たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

終末期現場と異常行動 <大口病院中毒死 「終末期現場つらかった」容疑者が供述>などを読みながら

2018-07-10 | 医療・介護・後見

180710 終末期現場と異常行動 <大口病院中毒死 「終末期現場つらかった」容疑者が供述>などを読みながら

 

いつの間にか7時半を回っています。今日もまたブログを書く元気がない中、ウェブ情報では、西日本豪雨(正式名称はたしか平成307月豪雨でしたか)の死者行方不明者が増えているというか明らかになる一方で、流木による河川流下の阻害で降水量ゼロの中で氾濫被害も発生しています。土砂災害も含めてまだ油断ならない状況ですし、復旧活動もなかなか進んでいないとのことで、災害列島日本は厳しい状況ですね。

 

そんなときは明るい話題でも提供できればいいのですが、なかなかうまくいかないもので、毎日記事の<大口病院中毒死「終末期現場つらかった」容疑者が供述>はできたら、避けたいニュースですが、気になりますので、取り上げました。

 

記事によると<横浜市の旧大口病院で2016年9月、入院患者2人が中毒死した事件で、西川惣蔵さん(当時88歳)を殺害したとして逮捕された元看護師、久保木愛弓容疑者(31)が「人が次々と亡くなる終末期医療の現場と仕事がつらかった」と供述していることが、捜査関係者への取材で判明した。神奈川県警は詳しい動機の解明を進めている。>

 

終末期医療を専門とする病院だったのでしょうか、全体像が見えてこないので、なんともいえませんが、この元看護師の供述は、亡くなられたご本人やご遺族の方にとってはあまりにひどい内容ですね。多くの人も看護師がなんてことを言うのだと思うのは当然でしょう。

 

この捜査機関への取材で判明したというのは、たしかにそうでしょうけど、記者発表というより個別の捜査官のリーク情報なんでしょうか。

 

むろん事実に反するリークといったうがった見方をしているわけではありません。おそらくこの元看護師は、そのような供述を実際しているのだと思います。しかし、それが元看護師のさまざまな供述の断片でしょうから、事件の背景や元看護師の当時の心境や心理状態の核心をつくものかはまだこれから捜査が進展しないと解明されないように思うのです。

 

事件は<界面活性剤を含む消毒液ヂアミトールを投与されて中毒死したのは、西川さんと八巻信雄さん(同88歳)。久保木容疑者は西川さんに高濃度のヂアミトールを投与し、殺害したとして逮捕された。久保木容疑者は容疑を認め、八巻さんの殺害についても認めているとされる。>ということで、二人の入院患者に対し、界面活性剤を含む消毒液ヂアミトールを投与し、死亡させたという、殺人容疑ですね。元看護師は殺害事態も認めているということですが、本当に殺人の故意が認められるかはまだはっきりしていないと思います。

 

動機自体が、元看護師の上記発言だけで、殺人の故意を裏付けるとすると希薄ではないでしょうか。むろんヂアミトールが有毒性が強いと行っても、どの程度の量で死亡するか、過去の事例がないようですから、元看護師が投与した量が死亡を結果するほどのものであったかはより科学的な裏付けが必要でしょう。死亡とヂアミトールの有毒性との因果関係の立証が簡単ではないと思われます。

 

ところで、<久保木容疑者は終末期患者向けのフロアだった4階で看護を担当しており、西川さんと八巻さんも4階の病室に入院していた。4階では16年7~9月に患者48人が亡くなっている。>ということで、この2人だけでない可能性も疑われていますが、医師の診断書で病死とされた方々で、司法解剖を経ていないので、体内に実際どの程度のヂアミトールが投与されたかも不明ですので、捜査がそこまでおよぶというのは現実的ではないように思われます。

 

で、ついつい報道で注目されている情報をただ書き連ねてしまいましたが、私がこの問題を取り上げたのは、元看護師が殺人罪に問われるかどうかということではありません。

 

元看護師が<「終末期医療の現場がつらかった」>と述べ、<「患者さんの要望に応えることが多く、仕事が嫌だった」>とか、<「自分の勤務中に患者が亡くなって家族に説明するのが面倒で苦手だった。勤務の前に消毒液を投与した」>という点に注目しているのです。

 

私自身、終末期医療の現場はわかっていません。ただ、ある老健施設の現場で起こった事件記録を読んでいて、かなり深刻な現場状況を感じました。終末期の高齢者の方が多い施設です。認知症の症状が重度の方も相当入所されているところで、それは日夜大変な状況が感じられます。私が担当している高齢者の老健や特養の施設でも似たような方が大勢いますが、私が訪れる昼間などはみなさんおとなしく、どちらかというとサイレンスの状態でしょうか。

 

ただ、それは場合によっては処方による効果かもしれません。夜間に突然、起き出したり、騒ぐ人、いろいろな行動をとる方もいらっしゃるでしょう。

 

以前は、問題行動があれば拘禁することも少なくなかったと思いますが、そのようなことが許されるはずがありませんね。他方で、患者への医療行為も、入所者への介護行為も、もしかしたらその意思をしっかり受け止めていないかもしれません。機械的に行っていることによって、余計に人間としての尊厳を奪われたということで、反発する人、あるいは抑制されてますます意識を低下する人、いるのではないかと思うのです。

 

だから終末期の医療に携わるのはいやとか、患者の要望に応えるのが耐えられないとか、死亡したとき遺族の方に説明するのが苦手とかといった、考えがうまれていいはずがありません。でもそういう意識を育てる環境が今の医療・介護の世界にないといえるか、私は注視する必要を感じています。

 

この元看護師の例はたしかに異常ですが、現在の環境条件のままでは、今後第二の例が発生しないとも限らないことを懸念します。

 

最近、医師の勤務環境の過剰さが改めて明らかにされていますが、他方で、終末期の医療・介護の現場を丁寧に見ていく必要も感じています。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


後見人の心構え <和歌山弁護士会のガイドラインを読みながら>

2018-07-06 | 医療・介護・後見

180706 後見人の心構え <和歌山弁護士会のガイドラインを読みながら>

 

私立大学支援事業をめぐって、前文科省の局長が東京医科大の選定後押しの見返りに、自分の息子を合格させたという、受託収賄容疑事件は、連日大きく報道されていて、少し気になったので、取り上げようかと思ったら、どうもネット接続がうまくいかず、情報のアクセスできませんでしたので、今回は別の話題にすることにしました。

 

ただ、一言誰もが感じる疑問をあえて触れておきます。文科省が行う事業において大学の選定が個人のごり押しで決まったとしたら、なぜそのようなことができたのか、関係者全員、制度の実態を調査し、そのあり方を問い直してもらいたいものです。公正な競争の中で応募してきた各大学関係者にとっては、大変な問題です。

 

もう一つ、大学入試の合否が、大学側のさじ加減で合格できるようになったということだとしたら、どのような仕組みでそうなったか、解明する必要がありますし、それが他の大学ではあり得ないような仕組みが担保されているかも検討してもらいたいですね。多くの受験生や家族にとってはやりきれない思いでしょう。

 

さて、話変わって、今日のテーマは先日、和歌山弁護士会で東京から弁護士をお呼びして講演があったのを踏まえて、少し取り上げてみようかと思います。

 

背景は、後見人の不祥事が増加しており、その中で、弁護士後見人による不祥事も割合的には多くないですが増えており、とりわけ被害額が格段に大きいことが問題となっています。私が後見人をやっていたのは、もう10年以上前ですが、その当時はさほど問題になっていた記憶はなかったと思います。

 

私自身、管理する資産が数億円といったケースが何件かあり、身の引き締まる思いをしましたが、基本的にそういった多額の預金や有価証券などは一切触れず、銀行等に保管しているだけで、日常的な支出はそれほどでもないですから、実際はさほど神経を使うようなことはなかったように思います。だいたい、公私混同しようがありません。たしか20年近く前から預金などは別に●後見人として新たに口座を作ることになっていたはずですから、どうして混同してしまうのと思ってしまいます。

 

億単位の不動産も財産管理の対象となったりしますが、こういった他人の財産を処分するような意識になること自体、弁護士倫理以前に、人間としての常識を逸脱しているでしょうね。

 

問題にされている事柄が、報告期限に遅れるといったことです。ま、私もしっかりした報告書を作成できていると自信を持って言えるほどではありませんが、期限は最低限守りますね。この種の期限を守らない人は、通常の裁判でも、あらかじめ事前に提出期限が決められているのを守らず、裁判期日当日とか、前日に出すと行ったことを普段からやっている人かもしれません。

 

それは夏休みの宿題を休み明けに出さない以上に問題でしょう。子供だから許されるというのもありますが、それはあくまで自己責任だからです。しかし、裁判や後見事務は、前者であれば、相手方当事者や裁判の審理、後者であれば被後見人である本人、裁判所の監督事務に影響を与えることが明らかです。多大な迷惑と支障をきたすでしょう。そして後者の場合不祥事の発覚を遅らせるとか、不祥事を誘引する要因になり得るでしょう。

 

ところで、和歌山弁護士会のガイドラインで、最初に上げている部分は、とても印象的ですし、これは評価しても良いと思うのです。自画自賛というわけではなく、これがすべての要諦だと思うからです。

 

それは「本人の意向や希望を尊重し常に本人の最善の利益を考えながら行動すること」です。

以前、このブログでユマニチュードをとりあげました。これは介護のあり方を追求する根本的な取り組みでしたが、それは後見事務においても学ぶ必要があると思うのです。

 

従来、弁護士の後見事務では、財産管理が中心で、本人の意向についても、その面にばかり注意をはらってきたように思うのです(少なくとも10年以上前の私は)。しかし、このガイドラインでは、身上監護も役割として重視し、「本人の意向や今後の生活の希望、病気や要介護の状態、本人をめぐる人間関係、現在抱えている課題」等を適切に把握することを求めています。すばらしいことです。実のところは荷が重いことは確かです。

 

私はいま2件担当し、3件目を担当することになっています。一人は判断能力がないことや発語力が十分でないため、実のところ毎月面会していますが、話をするのも、聞くのも容易でありません。長くいれば、ユマニチュードのように、触れたりして、親しみをもてるようにできるのかもしれませんが、ご本人が女性だと、なかなか触れるといったことはよほどでないとできません。実際のところはご本人の意向を理解するのはいまのところ暗中模索でしょうか。毎回自腹で生花を買って持って行っていますが、それを見てにっこり笑ってくれるのがうれしいです。少し時間をかけてくつろげるようになれば、言葉も発するようになるかなと期待しています。

 

ただ、介護職員が延命措置について、言葉だけで説明しようとするのを、絵や写真で理解できるようにしてもらいたいとお願いして、そういう絵を用意して説明してもらうと、ご本人よくわかったようでした。

 

もう一人の方は、あまりしゃべる人ではないですが、割合理解力がしっかりしていて、話すと理解を示してくれます。ただ、やはりまだ慣れないせいか、話を聞いたり、話をしたりというのはスムーズではありません。これは普通の方でも、知らない人に自分の気持ちを話すことは躊躇するわけですし、ましてや私のように裁判所が選任した弁護士ですから、打ち解けるには少し時間がかかるのは当然です。

 

ガイドラインの話に戻りますと、最近は利益相反の基準が厳しくなってきたと思います。今回の中に、「本人の遺言書の作成に関わったり、遺言執行者を引き受けたりすること」につついて、「推定相続人間に紛争がある場合やその可能性がある場合」慎重に判断・対応することを求めています。それはそうですね。

 

以前、そう20年前ではないですが、それくらい前、任意後見人になったことがあります。そのとき、ご本人にはお子さんがいらっしゃらず、甥姪はいるけどあまり付き合いがないということで、ある大学医学部に寄付する遺言をしたいということで頼まれて、原案を作成し、遺言執行者として公正証書を作成してもらったことがあります。この場合は明確に紛争があったわけではありませんので、ガイドラインにはあたらないかなと思いつつ、当時はガイドラインもなくあまり気にもせずやったかなと思うのです。

 

後見人等は家庭裁判所以外から報酬を受け取ってはいけないことといったことがガイドラインに書かれています。当然のことですね。また、遺産分割や民事事件などを担当することがありますが、そういった場合にその報酬を受け取ることはできないのは当然です。このような場合家裁が後見人等の報酬算定で一定額を考慮してくれます。そういえば私もかなり高額の遺産分割事件を担当し、通常の後見人報酬よりその分付与されたことがありました。

 

また、ご家族から贈答をいただくようなことは差し控えてもらいます。こういったことがエスカレートして?病院付き添いで長時間かかったりしたりしたとき、喫茶室に誘われ、自分の分を支払おうとしたら、拒まれたとき、頑として支払うというのもどうかと思うのです。儀礼的な範囲として許容されるのではと思うのです。ガイドラインにはそこまで書かれていませんが。

 

ちょうど一時間となりました。思いつきで書いてみましたので、誤解があるかもしれません。当日の講演内容とは少々違う内容になったかなと思いますが。ま、この辺でおしまいとします。また明日。


認知症と人 <介護職員 「我慢も限界」 抱きつかれ、殴られ>などを読みながら

2018-06-03 | 医療・介護・後見

180603 認知症と人 <介護職員 「我慢も限界」 抱きつかれ、殴られ>などを読みながら

 

最近、介護施設を訪れる機会が増えてきました。別に私の近未来を予定して下準備をしているわけではありません。

 

昨日のNHK番組だったと思いますが、ある50代の単身女性で非正規労働を続けていてシェアハウスの5万円弱の家賃を払うと残りは5万円強の給料しかもらえず、病気でもするとたちまち生活に窮する厳しい現状が取り上げられていました。その方は、そのような状況でも月に一度でしたか遠く離れた実家に通って、一人暮らしをしている父親のために買い出しや掃除などをしているというのです。父親は、80代でしたか、手足は動くものの衰えが目立つ様子ですが、自分は絶対に施設には入らない、自宅で死ぬと頑張っているのです。

 

私自身、病院も介護施設も縁のない世界でありたいと思っています。違った意味で父親の気持ちは少し理解できます。でも最近では高齢になると病院か介護施設に入ることが当たり前になりつつありますね。

 

では介護施設はいったいどんなところなのでしょう。私が担当している方(後見とか保佐ですので財産管理がメインです)をお見舞いして訪ねる程度ですので、実態はよくわかりません。それでもほとんどの職員の方は笑顔で接してくれますし、とても動きがスムーズです。介護施設で要請されている介護サービスはしっかりと提供されているように思えます。

 

ただ、問題がないかというと、私のようにたまに訪問するくらいだとなかなか実情はみえてきませんね。一方で介護職員による虐待やハラスメントがあるかと思えば、他方で利用者による介護職員に対するハラスメントや暴力・暴言もあるようです。

 

今回は後者を取り上げてみようかと思います。毎日の昨夕記事<介護職員「我慢も限界」 抱きつかれ、殴られ 現場「2人1組の体制を」>はその実情を述べています。

 

<施設の扉を開けようとすると、いきなり背後から認知症の60代男性に抱きつかれた。無言で見つめられ、女性は身動きできなかった。>

 

このときはベテラン職員が男性を止めて助かったのですが、その後の言葉は信じられません。

<ベテランの女性職員は、慌てて男性を制止した後、険しい顔で女性に告げた。「隙(すき)を見せたあんたが悪い」。まさか自分が怒られると想像していなかったが「すみません」と頭を下げた。>

 

次は<元会社経営者という80代男性は介助の度に性的な関係を求めてきた。拒否すると「俺は客だぞ」と開き直る。>それで上司に相談してもその対応がひどいのです。

<「お客様だから我慢して」「年寄りだから気にしなければいい」と取り合ってくれなかった。>

 

暴力も男性・女性の利用者を問わずあるようです(私も聞いたことがあります)。

<暴力も頻繁に受けた。認知症の60代男性をお風呂に入れようとしたら、突然殴られて壁にぶつかった。以降、この男性が怖くなり、近付かないようにした。女性の入所者に爪で引っかかれることもよくあり、腕に傷が絶えない。言葉のかけ方を工夫したり、腕にタオルを巻いたりして対応しているという。>

 

統計的情報としてもありますね。<似た経験は、多くの介護職にある。福祉職員の労働組合「日本介護クラフトユニオン」が4月にまとめた組合員アンケートでは、29%が利用者や家族からセクハラを受けていた。上司や同僚に相談した人の47%は状況が「変わらなかった」という。>

 

それで施設側や上司は、介護職員に我慢することを求めているようです。これは明らかにおかしいですね。

 

<現場からは2人で介助できる体制の整備を求める声が上がっている。【原田啓之】>ということですが、現状の定員数ですら足りない状況で、2人体制を敷くというのは実効性に乏しいかもしれません。

 

なにか基本的なところで問題があるように思うのです。介護施設を訪れると、とても静かです。認知症といっても軽度な方も結構入所されているのですが、会話を楽しむような様子はあまり見られないように思います。家族が面会に来たときは話していますが、利用者同士で気軽に話したり、楽しんだりという感じはあまり見かけません。

 

そのような状態だと、ますます認知症が進んで、他方で、介護職員が少ないスタッフで迅速的確に介護サービスを提供していると、職員と利用者との会話や触れ合い、アイコンタクトといった、人間的触れ合いがほとんど失われていくのではないかと思うのです。ユマニチュードに反する介護対応がかえって認知症高齢者に異様な心理状態というか、異様な言動をとらせる危険を増やしているのではないかと懸念します。

 

認知症になると本性が現れるといった話をどこかで聞いたことがありますが、ほんとかなと思うのです。むろん高齢化や認知症が進むと、自己コントロールというものが衰えてきて、人間の欲望が露わになるということもあるかもしれませんが。その現れ方は人それぞれでしょうから、怒りを露わにする人、性的感情を抑えられない人、侮蔑的な言動をする人、いろいろかもしれません。それは介護職員がまじめに丁寧に対応しているか否かに関係なくありうるのではと思うのです。

 

それが人間の本性なのかどうかはわかりません。ただ、私はユマニチュードを信頼したいと思います。その神髄を理解し技術を習得して、心から接すれば、決して人は悪い本性を出さないで済むのではと思っています。

 

今朝の毎日記事では<セカンドステージ認知症とかかわる 介護予防に「サロン」づくり>と予防対策を身近な社会の中で生み出そうと努力している地域の取り組みが紹介されています。自らも認知症にならない努力を自宅生活の中で楽しみながらやることも大事でしょう。そして施設に入ってもその継続が必要ではないかと思うのです。サロンのあり方も、これから従来のものに拘泥しないで、さまざまなものを工夫してもいいかと思うのです。

 

最後に、少し違った視点に立った<がんドクトルの人間学超高齢社会を生きるには=山口建(県立静岡がんセンター総長)>の記事では、山口氏は50代から「喪失の時代」と呼んで、まるで暗黒の世界のようにみる一方で、彼は個人的にも、社会的にも工夫の必要を訴えているようです。<自分の身体をいたわって、可能な限り「健康寿命」を保つように心がけます。>

 

もう一つは心構えです。それがいいたかったのではないかと思います。

<「豊かな心」を育むことで心を落ち着けることができます。「豊かな心」の構成要素は人によってさまざまですが、個人的には、「生老病死を運命として受け入れること」「森羅万象、特に身の回りの全てのことを見つめ直し、新たな発見を楽しむこと」「家族、友人、同僚、社会との絆を大切にし、感謝の念を忘れないこと」「幸せのハードルを下げ、家族や友人に囲まれた普段通りの生活といった当たり前のことに幸せを見いだせること」「自分を知り、小さくても良いから生きがいを持つこと」などが大切だと思います。>

 

同世代なので、考えることもそう大きく変わらないのかもしれませんが、おおむね賛成です。

そうすれば日野原重明氏のように、生涯現役で、大往生ができるのかもしれません。いや、人の命は自然の寿命に任せて、おおらかに生き、死ぬことで、認知症や健康への不安も気にならないかもしれません。

 

駄文が長くなりすぎました。このへんでおしまい。また明日。


延命治療と終焉作法 <延命治療中止 医師葛藤 過酷な判断>などを読みながら

2018-05-31 | 医療・介護・後見

180531 延命治療と終焉作法 <延命治療中止 医師葛藤 過酷な判断>などを読みながら

 

今日も会議などで気づくともう6時半を過ぎています。今日も簡潔にまとめてみたいと思いますが、話題が少し重いので、淡々と書いてみようかと思います。

 

先日も書いたような気がするのですが(記憶がすぐ薄れてしまいます)、ある後見事件で、施設入所に際して、延命措置や水分・栄養補給についての意思確認を求める文書を説明して、ご本人に確認を求められました。私はその文書と言葉による説明では本人は理解できない、写真とか図示で説明してもらいたいというと、担当者はちゃんと用意してもってきて説明しました。ご本人もおおよそ理解できたようでした。そのうえで意思を表明しましたので、私も結果はどうあれ、ご本人の気持ちをある程度的確に示してもらえるよう配慮できたかなと思いました。

 

しかし、多くの方は、私のような意見を言われていないようですので、これまでは口頭説明だけで意思確認書が作られてきたようです。

 

上記だけでも十分ではないと思いますが、単なる口頭説明だけだと、用語の意味も理解できないままで、書面ができあがってしまいますね。

 

さて、毎日朝刊では<毎日新聞調査救急拠点、終末期の患者への延命中止7割>と報じられ、延命治療などの実態が放映されたり、身近な家族や友人でその治療を見聞きしたりして、自らの選択として選んだのかと思ったら、どうやら多くは家族の意思のようですね。ご本人は意思を表明できない状態が少なくないからでしょう。

 

延命治療中止7割の実情は<調査では、救命救急センターを備える全国288(1月末現在)の病院に対し、昨年、延命治療を途中で中止したり最初から差し控えたりした取りやめのケースについてアンケートし、113病院から回答を得た。取りやめの有無を答えた73病院のうち、「ある」と返答したのは67%に当たる49病院。「ない」は24病院だが、うち10病院が取りやめを検討していた。残る40病院は「微妙な問題」などと回答を控えた。>とのことです。

 

そのような判断理由としては、<「患者や家族の希望」が89%で最も多かった。「家族への負担考慮」は34%。>興味深いのは、<意思確認の方法(同)は「患者の家族が決定」と「家族が推定した患者の意思」が8割に上ったが、「本人から確認」は2割にとどまった。>ということです。

 

その意味で、事前に本人の意思を確認することを積極的に進めることが各施設ですすめられているのでしょう。

 

では延命治療の中止などを表明された場合の医師はどう対応するか、そこが<クローズアップ2018延命治療中止 医師葛藤 過酷な判断>として悩める医師の姿を示しています。

 

<全国最多の年間1万3000人超の救急搬送者を受け入れる湘南鎌倉総合病院(神奈川県鎌倉市)の救命救急センター。1日40台近い救急車が滑り込み、待ち受ける医師は死と隣り合わせの患者の治療に追われる。6割以上が高齢者だ。>だいぶ以前ですが、ここの病院長や副院長にはいろいろとお世話になりました。でも全国最多とは知りませんでしたね。

 

いくつかの延命治療中止を望む例を示しつつ、<家族が経済的な思惑を優先しすぎていないかも見極める必要がある。この救急医は「終末期の意思確認に関する教育なんて受けていないのに、『現場で判断しろ』と言われる。葛藤の連続だ」と悩む。>と医師の苦境を取り上げています。

 

また、<治療の取りやめも決断し、「みとり」も担うようになった救急医。誰にも最期が訪れるからこそ訴える。「自分は、家族は、どう生きたいのか。全ての人に考えてほしい」>という訴えは、いまからでもすべての人が考えて欲しいということだと思います。

 

世の中は、健康長寿や若返りとか、若く見えるとかいった宣伝文句だけが氾濫しているようで、それはそれで前向きというか、明るくていいかもしれませんが、いつ私たちは死を迎えてもおかしくないと考えることも大事ではないかと思うのです。

 

少なくとも鎌倉仏教が勃興した頃は、まさに死は日々直面する現実だったのだと思います。そこまでリアルに考えなくても、なにがあってもよい心構えは、心の健康としても、家族のことを思うにしても、必要なことではないでしょうか。

 

私がこのブログを書いている一つの理由はエンディングノートであることは以前も書きましたが、死から逃れないのですから、そのときの対処法、作法というものも常々考えていてもいいというか、考えておくものと思っています。逆に財産処分といった現代版遺言などはたいした問題ではないと思うのです。

 

厚労省もようやく四角四面から、実態に即した指針に改訂するようです。

 

<厚生労働省が2007年に策定した終末期医療の指針は、医療側を「規制」する意味合いが強かった。延命治療の取りやめは患者本人の決定が基本だとし、医師や看護師など多職種によるチームで判断することを柱としていた。>と医療側で決定することに重きを置いていたのでしょう。

 

尊厳死協会が長年訴えてきたことが、その会員数の伸びもあって、世の中に次第に自然な死を迎える意識が受け入れられてきたのではないかと思うのです。

 

<患者にとって「尊厳ある最期」をいかに迎えるかという観点で終末期医療のあり方が議論されるようになった。>

 

また、<厚労省の17年度の調査では、心臓や呼吸が止まった場合に、心臓マッサージや人工呼吸器などを望まない国民は7割に上っており、各医学会は既に独自の指針を策定している。終末期には延命治療が必ずしも患者のためにならないとの考え方があるからだ。>というのです。

 

今回の改訂は、みんなで何度も話し合いをしようという、結論の出ない話ですが、現段階ではそれでいいのではと思うのです。その中で、各施設で独自の指針を用意し、患者・家族との話し合いにより、その意思を明確にするようにしていくことが大事かなと思うのです。

 

<厚労省が3月末に指針を改定し、患者と家族、医師らに繰り返し話し合うよう求めたのは、延命治療の取りやめの判断はそれぞれにとって重いためだ。新指針では、話し合いの結果を文書に残す必要性も強調した。4月に改定された診療報酬は、みとりなどの報酬算定要件に「指針を踏まえた対応」を追加し、医療機関に取り組みを促してもいる。>

 

なによりもそれぞれの治療内容・その後のケアの大変さを知ることも大事ではないかと思うのです。それを事前によく知った上で、どのようにすべきか、個々人が前もって意思を家族と話し合い、また医療側とも理解し合うことが重要でしょう。

 

参考までにある施設(芳珠記念病院)の書式を引用します。この内容は結構わかりやすいと思います。こういう書式を各施設で工夫してより理解できるようにすることが大事かなと思うのです。

 

書式例

1.水分・栄養補給の方法についての説明書

2.延命治療に関する説明書

3.意思確認書  (人工呼吸などの延命治療について)

4.意思確認書  (水分・栄養補給の方法について)

 

わたしは基本、医療に頼らず、自らの終焉を自らの作法で行いたいと希望しています。誰かのように他に頼ったりするのではない、自然な終焉です。それはそれぞれが崇高な気持ちで選ぶことだと思います。

 

30分を過ぎてしまいました。今日はこれにておしまい。また明日。


非薬物的介入原則 <認知症高齢患者の幻覚や妄想 向精神薬、効果は限定的>などを読みながら

2018-04-29 | 医療・介護・後見

180429 非薬物的介入原則 <認知症高齢患者の幻覚や妄想 向精神薬、効果は限定的>などを読みながら

 

今朝も上天気です。野鳥の鳴き声が音楽を聞いているような感じにしてくれます。窓の外を眺めるとツバメが見事に飛翔しています。さっとわが家の方向から緑色した美しい羽根をもった鳥が向かいにあるヒノキの梢に留まりました。あれはなんだろう、オオルリかな、ルリビタキかな、イソヒヨドリとは違うなとかいろいろ考えているうちに、さっと飛んでいきました。

 

こんどはまた軽やかに歌声を響かせる、はっきりはいえませんが、ホオジロらしき姿がヒノキの梢に。そうかと思うと、庭先にはマヒワが一羽、ひょいと垣根に泊まり、しばらくしてさっと飛び立ちました。マヒワは集団で動くことが多いように思うのですが、はぐれてしまったのかしらなんて、つい思います。それにしても五月の季節を迎え、鳥たちもいっそう元気が出て活動的です。繁殖の季節でしょうか。

 

近くのさまざまな木々も、遠くの高野の峰峰も、新緑が鮮やかで、すがすがしい快晴の朝です。こういう自然の宴を体感していると、もしかして認知症にならない?、いや認知症になっても進行がすすまないのではとふと思ってしまいます。聴覚がさまざまな音に反応していると、脳の働きも活発になるでしょう。耳からの情報はとても新鮮で、ビビッドに感じます。脳神経も敏感に反応して、ますます活発になるのではないかとつい思ってしまいます。

 

視覚も大事ですね。自然の営みは日々刻々と変わっていきます。それを繊細に識別して感応することができれば、それだけで脳細胞は衰えを知らないのではなんて思うのです。

 

そんなことを考えたのも、今朝の毎日記事<賢い選択価値の低い医療/上 認知症高齢患者の幻覚や妄想 向精神薬、効果は限定的>を読んだことも影響しているかもしれません。

 

後見人の仕事をしていると、有料老人ホームや介護老人保健施設や特別養護老人ホームなどに訪れる機会がありますが、施設で過ごされている高齢者で元気に話をしているような方を見かけたことがほとんどないのです。多くのこういった施設は、自然環境の豊かな場所に設置されていて、窓からは様々な木々が間近にあったり、潮騒の音が聞こえてくるところであったり、自然を楽しめるはずなのですが、そういう様子は見かけたことはあまりないのです。

 

それだけ元気なら自宅介護で、デイケアを利用するでしょうというのかもしれません。はたしてそうでしょうかとふと考えてしまいます。

 

記事に戻ります。認知症高齢者は増えていますね。

<認知症を患うお年寄りが増えている。厚生労働省の研究班によると、2012年の患者数は462万人。25年には700万人、5人に1人になると推計されている。>5人に一人とは驚きです。私も時間の問題かとふと思ってしまいます。ま、このブログを書いている間は大丈夫か?なんても。

 

その認知症高齢者を介護する立場から問題が提起されています。

<認知症患者の介護で家族や介護者の大きな負担になっているのが「行動・心理症状」(BPSD)だ。幻覚や妄想、抑うつ、不安、不眠など症状はさまざま。認知症の進行によって9割以上の患者に何らかの症状が出るとされ、人によって表れ方はまるで違う。>

 

私の母についていえば、幻覚や妄想はかなり前からありました。まだ私のことがわかる段階でしたので、その妄想なりを電話でしきりに話すのですね。最初はいろいろ説明したりしていましたが、納得しません。

 

私が当時(20年くらい前)、妻に財布を盗まれたとか、息子の嫁が勝手に通帳から現金を下ろしたとか、いくつかの相談を母と同年代くらいの方から相談を受けていて、一生懸命その立場になって家の中を探したり、家族などからヒアリングしたり、あるいは銀行に行って払い戻ししたときの申込書の写しを出してもらったり(本人署名を確認)して、ご本人は納得しませんが、ご家族に話して、心療内科・精神科などの医師に診断を仰いで対応してもらったりしたことが何度かありました。

 

そんなことも経験していく中で、母も認知症になりつつあるなと感じていました。90歳を過ぎる頃には私のことがわからなくなりましたが、妄想や幻覚を言うこともなくなったように思います。むろんこの間そういった向精神薬も服用していなかったと思います。母はいまも耳も目もよく、人の話には耳をそばだて、口出しします。自分で食事もできます。100歳まで生きるかどうかはわかりませんが、そんな勢いで元気です。入所されている高齢者の方に比べて、とても元気なのです。

 

脱線しましたが、記事では<BPSDを治めようと、抗精神病薬や抗不安薬など向精神薬を使うケースは少なくない。だが、効果は限定的で、東京慈恵会医大の繁田雅弘教授(精神医学)は「薬を使わず、まずはBPSDの原因を突き止めて解決することが重要だ」と強調する。>

 

記事で紹介されているものと同じかどうかわかりませんが、<かかりつけ医のためのBPSDに対応する向精神薬使用ガイドライン>は<対応の第一選択は非薬物的介入が原則>と明確に断定しています。

 

このガイドラインの冒頭に挙げている原則は重要と思いますので、そのまま引用します。

<○BPSD には認知症者にみられる言動・行動のすべてが含まれる。

BPSD の発現には身体的およびあるいは環境要因が関与することもあり、対応の第一選択は非薬物的介入が原則である。

BPSD の治療では抗精神病薬の使用は適応外使用になる。基本的には使用しないという姿勢が必要。

向精神薬、特に抗精神病薬については処方に際し十分な説明を行い同意を本人およびあるいは代諾者より得るようにする>

 

はたしてこのガイドラインは、多くの医療関係者や患者家族に理解されているでしょうか。いや、介護施設関係者においてはとくに確認しておきたい気持ちです。

 

とんでもない、このガイドラインは、かかりつけ医に対するものであって、介護施設においては、適用外だというのでしょうか。いやいや、施設長たる医師がこのガイドラインの趣旨にそって対応しているというのでしょうか。実態を知りたいものです。

 

 

しかもこのガイドラインでは薬物使用の前提条件として、まず一定の環境要因などがないことについて<条件を満た>すことを求めた上、<薬物療法を検討する場合には、必要に応じ認知症疾患医療センター等の専門的な医療機関と連携をとるようにする>としています。

 

実際に服用治療を始める場合にも、当然ながら<その症状/ 行動を薬物で治療することは妥当か、それはなぜか。>など基本条件を<事前に確認し、開始後は下記のチェックポイントに従ってモニタリングするようにする>と厳格な手続を求めています。

 

BPSD(Behavioral and Psychological symptoms of Dementia: 認知症の行動・心理症状)>の症状に応じた適切な薬物の選択が必要なのはもとより<低用量で開始し症状をみながら漸増する>ことが基本です。

 

しかも<薬物療法開始前後の状態のチェックポイント>としては、これも長くなりますが、全部引用します。

<○日中の過ごし方の変化の有無

○夜間の睡眠状態(就床時間、起床時間、夜間の排尿回数など)の変化

○服薬状況(介護者/ 家族がどの程度服薬を確認しているかなど)の確認

○特に制限を必要としない限り水分の摂取状況(食事で摂れる水分量を含めて体重(kg)×(30 35)/日 ml が標準)

○食事の摂取状況

○パーキンソン症状の有無(寡動、前傾姿勢、小刻み/ すり足歩行、振戦、仮面用顔貌、筋強剛など)

○転倒しやすくなったか

○減量・中止できないか検討する。減量は漸減を基本とする。

○昼間の覚醒度や眠気の程度>

 

私はこの薬物療法の開始前の基本的検討がどこまでなされているのか、また開始前後の状態のチェックがどこまでなされているのか、介護施設内での状況に少し懸念しています。私自身が、あまり実態を知らないから過大な懸念をもっているのであればいいのですが、単なる杞憂に終わることを望んでいます。

 

監督官庁が定期的に監督しているから大丈夫というかもしれませんが、こういった監督自体が文書報告とチェックが中心で、実態把握としては実効的に行われていないことは多くの分野でありますので、安心は禁物です。

 

記事でも、<特に注意すべきは、向精神薬を使う期間だ。日本老年精神医学会の研究チームによる認知症患者約1万人を対象にした調査によると、BPSDのため抗精神病薬を新たに服用した患者は、開始11~24週で死亡率が上がり、服用しなかった患者の3・9倍になった。「BPSDが非薬物療法で改善せず、向精神薬を使う場合でも、服用開始から3~4カ月で減量が可能か検討すべきだ」と水上教授。>ということですから、安易な使用例が相当あるように思えるのです。

 

代替案が提示される必要がある中で、記事で紹介されているその一つに、<東京都医学総合研究所のチームも、BPSDの頻度や重症度を数値やグラフで「見える化」するプログラムを開発した。訪問介護など45事業所の認知症の283人を対象に検証すると、プログラムを使ったグループは半年後に症状が大幅に改善したが、そうでないグループはほとんど変化しなかった。今年度、都内6区市町村でプログラムを導入する予定だ。>

 

そして<開発者の中西三春主席研究員(精神保健看護学)は「薬物療法も、患者の体を動かなくする身体拘束の一種。減薬につなげていくため、主治医らとの連携が重要だ」と指摘する。>この中西研究の言葉、<薬物療法も、患者の体を動かなくする身体拘束の一種>は正鵠を射た重い表現でしょう。

 

最後に一言。鳥の声を楽しみ、四季の移り変わりを愛で、仲間との会話を楽しめる、そういう高齢者の施設なり介護対応をめざしてもらいたいものです。ユマニチュードは私が一番学ばなければいけないものだと考えています。

 

今日はこれにておしまい。また明日。