たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

瞬きの効用 <まばたき、一瞬の秘密>を読みながら

2019-02-14 | 心のやすらぎ・豊かさ

190214 瞬きの効用 <まばたき、一瞬の秘密>を読みながら

 

昨夕の毎日記事<科学の森まばたき、一瞬の秘密 目を守るだけじゃなかった>を読みながら、あれこれ夢想してしまいました。

 

昔、そう半世紀近い、私の青年時代、ターナーに魅了された時期がありました。イギリスのロマン主義(私には印象派としか記憶にないのですが)の画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーです。そのころの記憶ですのでいい加減きわまりないのですが、魅了されるたくさんの絵画を描いた天才の幼いころの話として、師匠だったか父親だったか、その指示で風景を一瞬見て描きなさいと言われ、実際やってのけたといったうろおぼえの記憶です。

 

その頃、そんなことできるのかしらと思いつつ、超天才なので、普通人の秤では判断できないと思いつつも、なんとなく記憶に残っていました。その頃でしたか、ナショナル・ミュージアムかどこかも覚えていませんが、ターナーの風景画が一枚、広い部屋の壁一杯に圧倒する形で見た記憶があります。どんな絵だったかも記憶の彼方ですが。ゆっくりと一人で味わえた程、来館者も多くなかったように思います。

 

一瞬で風景を活写することができるか、その後も時折、頭の中の不思議として残っていたように思います。あるときずっと風景をみているとき、瞬きすると脳の中に特定の画像イメージが残っていることに気づきました。私の場合素人ですので、そのイメージの再現はうまくできませんが、天才画家であれば、修練もあるでしょうけど天賦の才としてもカメラの画像の様に明確に取り込むことができるのではと思ったのです。いい方を変えれば、瞬きはシャッターのように、変化してやまない自然の一瞬を停止させ画像イメージとして網膜の中に取り込んで、脳内で画像イメージが固定できるのではと思うのです。これはそのころ(いつだったか覚えていませんが)思いつきいまも検証できませんがそう思っています。

 

他の画家もずっとにらめっこばかりしているのではなく、瞬きをして画像イメージを固定化していないか、それは画家に聞かないとわかりませんが、そうではないかと思うのです。以前知り合いに画家が何人かいましたが、その後連絡を途絶えていますので、お聞きするチャンスがないですが。

 

ついでにターナーのことをウィキペディアで調べたら、1775年生まれで1851年死亡です。この年代を見てほとんど北斎と重なるなと驚きました。北斎は1760年生まれで1849年死亡ですから、まさに同時代の天才画家と天才絵師ですね。

 

私が北斎に関心を持ち出したのは北斎漫画などを見たのが契機で30年くらい前ですから、ターナーに比べずいぶん後ですが、最近では北斎の方に関心が強くなっていて、ターナーのこともこの記事を見るまで忘れていたほどです。

 

さて記事の紹介に入りたいと思います。

<成人は1分間に約20回、1日に約1万5000回もまばたきをすると言われる。その度に涙が目を潤し、強い光やごみから角膜が守られる。>

一分間に20回の瞬きとは驚きです。しかも1日で1.5万回となると呼吸をする以上の頻回ですね。それを呼吸ほど意識しないのですから不思議です。

 

この記事を見て映画『マイ・インターン』を思い出しました。定年退職して暇をもてあそぶ老人役のロバート・デ・ニーロが、起業して1年未満くらいで急成長し若者だけの女性服のネット販売会社の社会貢献的なプロジェクト・年齢制限のない試験的採用・インターンに応募し、その20歳過ぎ?の魅力的な女性社長のアン・ハサウェイの担当となり、最初の面会場面が面白いのです。ハサウェイは会っているとき瞬きしない人を嫌うという性質であることを秘書から聞いたデ・ニーロが、高齢者を苦手とするハサウェイに目障り扱いされつつも、無理矢理瞬きをするのです。するとハサウェイも仕方なく?彼を一応、受け入れるのです。これがとても愉快でしたが、記事で指摘する瞬き例は誰にでも通用するのかしらとも思うのです。

 

気がつかないうちにやっているのでしょうか。この記事を見た後も、それほどやっているという自覚はありません。さて他の方はどうでしょう。

 

とはいえ記事は瞬きの意外な能力・役割を紹介しています。

<最近の研究で、脳のリセットやコミュニケーションにも関わっている可能性が分かってきた。一瞬の動作に隠された秘密に迫る。【松本光樹】>

 

どうやら瞬きの回数が認知機能と関係するようです。

<怒った時や緊張した時、まばたきはさらに頻度を増す。>そうかもしれません。

 

<中野珠実・大阪大准教授(認知神経学)は・・・まばたきの前後で被験者の脳活動がどう変化したかを機能的磁気共鳴画像化装置(fMRI)で測定。すると、注意力を発揮する時に活性化する脳領域がまばたきの瞬間、沈静化。反対に、リラックス時に働く脳領域は血流が増えて活発化していた。中野准教授は「次にくる情報に備え、脳をリセットしている可能性がある」と考える。>

脳のリセットはありうるでしょうね。でも意図的でないようにも思えますので、自然な体内装置でしょうかね。

 

瞬きの回数によって相手が受ける印象が違うという隠れたコミュニケーション装置みたいところがあるようです。

<大森慈子(やすこ)・仁愛大教授(生理心理学)によると、まばたきが多いほど相手に「親しみにくさ」「不信感」「神経質」といった印象を与えがちだという。一方で、大森教授の実験によると、まばたきが少ないほど信頼感は増すが、少なすぎると今度は親しみにくい印象を与えてしまう。「1分間に12回前後」が最も好印象だという。>

たしかにまったくしないと思われるような人もどうかと思いますが(映画のハサウェイの性格はその意味で合理的でしょうか)、多すぎるのも困りますね。一応妥当するような常識かもしれません。でも瞬きだけで人を判断することはないでしょうね。

 

瞬きの同時性となると、自然に合致するとしても意図的に合わすのは難しいというか、かえってそうすると嫌みでしょうね。まあAIならいいかもしれませんが。

 

瞬きの記事を読んでいて、今朝の毎日記事<クローズアップ2019 千葉女児死亡、父再逮捕へ 虐待対応、踏み込めず 威圧された児相、市教委>で、死亡した女児の父の対応が書かれていますが、娘に対するしつけと称する一方的な仕打ち、児童相談所や市教委に対する<口調は丁寧ながら圧迫感がある>態度を見ていますと、きっと瞬きの仕方にも異常さが現れていたのではないかと思ってしまいます。余裕のない生き方をしてきたのかなとも思うのです。そのために犠牲になった女児はほんとうに気の毒です。沖縄時代から周囲で父親の異変に気づくことができなかったか残念です。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


歩く道(その8) <吉宗と才蔵を意識しながら和歌山城と周辺を歩く>

2019-02-02 | 心のやすらぎ・豊かさ

190202 歩く道(その8) <吉宗と才蔵を意識しながら和歌山城と周辺を歩く>

 

いつも何冊か同時並行で読んでいますが、最近は藤本清二郎著『奇襲藩主徳川吉宗』に少し惹かれています。吉宗について書かれた書籍は相当数にのぼり、おそらく読み込むのは私には無理かなと思っていますが、それは吉宗の多彩な才能と同時に伝説的物語にも関係するのかもしれません。

 

ただ、多くの吉宗像はやはり徳川八代将軍としての活躍というか業績が中心で、奇襲藩主時代は割合さらっとしか取り上げていないように思います。むろん小説だと、以前紹介した津本陽著『南海の龍』などでは秘密のベールのように包まれた生誕から青年藩主時代を痛快に描くだけでなく、農業生産増大の中心となった土木技術者才蔵を丁寧に描き、二人の対話場面まで用意しているのですから、さすが地元出身の作家だけあると思うのです。

 

ところで、藤本氏は歴史家で専門家の立場から、従来流布している吉宗伝承や歴史学者の見方に異論をはさむかのように、見逃されている紀州藩主時代に絞って、吉宗の業績を適正に評価しようと取り組んだのがこの著作です。吉川弘文館から発行されているだけあり、文献の裏付けを基に新説を唱えています。

 

吉宗の母方の祖母は、彦根を追い出され、結婚した夫とも死に別れ、男女二人の子を連れて熊野参詣する途中、和歌山市橋向丁にある大立寺の門前で伏せていたところをその和尚に助けられ参詣を終えた後もその世話で城下に暮らし、娘は藩士の下女を経て御殿奉公中、藩主光貞の子を宿し、吉宗を生んだのです。

 

驚きました時折訪れる和歌山地裁などに行く途中の道沿いに、大立寺がひっそりとした門構えで立っているのです。いままで知らなかったので今日はしっかり見ました。

 

藤本氏は、この母親の身分から生まれ、徳川御三家の藩主となり、徳川八代将軍となったこと、その吉宗が行った数々の施策の中に、この生誕にまつわる因縁といいましょうか、卑賤的身分から殿上人になったことを意識しつつ、乞食など弱者に対する救済策を、施策の基本においたように指摘するのです(藤本氏の指摘とは異なる表現ですけど私が受けた印象です)。

 

吉宗が救貧対策を行ったり、健康保険制度のない時代、貧者に治療を施す施策を行ったことは将軍時代の施策としても有名ですが、その源は紀州藩主時代にあり、その背景は生誕にあったともいえるのかもしれないというのです。

 

また、吉宗が将軍になるとき、その紀州藩での財政改革がすぐれていた成功したと言われることがありますが、藤本氏は吉宗独自の施策とは捉えず、父光貞時代からの倹約(他方で綱吉娘との婚儀費用や将軍御成費用に莫大な支出をして財政赤字が拡大したとも言われていますが)、干拓・用水開削・ため池修補などにより農地拡大・生産増大をすすめ、吉宗は長兄を経てその施策を引き継いだもので、吉宗独自の施策ではないとも指摘しています。

 

とはいえ、光貞時代に地方巧者として藩に取り立てられた才蔵が、次々と用水路開設をすすめる中、私が関心を持つ小田井用水は、これまでとは比較にならない長大な計画であったと思いますが、宝永2年(1705年)吉宗が藩主となった後、2年後の宝永4年(1707年)に開始し、その年の12月に伊都郡5千石分を完成しています。

 

その後も小田井は工事が継続し、才蔵が年齢(74歳)を理由に職を辞退した後に完成しています。才蔵を取り上げる際、いつも灌漑用水事業(ため池、井堰、用水路)を念頭に置いて水利に焦点をあて、いわば広義の治水事業をしたかもしれないけれど、治水事業についてはあまり行っていないのではないかと思っていました。

 

しかし、藤本氏は、吉宗の重要な資質というか才能が、危機管理能力に合ったのではないか(そういう表現はしていませんが)とでもいうかのように、宝永大地震・津波被害とその対応、正徳4年大凶作・飢饉対応に果敢に挑んだ吉宗の経験は、幕府が抱えるさまざまな問題に対処できる能力を持つ唯一の将軍候補となったというような見方ではないかと思うのです。

 

興味深いのは小田井開削工事を開始したのが宝永45月ですが、宝永大地震大津波は同年104日(旧暦)です。才蔵は地元学文路(禿)でその揺れを感じたとのことで、内意陸にも相当な影響があったかもしれません。それはともかく小田井工事は人に任せたのか、同年10月から翌年9月まで海岸地域の被害見聞をしています。才蔵の災害見聞能力の高さが認められていたのですね。

 

なかなか歩く道の話ができませんが、そんな思いを描きながら、今日は和歌山城の天守閣や御殿跡を見たり、多様な作りの石垣を見たりしながら、城内を歩き回りました。石垣の多様さは少しも勉強していませんでしたので驚きです。積み方がいろいろで、傾斜角30度もないような緩やかな勾配もあれば、80度近いところもあったり、当然ながら石の材質も全然違うものが場所場所で使われていました。昔、境界紛争で石垣の一つ一つをデジタル化して、名前は失念しましたが、立体化したうえで、平面に落として元の境界線を描き出すという作業をしてもらったことがありますが、懐かしい思い出です。

 

そういえば鞆の浦の架橋差止訴訟でも、景観の構成要素となる石垣についてそのようなデジタル化作業した成果を使わせてもらった記憶です。石垣もほんといろいろで少しくらい勉強しても複雑ですぐ忘れてしまいます。

 

その石垣との関係で、藤本氏は、紀ノ川の近世までの河口への流れであった水軒川にある水軒土堤防について、才蔵が津波被害の見聞で、破損を確認したと指摘しています。この水軒川は先の道を歩くの雑賀のとき、歩いた場所でした。今日は城歩きに時間がかかり、水軒土石垣堤防まで歩く時間がなかったので、その石垣堤について吉宗築造伝承に疑問を指摘する藤本氏の見解を現地確認することができませんでした。

 

その代わりといっちゃなんですが、少し手前の和歌川をちょっぴり歩いたり、和歌山中心街に近いところを歩きました。和歌川は中心街ではテラスを設け歩けるようにしたり、通りから降りる階段も用意したりしているのですが、いつ頃だったのでしょう、いまはうち捨てられた状態で、なんとも悲しい川の景観です。川幅は20mくらいあるのでしょうか、水量もある程度ありますし、流れもわずかながらありますが、なんしろ水の色からして水質の悪さを感じます。プラスチックゴミもあちこちにぷかぷか浮かんでおり、これでは道頓堀のように飛び込む御仁もいないでしょうけど、残念な風景です。

 

川に面したビルもたいていは川面を利用するといった風ではなく、見えないように背を向けている印象です。東京品川当たりの運河も、以前はひどかったですが、バブル以降でしたか割合整備して川床料理ではありませんが、川を楽しめるようなレストランなどいい風情の飲食店などが増えて、川も町も活きている印象がしてきたように思うのですが、和歌川は吉宗が生きていたら激怒するかもしれません。

 

まちなみを歩きましたが、都市計画というか区画整理でしょうか行き届いているようで、どうも昔の町割りを偲ばせてくれるようなところは見かけませんでした。まあちょっと歩いたくらいでは分からないかもしれませんけど。せっかく江戸時代から続くような町の名前を冠した住居表示を残しているのですが、その面影を見いだすことができませんでした。

 

だらだらととりとめもなく書き続けてしまいました。歩く道も焦点が絞れなかったのは致し方ないですが、藤本氏の著作はいつか別の機会に整理して紹介したいと思います。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


歩く道(その7) <中世名手荘と丹生屋村を歩いてみる>

2019-01-27 | 心のやすらぎ・豊かさ

190127 歩く道(その7) <中世名手荘と丹生屋村を歩いてみる>

 

昨日は当地も雪が断続的に降りました。たまにしか歩かない高齢者にとっては年寄りの冷や水以上に危ない橋を渡ることになるかもしれないと早々と歩きを断念しました。

 

今日は曇り空でしたが風が冷たく少しきつかったのですが、平日ほとんど歩いていないので、昨夕の大坂選手の元気をいただき、歩くことにしました。いや粘り強くなりましたね。我慢強くなりました。その冷静さを失わないようちょっとした仕草で気持ちを展開する様子が素直で、彼女が23歳から4歳になったと優勝記者会見でユーモアたっぷりに話していたのを見て自己分析もしっかりしていますね。

 

むろんラケットさばきはどんどん進化していることが素人でも少しはわかります。バックハンドでは、あの腰を低くしたスタイルで相手のボールを引きつけ、ためをつくって鋭く相手コートに打ち込むのは美しいですね。フォアハンドではどのように打っているのかわかりませんが、ヒッティングポイントがいいのでしょうか、強烈にサイドラインぎりぎりを狙いますね。相手のベトラ・クビドバもすばらしい集中力を見せましたね。第2セットでは大阪選手にマッチポイントを3度も握られながら連続ポイントを勝ち取りそのセットを奪い取ったのですから、さすがと思いました。この時点で、大坂選手のショックもあり、これは勝てないなと思ってしまったほどです。それを建て直して全豪オープン優勝を勝ち取ったのですから、見事でした。

 

まあこれだけの大坂選手の素晴らしい精神力・技術力を見せてもらったわけですから、私も少しは元気になろうと思った次第です。関係ないですが、私も含めすばらしい元気というプレゼントをいただいた気分ではないでしょうか。

 

さて今日の歩く道は、粉河と名手の中世時代の紛争地を訪ねることにしました。ただ、前回、文覚井の場所を見ようと思って山の中に入ったものの、事前に地図も見ずきちんと検討しなかったため簡単に見つけられると思ったところ、見当違いの獣道?歩きをしてしまったので、今度はできれば井堰のあるところを見つけようと思い、そこは車で近くまで行こうと考えたのです。

 

ところが地形図を見ないで、グーグルマップなど普通の地図を見ただけでしたので、近くまで行ったのですが、どうやら見当違いで、改めて地形図を見てから出直すことにしました。

 

だいたいグーグルマップだと、道路は割合正確に表現されていますが、川や水路となると当てにならないことが少なくありません。まあ利用者で私のような見方をする人は希でしょうから仕方ないですね。

 

桛田荘という紀ノ川北岸の、現在で言えばかつらぎ町笠田全体に近いでしょうか。現在で言えば笠田東、笠田中、萩原、窪当たりに通水していたと思われるのですが、それには北川にそびえる小高い山の背後を流れる、当時で言えば静川、北川、あるいは四十八瀬川(現在の穴伏川)のどの当たりに井堰を設け取水し、用水路をどのように通したかは興味深いところです。現在も続く誰がいつ開削したかの議論も興味深く、その領地支配の構造も気になるところです。

 

今回訪ねたところはおそらく少し上流まで行きすぎたようです。実は穴伏川を車で下っていく途中、たまたまその谷間景観を写真に撮ろうと、道路上で下車して一枚盗ったところ、自宅広場から私の方を見ている人がいて、どちらからともなく声をかけて30分近く話をすることになりました。その方Hさんから、おおよその文覚井の記念碑的な表示がある場所をうかがい、だいたいの見当がつきました。さすが地元の方、文覚井のこと、私が関心を持つ大畑才蔵のこと、よくご存知でした。小田井用水の功績の偉大さも。他方で、当時も今も農民は田んぼ一枚をとても大事にする(最近は違うという人もいるかもしれませんが、農家の意識はさほど変わっていないと私は思っています)ことを踏まえて、才蔵だけの手腕でできることではない、多くの地元の有力者なりが地元の意見を調整して協力したからできたのだと話してくれました。私も同感です。

 

帰りに、ハッサクとネーブルをたくさん頂きました。まるでNHK人気番組の鶴瓶さんや関口知宏さんみたいでしたが、まあ私の場合は普通の通りがかった歩き人(今回は車でしたが)にすぎないのですが、農村では結構そういうことがあり、そんな雰囲気が農村の良さでしょうか。

 

さてそれから1時間くらい元の名手荘の一部を歩いてみました。歩いたのは大和街道を東から西に、名手川にぶつかり、右岸側を紀ノ川まで下り、その後紀ノ川沿いを遡りました。

 

大和街道では、途中に名手谷川という幅数m、実際の水流は50㎝ほどでしょうか、小さな川を横切り、次に名手川という川幅50mくらいはあるのでしょうか、そこまで西に行ったのです。大和街道の途中にある旧名手宿本陣が国指定史跡で、その妹背家住宅が国指定重要文化財になっているところを訪ねました。

 

重要文化財ですから、表にはよくある看板に説明書きがありますね。その説明書きを見て、ふと気になってしまいました。冒頭にある「妹背家は、中世以来紀伊八庄司の一つに数えられた名家で、当時名手荘及び丹生谷を領した土豪であった。」です。

 

この「当時」が気になるのです。中世以来長く名手荘と丹生谷(村)は水、土地、山の境界を争って暴力沙汰、訴訟沙汰を繰り返しているはずです。そして私が今日訪れたのも、その争論の源である名手川を見たい、その川の東西をまたいで争った両者の土地柄を見たいと思ったからです。

 

たしかに近世初頭には両者は統合されていて、妹背家が支配していたかもしれません。しかし、それまでは両者の対立は尋常でなく、その争いは鎌倉期の朝廷、幕府を困惑させるほどでした。まあこれもいくつか文献を読んだ程度の生半可な知識ですが。たとえば服部英雄氏の<名手・粉河の山と水  ー水利秩序はなぜ形成されなかったのかー>はこの当たりを丁寧に考察していますので、関心のある方は参照ください。

 

服部氏が指摘しているように、名手川は水無川だったのですね。現在も川幅はある程度ありますが、水量はわずかです。服部氏によれば、丹生谷村は丹生屋氏が支配し、他方で名手荘は高野山が支配して、旱魃が起こると、水争いが深刻化したようです。現在の温暖化以上に厳しい炎熱状の旱魃だったのかもしれません。

 

で丹生谷村は粉河寺が背後にいて、名手荘は高野山がということで、両寺が支配権をめぐって争っていたようです。その争いが収束したのは、それまでに朝廷の裁許があっても一向に解決されなかったのですが、秀吉による粉河寺殲滅と高野山の降参ではないでしょうか。

 

高野山は名手荘の立場で、先に触れた静川(現在の穴伏川)の水利をめぐって、神護寺領?の桛田荘とも繰り返し争っています。中世は決して平和ではなく、僧侶は荘園支配を強化しようと戦い続けていたように思います。中央では鎌倉幕府の地で決着する争い、室町幕府も無秩序状態を生み出し戦争に明け暮れていましたが、紀ノ川沿いでは命の源、水利をめぐる争いをいつ終わるともしれず続いていたと思われます。それは田畑だけでなく山も。

 

そんなことを思いながら、歩きつつ、農地の多機能化の一つ、高さ3mを越えるような太陽光発電の建設中の現場を見たり、地べたを這わすような枝づくりをする柿畑を見たり、現代的な変化もまぶたに残しました。

 

いつかこの水利紛争の顛末について、整理できればと思っていますが、いつになることやら。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 


笑いと効能 <笑う門には免疫力UP>を読みながら

2019-01-18 | 心のやすらぎ・豊かさ

190118 笑いと効能 <笑う門には免疫力UP>を読みながら

 

関東で長く生活していたためか、関東の笑い芸に親しみすぎたのでしょう。当地にやってきて関西系のTVで登場するお笑い番組になかなかついていくことができないでいました。たぶんいまもしっくりこないですが、それでも少し気持ち的には慣れてきたかなという感じはあります。

 

私自身、そもそも藤山寛美(もうこの名前もすぐに文字変換できないのですね!)の話術、芸にぞっこんでしたので、幼いころから上方喜劇に親しんでいたはずです。上京後はそれほど見る機会がなくなり(TVを見ていませんでした)、寛美の笑いの芸術をみることもなくなり、いつの間にか彼が亡くなっていました。最近評判の関西のお笑いは、寛美のそれとは異質のもので、笑えてもしっくりこないものでした。さすが娘の藤山直美さんの芸は魅了されますが、滅多にお目にかかれません。

 

とはいえ笑いの芸は多様であってよいと思うのです。私がある一定の笑いの芸にこだわること自体、精神的にも人と協調する意味でも、いい笑いができていないのではと最近思うようになりました。笑いが健康に役立つ、病気の回復に役立つといった知識が普及してきて、私も自然と考え方が変わってきたように思います。

 

さてそんなとき、今朝の毎日記事<くらしナビ・ライフスタイル笑う門には免疫力UP 大阪国際がんセンター、患者対象に研究 気分や痛みも改善、院内寄席で実証>では、その効能ある笑いを実践している病院を紹介しています。

 

最初に紹介された桂文珍さんは有名ですし、話芸もしっかりしている落語家ですので、落ち着いた笑いを提供してくれるでしょうね。

 

< 「笑い」が、がん患者の免疫に与える影響を調べるユニークな研究が大阪国際がんセンター(大阪市)で行われている。研究では、患者に落語や漫才を楽しんでもらい、体調を調べる。患者の血液を検査すると、免疫力を高める物質を分泌する能力が向上していたことが判明。笑って気持ちが明るくなることで免疫によい効果があるという。どんな研究なのか、現場を訪ねた。【御園生枝里】>

 

ここではがん患者の免疫力アップに笑いが効果あるかを研究しているそうです。ただ、笑いは長寿や健康全般へのよい影響を与えるとか、あるいは認知症になりにくい、なっても症状の進行を抑えるとか、基本、免疫力をアップするという多様な効能があるといわれていますね。

 

患者さんも紹介されています。

<大阪府大東市の長崎愛子さん(65)は昨年4月に肺腺がんと診断された。「病気になって、少しでも研究の役に立てたらと思って協力した。こんなにおなかの底から笑うことはなく、自分の体が元気になった気がして、笑うのは大切だと実感した」と笑みを浮かべた。>

 

がん患者として入院したりしていると、全体に暗い感じになりがちですね。お見舞いに行ってもなかなか笑顔を見せられません。でもそいういった入院状況は決してがん症状にプラスになるはずがないですね。

 

余命数ヶ月を宣告された見知らぬ患者同士がその最後を二人が共通する最後の願い事を叶える旅をする映画『最高の人生の見つけ方』は、必ずしも笑いを提供してもらうものでありませんが、治療よりもそれぞれの思い通りに生きることで、最高の笑いと喜びを達成する物語です。余命はこのことで延びたわけではないようですが、単に延命するのではなく、人生の生きがいを感じることができたことに多くの感動を与えたのではと思うのです。むろんもう一人の大富豪という設定からありえないような巨額の金を使っての旅となりましたが、そこまでしなくても普通の旅ないしはチャレンジでも同じに近いことを得るのではと思うのです。

 

こういった映画の背景には、医師側の気づきもあるでしょう。

<<宮代勲・大阪国際がんセンターがん対策センター所長は「がん経験者が増え、治療中のみならず、診断を受けた時から治療後まで、社会的、精神的な支援の需要が高まっている。どう生きたいかは人それぞれで、自分らしく生きるためには、楽しみも必要では」と話す。>

 

医療というのは一定の有用性があるとともに、まだまだ限界があると思うのです。人間が原始以来保有してきた免疫力という自分自身の回復力を養い、高めることが医療以上に必要な場面が少なくないと思うのです。他方で、医療と言っても東洋医学が最近では見直されてきていると思うのですが、2000年を越える蓄積はその点では学ぶものがあるように思うのです。

 

ともかく笑いの多様な効能は、自ら生み出すことができればいいのですが、他人のしかもプロの話芸で生まれれば、楽ですね。今後もそういった提供を期待したいと思います。これはガン患者を治療する病院だけでなく、介護老人保健施設などでもぜひ採用してもらいたい一つです。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


歩く道(その6) <紀伊国桛田荘・文覚井周辺歩いてみる>

2019-01-13 | 心のやすらぎ・豊かさ

190113 歩く道(その6) <紀伊国桛田荘・文覚井周辺歩いてみる>

 

今日は天候が良さそうな空模様。どこにでかけようか迷いながら中世の水争論があった名手荘の水無川周辺と粉河寺周辺を歩いてみようかと思い出かけました。ところが京奈和道路が途中工事中で、24号線が渋滞。粉河まで時間がかかりそうなので、今回は断念して文覚井を歩いてみることに作戦変更。

 

ただ、文覚井がどのような経路を通って紀伊国桛田荘に灌漑用水を流していたか、以前読んだ和歌山県立博物館編集・発行の「紀伊国桛田荘と文覚井」をうろ覚えで、とりあえず宝来山神社周辺だと思いだし、そこをまず参拝して歩くことにしました。

 

神社の左側には宮池という小さな池があり、とりあえずその脇の道を登っていけば、山の向こうに流れている穴吹川(昔は北川とか、静川とかとも言われていました)に降りれるだろうと高をくくって歩き始めました。きれいに舗装した道なので、今日はくっつき虫に遭遇することはないだろうと思っていました。

 

ところが神社の案内図では道が続いているはずだった?のに、途中で切れていました。元来た道に引っ返そうかと思いつつ、その先を見るとどうも人が歩いたような跡があります。一尺くらいの踏み跡です。これはちゃんとした?道ではないかと前に歩を進めました。一方が竹藪、他方が柿の木が放置された状態でした。少し不安になりつつも、人が歩いていることは確かなので、大丈夫と考えてさらに進みました。

 

私はこの「歩く道」ではスマホのグーグルマップを頼りにして歩いています。これは便利ですね。道に迷っても自分がどこを歩いているか分かります。今回歩いているところはこのマップには当然ながら道の表示がありません。ただそれほど離れた距離に道の表示があったので、そこを目指して行けばよいと軽く考えました。

 

案の定?、人の踏み跡は途中で消えてしまっていました。それから先は藪漕ぎですね。それ自体は若いころからやってきましたし、熱帯のジャングルでもやりましたので、年をとってもそんなもので怯むことはありません。が、やはりひっつき虫が出迎えてくれました。

 

よく晴れた日なのと、すぐに工事をしているような作業音も聞こえてきましたので、藪の中でも不安はありません。そういえば昔、白神山で遭難したときは、少々あせりました。昼過ぎに迷った後雪山の中、沢を下っていったのですが、夕闇になり、これは危ない領域に入ったなと不安になり始めたころ、ようやく道路に出られました。何時間でしょうか、遭難でした。実際、救助隊が出たそうで、皆さんに迷惑をおかけしてしまいました。まだ若かったのですが、この年で同じことをやったらアホと言われそうです。

 

そこはGPSで位置表示がされていますので、道路表示を目指して藪漕ぎしたら、それほど時間をかけず出られました。手は薔薇や何かでいくつか傷跡が残りましたが、支障なく済みました。それから立派な陸橋を渡りました。なんと下は高速道路が通っていました。さきほどの作業音は工事作業車の音だったのですね。道路上には一台も車が走っていませんでした。本来なら車の騒音が響いていたのでしょう。昔高速道路建設工事中の現場を現場検証で訪問したことがありますが、開通後のこういう状況も興味深いです。

 

ところで目的は文覚井の取水口を探ることでしたが、どうやらそれらしい下る道はなく、藪漕ぎしないといけない状態でした。街中を歩くつもりで来ていたので、トレッキングシューズも衣服も用意してないので、今回はあきらめました。

 

はじめ当該箇所の高速道路は堀切で山を掘削して通していましたので、こんな全体が山地形では灌漑用水を通すことはできないな、なんて思ってしまいました。でも高速道路の左右に落ち込んだところがあり、山の東側は谷地形となっていて、そうかあの谷部分に用水を通したのかと気づきました。

 

再び山を下りて、神社付近に降り立ちました。改めて山の麓から紀ノ川にそって河岸段丘上に広がる桛田荘の農地を見ますと、かなり低い位置にあって、伝統的な瓦屋根で白壁の家並みは高台に配置しているようです。神社の少し下に、「船つなぎ松跡」という立派な石碑が建っていて、伝承と言うことのようですが、昔はこの高台に大きな松があり、そこに船をつないでいたということのようです。

 

神社の裏はもっぱら立派な照葉樹林で覆われているように思えます。改めて文覚井の水路を確かめようと、東側の谷間に足を伸ばすと、小規模な護岸があり、水の流れもわずかながらありました。他方で、すぐそばには小田井用水が以前歩いたときと同じように結構な水量で流れています。環境用水でしょうか。暗渠となったり、開渠となったりして、東から西に誰にも注目されていないかのように静かに流れています。

 

さて文覚井、先の「紀伊国桛田荘と文覚井」では、文覚が開設したことについては(12世紀ころ)異論があり、私も同意見です。たしかに12世紀末には重源といった中国の工法を学んだとかで、東大寺大仏の復興を成し遂げた僧侶がいますが、同時代の文覚がそのような土木技術を会得したとの裏付けが乏しいのではないかと思うのです。上記文献では、絵図など多数の文献資料から文覚井の成立が室町以降との見解があり、それに賛同したい気持ちです。

 

ところで、文覚井が開設されたのがいつであったとしても、少なくとも大畑才蔵が18世紀初頭に小田井用水を開設するまで、紀ノ川の大量の水を灌漑用水として利用できなかったことは確かです。桛田荘としては山向こうの北方に流れる小河川、穴吹川(北川)に堰をつくって用水を取水する以外、ため池灌漑しか方法がなかったのですね。

 

この文覚井は、穴吹川(北川)から取水した後、山越えしないように、谷間を流れる風呂谷川まで水路を作り、風呂谷川を南下し、その後東側と西側にそれぞれ配水してきたのです。その東側の用水は東村(現在の笠田東でしょうか)、西側の用水は萩原村(神社の西方)の田畑を潤してきたのですね。

 

以前、多数の絵図のいくつかを紹介したように思いますが、それぞれおもしろくいつか丁寧に一枚一枚、紹介できればと思います。関心のある方は博物館で購入を・・・

 

私は紀ノ川の水を利用できなかったのは、技術的な問題に加えて、荘園の領主が異なっていたこと、紀ノ川を一円支配できる状況になければ、堰を設けてその水利を使うことができなかったのではないかと思っています。その意味で、やはり1692年の高野元禄裁許が重要だと思っているのですが、まだ根拠らしいものがないので、ここだけの話です。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。