たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

認知症高齢者との触れ合い(10) <ユマニチュード・人間関係の怖れ>を考える

2018-04-19 | 医療・介護・後見

180419 認知症高齢者との触れ合い(10) <ユマニチュード・人間関係の怖れ>を考える

 

今日でこのテーマの連載が10回目です。最初のときよりは少しわかってきたような気がしています。でもこれこそ実際にやってみないと理解できないことだと思います。そこにはいくつか壁があるように思うのです。まずはこのことを十分に理解できていないまま行うことですね。

 

他方で、自分の中にある人間関係に対する怖れといったものがあるように思えます。これは多かれ少なかれあると思うのです。トランプ大統領にはない?麻生財務大臣にはない?なんてことはありえないでしょうね。厚顔無恥や馬に念仏などといったことわざは、普通の人はそうでないことを示しているのでしょうね。別に前2者がことわざに当たる人という趣旨ではありませんけど。

 

ちょっとこの話から脱線します。昨夜NHKの歴史秘話ヒストリアで<イギリス侍 三浦按針の「友情」>を見たのですが、日本人がどうのというより、イギリス人もやはりなかなか捨てたものではないと思った次第です。

 

実は按針(本名ウィリアム・アダムス)のことは、横須賀時代、京急線で東京に通うのですが、途中、安針塚駅があり、三浦按針に多少興味を抱き、その周辺を時折、なにか足跡がないかと思いながら散策したことがあったのです。ところが彼は隣の逸見駅周辺に住んでいたというのですね。で、番組を見て不思議に思ったのが彼が家康に命じられて西洋式船を作るため造船所を伊豆の伊東につくったというくだりです。え、それおかしくないと思ったのです。

 

というのはどうみても伊東の港で、造船所を作るのに適しているところがあるかなと、何度か訪れているので、奇妙に思えたのです。他方で、逸見は、横須賀基地があるところですね。米軍の原子力空母や、自衛隊の海上自衛艦、潜水艦が豪華に並んでいます。たしか維新前、幕府から造船の依頼を受けた、フランス人技師・ヴェルニー氏が小栗忠順と探し求めて、この逸見がフランスの良港とそっくりということで決めたと言われていたと思うのです。

 

なぜ逸見に住んでいた按針がここを造船所に選ばなかったかなのです。彼は造船技師ではなかったからかなというのが一つの解答。ただ、浦賀をイギリス船の貿易港として選んだ眼力があるので、造船技術がなくても、逸見の入り組んだ海岸は最適地と考えるだけの能力があったかも。すると選ばなかったのは、その場所の風景に惚れてしまったからかと勝手な推測となりました。

 

それにしても、按針が日本に到達したのが1600年、そのときさまざまな当時の先端武器を家康に提供したというのです。しかも大砲はたしか2000mか3000mもの飛距離をもち、当時の日本製鉄砲や大砲とは比較にならないものだったとか。それを松尾山で優柔不断だった小早川陣に打ち込んだのはこの大砲だったとの見解も結構魅力的ですね。

 

ともかく最先端の技術を提供した按針はじめイギリスだったのですが、結局はオランダに取って代わられ、英語は250年間知られることもなく江戸時代が平穏無事?に過ぎたのですね。なにがよかったかわるかったか、わかりませんが、按針という人の潔さを少し感じました。たしか彼は一航海士だったと思います。その彼は天下の大将軍家康に対しても決して極端に怖れることもなく、卑下することもないのです。また、自分の技術を自慢にすることもなく、家康はじめ日本の文化に敬意を込めて自分を変えていったのではないかと思うのです。改めて興味を抱きたくなる人物です。

 

で、元に戻って、イブは日本、日本人について、次のように指摘しています。

 

「私がこれまで出会ってきた国の人たちの中で、日本人は最も人間関係を怖れています。」と。そうかもしれないなと少しわかるような気がします。

 

「それがために他者に出会うのがすごく難しい。ユマニチュードは、まさにそのような状態から脱け出す方法を示しています。だからこそ、日本人は即座に「これは解放の哲学だ」と理解するのです。」

 

人間関係を怖れる、それがさまざまな問題の本質にあるかもしれません。それを解放するのがユマニチュードなのかと改めて感じるのです。

 

「自分は愛情を、優しさを受け取るために人間として生まれてきた。ユマニチュードはそれを可能にしてくれるのだ」と思えるのです。その理解を、それぞれの人生において生かしてほしいと思います。」と

 

ここで終わらないのがイブさんらしいところで、イエスとノーについて、本質的な問題を語ってエビローグとしています。

 

「日本は「イエス」の国です。和を尊び、社会のコンセンサスを探求します。日本に来て、私は人間関係の優しさに驚き、嬉しく思いました。日本の人々は何時間も会議をし、他の人に対して声を荒らげることもなく、論争を避け、励ましの言葉をかけます。日本の人々の礼儀正しさは世界の模範であり、フランスにとっても夢であります。」と。

 

こう言われると、弁護士の会議などでは先輩後輩関係なく、学者顔負けの議論百出はいいとしても甲論乙駁もありで、なかなか大変ですから、私なんかはイブの見たのは一面かなと思ったり、いや確かにそういう面もあるかなと思うのです。だいたい議論は、江戸時代の百姓自体が議論付きだったことが古文書なんかで認められるように思うのです。ま、そんなことはたいした話ではないですね。

 

やはりイブさんの見解を誠実に伺うのがよいです。「伝統を守るという特質」をも指摘しています。

 

「たとえば、祖父は父に、そして父は息子にナイフの研ぎ方を伝えます。完壁に研ぐための石の濡らし方、刃の傾け方、力の入れ方、動きを教えます口学んだことをそのまま受け入れることにより技術は次の世代に伝達されます。完壁さを追求しながらも、基本的技術は変えずに覚えるがゆえに、正しい動作に達するのです。茶道はそのよい例だと思います。」

 

私も昔茶道を少し習いましたが、たいていの人は続かないのではと勝手に思っています。免状をとっても日常的にやられている方は少ないでしょう。それは他の伝統も同様かなと思うのです。柔術といわれた、柔道、合気道、空手などなども・・・・

 

かえってフランス人など外国の人が積極的にこの伝統技術、伝統芸を学ぼうとしているのではと感じることもあります。

 

フランスは、いいえの国だというのですね。そうなんだと思います。しかし、いまそれぞれの国民が他国民の文化を評価し、次第に変わりつつあるようにも思えます。

 

でもイブさんの「いいえ」に託したことばは大事かなと思うのです。長いですが、ほとんどを引用します。

 

まず彼は「私は人生において最も大事な言葉はです。」と断言するのです。

 

「私たちの子供たちに、自分が受け入れ難いことは決して受け入れない、と教える世界を。「お父さんなぜ?」「お母さんなぜ?」と聞かれたとき、「こういうものなのよ」と説得するのではなく、本当の説明をする世界を。

両親が十分賢く開かれた精神を持ち、子供が正しく親が間違っているときには、それを認める世界を。

友愛の精神で結ぼれた人々がお互いを信頼するがゆえに、「いいえ」という言葉が、本当の贈り物、真実の贈り物となる世界を。

それぞれの人が唯一無二の存在で、自分の考えを持ち、共通の価値観を通して他の人と結ぼれる世界を。」

 

そして最後に告げた言葉は大事にしたいです。

 

「あなたが私に対して「いいえ」と言う権利を持っていると私が知らなければ、あなたの言葉を信じることはできないでしょう。」とはすばらしい洞察力というか、言明ではないかと思うのです。

 

「あなたが私に「いいえ」と言えるのは、私を信頼しているからです。強制された「イエス」が恐怖から生まれるとしたら、尊重の「ノー」は自由から生まれます。」

 

この言葉をかみしめて、このタイトルの連載をとりあえず終了します。

 

また明日。

 


認知症高齢者との触れ合い(9) <ユマニチュード・人間としてケアするとは>を考える

2018-04-18 | 医療・介護・後見

180418 認知症高齢者との触れ合い(9) <ユマニチュード・人間としてケアするとは>を考える

 

いまようやくある交通事故の事故解析が終わったところです。事故当事者双方の保険会社が協定で損害保険リサーチに依頼して調査・報告してもらったのですが、相手方がその結果に同意せず、真逆の結論に固執するので、結局、私がこの件を担当することになりました。

 

その報告書を利用できると思っていたら、事故原因や過失割合の判断については報告から除外されていたため、自分で双方の車の損傷部位程度、接触後塀に接触しているので、その接触痕などを踏まえて、速度、距離など、多角的に検討していたら、結構時間がかかりました。簡単に白黒つくこともありますが、そうでないことの方が多いから、結局、弁護士が入るのでしょうね。それでも簡単ではないですね。どれだけ説得力のある解析ができるかが決め手でしょうか。

 

さて、報道では財務省事務次官のセクハラ発言、それに麻生大臣のややこしい言い回し(ま、時代錯誤的感覚ですね)、さらには新潟県知事の援助交際に伴う辞任?発表があったとか、いそがしや・いそがしや ですね。しかし、北朝鮮問題以外に、東日本大震災や熊本大震災などの被災者のこと、原発廃炉問題、モリ・カケ問題と、問題山積みの中で、行政のトップがこんなことでいいのと思ってしまいます。しかも東大卒のトップエリートの女性に対する差別的な性根には驚き以上に、情けなく思うのは日本人全員ではないでしょうか。

 

ま、そんなことをいっても、なかなか簡単には変わりそうもないですので、話題を戻して、ユマニチュードをもう少し学ぶことを続けてみようかと今日も書くことにしました。

 

そろそろ終わりにしようかと思いつつ、まだほんとにわかっていないなと実感しているので、また本を取り上げました。実は、今日、後見人となっている方の健康診断に付き添ったのですが、少し待ち時間があったりしたので、話しかける努力をしてみたのです。

 

精神疾患のため上下肢がほぼ動かない状態で、発語もわずかしかできません。聞き取ることはできるのですが、どの程度意味がわかっているかは、ある程度わかってはいるのですが、その程度は一つ一つ確かめないとなんともいえないのです。それでも少しでも笑顔になってもらえると、こちらもうれしく感じるのですが、さてさてケアってなんでしょうねと思うのです。

 

イブ&ロゼットは、「患者中心のケア」と、わが国でも一般に周知している言葉を使っています。

 

ある事例を提供します。

「認知症の人が寝ているとします。世界中の病院や施設では、食事やおむつ交換のためといった理由から本人を起こしてしまいます。ケアする側の都合で寝かしつけて、ケアする側の都合で起こす。それがケアを受ける人を中心に置いたケアの現実です。ユマニチュードにおいては、患者が眠っているあいだは無理に起こさないという原則があります。

認知症の中核症状のひとつが記憶障害です口記憶は寝ているあいだに脳内で再構築されます。睡眠を邪魔すると記憶が悪化します。医療関係者はそのことを知識として理解しながらも実践に結びつけていないのです。 ケアをする人は、ケアを受ける人の健康を害してはならないという鉄則があるのに、それが実行できていないのです。」

 

しかし、患者中心のケアをしていると、ケアする側が燃え尽き症候群になるというのです。それは理解できます。「ケアをする人の具合がよくなければ、本人の具合もよくなりません。」というのもよくわかります。それで、ケアする人をケアしないといけないかと問題提起するのです。

 

そうではないのですね。

「それよりも、自分の仕事をしながら、それが楽しく幸せだと感じるようにする。そこが問題の本質のはずです。

 

そして最初の命題の意味が提示されるのです。

「ケアをする相手との絆ができてこそ互いに幸せになれます。ケアを受ける人を中心に置いても、ケアをする人を中心に置いても間違いが起きます。中心に置くべきものは、相手とのポジティブな関係の「絆」なのです。」と、私がタイトルにあげた触れ合いといってもいいかもしれません。

 

患者、利用者を尊重する、ということはわが国でも最近では割と理解されてきたように思うのですが、それはどういうことかとなると意外とむずかしいですね。イブ&ロゼットは「、相手を人間として認めること」と断定しています。

 

ではここでいう「人間とは何か」です、それが問題ですね。

 

そこでいろいろな例を挙げていますが、基本は「何かを行うたびに、私たちは聞い直さなければなりません。これは、人としての特徴を考慮して行っているケアだろうか?このように問い、そして解決法を探していくのです。」と。

 

答えは自らその場で相手の背景であり本質の人間性という具体の特徴・内容を掘り下げ、それに応じたケアをして、反応を見ながらフィードバックするしかないのではと感じています。

 

 

人間の尊厳についても言及し、「尊厳は十全性に基づく」というのです。一体なんでしょう。人間は欠陥だらけだから人間ではないかと私なんかつい思ってしまいます。ま、先に挙げた福田氏や米山氏、さらに言えば麻生氏、いずれもちょっと(いや、桁外れにかも)行き過ぎですね。

 

でもなぜかイブ&ロゼットは「心理的にも身体的にも人間らしさが保たれている。何ひとつ欠けていない。つまり、人間であることの「十全性」が守られているとき、尊厳が生まれます。その反対に、その感覚を取り除くことも可能です。」

 

ここで取り上げている「十全性」が、人間としての身体的・精神的な機能に一切問題がないとか、いわゆる欠点などが一切ないということではないと思うのです。

 

尊厳について次のような指摘をしています。

「心や体が傷つけられたとき、尊厳の感覚は奪われます。罵倒する。寝たきりにさせる。動かないように命令し、実際に拘束すれば、尊厳の感覚は失われます。」

 

本人自身ではなく、ケアする側が傷つける、行動制限するなどすることをいうのでしょうか。そのことによって尊厳が奪われたり、傷つけられるということなんでしょう。

 

その意味では次の言葉はより明快で、賛同します。

「心や体が傷つけられたとき、尊厳の感覚は奪われます。罵倒する。寝たきりにさせる。動かないように命令し、実際に拘束すれば、尊厳の感覚は失われます。」

 

でも介護施設などに入所する方はすでにさまざまな自由を奪われています。

「認知症によって一部の人は文化に基づいた食事の仕方を忘れてしまいます。ベッドに裸で寝て、二本足で立つこともできない。話すこともできません。」と。

 

そのときこそ、人間の尊厳をしっかり見つめることの大事さを指摘しているのではないかと思うのです。

「そのような高齢者を見て、人間の特徴として残っているのはどれかと探しても、なかなかわからない。だから、「もう人間ではないのだ」と思ってしまうのです。でも、それは本人が望んでそうなったわけではありません。」

 

それでは具体的にどうするのでしょう。

イブ&ロゼットは「ユマニチュードはその人の“いま” に注目する」というのです。

 

それはどういうことでしょう。

これは答えがあるような、ないような、しかし、ことばにするより、現場での実践で見いだすのでしょう。

 

「いま、この人をケアします。宇宙人に、「この人は人間だ」と説明できないとすれば、それは私がその人を人間として認識できていないということです。」と強調するのですから。

 

それこそ人にこだわる、こだわり続けるのです。違う言葉でいえば、

 

「「あなたが私を好きだと言ってくれる。ここから始まるすべての行いが、「私は人間である」と認めることを可能にしてくれるのです。」と。

 

むずかしく考えるのではなく、心のあり方でしょうか、そして実践ですね。

 

やはり難しい、けれど魅力を感じます。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


認知症高齢者との触れ合い(8) <ユマニチュード・自由と自律を目指すケアとは>を考える

2018-04-17 | 医療・介護・後見

180417 認知症高齢者との触れ合い(8) <ユマニチュード・自由と自律を目指すケアとは>を考える

 

これまではユマニチュードのテクニカルな部分を中心に学んできました。むろんこの基本技術を身につけてしっかりと認知症高齢者の方に接することができれば、その人との触れ合いが深まることは間違いないように思います。しかし、それがケアの目的かとかというと違うように思うのです。イブ&ロゼットもその点を強調しているように思えます。

 

それは「第3章 私たちが権利を失うとき」というところで、繰り返しいろいろな表現で指摘しているように思います。その意味を学んでみたいと思います。

 

たとえば「高齢者になると誰もが失うもの」として、東京で一人暮らしをしていた80歳の男性を想定して、マンション生活から介護施設に入所したときの戸惑いを紹介しています。長年飼っていた犬と一緒に入れないことがわかってショックを受けるのです。風呂場に入ると、突然ノックと同時に看護師がドアを開けて入ってきたので、許可を得て入ってくださいというと、うるさい人と評価されるのです。晩酌を欠かさなかった彼が食堂で持参したワインを飲もうとすると、酒は禁止と言われて数少ない楽しみを奪われてしまいました。

 

毎晩12時に寝る彼に、8時か9時に介護士がやってきて就寝時間ですと、無理に寝かせられます。散歩しようとでかけようとしても、暗証コードがあってドアが開けません。さんぽの自由もありません。

 

親しいガールフレンドを部屋に連れてきたら、他人の入室は禁止、「ここはラブホテルではありませんから」とにべもないのです。介護施設はそういうところと決めつけられているのです。

 

夫婦であってもダブルベッドを用意して一緒に寝ることは許されません。私もある夫婦が同じ老健に入所していましたが、別々の部屋に入所していて、夫の方から離れさみしいと訴えられたことがあります。当時は介護施設だから仕方がないねと答えていましたが、イブ&ロゼットはそこに疑問を投げかけています。

 

ユマニチュードの神髄ともいうべき言葉でしょうか。

「ケアの世界でも、「尊厳は大事だ」と口にはします。しかしながら、知的または身体的にハンディを負った高齢者から権利を奪っているのが実情です。ユマニチュードは、自由と自律に関するすべての権利を尊重します。」と。

 

従来のケアをその権利を奪う、強制というのです。たしかに上記の例は一種の強制になりうると私も思いますが、はたして大勢の利用者をケアする介護施設で自由や自律をどこまで尊重できるか、気になります。

 

イブ&ロゼットは次のような例を挙げています。

「ユマニチュードを導入している施設では、強制ケアはしません。犬を飼いたければ一緒に暮らせます。恋人と同じベッドで寝ても大丈夫です。その場合は140センチ幅の大きなベッドを入れます。24時間のうち好きなときに食事ができます。ほとんどの人は同じ時間に食堂で食べますが、人によっては、深夜にお腹が空いたと感じる人もいます。そういう人には夜に食事を出します。夜中の2時にシャワーを浴びたければ介助します。」

驚くべき内容ですね。

 

しかもですね、「信じ難いかもしれませんが、これを実現しているフランスの介護施設の入居者数に対する夜間勤務の職員の数は、日本よりも少ないのです。」というのです。

 

「従来のケアの哲学を見直す」というのですね。従来のケアは、「へンダーソンの『看護の基本となるもの』」を基礎にしていて、生理的ニーズにだけ注目する傾向があるというのです。「生理的欲求から安全への欲求、愛情、尊敬、自己実現へのニーズ」が人間の基本ニーズとしつつ、マズローの法則では、これら5つを下から上に築くピラミッド構造ととらえて、最初のニーズを満たした上でないと、次の段階にいけないというのです。

 

パンより愛をとか、といった自由な選択は許されないのです。個々人の自由、自律を尊重しないのですね。

 

しかもこの自律とは、これを可能にする依存のあり方を重視するのです。

「ユマニチュードにおいては、自律と自由と依存を掲げます。誰かに依存していなければ私たちは生きていけない。これも重要な価値として定義しているのです。」と。

 

依存することは決して恥ずかしいことでも、自律することに障害になることでなく、むしろ依存に価値があるというのです。

「私たちは依存関係なしに絆を結ぶことができないからです。関係を築く絆は私とあなたを結びます。絆がなくなると孤独になります。・・・私の人生の目的は物事から離脱することではなく、つながることにあります。」と。

 

人生の充足感、幸福感でしょうか、そのことに関わる指摘もあります。

「人生において充実している瞬間は、誰かを愛しているときではないでしょうか。子供や夫、妻を愛おしく思うとき、自身は美しく強く繊細であり、「私はそういう自分なのだ」という自律した感覚、高揚感が訪れます。それは依存関係があって初めて感じられるのです。」と依存の貴重な意義を強調しています。

 

ちょうど一時間となりました。今日はこれにておしまい。また明日。


認知症高齢者との触れ合い(7) <ユマニチュード・認知症高齢者は暴力的か?>を考える

2018-04-16 | 医療・介護・後見

180416 認知症高齢者との触れ合い(7) <ユマニチュード・認知症高齢者は暴力的か?>を考える

 

生け花を飾るようになってどのくらいになるのでしょう。まだ一年あまりでしょうか。自宅の庭に花の苗を植えだしたのが2年か、3年前でしたか。最初は邪道と思いつつ、いつか野生の花園をとつい思ったのが、一向に前進しないまま、今日に至っています。

 

最近は生け花を事務所に飾り、枯れかけたら、それを庭に植え替えることをしています。ま、これを生け花とはいわないのでしょうが・・・で、適当に水を遣り続けているにもかかわらず、結構いろんな花が長生きするので、他方で、毎週のように買っているため、時折、事務所が花で一杯になることもあります。それはいいのですが、やはり花の専門家というか、そこまでいかなくても店員さんにアドバイスをもらうのもいいですね。自己流では花もかわいそうです。

 

それはガクアジサイに似た美しいアジサイを2度買ったことがあり、いずれも2日目にしょぼんとしおれてしまいました。葉っぱが青々としているのに、分けがわからず、一度目はすぐ自宅の庭に植えたのですが、まったくだめでした。なんだろうと思いつつ、あまりきれいなので、ついまた買ってしまいました。やはり2日目にはしおれてしまい、今度は絶対買わないぞと思ったのです。

 

それで別の花を2つ、3つ買いにでかけたのですが、そこにはまたあのガクアジサイのような、それ以上に花がきれいなのが一杯置かれていました。それでつい店員さんを見つけ(常連ですのでね)、この花なぜか2日でしおれるんですがなぜでしょうかと尋ねたのです。

 

店員さんもおかしいですね。水はちゃんとやっているのでしょうと聞くので、たくさんやっていますと答えました。ま、他の花と同じかそれ以上というレベルですが。店員さん、少し頭をひねりながら、アジサイは水をどんどん吸収しますからね、水の入ったバケツの中に入れて置くといいかもしれませんよとアドバイスしてくれました。

 

すぐに事務所で試してみました。すると翌日には少し花が開いてきました。その翌々日には満開になりました。生き生きとしているのです。そうか、そんなに水が欲しかったのかと、花の特性を初めて少しわかった気になりました。やはり花のことをわかっている人に聞かないといけないと改めて思ったのです。いまはこのアジサイに満足です。本当は庭で大きく咲かせたいですが、当分は事務所でやすらぎをいただこうと思っています。

 

ところで、私のような花に対する誤った対応と同じことを、認知症高齢者に対してやっていないか、それをイブ&ロゼットから学ぼうと思います。

 

認知症高齢者といってもその状態はいろいろですね。でも介護施設で見かける人の中には、表情がほとんどなかったり、言葉を発しなかったり、ほとんど眠っているような状態であったり、他方で、暴言を吐いたり、暴力的であったりする人が少なくないのではないかと思うのです。この後者の暴力的な人に対して、抗精神薬を投与したり、拘束したりして対応する施設もまだまだ残っているのではないでしょうか。その結果として前者のような状態になっている可能性も考えておく必要を感じています。

 

イブ&ロゼットは「認知症高齢者は暴力的か?」と問いかけています。あるいは攻撃的なのはなぜか、それは変わらないものかとも問いかけているように思います。

 

その「攻撃的な行動とは、ケアしようとすると認知症の高齢者がひっかいたり、暴言を吐く。あるいは食事をせずに投げ散らかす。窓から逃げようとする。看護師のお尻を触るといった、攻撃的な行動により業務を妨げるようなことです。」というのです。こういった攻撃的な行動のいくつかはたいていの介護士は経験していることではないでしょうか。

 

イブ&ロゼットは「認知症の患者で攻撃的な人はいない」と断言しています。これをそのまま信じることのできる人はどのくらいいるでしょう。

 

でもイブ&ロゼットは冷静に説明します。「攻撃的になるのはどういうときでしょうか。」と質問を投げかけます。

 

「たとえば相手の腕をグッと掴むと人は自然に筋肉に力を入れ、筋肉は固くなります。また、陰部の洗浄では看護師は当然のこととして患者の脚を広げますが、多くの場合相手は膝を閉じて抵抗します。ケアをする人は学校で習った通りのことをしています。しかし、実はこれでは相手を緊張させ、身を固くさせてしまっているのです。」と問題を明らかにしていきます。

 

さらに説明が進みます。「親密でもない人に触られるというのはたいへんなことなのです。認知症であれ誰であれ、無造作に掴まれたり、脚を広げられたりしたらとても屈辱に感じます。まして床を掃除するみたいに陰部を洗浄されるのであれば、暴力的で粗野だと感じます。」と介護する人の方法を問題にするのです。

 

つまり従来当たり前のように行っていた介護の作業がまさに暴力に当たるというのです。

「私たちが他人の陰部に触れることができるのは、相手がそれを望むときだけです。だからこそ無理やり触れることを暴行と呼ぶのです。それをケア業界ではわかっていない人が多いように思います。 自分の業務を遂行することで頭がいっぱいだからです。

認知症高齢者に原因があると考えてしまうのは、ケアする側は「相手にとって常にいいことをしているはずだ」という思い込みがあるからです。」というのです。

 

カナダで見た介護する人は「「動かないでください。洗いますから。すぐに終わります」といって無理やり脚を広げて押さえつけていました。当然、相手は噛んだり、ひっかいたりします。そこで担当している看護師は「ケアしようとしているのにひっかかれた。攻撃的な態度だ」と報告します。」と、誤った見方で自分の行為を暴力的とは見ず、逆に、相手を暴力的と見るというのです。

 

ではケアする場合に、相手に暴力的だと感じさせない方法があるのでしょうか。それを簡潔に説明しています。

 

「私とロゼットが開発した技術では、正面から脚を無理やり聞かせるようなことはしません。側臥位にして膝を屈曲させることで、陰部に自然にアプローチできるようにします。このやり方であれば心理的な抵抗も少なく、穏やかに洗浄ができます。」と。むろん、その前提に、これまでに取り上げた、5つのステップを踏み、4つの柱、見る、話す、触れる、立つ、を適切に行うことの中で、それぞれのケアタイプに応じて対応するのですね。

 

今日はこれで一時間弱、ちょうどよい時間となりました。また明日。

 


認知症高齢者との触れ合い(6) <ユマニチュード・5つのステップ>を考える

2018-04-15 | 医療・介護・後見

180415 認知症高齢者との触れ合い(6) <ユマニチュード・5つのステップ>を考える

 

これまでユマニチュードの4つの柱について、見る、話す、触れる、立つと、順次私が学びながら、紹介してきました。むろんこれまでの説明はほんの入り口にたったくらいなんでしょう。でも私にとっては、認知症高齢者、いやそれ以外の人に対しても、人と人との触れ合いをするには、重要な気づきをさせてもらったと思っています。

 

今回はさらにもう一歩踏み込んでみたいと思います。

 

介護施設を訪ねると、階層によってエレベータや階段という仕切りがあって、利用者が自由に行き来できないように配慮されているところが多いと思います。他方で,一つのフロア内は、相当数の部屋があり、たいていは4人部屋とか2人部屋といった共同の部屋ですね。有料老人ホームでは個室型が多いと思いますが。

 

で部屋のドアは昼間たいてい開け放しているところが多いのではと思います。利用者の便宜というより介護スタッフの作業が容易という理由の方が優先されているように思うのは一方的な見方でしょうか。

 

個々人の独立性を確保する部屋が用意できることが望ましいと思うのですが、そうでなくてもドアくらいは閉めるのが望ましい(むろん利用者がそうしてほしいといえば別ですが)ように思うのです。

 

ここでイブ&ロゼットさんが指摘する「人間関係をつくるための5つのステップ」を取り上げたいと思います。

 

「ユマニチュードではすべてのケアを5つのステップで構成されるひとつの手順で行います。これは人間関係をつくるためのケアの手順です。」この手順を学び実践することを提唱しています。

 

しかもその効果はすごいのです。「この技術を用いれば、攻撃的な行動の90パーセント程度を減らすことを私たちは経験しています。」暴力的であったり、暴言があったりすることをほぼなくすことができるというのです。それ以上に、心穏やかに本来の人間性を回復して人と人との絆、触れ合いを築くことができることまで示唆しています。

 

ではその5つのステップとはなんでしょう。

「①出会いの準備・②ケアの準備・③知覚の連結・④感情の固定・⑤再会の約束」の5つを順次行っていくことです。

 

よく自分の家はお城と西欧人の世界では表現されることがありますね。だれも自分というアイデンティティを保ち、自分らしさを感じるには、自分のバリアを無視して勝手に入ってくる、自分に触れるといったことでは、無秩序状態に置かれることになるように思うのです。

 

そのような相手のお城をきっちりと受け止めて対応する必要があると言うことです。

 

それが第1のステップ「出会いの準備」です。

「病室には、家庭のドアにあるようなインターフォンはありません。しかし、ユマニチュードではインターフォンがあるかのように行動します。相手に、「人が来ましたよ」と知らせるためです。」

 

インターフォンの代わりにノックをするのです。そのノックの仕方にも作法があるのです。

 

「コンコンコンと3回ノックしたら3秒待ちます。またコンコンコンと叩き、3秒待ちます。そのあとに、もう1回「コン」と叩いて室内に入ります。これは相手の覚醒水準を徐々に高めるための技術です。

もちろん、途中で患者が応えたならば、その時点で入ります。反応がなかったときには3回ノック3秒待つ、3回ノック3秒待つ、ノック1回の手順を踏みます。」

 

その後も相手に自分の存在を気づいてもらうステップがありますが、省略します。

 

このノックは相手に自分の存在を気づいてもらうとともに、その反応を待ち対応するということなのです。

 

「ノックをすることによって、中にいる人に、「誰かが入ってくることを受け入れるか、受け入れないかを選択できる」ということを認識させます。」

 

ですから、今は会いたくないといった反応・対応があれば、それに応じる必要があるのです。相手の意識・反応をきちんと見極めて、あなたの気持ちを受け止めて対応しますよと、最初のコミュニケーションを交わすのです。

 

それは普通の人であれば、誰もがしていることではないでしょうか。

 

2のステップ「ケアの準備」はどんなことでしょう。

 

これは結構難しいかもしれませんが、介護の気持ちを純粋に抱いていれば、案外容易かもしれません。

 

ここでは、「「あなたに会いにきた」ということだけを告げるものでなければいけません。」というのです。そのとき行う介護の作業の話をするのではないのです。そこがケアの準備ということです。

 

それは「「あなたのことがとても好きだ」という気持ちを行動で示したとき、私たちはとても気持ちよく、幸せに感じます。純粋な意図を持った、まったく無償の行動が非常に重要です。」というのです。時間に追われ、次々と待っている利用者のことを思い浮かべると、とてもそんな悠長なことを思えないと言われるかもしれませんね。介護の現場を知らない人の話だとも。でもその結果、無気力になったり、あるいは怒りっぽくなり、かえって介護作業がスムーズにいかないこともあるのではないかと思うのです。

 

このケアの準備がきちんとできれば、次はケアの内容の話となります。

 

その場合でも言葉を選ぶ必要があるというのです。「シャワーが嫌いな人に対して、「シャワーを浴びましょう」とすぐに言ったりしてはいけません。相手が嫌がる言葉を言わず、「よく眠れましたか」「会いに来ましたよ」とポジティブな言葉だけを使って話します。」

 

そして相手がそのケアを拒否したら、場合によってはその意思を尊重しその日のケアをあきらめるといのです。

 

その意味は大きいですね。「仮に拒否されたとします。3分経ってもケアをさせてもらえない場合は、無理強いはせず延期します。「では、今はやめておきましょう。また後で戻ってきますね」と言って再会を約束します。ケアをする人には、「ケアをあきらめる力」も必要なのです。ケアをあきらめることで、相手には「自分の意思を尊重してくれるいい人と出会った」という感情記憶が残ります。」

 

3のステップ「知覚の連結」もむずかしそうですね。

 

「自分が伝えるメッセージに調和を持たせる技術です。「見る」「話す」「触れる」のすべてで「あなたのことを大切に思っています」と伝えます。」ここで、ユマニチュードの技術を重層的・包括的に活用して行うのです。

 

それは「心地よい状態を作り、その状態を維持するためには、ひとつの感覚からの情報だけでは駄目で、ふたつ以上の感覚から心地よいという情報を入れ続けていく必要があります。話すことと眼差し。あるいは触れることと眼差しなどです。この包括性が、ユマニチュードの実践においてとても重要です。」

 

4のステップ「感情の固定」もぴんとこない言葉ですね。

 

どんなことを意味するのでしょう。それは「私が誰であるかはわからない。けれども前に会ったときの感情は覚えています。」それはわかります。私の母親はいまそれに近いのです。また、私が後見人をしている方もそうです。私はその方にユマニチュードを実施しているわけではありませんが、できるだけ笑顔を見せ、毎回生け花をもっていっています。それとできるだけこの方の気持ちを尊重するように話を聞こうとする態度を示しています。すると私の顔を見て誰かはわからなくても、●さんというと、笑顔を見せてくれるのです。

 

イブ&ロゼットは、もう少し具体的に述べています。「認知症が進むと、学習は主に感情記憶を通して行われるようになります。私が昨日ケアをした人に、「こんにちは」と言います。「私に会ったことありますか」と聞いても、「会ったことはない」と答えます。覚えていないのです。でも、ニッコリはしてくれます。または嫌な顔をします。私がその人に過去にいいことをしたか悪いことをしたかによって、そのときの反応が違います。」

 

そして攻撃的な人に対して、ロゼットさんがユマニチュードのケアをすると、今度はその人は優しい感情を誰に対してももち、攻撃的でなくなるというのです。

 

そうなるといいですね。その方にとっても幸せだと思うのです。

 

最後のステップ「再会の約束」はわかりますね。

 

たいていの人は、別れ際にまた会おうねとか、また来るね、とか常套文句のように言いますが、好きな人や家族であればより気持ちを込めますね。

 

ところが介護の現場では簡単ではないでしょうね。でも利用者にとっては、毎日何回か介護職員が来ても、いつ来たかも忘れていることが少なくないでしょう。トイレに連れて行ってもらったのもすぐ忘れたり、食事を介助してもらったのも忘れてしまったりということは結構あるでしょうね。

 

でも心からまた来ますねと再会の約束をすれば、誰でも気持ちがいいですね。ましてや心の絆を築く、人との触れ合いを楽しめるユマニチュードをしてもらった人であれば、そういう再会の約束は、忘れてしまうかもしれませんが、心のどこかにいい感情記憶として残るように私も思います。

 

今日の勉強でまた少し学んだ気がします。

 

今日はこれにておしまい。また明日。