たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

プラゴミを考える <プラスチック危機 世界遺産襲う海洋汚染>と<2日間無しで過ごせるか>を読みながら

2019-01-10 | 心のやすらぎ・豊かさ

190110 プラゴミを考える <プラスチック危機 世界遺産襲う海洋汚染>と<2日間無しで過ごせるか>を読みながら

 

30年ほど前、熱帯林伐採が世界的な話題となり国内的も森林伐採が問題にされました。その中で割り箸の使い捨てがときに国内外で問題となったことがありました。環境活動家などでマイはしというか箸の携帯が流行したように思います。実のところ私もそれを実践していました。仲間がそういう人種だったのに影響したのかもしれません。私の場合それから箸に興味を抱くようになり、拘りをもってしまい、どこの竹材を使った箸でないといけないなんてことになり、しかもよく忘れるため、本来の使い捨て抑制効果はあまりなかったように思います。といって間伐材利用だからとの反論も、当時はその製品化の過程で廃棄される量が半端でなく適切なリサイクル利用がされていなかったように思いますので、必ずしも有効なものではなかったように思うのです。

 

それはともかく、あるゴミが環境汚染を招いているとなると、特定の製品がやり玉になって、それを削減することで産業も消費者もなんとなく納得される状況がこの世界にあるように思うのです。

 

それがプラゴミの海洋汚染問題でも現れているかなと思います。スーパーなどで提供されるプラチック製買い物袋やファストフード店でのストローもその一例でしょうか。早速、生分解プラスチック袋とか、有料制とか、あるいは木製ストローとか、そういう技術革新や制度改革などで話題が盛り上がりますが、排出源対策の本質はほとんど変わっていませんね。

 

それでも毎日新聞が連載記事で取り上げているので、この<プラスチック危機>は注目しています。今日は被害の深刻さの一面を語る本日付記事<プラスチック危機世界遺産襲う海洋汚染 「危機」リスト入り検討>と、昨年1229日付け記事<プラスチック危機2日間無しで過ごせるか>は特筆に値するかと思い、取り上げたくなりました。とりわけ後者はわたしの正月休み中の記事で初見ですが、私のもやもやした気分を見事に体験的に取材してパーッと開眼させてくれた秀作といいたいです。

 

前者の記事はプラゴミによる海洋汚染の深刻さを的確に伝えています。<人間から一番遠い」南太平洋の島 砂浜ごみ密度世界一>とは驚きです。途上国でのプラゴミの散乱というのはあまり不思議に思わなくなっています。私が30年前ボルネオの奥地に調査に入ったとき、電気も通っていない集落にもプラスチック製品が普及していることが、その捨てられたプラゴミの堆積で一目瞭然でした。それ以降途上国にでけるとき、ゴミの問題を意識して見てきましたが、西欧諸国にはありえない管理されない投棄状態が目につきました。

 

でもそんな途上国でも、国立公園内の海辺はすばらしい見事に美しい砂浜がいつも広がっていました。その広い空間、澄み切った海と空を一人で満喫したこともあります。

 

しかし、この記事では< 【ブリュッセル八田浩輔】南米チリの沿岸から西へ5000キロの南太平洋に浮かぶ英領ヘンダーソン島。2015年5月に初めてこの島を訪れた豪タスマニア大学の海洋生物学者、ジェニファー・レイバースさんは、プラスチックごみで覆い尽くされた白い砂浜に言葉を失った。ヤドカリはプラスチックのごみを背負い、ウミガメは漁業用ネットに絡まって息絶えていた。>というのですから、信じられないような真実が露呈されました。

 

しかも<レイバースさんたちは2カ月半に及ぶ現地調査で、面積3700ヘクタールのヘンダーソン島の砂浜に17トン以上、計3770万個のごみがあると推定。米科学アカデミー紀要に17年に発表した論文で「ヘンダーソン島の砂浜のごみの密度は、世界のどの場所よりも高い」と報告した。>というのですから、驚異的な数字ですね。

 

しかもこの海洋汚染はヘンダーソン島だけの問題ではないのです。<国連教育科学文化機関(ユネスコ、本部パリ)で海洋関連の世界遺産の保全を担当するフラニー・ドゥーベール氏>によると、<▽トゥバタハ岩礁自然公園(フィリピン)▽コモド国立公園(インドネシア)▽アルダブラ環礁(セーシェル)▽パパハナウモクアケア海洋保護区(米ハワイ州)--といった世界遺産も、プラごみの影響を受けているという。>世界遺産の危機的状況が示されています。それはこれらの世界遺産の問題にとどまらず、あらゆる深海を含めた海洋汚染の広がりと深刻化を示しているものといえるでしょう。

 

その危機的状況を救うのは誰か、誰が責任を負うべきか、が問われるところですが、<

レイバースさんは「この責任は地球に暮らす私たち全員にある」と訴える。現在の技術では海に流出したプラスチックごみを大量かつ自然環境に影響を与えないよう安全に取り除くすべはなく「新たに海に流入するごみを防ぐことに重点的に取り組む必要がある」とも指摘した。>私も同意見です。

 

ではどうしたらいいのか、いつも気にしつつ、せいぜい買い物袋を携帯するとか、ストローを使わないといったくらいしかできません。それでいいはずがありませんね。

 

このことについて、塩田彩記者は、家族で2日間、脱プラスチック作戦に挑戦した成果をユーモアと皮肉を交えて巧みに紹介しています。秀逸ですね。そのチャレンジに拍手を送りたいです。

 

これは是非本文を確かめていただきたい。いかに私たちの生活がプラスチックの世界に入り込んでいるか、そして抜け出せない状況にあるかを。だいたい、生活便利用具なんかで紹介される製品のほとんどはプラスチック製ではないでしょうか。

 

ちょうど一時間になりそうです。塩田記者の記事を紹介しようとすると、ほぼ全文になりそうですので、やめときます。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


人と金 <特殊詐欺、暴力団に包囲網 被害1日1億円の「黒幕」>を読みながら

2019-01-08 | 心のやすらぎ・豊かさ

190108 人と金 <特殊詐欺、暴力団に包囲網 被害1日1億円の「黒幕」>を読みながら

 

今日も懸案の仕事になかなか向かうことができませんでした。雑多な用が舞い込み、忙しくしつつも、心わびしい感じでしょうか。

 

そんな中に、当然ながらお金にまつわる話が一杯あります。高齢者のお金の使い方、むろん高齢者に限りませんが、どうも平穏ではないように思えます。孤独に一人で人生を送ることができれば、他に干渉されず、好き勝手ができるかもしれません。でもさまざまな要因でその意思は社会的な干渉の的になっています。

 

それほど多くの事例を見てきたわけではありませんが、たいていの高齢者は戦中、戦後を生きてきた忍耐強い人で、節約をモットーとして、倹約、倹約を積み重ねてきて、ものを大事にしています。自然とお金も貯まります。むろん最近の中国人のような荒稼ぎ?をしたわけではないので、びっくりするほど巨額ではないですが、それなりに施設入所金としても使える程度には貯まっています。なにせほんとに使わない人が多いように思うのです。

 

そういう人は、たしかにしっかりしていると思うのですが、他方で、お金の使い方を知らないように思えるのです。近しい親族にあげること、その人が困っていたら助けることにお金を出すこと、それが唯一使い道と思っているかのように思えることもあります。むろん自分が汗水して貯めたお金ですから、他人から文句を言われる筋合いはないし、ましてや戦争を導いた国家なんかを簡単に信用できないというのもわかる気がします。

 

でも不思議に思うのです。たとえば特殊詐欺に引っかかる人たちです。高齢者の方が多いですね。一人暮らし、あるいはたまたま一人でいるとき、狙われることがあるのでしょうか。いずれにしても、独立した判断を求められたとき、なぜか財布のひもが緩むのですね。最近は財布に紐がついているのをもっている人は少ないようですが、私は30年近くこれ一筋ですので、あえてこの慣用句を使います。

 

といっても騙す手法も、現金に限りませんから、キャッシュカードやクレジットカード、プリペイドカードもありますね。そういえば最近は少なくなったようですが、振り込め詐欺は現金が機械を通じて相手に渡ってしまいますので、金銭の多様な形態はその使い方をよく理解していないと、それだけで判断を誤ることになるおそれがありますね。

 

こんな話を続けたのは今朝の毎日記事<クローズアップ2019特殊詐欺、暴力団に包囲網 被害1日1億円の「黒幕」>を読んだせいかもしれません。

 

この記事では、<特殊詐欺の被害が止まらない。全国の被害額は過去最悪となった2014年の565億円から減少傾向にあるが、17年は394億円、18年は上半期だけで174億円に上った。1日当たり1億円が詐欺グループに流れている計算だ。全国の警察は被害の抑止に向け、詐欺グループの背後にいるとされる暴力団の取り締まりを強めている。【五十嵐朋子、佐久間一輝、内橋寿明】>

 

特殊詐欺がグループというかチームを組んで行われていて、実際に捕まるのは現金を受け取ったり、カードを受け取ったりする末端の人間ばかりで、裏で組織を動かす黒幕は次々とメンバーを替え、まるで営業のように騙す手法も変えて、警察の裏をついているようです。

 

そのバックの主要な一つはどうやら暴力団ということで、今後は徹底的な取り締まりを行うようです。期待したいものです。ゴーン事件のように司法取引が有効に使える場面はないかもしれませんが、これもありかもしれません。ところで、今朝、ゴーン氏の勾留理由開示手続が行われ、報道などで騒がれたようですが、現行の制度では形式的な手続にとどまっていて、被疑事実の証拠を取り上げて審理したり、法的評価を議論したりする場としては裁判実務として(法令上は疑義のあるところですが)取り扱っていないので、たいした場になるとは想定できません。その通りだったようですね。私もそうはいいながら、何回か試みましたが、勾留取消に結びつくような成果を得ることは無理なのが裁判実務の現状でしょうか。

 

さて、こういった捜査側や関係機関の努力は大変なものと思うのですが、私が取り上げようとしているのは、先に述べたとおり、騙されるご本人のことです。

 

私は30年以上前、いくつもの原野商法被害者の事件を扱っていたことがあります。そのときもほとんどが70代前後か、それ以上の高齢者でした。騙す方は次々と手法を変えてきますので、騙されやすい人(これは自分は自信があるという人も安心しない方がいいと思います)、とくに一人で判断する人はリスクに晒されていると思っていた方がいいかと思います。

 

そういった第三者の違法な騙す行為は、許されないことは、刑法を含め特別刑法など詳細は知らなくても誰でも承知していることでしょう。しかし、身内というか、親族、いや法律上の親族ともいえなくとも遠い親戚の話もときに注意が必要かもしれません。

 

認知症になっていたりすると、その判断が的確にされないことがわかりますが、その症状があるのかどうか判然としない段階だと、困りますね。専門の精神科医であっても、判断が分かれれることが少なくないと思います。いや認知症状かどうか判然としない場合に限らず、うつ症状などさまざまな病因を原因として的確な判断をすることができない、できにくくなることもあるようです。

 

いやいや、病気や何らかの症状と言うより、そもそも金銭の使い方をしっかり学んだり、体験したことがない人が、戦中、戦後を生きてきた人の中に、いらっしゃるように思うことがあります。そんなことを言うと私が適切な金銭支出をしているかといえば、そんなことは自慢できそうにありません。とはいえ、社会的に見てバランスを欠く金銭感覚がときに見られるのではと思うのです。

 

その世代の苦労も知らないで、変なことを言うとの非難を感じつつも、私の親の世代、親類の世代、仕事で出会ったそういう世代を見ていて、感じるのです。

 

オレオレ詐欺を含む特殊詐欺の被害者にもそういった人たちもいるように思いますが、相続や贈与をめぐる家事紛争の中でも見られるように思えるのです。

 

法律は使い方を教えません。宗教も。マネーといった類いの情報では投資情報を提供しても、真の使い方を教えるというか、情報提供するものではありません。そろそろそういった情報提供を考える時代かもしれません。それは上からの情報ではなく、容易に利用できる形で提供される情報が必要とされているように思うのです。迷える羊は、私もいつか?そうなるかもしれませんが、あちらこちらできっと悩んでいると思うのです。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

 

 

 


歩く道(その5) <隅田党が支配した隅田荘の現在を歩きながら>

2019-01-06 | 心のやすらぎ・豊かさ

190106 歩く道(その5) <隅田党が支配した隅田荘の現在を歩きながら>

 

正月休みも終わり、明日から仕事です。ブログを続けるか少し悩みつつ、再びタイピングを始めました。このブログの一つの目的は自分というものがそもそも存在しうるものかを検証するというか、無というものをぼんやりでも感じるところであったように思います。そういった感触は書けば書くほど、ぼんやりながら受け止めてきたように思います。

 

羽仁五郎著『都市の論理』を昔、おそらく40年以上前に愛読していたように思うのですが、内容はすっかり忘れてしまいました。そのおかげで?記事を題材に適当なコメントができたのかもしれません。日々の報道記事を見て、自分なりの感覚を見いだせないかと思いながら、取り上げてきたかもしれません。それは気持ちだけで、内容がまったく伴わないものでした。そこには自分というものの意見を見いだすこともできないものでした。その結果は見事に自分というものの存在を示すことができなかったことを示してきたように思います。

 

おそらくは海辺の渚に押しては引くかのような浜の真砂の一つのようなものであったかもしれません。それは少し美しすぎるかもしれませんね。真砂もいつかは見えなくなるほどミクロ以下の存在になるのでしょう。私もそんな一時的に存在しているようなものでしょう。そんな私が存在の証を示そうとするつもりはありません。できれば存在するひととき、世の中に少しでも悪い影響を及ぼさず、逆に少しでもよい影響を与えることができればと願っています。そんなことをつらつらと考えながら、またこのブログを再開することにしました。

 

それは「歩く道」というのが今回で5回目ですが、私なりに気に入っています。歩くのが楽しくなったのです。もう少し土地勘というかその地域の歴史地理文化生態系などに知見があれば、とても面白いだろうと思いつつ、ただ歩くだけで、毎回いろんな発見があります。それを自分で楽しんでいます。まあ認識力というか洞察力というか、そういったものが欠けているので、適当な歩き方ですけど、これをもう少し続けてみたいと思っています。

 

今回は昨日、寒風の中、2時間ほど歩きました。橋本市隅田町河瀬から大和街道を東に歩き、隅田八幡宮南門跡で北方に向かい参道を通って、八幡宮で参拝し、今度は西方に戻ったのです。

 

大和街道は紀伊国和歌山城下から大和国までの街道(結構いい加減な表記です)で、道幅がおそらくですが1間くらいしかない、狭い道路です。紀州55万石の大名行列と言っても、通りに人が跪くこともなかったのでしょうから、この程度でもよかったのでしょうか。

 

隅田町あたりでは往時の面影を残すほどの建物は見かけないように思います。まだ紀ノ川対岸の清水町あたりの高野街道の方が風格のなる家並みが残っているように思います。西行庵もありますし、往時はたくさんあった竹竿づくりの工房も残っています。

 

そんな大和街道から少し下ったところに小さな分譲地が見えたので降りていくことにしました。すると河岸段丘の最下部、というか紀ノ川河岸の上端に、少し階段状にミニ分譲地が広がっていました。その先端まで歩いて行くと、家並みが少し途切れて、紀ノ川の悠々とした流れが東西に横たわっていました。冬らしい透徹した青々とした色合いです。水の流れは幅30mからせいぜい50m程度でしょうか、それが蛇行しながら、川中の岩に遮られつつ、しっかりと流れています。

 

今回も紀ノ川用水路に遭遇したので、その横道を東方に歩いて行くことにしました。この管理用道路と思われる幅2mくらいの道は、みごとに刈り払われていて、これはとても歩きやすい、くっつき虫にやられないと思い、すたすたと歩を進めました。用水路の方は水がまったく流れてなく、藻が少し繁茂したり、よくあるタバコのポイ捨てが目立ちました。犬の散歩や一人散策で出かけるのはいいのですが、そろそろやめてもらいたいものです。ただ、犬猫の糞らしいものは一度もみかけなかったので、それはうれしいことです。

 

きれいな道と思ってどんどん進んでいたら、案の定、落とし穴がありました。雨でぬかるんだところに出くわしました。その先は竹藪になっていたので、これは引っ返そうと一旦思ったのですが、よく見ると竹藪はわずかでその先が明るくなっていました。それで縁を歩けばなんとかなると高をくくってぬかるみを進みました。やはり甘い考えで、普通のウォーキングシューズではずぶずぶと入っていき、このままだと靴下も濡れてしまうことになりそうになりました。

 

といっても昔取った杵柄(きねづか)、なんとかなるものです。そう30年も前は熱帯のジャングル通いをしていましたので、この程度のことはなんでもないのですね。ちょうど枯れた竹が倒れかかっていて、これを次々と横に倒して、その上を歩くことにしたら、うまくいきました。

 

ところが、今度は用水路の横に倉庫のような建物が立っていて、誰か座ってこっちの方を見ています。その前に来たら、ロープが張られてあって立入禁止の立て札、こんなところ私有地かと不思議に思いつつ、佇んでいると、その方がその先は入ったらいかんと一言。それで私の方から用水路は水が流れていませんねと聞いたのです。実は小田井用水路は流していましたので、こちらもどうかなと思ったのです。すると6月から流すとのことでした。

 

最近は冬期灌漑というか、景観用水とかいろいろな目的で年間を通して流すことも最近は増えてきていますが、ここではそういう利用はやっていないようです。それにしてもこの用水路の通りはなかなか風情があっていいのですがね。ただ、紀ノ川への眺望は竹藪に阻まれてまったくダメですね。このあたりも検討するといい感じになるのですが。

 

で、その後隅田八幡宮を訪れたのですが、私がこのブログで何度か取り上げた隅田八幡神社人物画像鏡(正式名称は?)のレプリカが飾られています。この銘文の解釈論はいつか、取り上げたいと思うのですが、橋本市史では簡潔にたしか3説を併記していましたか。

 

隅田八幡宮のご神体は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后ほかです。まあたいていの八幡宮はこの3神を外さないでしょうね。でも神功皇后から画像鏡を下賜されたという伝承の文を見つけることができませんでした。

 

この神社は、中世のこの地を治めた隅田党のメンバーを氏子にしていたようです。隅田党(すだとう)は藤原氏と関係があったようです、この地の管理を任され、隅田荘として紀ノ川北岸と南岸を支配し、戦国期近くまで活躍していたようです。その名前が町の名前として残っているのでしょう。

 

とはいえ、人物画像鏡が神功皇后から下賜された伝承からいえば、より重要な神社と思われますが、神社の外観は素朴で、階段から登っていくと、社務所の下をくぐり、本殿が鎮座する雰囲気のあるたたずまいです。階段には一段毎に3本の切り竹筒にロウソクが置かれていて、夜になると情緒のある明かりをともしてくれるのもなかなかこっている感じです。

 

少し付け足すと、林順次氏は『隅田八幡画像鏡』や『日本古代史集中講義』などで、人物画像鏡の銘文を大胆に読み解き、継体天皇に百済の武寧王が贈ったもので、それは応神天皇の時代というのです。応神の弟が継体で、その子が武寧王というのです。むろん日本書紀の内容とは相容れない内容ですね。まあ不比等の偽作と断定すれば、さほど気になることではないですが、他方で、その裏付けができるかまだよくわかっていません。

 

この八幡宮から参道を南に向かっていて少し気になるものがありました。いや、大和街道を西から東に向かって歩いているときも気になりました。つまり南側から見ても、北側から見ても、まるで前方後円墳のような佇まいの大きな塚のような小山があるのです。

 

それも長さが400mくらいありそうなのです。西側が丸くなっています。東側が少し方形です。ただ本来は円形と方形との合体でその境界付近にくびれがあるのですが、逆にひょろ長くなっているので、そうはいえないですね。とはいえ、古墳の中にはさまざまな利用に供されて、半分が削られたり、頂上部が削られたりしますから、形状が異なるものも少なくないので、簡単にあきらめるのも何かと思うのです。まあ古墳ガールほどの遊び心はありませんが、関心が高じてなんでも古墳に見えるのもご愛敬かと思っています。

 

それにしても驚いたのは、私が関係したことのある、あるいはしている事件現場と割合近い距離にあり、また訪ねてみたいと思うのです。一つはある刑事事件現場で、なんどか立ち寄って調べたのに、何年も経つと見方が一変するような思いです。またある建築紛争事件も割と近い位置ですね。いま取り扱おうかと思っているケースも偶然、立ち寄ることができました。歩いていると、何かと発見が多いものです。発見とは何か、いつか語る機会があればと思います。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


歩く道(その4) <中世末期に一際輝いた雑賀孫市の雑賀城付近を歩く>+補筆

2018-12-23 | 心のやすらぎ・豊かさ

181223 歩く道(その4) <中世末期に一際輝いた雑賀孫市の雑賀城付近を歩く>+補筆

 

ふと司馬遼太郎著『尻啖え孫市』を思い出しました。歩く道のコースをどこにしようかと考えたとき、紀の川河口を見たいと思ったのです。でも、現在の河口は幅400m以上あり、しかも全長500mもある波止(白灯大波止)がまさに人工物で、釣りをするにはよいかもしれませんが、私には少し興ざめです。では中世はどうだったか、それは古代を含め歴史景観を研究されている日野雅義氏による「紀ノ川河口付近の古地理変遷図」があり、縄文期からの変遷が図で示されています。

 

中世は和歌山市大浦が河口となっていました。この大浦には中世末期、この付近を拠点に日本各地で活躍した雑賀衆という共和制?の集団統治システムがあり、そのリーダーとして雑賀孫市がいました。その活躍ぶりは司馬さん流に、龍馬の維新での活躍のように、見事な筆致で描かれています。

 

雑賀衆の城がこの雑賀崎にある岬突端にあったそうです。雑賀衆が没落して400年以上経過していますが、周辺のまちなみがどうなっているか興味深く思ったのです。というのは雑賀衆の末裔が横須賀にやってきて、維新後呉服商などの商売で繁盛し、現在は横須賀中央駅横のさいか屋という横須賀で唯一?のデパートとして頑張っています。私はここの中華料理店が気に入りで時折食べに行っていました。横須賀はカレーの町といわれますが、中華料理が結構いい店があってよかったですね。

 

また横道にそれましたが、なにかと横須賀の雑賀衆の末裔と、元の雑賀衆の拠点とがむすびつくような気がして気になっていました。それで今日の歩く道は雑賀崎町周辺でした。

 

実は雑賀崎(さいかざき)の手前に、魚頭姿山(たこずしやま)とか紀州東照宮のある小高い山があり、そこを登って和歌山市街の展望を見て、行こうかと思ったのですが、天皇誕生日ということでしょうか?立入禁止になっていました。それで雑賀崎港までてくてく歩いて、そこから雑賀崎の断崖を見上げました。おそらく中世の紀ノ川は現在の市街地を横断する水軒川に沿って流れ、雑賀崎の海に出っ張った高台と魚頭姿山の高台までつながる壁に当たり、やっと海に出ていたのでしょう。

 

この2つの高台は山城的で海に出るときは出やすく、敵が海から攻めてくるときも眺望がきき、守りやすかったのではないでしょうか。

 

近くの閑静な住宅街を通りましたが、道は普通車がやっと通れる程度でした。それでも分譲地に近いくらい割合整備されていたかと思います。平坦なところはそうでした。中世の時代はきっと人が住んでいなかったのでしょう。

 

ところが雑賀崎の近く、雑賀崎漁港から登っていくと、これはまさに漁港のまちなみ景観でした。道は歩くのが精一杯、家は極めて建て込み、斜面地に軒を寄り添い合っているのです。谷間も尾根筋も一杯でした。そして歩いたのは幅2尺もないほどの狭い通路です。ちょうど上から降りてくる高齢の夫婦がいて、すれ違うのをお互い譲り合って礼をしながらでした。これもこういった漁村ならではの風景でしょうか。

 

そしてこれこそ横須賀の維新後海軍の町として発展し、現在も続く岬にある山のてっぺんまで傾斜が続くところに建てられたまちなみとほぼ似ています。戦後は米軍が広大な敷地に快適な住宅を作る一方で、そこに仕事で通う人たちの住む住宅はそういった傾斜地の安全性の担保されていない住宅であったと思われます。労働環境もアスベスト被害に晒されるものでした。米軍基地だけではないですが、横須賀がアスベスト被害を訴えた労働者が勝訴した先駆例でしたか。

 

また脱線しました。で、雑賀崎漁港を歩いたのですが、漁港自体は結構大きく感じましたが、漁船があまりなかったですね。漁業組合の建物も小規模でした。雑賀城(城が作られたというわけではないようです、拠点という趣旨のようです)の跡は現在、灯台が作られていて、そこからの見晴らしは素晴らしいものでした。現在の紀ノ川河口もよく見えました。その先に新日鉄住金の大きな工場もあります。ちょっと右に転じると、和歌山城を含め市街中心部も展望できます。おそらく現在の河口が整備する前は、この大浦まで湿地が続いていたのではないかと思います。攻めてくるにしても水路もなく、むろん歩くこともできず、当然のようにこの旧河口まで来ないといけなかったのでしょう。

 

今日雑賀崎周辺のまちを歩いていて気づいたのですが、割合、水路があちこちに走っていました。排水路として使われているようですが、幅1m位はありそうでした。蓋がされていない水路が相当あったように思います。水が流れているところもあれば、まったく流れていないところもありました。流れているところではどぶ臭いところもありました。

 

他方で、暗渠という蓋付きも相当ありました。中には一部をグレーチングにしているところもあったり、蓋部分を簡単に開けれるようなものもありました。簡易に鉄板を置いているのもありました。

 

私は都市の美しさは、そこに清らかな水が流れているかで決まると勝手に思っています。そういった水路があると自然心がやすらぎます。そして当然、そこに住む人たちの日常的な努力や配慮が自然と目に浮かべることができます。道で会っても会話が弾むかもしれません。

 

臭いものに蓋ではないですが、大事な水、よくも悪くもするのは、そこに住む人の心持ちでしょうね。そういった町の構成員になることに誇りをもちたいと思うのです。ギリシア・ローマの市民権というのはそういう基礎がなかったのでしょうかね。

 

ギリシア・ローマ法の思想とは脈略はないと思うのですが、北欧の人たちは市民、国民であることを誇りに思っているように思えるのです。高い税金を支払うことは当然のこととも思っていますね。行政サービスが納税を気持ちよくする程度に充実しているのでしょう。自然も自由に享受できるという、誰もがその自然を大事にするという考え方、私たち日本人にもあったはずですが・・・

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

補筆

 

地名をいい加減に書いていましたが、少し気になり調べると、やはり間違っていました。<日本遺産 絶景の宝庫 和歌浦>と<地理院地図>で確認しました。

 

紀ノ川河口の中世の地名「大浦」に影響され、つい港や漁協、町の名前を「大浦」と書いてしまいましたが、「雑賀崎」が正解でした。大浦という名称は水軒川の河口付近で今も名前が一部残っていますが、あまり使われていないようです。

 

日本遺産の解説は参考になりましたが、ちょっと気になります。「若の浦」と呼ばれていたのが、ある時期から和歌の聖地となり、「和歌浦」となったというのはその名勝的価値がだれもが認めるところだったのでしょう。

 

山部赤人がうたった

 

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ

葦辺をさして鶴鳴き渡る

(万葉集巻6 九一九)

 

は、葦の繁る潟が自然に浮かんできます。鶴が一斉に飛び立つ姿も豪快です。それとも遠くの空を群れになって飛んでいたのでしょうか。

 

でもその景勝のある景観はどこをいうのでしょう。現在の和歌浦港や片男波には残念ながらそのような心洗われるような景観を見いだすことは容易でないですね。実際、紀ノ川の河口を現在の位置に移し、同時に小河川を市街地から遠ざける、ある意味利根川東遷の小規模モデルとして北遷した江戸初期に大きく景観が変貌したと思うのです。

 

聖武天皇や山部赤人が見たのは、大浦の河口を臨む、雑賀崎の突端(灯台のあるところ)とか、ちょっと下った番所の鼻あたりからではないかと思うのです。

 

上記の日本遺産の「和歌浦」の一番最初に取り上げた写真は、まさに雑賀崎の突端から撮影されたものだと思われます。右から大島、中ノ島、双子島が並んでいます。そして双子島の2つの島がちょうど一直線となって奥の島が隠れる位置が雑賀崎の突端、灯台のある位置付近だと思われます。

 

日没の情緒も天平時代の歌人は好んだのではないかと思うのです。その夕日が落ちるところに、淡路島の島影がシルエットになるのも古事記の世界と連動するような印象でしょうか。

 

 


西行と明恵 <NHK 白洲正子が愛した日本人>を見ながら

2018-12-22 | 心のやすらぎ・豊かさ

181222 西行と明恵 <NHK 白洲正子が愛した日本人>を見ながら

 

今日は終日雨でしたか。やさしい雨模様でしたか。風もあまりなく、音も静かでした。ただ聞こえてくるのは野鳥たちが仲良く騒いでいる声、囀りでした。ヒヨドリの集団がやってきたようで、ずっと近くのヒノキ林で飛び立ったかと思えば、葉っぱの中に隠れたりと忙しく動いています。なんとものどかな風情です。

 

昨夜は、ゴーン日産前会長の特別背任容疑での再逮捕といったビッグニュースなどが報道されていましたが、さほどニュースに関心が向かず、午前中録画していた<プレミアムカフェ 白洲正子が愛した日本人 美の旅人 西行と明恵>を見ました。

 

西行も明恵も和歌山県出身とされています。和歌山出身の偉人というと陸奥宗光があがりますが、もし西行が父親が管理していた田仲荘(紀の川市の一部で紀ノ川北岸)で生まれたというのが正しければ、和歌山出身となりますね。そうなると、世界的にも西行を筆頭にあげてよいのかと思うのです。次に明恵となるかは別にして、おそらく二人ともそんなことには関心ないでしょうけど。

 

私自身、白洲正子氏の著作を1冊か2冊程度しか読んでなく、しかもさらっと眺めた程度ですので、その作家としてのすごさはよく分かっていません。

 

ただ、<【ゲスト】作家…車谷長吉,歌人…水原紫苑,演劇評論家…渡辺保>の皆さんはそのように指摘され、実際、西行本とか、明恵本とかには、必ずといってよいくらい引用されていますね。私はまだ読んでいませんが。あるいは読んでも忘れてしまうほど、適当に読んだのかもしれません。

 

白洲氏は74年に『明恵上人』、88年に『西行』を書いています。番組はこの著作を時折引用しながら、ゲストの思いを語り合っていました。最初に西行、次に明恵で、時折白洲氏自身の人物像も取り上げていました。

 

<2人に共通していたのは“世捨て人”と呼ばれていたこと。彼らの生涯をたどりながら、なぜ正子は2人に魅了されたのかを考える。>というのです。

 

で、番組では、西行と明恵を同時代の人として紹介していますが、たしかに大きな時間軸で言えば、同時代といってもよいでしょうけど、少し違和感を感じます。西行は1118年生で、明恵は1173年生です。まあいえば西行の晩年に生まれたのが明恵ですね。

 

有名な文覚と西行の話がありますね。神護寺にいた文覚は、元は西行と同じ北面武士、色恋沙汰の殺人事件で遁走、出家し、各地で勇猛な伝承が残り、私の関心のある紀ノ川では、桛田荘に水を引くため文覚井を作ったという伝承が残っています。皇太子が世界水会議でこの話を取り上げ、その前にわざわざ見学に来ています。

 

その文覚、神護寺に和歌で有名な西行が訪れると聞き、和歌などで世渡りしていると批判して少し懲らしめてやろうと意気込んで面談したのです。ところが文覚、西行の前で何もせず、話をして終わったのです。それで弟子が不思議がると、西行の身のこなしを見て隙がなくとても自分が倒せるどころか、反対にねじ伏せられるといったとか。

 

このとき、明恵は9歳から神護寺に入山し、文覚の弟子になっていたと思われ、西行との対面場面でもいたような扱いになっていたかと思います。たしかことばを交わしたような描き方をした小説家もいたような記憶です。同じ紀州出身ですから、西行が神護寺を訪れたのが80年代後半ではないかと思うのですが、祖父と孫に近い関係(70歳くらいと15歳未満か)ですから、それは明恵にとっては大変な方と思い、その後も心の支えの一つになったのではないかと思うのです。

 

明恵は法然さんの他力本願・浄土的な考えを心底嫌い、強烈な反論・批判を行っていますが、西行に対しては敬慕の念をずっと抱いていたのではないかと思うのです。番組ではこのようなとらえ方は取り上げていませんですが。

 

さて白洲氏はなぜ西行に惹かれたかが話題になりましたが、やはり出家の理由を問い続け、それは恋、しかも許されない恋にとらわれたためというのです。まあ悲恋の顛末に惹かれたのでしょうか。その人の名は待賢門院珠子です。西行を描く多くの小説家なり、さまざまな方も多数はそのようですね。私はどうかと思っているのですが、まだ有力な根拠を見いだせていません。

 

待賢門院珠子は白河法皇に見初められ、普通では考えられない生き方を余儀なくされています。夫にも子どもにも見捨てられたのではないかと思いますし、他方で法皇存命中は好き勝手をしていたかもしれません。そんな自由奔放な高貴な女性の姿に、田舎での無骨な西行の前身、佐藤義清はすっかり虜になってしまったというのですが、私には西行の生き方、作り続けた和歌からは想定できない筋書きです。

 

それに恋敵というか、夫である鳥羽天皇を奪ってしまった美福門院(藤原得子)は高野山に立派な陵が現在も残っていますが、西行は高野山に30年もいた(あっちこっち行っていますが)わけですし、高野山復興に相当な努力をしています。その当たりも気になっているのです。

 

どんどん番組で紹介された西行と明恵の話から遠ざかってしまいました。

 

で、番組では西行と明恵は美男子というか男前で、女性にもてたというのですが、明恵はありえるとしても、西行像で美男子というのをお目にかかったことがないのですが、ほんとかしらと思うのです。女性にもてたことはたぶんたしかだと思うのです。でも、それは容貌というより、そのりりしい姿、隙のない作法、たぐいまれな教養と自由に生き、頼まれると生死を怖れず強靱な意志で断行する行動力などではないかと勝手に思っています。

 

明恵の方は、仏に自ら奉仕するため耳を切り取ってしまうほど、熱い情念をもっていて、とても近寄りがたい印象です。それにマツの二つに分かれた幹の股のところに座して修行する、それも孤高の島に一人佇むというのは、とても女性にもてるとは思えないのですが。

 

最後に、二人の最期、いずれも死を覚悟して、その死を自然に、淡々と受け止め、この世を去っていたことに、日本人がこよなく愛する一面があるように思うのですが。これが本来、日本人の生き方、死に方ではなかったかとふと思うのです。

 

ちょっと脱線が多すぎて、なにを書こうと思ったのか忘れてしまいました。ともかく西行も明恵も魅力ある人ですね。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。