院患者で退院予定の方に自分のサ高住に入所適格者がいるかどうか事前に審査し、適合すると入所手続を行っているのです。サ高住も持続しないと利用者に迷惑をかけることになり、その点ある程度はこの施設長の立場も理解できますが、それではサ高住を新設した意義を失うことになりかねないと本末転倒という思いもします。

 

しかし、現行制度、とくに要介護認定・介護報酬制度が高齢者のうちとくに85歳を超えると認知症罹患率が55%となっている現状に、適切に対応できていないこと結果という面も否定できないので、上記施設長の対応だけを批判するのはどうかと思うのです。

 

そういえば、特養でも老健でも、施設利用者の多くは表情がほとんどなく、座りっぱなしとか、寝たきりとかの状態をよく見かけます。それはその方が介護サービスがスムースにできる、人員不足の中で所定時間内に必要なサービスをこなすにはやむを得ないと考える職員、経営者の考えが見えてくるような気がします。それは言い過ぎかもしれません。

 

ただ、これまでの介護報酬だと、リハビリとか、ユマニチュードで、利用者の状態が改善してどこかがよく動くようになったり、話せなかったのが話せるようになったとしても、介護報酬にはなんの影響もなかったのですね。医療では病気を治療すれば、報酬が発生しますが、介護では要介護度に応じた報酬という、改善が反映しない制度になっています。たとえば、リハビリで改善すれば利用者や家族は喜びますが、要介護度が下がれればそれだけ介護報酬が下がるのですから、施設の採算上は、うれしいとはいえないでしょう。

 

このような制度を反映したのが先に述べたような経営合理性を追求する施設長のようなやり方なのでしょう。

 

ようやくリハビリなどで改善した場合に成功報酬がでる様な制度が試験的に導入されたようですが、身体障害といった問題だけでなく認知症の症状改善など、精神面での改善をも視野に入れた介護報酬の抜本的な改善を検討してもらいたいものです。

 

本日のお題との関係がはっきりしなくなりました。最後に何を書こうとしたかとの関係で、無理矢理ツケ刃しておきます。

 

高齢者の場合、いつ認知症の症状が発症するかもしれません。いや様々な病気でいつ寝たきりになるか、そこまで行かなくても五体満足のどこかがおかしくなるのはいつでもありうることです。私もその一人と思っています。

 

その場合を予期して、どういう生きるか、たとえば上に上げたサ高住、老健、特養などの施設選択を早期に検討するのも一つでしょう。いやいや自分は家で最後まで過ごすと覚悟を決めるのも一つです。その場合家族を頼りにするのも一つですが、その負担を考えれば、あるいは先に誰が亡くなるかもしれないのですから、孤高に生きることの意義を今のうちから考えておくのも重要なことかと思うのです。

 

終活なんてことばがはやっていますが、もっと重要な意義がある事柄で、単に施設選択といったレベルではなく、生き方の選択こそ本当はここで問われているのだと思うのです。ある時期までは自分の仕事、家族のため、生きてきたかもしれません。ある時期からは自分自身の生き方を真摯に考える必要が、死に方とともに重要ではないかと思うのです。

 

私のブログがいつかその本質に近づくことを思いながら、今日はこの辺でおしまいとします。また明日。


身上監護 <あるパーキンソン病患者の方と一日供にして>

2018-11-05 | 医療・介護・後見

181105 身上監護 <あるパーキンソン病患者の方と一日供にして>

 

今日は私が保佐人となっているご本人、パーキンソン病で歩行困難、左手指拘束、発語が容易でないなどの症状をもつ方ですが、現在施設に入所されていて、空き家になっている⑤自宅の様子を見たいと以前から希望があったのを、気候のいい時期にすることにして、ようやく今日、朝から一日かけて車で行ってきました。

 

私は遠距離ドライブがとても体によくなく、まして帰る途中は真っ暗になり、余計に神経が疲れて、いまはへとへとの状態です。

 

専門職の後見事務というと、なかなか身上監護まで手が届かないと言われておりますが、私はもう自分も年ですので、財産管理をするとともに、身上監護にも少しは取り組もうと、当地で後見業務を始めた昨年から少しずつ心がけてきました。

 

しかしながら、今日のような対応は、言うは易く行うは難し、でした。もう一人手伝ってくれる若い専門職がいて、彼のサポートなしではとても対応できなかったと思います。

 

施設内では歩くのが危ない様子でしたので、車いすを借りて持って行こうとしたら、私の車のトランクに入らず、後部座席を倒せると思っていたら、どうも初めてでうまくいかず、現地でもう一人が待つことになっていたため、車いすはあきらめて、出発することにしました。

 

途中で食事をしたのですが、階段のあるところでしたので、結局、担いで上がるしかなく、もう一人の専門職がやってくれました。ただ、慣れない二人でしたので、ご本人もなかなか体を預けることをせず、硬直して後ろに体重を置いているので、これにも手こずりました。

 

歩く場合も、初めてのところですので、テーブルなどを伝いながら、危なっかしい状態で、少しずつ足を前に出す動作を繰り返すのです。昔パーキンソン病の方の仕事をしたことがありますが、ある程度頭の働きはいいのですが、動作が緩慢というか、危ういのですね。

 

それでもいつ倒れるか分かりませんので、常に一人が付きっ切りでいました。食事は、久しぶりのご飯だったようで、松茸ご飯でしたが、完食しました。いつもはおかゆとかゼリー状のような食事なので、満足したようです。

 

ようやく自宅に到着したとき、驚くべきことに、自分で少し勾配のある入り口を手すりをたよりにすっすと上がるのです。さらに自宅に入ると、一人でどんどん歩くのです。いままでいつ倒れるかと思うほど危なっかしい状態でしたのに、すっすと歩くのです。そして自分の必要な物とかを探して、より分けたりしたのです。実は病気で倒れて入院され、退院後は施設に運ばれたので、倒れてから初めて自宅を見たのです。

 

よほど愛着があったのでしょう、いくつか品物を選んで、持ち帰りを私に依頼しました。そして以前調べたときは気がつかなかったのですが、アルバムが4冊残っていて、結構重かったのですが、しっかり押し入れから出して、持ち帰りを希望されました。

 

ぱらっと見たら、たくさんの写真が几帳面に整理されていて、これは大事な物で、結構細やかに写真をとって記念にしてきたのだなと思いました。実は以前に自宅を訪問したときは別の大きな写真だけを見つけ、それを持ち帰ったのですが、やはりご本人でないと分からないものですね。

 

その後、割合急な階段を登って、二階に上がりました。とてもいままで不自由にしていた人とは思えないほどの頑張りでした。むろんいつ転ぶかもしれないので、後ろで支えていましたが、結局、その支えを必要としないほど元気に登っていったのです。

 

寡黙な人で、施設にいるとどうも気力のないような印象を受けるのですが、自宅に戻るといかに元気になるか、だいたい歩き方がまったく違うのには驚きます。

 

帰りにコンビニに寄ったのですが、そのときも私が欲しいものを買ってきてあげるといったのですが、自分で行くというものですから、自分で選ぶのも元気を回復する一つと思いに、そのとおりにしてあげました。

 

すると、野獣というと失礼ですが、自分ですたすたと歩いて行って(手すりもないのに)、私が買い物かごを差し出す毎、次々の好きな物を選ぶのです。こういう介護ができると、きっと元気な状態を少しでも回復できるのではと思ってしまいます。

 

ただ、施設に着いた時、改めて大変さを感じました。車いすを用意して車から車いすに移乗させようとするのですが、これが大変で、まずイスから立ち上がらせるのが難題でした。次に車いすに移すのに、まず私の方に体重を移動してもらいたいのですが、硬直して、動かないのです。まあ素人で慣れていないからやむを得ないのでしょうけど、これだけでへとへとでした。それまではもう一人の専門職が手伝ってくれていたので、なんとかなりましたが、一人ではきついなと改めて思ってしまいました。

 

でも施設内でも、一人で歩いて自分の部屋まで行き、最後はお別れしましたが、疲れもないようで、少しは元気になってくれたかなと、こちらの疲れは明日まで続きそうですが、それなりに達成感がありました。

 

そんな一日でした。30分あまりで書き上げました。疲れているので今日はこれでおしまい。また明日。


簡単ではない認知症ケア <フランス発「魔法の」認知症ケア 「ユマニチュード」>を読みながら

2018-08-20 | 医療・介護・後見

180820 簡単ではない認知症ケア <フランス発「魔法の」認知症ケア 「ユマニチュード」>を読みながら

 

今日はたまたま、2つの介護施設を訪ねました。一人は私が保佐人をしている男性の入所する民間の特養、一人は後見人をしている女性の入所する別の特養。いずれも病気で一旦入院した後、老健に入所し、その後に現在の施設に移りました。病気の影響で、いずれも発語力が弱っていますが、男性の方は徐々に歩けるようになり、会話も少しずつ会話ができつつあります。女性の方は発語といっても聞き取りが容易でなく、簡単な言葉がやっとというところでしょうか。

 

それでも私がこのブログで連載して紹介したユマニチュードを少しでも自分で試そうと思うのですが、まったくできません。だいたい触れること自体が簡単ではないのです。自分の母親なら、私のことをもう分からなくなっていても、触れることは簡単ですし、ユマニチュードを意識してなくてもでてきていました。しかし、他人となると、手に触れることも躊躇します。女性に対してもですが、男性でも、私が触れたら、何をするのかと怒られそうです。

 

男性の方は発語することが簡単ではないですが、私の話はだいたい理解できていますので、言葉を発するのをしばらく待っていると、少しずつ言葉になって出てきます。なにか話したいけど、病気の影響でなかなかスムーズに言葉がでないのですね。それをじっくり待つのも大変ですが、頑張っています。おそらく介護職の人からすると、そんなの当たり前と思われるかもしれません。

 

女性の方は、なかなか言葉を発するのがさらに大変で、結局、私がいろいろ話して、相づちを促したり、希望を聞いたりして、なんとか会話を引き出そうとしますが、たまに会う程度ですので、なかなかスムーズにはいきません。それでも私と話すのは嫌ではないと、一応話してくれます。ま、目の前で嫌とは言えないでしょうけど、それでもしばらく会話につきあってくれました。

 

そんな私の悪戦苦闘?とまで行かなくてもユマニチュードのいろはも実践できていない私にとっては、イヴさんの話はやはり心を打たれます。いつか少しでも実践できればと思うのです。

 

さて今朝の毎日記事<そこが聞きたいフランス発「魔法の」認知症ケア 「ユマニチュード」考案者 イヴ・ジネスト氏>を読み、再び、イヴさんの話を取り上げたいと思います。

 

イヴさんの次の言葉は正鵠を射ていると思うのです。

<認知症の人が家族を認識できなくなると、家族は愛する人を失ったような悲しみに襲われます。しかし、その人の中に、子や夫、妻を愛した感情は残っています。92歳で亡くなった母は、私が息子だと分からなくなっても、息子を愛する気持ちを忘れることはありませんでした。>

 

そうですね、私の母親も私を認識できませんが、人への優しい気持ちは残っていて、息子に対する愛情のように誰にでも接するのです。以前徘徊していた頃は、お世話になったおまわりさんには心を込めて接したそうで、癒やされるといわれとのことでした。

 

イヴさんは<認知症は、介護する家族をより深い人間に成長させてくれる贈り物だと考えています。>とまさに至言を述べています。

 

ではイヴさんが考案したユマニチュードとは何でしょうか。

<ユマニチュード(humanitude)は、人間らしさを取り戻すことを意味するフランス語の造語です。具体的には400を超えるケアの技術があり、それらは、「見る・話す・触れる・立つ」に関するユマニチュードの四つの柱=1=を基に考えられています。>

 

この四つの柱は以前もブログで詳しく紹介しましたが、おさらいの意味で、解説を引用すると

<正面から、同じ目線の高さで、長く見つめる▽優しく、歌うように、ポジティブな言葉で話しかけ続ける▽手のひら全体で、ゆっくり、包み込むように触れる▽1日に計20分は立つ時間を作り、患者が寝たきりになるのを防ぐ--という基本技術。これらを組み合わせて相手とコミュニケーションをとる。>

 

とても簡単そうで、すてきな内容です。実際、イヴさんが行った場面がNHKで放送されたことがありますが、それを見るとほんとに衝撃を受けます。でも簡単ではないですね。

 

どのようにしてユマニチュードが生まれたのかについて、体育教師だったイヴさんが40年前にフランスの介護現場を見たときの衝撃が契機だったそうです。

看護師に腰痛になる人が多い、その対策を任されたのです。

<患者は「重たい荷物」と同じで、移動させるため多くの看護師が腰痛に苦しんでいた>というのです。現在の日本でもそういう状況がのこっていないでしょうか。

 

イヴさんは<私が学んできた体育学では「動くことが健康である」というのが大前提でしたから、強い疑問を感じました。そこで私は、寝たきりの患者を起こすことを決意しました。>

患者との関わり方を大変革したのです。

<亡くなるその日まで、人間として他者から見つめられ、触れられ、話しかけられ、自分の足で立つべきだと考えたのです。それを実現するために、同僚とともに患者との関わり方を見直し、さまざまなケアを試行錯誤しながら生まれたのが、ユマニチュードです。>

 

イヴさんは認知症患者の拒否反応や暴力的・理解不能な行動について、それには必ず理由があると強調しています。

<認知症の方の視点で考えると、患者の抵抗のほとんどは自然な「防御」なのです。>人間が本来備えている防衛本能から生まれたものと言うことでしょうか。

 

具体的には<認知症は新しい記憶を保つことができなくなる病気です。進行すると、自分がいる場所や、人の認識ができなくなります。認識できる視野も狭まり、すぐ隣で話しかけられても気づきません。そんな状況で、オムツを替えると言って、突然、知らない人の手が下着をはがそうとしたらどうでしょうか。知らない人から手をつかまれたら? 怖く、不安なはずです。>

 

最近、厚労省は介護ハラスメントの調査を始めるとのことですが、介護職員の被害状態を把握することは大切ですが、その前提事実も丁寧に調べないと、バランスを欠くことになりかねません。

 

最近は拘束はいけないことということで、物理的な拘束はあまりないと思いますが、他方で、向精神薬の処方に依存して増大していないでしょうか。私がいろいろな施設を訪ねるのですが、ただ机の前でじっとなにかを見つめている高齢者がほとんどのように感じることがあります。

 

イヴさんはこの点について、<現状では多くの場合、こうした行動・心理症状を薬で抑えようとします。認知症者への薬物の過剰な処方が世界的に問題になっています>と指摘しています。他方で、

<ユマニチュードは薬を減らす上でも大きな成果を上げています。パリのある高齢者専門病院では、ユマニチュード導入前(2005年)と導入3年後(08年)の比較で、抗うつ薬や抗不安薬といった向精神薬の処方が88%も減りました。>

 

薬に頼らない介護のあり方こそ、今後目指す方向ではないでしょうか。そうすると、薬でおとなしくなっている患者が動き出したり、話したりすると、介護職員が足りない現状でますます対応できなくなると非現実と批判する人もいるでしょう。

 

でも、イヴさんが指摘するように、薬漬けとはいいませんが、薬に依存することで、医療費負担が増大するのを防ぎ、その代わりその費用を介護職員の費用に充てる転換こそ求められるのではないでしょうか。それこそ、患者も、家族も、そして介護職員や施設も、行政もすべてがウィン・ウィンとなるかもしれません。

 

人の尊厳は、接し方によって維持されるという、イヴさんの考え方、その具体的なケア技術を学ぶ必要を改めて感じています。

 

一時間を過ぎました。この辺でおしまい。また明日。

 

 


高齢者入所施設の将来 <介護医療院 今年度開始 「医療」と「住まい」両立>を読みながら

2018-08-15 | 医療・介護・後見

180815 高齢者入所施設の将来 <介護医療院 今年度開始 「医療」と「住まい」両立>を読みながら

 

今朝はこぬか雨。ちょっとした雨音なら眠っていても気づくはずですが、音もなく霧雨のような雨でした。それでも周囲の緑は活き活きしているように感じられ、ほんの一瞬差し込んできた早暁の光に輝いていました。わが家からは遠くは九度山の町石道上にある雨引山から南方に続く峰々、そして大門が背後にあって見えない弁天岳から東方に高野の連峰が天空を仕切っています。中景には柿畑とスギ・ヒノキ林が、手前には稲穂が大きくなってきた棚田のような水田が、そして目前には広葉樹林と、針葉樹林があって、多様な緑が水分を多く含んで鮮やかさを増しています。

 

今日も前面にひろがる景色を眺めながら、読書と居眠りを堪能しました。かなり以前からだいたい月20冊くらい適当に読んできたのですが、このブログを書くようになってから、次第に読書量が減ってきました。その代わり新聞やネット情報をよく読むようになりました。なかなか読んだ内容をブログで取り上げるだけの頭の整理が整わないのと、読むだけの楽しみというのもいいかと思っているためかもしれません。

 

今日も一冊読了したのですが、本日のお題は新聞記事から取り上げることにしました。今朝の毎日記事<介護医療院今年度開始 「医療」と「住まい」両立 医師が常駐/プライバシーに配慮>です。「介護医療院」という名前がよく取り上げられるようになりましたが、その必要性、内容などよく分かっていません。前にも書いたかもしれませんが、この記事ではわかりやすく解説されていますので、私の勉強の意味でも、引用しながら、考えてみたいと思います。

 

<医師が常駐して医療と介護を同時に提供する介護保険施設「介護医療院」が、今年度から始まった。一定の医療ケアと住まいの機能を併せ持つことが特徴だ。>ではこれまでの施設とどう違うのでしょうか。

 

これはどうやら国(厚労省?)からの要請であったようです。

<国は、施設代わりの長期入院とも指摘される介護・医療の「療養病床」を介護医療院に転換するよう促しているが、自治体からは財政負担が増えることへの懸念も出ている。【原田啓之】>

 

この介護医療院は、<昨年の介護保険法改正で導入された。>のですが、介護保険で利用できる入所施設です。では<重度の要介護者が生活する特別養護老人ホーム(特養)や、リハビリで在宅復帰を目指す介護老人保健施設(老健)>とどこがどう違うのでしょう。

 

医師が常駐したり、プライバシーに配慮されたりとなかなか充実したサービスが想定されているようです。<特養や老健に比べ処置室など一定の医療設備が整っていると同時に、要介護度の高い高齢者の住まいとして、生活の質やプライバシーにも配慮した。ベッド間は家具などで仕切る▽レクリエーションルームや談話室の設置▽地域との交流--などの基準がある。>

 

ところが、この介護医療院は新設ゼロで、すべて他の従来の施設からの転換なのです。

<厚生労働省によると、6月末時点で全国に21施設1400床ある。新設はなく、老健と要介護者向け医療施設「介護療養病床」からの転換が45%ずつで大半を占める。残る1割は、長期療養者向けの「医療療養病床」などからの転換だ。>

 

プライバシーへの配慮という面では<以前はカーテンだけでベッド間を仕切っていたが、プライバシー確保を目的にした国の基準に従い、木製のついたてをこしらえて視線を遮った。>というのですね。欧米ではすでに個室が当たり前になっているように思うのですが・・・福祉予算が不足する現状では難しいのでしょうね。

 

どういうことでしょうかね。介護医療院に求められるのは、次のように長期滞在型の高齢者医療施設なのでしょうか。

<入所者の要介護度は平均4以上と重い。医師が常駐するため酸素吸入やカテーテルが必要な高齢者を受け入れることも可能で、終末期のみとりもできる。脳梗塞(こうそく)を患う母(96)が入居する地元の農業男性(72)は「母の容体がいつ悪化するか分からず、そばに医師がいてくれると安心する」と歓迎する。

 

たしかに老健などでも、自宅復帰のための一時的な入所を予定しながら、実態は受け入れ先がないなどから、入所したらいつまでもという利用者は少なくないと言われています。老健では医師と看護師が常駐していますが、元々、短期滞在を予定しているのですから、制度運用として本来的でない状態になっていることは問題でしょう。

 

他方で、特養では施設内での医療ケアを想定していませんから、医療サービスの必要な高齢者の受け入れができなかったと思います。その点、<運営する医療法人の向井友一理事は「医療ケアが必要で、特養では受け入れが難しい高齢者に対応できる。家族にとっても患者を送り出す急性期病院にとっても使い勝手がいい」と話す。>

 

この介護医療院構想は、06年に、<療養病床は不足する福祉施設代わりの面もあり、長期入院で医療費の無駄になるとの批判>もあり、<医療の必要性の低い高齢者の入院を減らすこと>を目的に、<介護療養病床>の廃止とその受け皿として、当初は老健への転換が予定されたようです。

 

ところが、<「病床削減ありきでは物事が進まず、慢性期の患者にどのような施設が必要かという発想に転換した」>ことで、<介護医療院の創設が17年に決まった>のですね。

医療費・介護費の適切な配分を図ろうということなのでしょうが、それを現場で有効に実現するには、どうも中央から数字をみているだけでは機能しないおそれを感じます。

 

また費用負担の点で、<自治体 財政負担を懸念>とあり、<介護療養病床や介護医療院は市町村も費用の8分の1を負担する介護保険で運営される。一方、医療療養病床は市町村の負担が少ない医療保険で賄われている。医療療養病床が介護医療院に衣替えすると医療保険から介護保険へ移るため、市町村の財政負担が膨らみ、住民が支払う介護保険料の上昇を招きかねない。>と地域格差がでてくる懸念も広がっているようです。

 

他方で、利用者・家族サイドからの意見はまだ採り上げられていませんが、そのこと自体簡単ではないですが、丁寧に集める必要があるように思うのです。

 

たしかに費用負担の問題は重要です。

しかし、私が時折おとずれるいくつかの施設を見る限り、利用者のプライバシーへの配慮以上に、利用者の活き活きとした姿が見えるような施設があまり多くないことこそ、問題ではないかと思うのです。いやすでに重度の認知症となっているとかいうのであれば、そのような利用者をそのままにしていることこそ、介護のあり方としても考える必要があるように思うのです。

 

酸素吸入やカテーテルの整備は大事かもしれませんが、私が以前、紹介したユマニチュードなど、心のケアをより充実するような制度設計を考えてもらいたいと思うのです。

 

一時間がすぎました。このへんでおしまい。また明日。