たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

文化と行政と人 <文化行政50年の課題 前文化庁長官 青柳正規氏>を読みながら

2018-06-25 | 日本文化 観光 施設 ガイド

180625 文化と行政と人 <文化行政50年の課題 前文化庁長官 青柳正規氏>を読みながら

 

昨夜はセネガル戦を見ようかと思いながらも、試合開始時間が0時ということではなからあきらめました。案の定、11時前に本を読んでいたら眠くなり、目が覚めたら早朝の野鳥の鳴き声でした。朝のニュースではイーブンながら22で、しかも日本が追いかける試合展開で、見ていた人はとても興奮したようですね。

 

それにしても、コロンビア戦後の日本はTVで見る限り異様な状態ですね。たしかにとてもエクサイトした内容で、各選手の動きの俊敏さやスリリングなゴールシーンなど、サッカーファンでなくても引き込まれる要素はあったと思います。でもマスコミが取り上げすぎなのか、ちょっと異常かなとも思ってしまいます。それが文化なのかとも思いつつ、では文化とは何かとか、文化に対する意識とは何かとか、少し気になりました。

 

そこにちょうど今朝の毎日記事では<そこが聞きたい文化行政50年の課題 前文化庁長官(東京大名誉教授)青柳正規氏>が取り上げられていましたので、なにかヒントがあるかなと思って読んで見ました。

 

青柳氏は、以前何回かNHKBSの古代ローマの遺跡を紹介する番組で解説されたことがあり、とても柔和で優しい語り口ながら奥深い内容を語っていて、魅力を感じた一人でした。

 

ただ、この記事では、文化行政という、やはり少し文化自体とは少し距離を置いた視点から、しかも元長官の立場として語っていますので、残念ながら文化行政の文化とは何かといった本質的な問題については語られていません。とはいえ参考になるインタービューなので、少し考えてみたいと思います。

 

<文化庁が1968(昭和43)年に創設=1=されて50年を迎えた。今国会で改正文化財保護法が成立し、観光資源として文化を地域振興に生かす機運が高まっている。東京五輪・パラリンピックが開かれる2020年を前に政府が訪日客の増加を成長戦略に位置づける中、現在の文化行政にどんな課題があるのか。青柳正規・前文化庁長官(73)に聞いた。【聞き手・岸俊光、写真・宮武祐希】>

 

文化庁が創設されたのが、なんと都市計画法の制定と同じ年だったのですね。これは偶然の一致と言うより、この都市計画法の制定により、はじめて中央集権的な全国一律の基準で都市開発を推し進める法制度を整備することで、それまではローカルルールという明文化されない地域に根付く高さ制限や景観配慮を取っ払い、開発許可基準に適合すれば地域の行政はそれに縛られて地域特性に応じた開発コントロールができなくなったのですね。用途地区も当時はたしか8種類でしたか、建ぺい率・容積率も根拠のないデータを基に過大な数値を設定するなど、貴重な地域の環境や遺産が容易に破壊されるトリガーとなったといってよいと思っています。

 

昭和30年代後半の開発ブームが鎌倉にも波及し、関東圏では珍しく起こった御谷(おやつ)騒動も、地元人・大佛次郎氏ら文化人多数が先頭に立って、鶴岡八幡宮裏の森を開発するのに反対運動を展開し、その後古都の文化遺産・景観を保全する目的で、昭和41年古都保存法が制定され、京都、奈良、鎌倉では一定の保全策が講じられました。とはいえ、こういった単発の法制度では国全体の総合的な文化行政の根拠とはなり得ませんね。そこで文化行政の総合的な役割が期待されていた背景もあったと思います。

 

文化行政50年について、青柳氏は<経済成長の時代は、経済の活性化が政治の中心課題で、文化への目配りはありませんでした。成熟社会が訪れ、文化が大きな存在になったのに、政治はまだ文化に十分アプローチしていないと思います。「守りの文化政策」をとり、国民生活の中で文化を重視しなかったことは反省点です。>

 

それは偽らない事実でしょうね。高度経済成長の波は各地で開発の嵐となり、道路建設、マンション・分譲地開発で、古い町並みはもとより地下に埋設されていた文化財は掘り返され、それは保存されるのは極めて例外で、ほとんどが調査して記録として残されるとしても破壊されるか移設して別の形で残されることがほとんどだったのではないでしょうか。

 

京都や鎌倉(いずれもかなり後に居住していたことがあり住環境として日々感じていました)では、至る所にいわば文化的価値のあるものが残っていたと思います。それをすべて保存していたら、都市の発展、現代人の生活が成り立たないかもしれないと言った考え方がまかり通ってのでしょうね。各地の開発許可や建築指導などの担当部署に比べて、文化財担当の部署(多くは教育委員会の中?)では権限も弱く、あまり目立たなかったように思います。

 

国の行政の中でも文化庁の位置づけが低いようです。青柳氏は<文科省の中心は初等中等教育、次は高等教育、その次は旧科学技術庁系という具合で、文化庁は最後の方です。文化庁一筋の人もいないわけではありませんが、文化庁プロパー(生え抜き)の人材を育てる機運は薄弱です。>

 

鞆の浦の景観訴訟では、イコモスや行政法学者の支援や協力を得ながら、画期的な勝訴判決を得ましたが、それは文化庁の権限が弱い中で、このままでは世界遺産的価値を破壊してしまうことを懸念した多くの有志が動いてくれたおかげでもあります。

それは国交省という強い権限をもつ行政にも強い影響を与えたのだと思うのです。

 

ところで、中央官庁の組織のあり方も重要ですが、地方がしんぱいされています。

青柳氏は<在任中、痛感したのは地方の衰退です。それなのに01年の省庁再編で文化庁の地域文化振興課はなくなり、担当が縮小しました。私はそれを作り直そうとしましたが、うまくいかなかった。衰退する地方を経済では再生できないんですよ。昔なら工場を誘致する方法があり、未使用の土地もあった。しかし、いま経済を活性化しようとすれば、環境や医療福祉など脇から攻めなければならない。文化の面ももっと振興しなければいけないのに、それを政策化し、実現できる役人がいない。>

 

文化を経済にすぐ結びつけるのもどうかと思いますが、文化的価値が内包する経済的効用にもっと注目して、観光資源としてより効果的なあり方を見直すという考えはすでに議論されてきたかと思いますが、実践的な意味ではまだ地に着いていないように思えます。

 

青柳氏は姫路城の大天守修理を取り上げて具体的に解説しつつ、<文化庁の調査では、文化投資は公共投資より経済効果があります。海外に目をやると、多くの国が文化を軸にしながら、経済活性化や国際的なアイデンティティーの確立を図っていることに気が付きます。>と述べています。

 

外国人客が大勢来日するようになって、城を含めさまざまな文化財がこのような文化投資の対象にもなっているようです。しかし、どうもハードに偏りすぎではないかと懸念しています。文化財というか文化的価値を認め開示し、啓蒙するなどの専門分野の担い手が、とくに地方では少なすぎるのではないでしょうか。

 

公共事業によって生態系が破壊されることへの配慮から、欧米では生態系に対する知見のある専門家をスタッフに入れることを必須としているところもあると以前、聞いた覚えがあります。環境アセスメントといった計画内容のチェックだけでなく施工段階で具体的なチェックがされないと、絵に描いた餅になりかねないと思うのです。

 

同様に文化的価値についても、必要な人材はもっと多様な分野に配置されても良いと思うのです。

 

<改正文化財保護法が今月成立しました。>というのは、初めて知りました。なにがどう変わったのでしょう。少し勉強が必要ですね。

 

安倍首相が文化財を将来の世代に継承することをしせい方針で語ったことについて、青柳氏は<「観光立国」の狙いはうまくいきますよ。今は語学を始めて勉強が面白くてたまらない頃のような状態です。だけど蓄積がないから非常に薄っぺらな運動です。・・・日本はその経験がないから、観光が一巡した時にどうするかなど考えていません。東京五輪後には過剰投資の問題が出てくるでしょう。>と文化とは何か、その保全とは何かについてのしっかりした議論がない現状では、青柳氏の指摘はごもっともと思うのです。

 

青柳氏は、改正法で権限を地方に移譲する仕組みを踏まえ、また、東京五輪を踏まえ、<文化の棚卸し>をしたいと述べられている。

それはどんなことか。<どこにどんな文化財があるのか。文化庁は、全国の文化イベントの情報を登録し、国内外に発信する「文化情報プラットフォーム」の運用を始めました。英語と中国語、韓国語、フランス語に機械翻訳され、誰もが自由に使えます。私が文化政策顧問を務める奈良県では、未指定の文化財のリスト化を行う予定です。具体化したら全国で「右へならえ」してもらいたいと思っています。>

 

文化の棚卸しという言葉は、魅力的ですが、一体誰がどのように行うのでしょう。むろん専門家が中心になって洗い直しを行うのでしょうね。しかし、その文化とは何か、私たち庶民の意識を変える意味でも、だれもが参加できる仕組みでの棚卸しをすることで、文化とは何かが少しずつ明確になってくるのではないかと思うのですが、どうでしょう。

 

専門家は、医療の世界の真のインフォームドコンセントのように、わかりやすいことばで文化の価値を説明;解説することが求められ、だれもが文化に親しめる社会が構築されることを期待したいと思うのです。

 

青柳氏はスイスの観光立国が長い歴史の中で国民の中に培われてきたしっかりした土台をもっていることを指摘していると思いますが、いまがそのときかなと私は違った目で思っています。たとえば●女子といったムーブメントが流行です。●男子があってもいいでしょうし、●おじちゃん、おばちゃんがあってもいいでしょう。そこに古墳や神社仏閣、仏像など、いろいろなものがはいっていいのでしょう。そういったものをも射程に入れた文化行政、観光立国を考える時代になっているように思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


民泊のあり方 <民泊 条例規制4割超>と<大阪・民泊監禁 死体遺棄>などを読みながら

2018-03-02 | 日本文化 観光 施設 ガイド

180302 民泊のあり方 <民泊 条例規制4割超>と<大阪・民泊監禁 死体遺棄>などを読みながら

 

私は海外で旅行するとき、日弁連といった公式調査は別ですが、できるだけ有名ホテルではなく、B&Bとか個人が自宅を宿泊に提供しているようなところが好みでした。むろん値段はたいていリーズナブルというより低廉である点があります。それ以上に、家庭的な雰囲気が落ち着くのです。場所によって違いますが、子どもたちがいなくなった子ども部屋に宿泊し、普通の朝食を出してもらい、いろいろオーナー夫婦と話すことができるのがいいです。

 

最近日本で普及しつつある、民泊の中にはそういったものもあるようですが、そうではなく、ただ安い部屋を貸すといった、貸主も借主も空き室利用としか考えていないような利用の仕方が増えているようにも思えます。マンションの一室とか、場合によってはワンフロアあるいはマンション全体もあるかもしれませんが、中には簡易宿舎を使う場合もあるかもしれません。それでは情緒もなく、旅の楽しみも味わえない、こういう民泊の増大を放置していていいのかは気になります。

 

政府は基本的に規制緩和としてあまり制限を設けないスタンスで、住宅宿泊事業法(民泊新法)を昨年成立させたようですが、住民生活と身近な関係にある地方自治体は、それでは困ると一定の制限を設ける条例をつくったり、検討したりしているようです。

 

今朝の毎日記事<民泊条例規制4割超 所管102自治体、政府の緩和に抵抗>では、<空き室に旅行者らを有料で泊める民泊の6月全国解禁を前に、民泊事業を所管する自治体のうち、区域や期間を制限する条例を制定、または制定を予定するところが4割を超えている。住環境悪化防止などが目的だが、政府は民泊促進の規制緩和を阻害すると警戒。自治体とのギャップが露呈している。>

 

民泊新法では、<6月から家主が自治体に届け出れば年間180泊まで民泊事業を営めるようにする。>というので、届出だけでよいというスタンスです。

 

これでは地域の平穏を保てないなどの理由で抵抗しているのが自治体です。

<先月公表された政府の資料によると、都道府県や政令市、中核市、東京特別区など全国144自治体が民泊の所管権限を持ち、都道府県に権限を委ねるところを除く102自治体が実際に事務を担う見込み。このうち44自治体が区域や期間を条例で制限する意向で、残りのうち33自治体は制限せず、25自治体は模様眺めという。>

 

これに対し、<危機感を強める観光庁は昨年末、全区域で年間を通し一律に民泊を制限する条例は「新法の目的を逸脱する」と自治体に注意を喚起した。【中島和哉】>というのですが、形式的にいえば、観光庁の指摘もわからなくはありませんが、<東京都新宿区も平日の民泊営業を事実上禁じる条例を制定した。>のには地域性故の理由があるでしょうから、その制限目的に合理性があれば、逸脱というのはどうかと思います。

 

この記事には載っていませんが、<民泊近隣対応迅速に 新法受け、県が独自条例案 /和歌山>によれば、和歌山県も今年1月パブコメを始めました。

 

記事でその概要を掲載していますので、引用すると

<県の条例案では、衛生確保などのほか、宿泊客滞在中は周辺からの苦情に迅速に対応できるよう、マンションの場合は同じ建物内に、一戸建ての場合でも徒歩10分以内に常駐することを管理者に義務付けた。営業開始にあたっては、向かい側3軒と両隣、裏の計6軒の住民の反対がないことを確認することも盛り込んだ。

 国の指針では、管理者は60分以内を目安に民泊に駆け付けられるよう求めているが、県食品・生活衛生課は「国指針では遅すぎる」とし、より厳しいルールを定めた。>

 

さらに県のホームページで<(仮称)住宅宿泊事業法実施条例(案)の概要>を見ると、

1 遵守事項 とくに苦情対応では10分以内に駆けつけることなんて厳格な条件となっています。

2 周辺住民への事前説明 おそらく個人が行う場合、これが結構きついかもしれません。

3 周辺住民の反対がないことの確認 これもわが国の都市法制では厳しい条件ですが、欧米では当たり前でしょう。

4 事業の届出

5 指導監督

 

となっていて、そのパブコメのところではすでにこの手続きが済んでいて、次の条例案の段階に入ったようです。

 

で、結構厳しい内容の条例のようにも見えるのですが、私自身はこの民泊事業には危うさを感じていました。というのは海外で私が経験したのはすべてオーナーなり、その受任者居住してサービス提供していました(だいたい自宅ですね)から、民泊内で問題が起こるようなことは考えにくいというか、そんな懸念はまったくありませんでした。

 

しかし、現在ちまたで雨後の竹の子のように広がっている事業の中にはリスキーで一杯のものが含まれているように思えたからです。

 

それが先月の報道でやっぱり起こってしまったかと、私なりの不安が的中してしまいました。

 

大阪・民泊監禁 死体遺棄です。ここ連日で報道されていますが、今夕の毎日記事<大阪・民泊監禁死体遺棄、容疑者を送検>ではじめて容疑者の顔が映し出されました。

 

なぜこのように長い間容疑者の顔写真がでなかったのか、そこは不思議です。というのは顔写真があれば、彼は別に同種犯罪を行っている危険があり、あるいは未遂に終わったとしても、そういった被害者からの情報提供もありえたと思うものですから。むろんSNSを使って誘惑していたようで、被害者の女性以外に45人の女性を連れ込んでいたようですから、SNS情報である程度把握できていたのかもしれませんが、顔写真の今日までの未掲出の理由がわかりません。

 

彼がNYのロングアイランドに居住していた家の写真(ウェブ上では掲載されていませんが)は何日か前の記事にありましたが、アメリカの戸建て住宅としては中以下、低いレベルに近いと思われます。中レベルだと、フロントセットバックが7m以上あり、間口も10mありますが、彼の家は前者が5m未満といった感じで、間口も10m前後か未満というくらいで、小規模住宅に当たるでしょう。

 

両親や家族情報は明らかにされていませんが、案の定、近隣情報だとどこにでもいる温和な若者と言うことで、写真からもそういう印象を受けます。でも人は表の顔と裏の顔を持っているというのが最近は普通に近づいていますので、こういった情報は参考になりません。ただ、SNSを通じて45人も日本に来て連れ込んだというのですから、相当な執拗性、粘着質を感じます。

 

で、興味深いのは、入国まもなくから民泊を大阪と奈良に2カ所も借りているということです。記事では当初より連れ込む目的の場所と、死体遺棄の場所として、2つを用意したといった推測を記事にしていますが、そこまでまだ推測できる材料は私にはありません。でも2カ所を一度に借りることの合理的な目的が説明できなければ、その推測は当たっている可能性が高まるでしょうね。

 

このような犯罪場所として民泊を簡単に利用できるということの危険性をわれわれは真剣に考えておく必要があると思います。容疑者は日本、近畿圏に土地勘があったのかどうかわかりませんが、死体遺棄場所も3カ所でしたか、適当に遺棄したとも思える環境のようですので、行き当たりばったりとも思えますので、この辺りは検討事項ですかね。

 

繰り返しますが、だれも管理しない民泊の存在は、さまざまな犯罪に利用できることになります。観光庁は、はっきり言って甘いと思います。外国人旅行者(日本人だって安全とは言えませんが)がすべて観光目的で日本を楽しもうとしている人ばかりといった安易な想定は根本から考え直す必要があると思います。むろん普通のホテルでも部屋の中で犯罪行為が行われる可能性は否定しません。それでもルームサービスを含めスタッフが一定の監視機能を果たしています。

 

しかし、民泊は、そこにいないオーナー以外、近隣者も監視するのは容易でありません。ま、いえば野放しです。テロリストにとっても、いい隠れ家になるかもしれません。SNSなどITをつかったさまざまな交流もまたリスクの高い情報手段ですが、ストーカー的な人、DV的な人など、狼(こういうときオオカミをだすのはどうかと思いますが・・・)にいつ変貌するかわからない情報ツールと、民泊という秘密の館はとてもリスキーさを含んでいると思うのです。

 

長々と饒舌に書いてしまいましたが、要は民泊の中でも、オーナーなり事業者が、その場所に住んでいないような場合は、より厳しい条件設定を必要とするなり、宿泊者の適正な限定方法をするなり、一定の平穏な生活環境を保全する策を講じていないと、今後、悪質利用がエスカレートする危険を感じています。

 

一時間が過ぎてしまいました。今日はこのへんでおしまい。また明日。


文化財・観光と経営・文化 <「日本の文化財を守れ~アトキンソン社長の大改革~」>と<廃仏毀釈を問い直す>を見て読んで

2018-02-24 | 日本文化 観光 施設 ガイド

180224 文化財・観光と経営・文化 <「日本の文化財を守れ~アトキンソン社長の大改革~」>と<廃仏毀釈を問い直す>を見て読んで

 

実は一昨日の毎日夕刊に<廃仏毀釈を問い直す/下 今残る仏像が示す人間の愚>という記事が掲載されていて、その一週間前に<廃仏毀釈を問い直す/上 権力者や英雄、神格化の起点>と、明治150年を別の角度から見直す指摘がありました。

 

前者の記事がウェブにアップされれば、取りあげようと思ったのですが、なぜかアップされていません。ときどき不思議な記事漏れがあるように思うのです。普通、上があれば、下があるわけで、両方とも紙面記事になっているのですから、上がウェブ記事にアップされれば、下もなっておかしくないと思うのですが、なにか理由があるのでしょうか。ただ、毎日紙面ビューという、紙面と同じ体裁だと読めるのですが、コピペができないので、残念です。

 

昨日そう思いながら、帰宅してふと以前録画していた番組を思い出しました。というか録画のタイトルを見ていてふと見たくなったら、少し関連がありました。それが<NHK ETV特集「日本の文化財を守れ~アトキンソン社長の大改革~」>です。

 

今日はこの番組で紹介された、イギリス人で、元ゴールドマン・サックスのアナリストで、その後300年の歴史を持ち、国宝・文化財修復を手がけてきた日本を代表する小西美術工藝社の社長となった異色の経営者の言動に注目してみたいと思います。名前はデービッド・アトキンソンで65年生まれですから、番組放映当時は51歳でしたが、現在は52歳でしょうか。

 

いや、凄い人ですね。金融アナリストは、TV番組とか、著作でしか知りませんが、企業経営、しかも文化財の修復という特殊技能を持つ職人集団をもつ企業を経営するというのですから、それだけで驚きです。しかし、アトキンソン氏は、自然体で見事に職人であろうと、企業目標を明確にして、その目標に向かって企業経営の合理化を、しかも単に財務諸表といった収支計算にのみ注目するのではなく、その核心である修復作業の一から十まで詳細に現場で監督していくのですから、まさに本来の経営者の姿ではないでしょうか。

 

番組で取りあげたのは、春日大社、日光東照宮陽明門と二条城(これは修復そのものより観光事業としての見直し)が主なものだったと思います。

 

で、後で触れるかもしれませんが、廃仏毀釈で春日大社と興福寺が分離され、後者は多くの仏像が破壊されましたが、残された仏像の修復におり現在人気を取り戻しつつあるようです。前者は20年ごとの遷座が行われてきたものの、職人の高齢化や本来の材料が減少し、また職人の技能の継承も難しくなった状態にあるようです。

 

アトキンソン氏が社長を引き受けたとき、職人の平均年齢が50代~60代で、若い世代が入ってこず、ほとんどいない状態で、技能の継承が困難な事態におちいっていたというのです。まるで農林漁業のようでもありますね(むろん若い世代が意気軒昂な地域もありますが)。

 

その要因の一つについて、金融アナリストらしさを発揮しています(ま、そうでなくてもたいていの経営を担う人なら意識はありますが)。アトキンソン氏は、65歳定年制にして、給与をそれまでの半分にしたのです。彼曰く、ベテランの職人がいくら腕が良いといっても、若い職人の何人分もの給与をもらっていたら、若い世代を雇うことができないというのです。それはそのとおりです。それをわかっていて、実践するかどうか、それが普通の経営者とアトキンソン氏の違いでしょうか。彼は断固実践します。

 

当然、年配の職人は怒りますね。事前に説明を受けていて65歳になった途端、受け取った給与が半分だったことに驚き、怒りを覚えたという人もいました。でもそれは若い世代を育て文化財修理事業を維持するのに必要だと、適切に説明を受けていたこともあって、受け入れたというのです。アトキンソン氏の経営スタイルは、大胆な組織改革ですが、常に詳細に一人一人に理解してもらうよう説明を尽くす点です。

 

創業者経営者ならともかく(しかし、稲盛和夫氏もとことん社員と議論したというくらいですから、本当に経営者ならみな同じスタイルではないでしょうか)、雇われ経営者としては、徹底した経営合理主義を、アトキンソン氏は発揮するのです。

 

この結果、職場は、若者が一杯、画面ではほとんどが20代、30代くらいの職人に見えました。また女性職人も少なからずいたように思います。

 

もう一つの重要な問題として、修復技術の施工管理が彼が就任した当時杜撰になっていたようでした。一年前に修理した住吉大社の天井の梁でしたか、朱塗りしたものが剥げて垂れ下がっているということで、苦情がきていました。それは相当数あったようです。こういった場合、新たな注文をとるため営業に走る経営者もいますが、アトキンソン氏は、あくまで負の遺産を放置せず、謝罪にあちこち出向き無料で問題のある箇所の塗り直しなどをさせて、会社の信用回復に努めたのです。その結果、徐々に営業に走らなくても注文が増えていったというのです。これまた商いの本道をいくものでしょう。渋沢栄一も常に強調していたと思います。

 

この技術的な面で注目するのは、彼はベテラン職人が行った春日大社の白壁に描かれた絵馬の塗り直しについても、わずかの線にこだわるのです。彼は観光客の目線で、その狩衣のシワを示した線の濃さ・太さを問題にしたのです。神宮の守り人の力強さを表すために、そのシワは明確でないといけない、淡い下地の白が見えていると指摘するのです。

 

その職人(副社長でもある)は、彼なりに、日本人好みの淡いグラデーションを独自につけたかったようで、そのことに自負を持っていましたが、アトキンソン氏の観光客の目線という視点からの変更申出を、受け入れました。この二人の対立はどちらがいいかは私にはわかりません(ま、私の好みは職人さんに軍配ですが)。しかし、このように現場で一つ一つの作品について、微細にこだわり、職人と議論することにより、作業を進めていく姿勢は見事と言うほかありません。

 

若い職人さんも、最初は素人が何を言うかと、内心馬鹿にしていたようですが、アトキンソン氏の細やかな質疑という会話のやりとりを通じて、何を目的にして修理・修復するかを、それぞれの箇所で、彩色、部材などを目的に適合するかを話し合うことにより、お互いが具体の目的を明確化して、それにあった作業を進めていくことが自然に、組織全体で理解されていっているように思えるのです。これまたすばらしいです。

 

それはこの中では、金融アナリストの数字ばかりを追っているといった姿は一切みえないのです。

 

むろん経営合理性として、収支計算で黒字化をする必要がありますが、アトキンソン氏の視点は多様であり、短期・長期のバランスを見ながら、しっかりとした計算の下に費用をとうじていることを納得させられてしまいます。

 

神社・大社の色は朱に決まっていますね。でも本朱というのがあるのだそうです。多くの神社では、本朱を作る鉱物が限られていて、普通の朱の10倍くらいの値段があるとか、この塗り方が乾きやすく塗り直しが困難とかで高い技量を擁するため、本朱を使わないそうです。でもアトキンソン氏は、春日大社では本朱をあえて使い、多額の費用をかけています。それはむろん神官の理解を得ないといけませんが、未来に向かって国宝の価値を継承してもらう、伝統技術の継承の必要性を理解してもらい、実施するのですね。

 

こういった修復の話しの他に、二条城の修理保全を依頼されたとき、その費用確保のための観光事業のあり方を、アトキンソン氏は力説するのです。

 

阪神大震災で、二条城の一部の屋敷壁が傾いてしまい、多くの丸太で支えて暫定的な措置をとっています。また鬼瓦の一部でしょうか、いくつか落ちてしまったままでいます。熊本城ほどひどい破損状態ではないですが、それでも修復には100億円かかり、国と京都市で半分ずつ負担するということですが、その費用をどのようにして工面するか審議会らしきもので議論するのです。

 

ここでアトキンソン氏は、世界的な視点で、わが国の国宝や文化財の保全・維持費用が少なすぎることを問題にします。たしかに国を含めて累積赤字で出せるものはないというのが国でもあり京都市でもあるのでしょう。

 

しかし、アトキンソン氏は、入場料が少なすぎるというのです。600円というのは、文化財を破壊している(といったような記憶です)と激白するのです。私も賛同です。

 

私自身、それほど世界各地の文化遺産などに行ったわけではありませんが、基本的に立入制限を設け、他方で入場料はかなり高いものだったと思います。アトキンソン氏はイギリスの場合だったか、世界平均だったか不確かですが、入場料は2000円近くするということでした。彼は数値に明るいので、1円単位で話しを進めますが、私は田中角栄みたいな頭脳とは違いますので、大ざっぱな記憶の数値で勘弁ください。

 

私の各国の施設入場料の記憶もそんなくらいかなと思っています。ただ、イギリスはナショナル・トラスト制度が庶民の間で普及し確立していて、私がお友達になった家族もトラスト会員で、年会費いくらか払っていたと思いますが、そういう会費による収入も文化財保護(もちろん自然遺産もあります)に役立っているようです。

 

日本の場合ナショナルトラストというと、知床の保全が端緒になったと思いますが、イギリスに比べるとその普及度は微々たるもので、とくに建築物といった文化財については管轄もあり、極めて限られている印象です(ここは確認していませんので誤解があるかもしれません)。

 

アトキンソン氏は、従来の文化財行政の立場からするとびっくり仰天するような議論を熱心に行っています。入場料は庭だけ見るのなら600円、建物内に入る場合は600円を付加し、さらにイベントに参加する場合はさらに600円とか、といった入場料の付加価値を高めるというのです。個別の案内人が付く場合はそれだけ観光の価値が高まるのだから、その分余分にいただくというのです。現在の入場料は、修学旅行生を相手に設定した、「修学」のためのもので、「観光」のために合理的に設定されていないというのです。私も賛成です。

 

むろん、これまでの文化財のように単に展示物を見せるというだけでなく、案内板も単に名前を記載した表示だけでなく、その歴史的意義や背景、建築的・美術的価値の解説などを記載した表示を掲示することを提案して、すでに二条城では実現されています。また、当時の天皇が行幸されたときに行われた式典の再現など、その場所にあったイベント企画を行うことも進めています。これらも次第に実現されているようです。

 

国宝や文化財は、単にそのものを見るだけで理解できる面もありますが、やはり多くは長い伝統芸術・技術の蓄積が随所に含まれていて、また歴史的な場所の意義も重畳的にあると思われるのです。そういったサービスを提供するとすると、北米などで通常ガイド役として登場する、インタープリターが不可欠だと思うのです。私などは英語のヒアリングが十分でなくても、その説明があることでずいぶんと違った印象、そうですね対象の価値の重さを、そして観光の価値の深みを感じさせてもらいました。

 

そういうインタープリターを育てる状況は、最近の新観光戦略で醸成されつつあるというか、すでに一定部分が具体化しているようですが、まだまだ地方では目に見えた変化は感じられないのです。

 

入場料無料にするとか、低額にするとか、が当たり前という考え方がまだまだ岩盤としてあるように思えます。むろん国民だれもが文化財にアクセスできることは大事なことです。しかし、一方で少なくとも景気上昇期間が戦後最大とか、ベースアップ3%とかいうのであれば、文化財を守り活用するために、この入場料を相当額に設定する必要があるように思います。むろん低所得者対策は当然、別の形でしっかりとるべきでしょう。

 

スマホにしても、いろいろな興業にしても、興味を惹けば、いまは小学生から若者まで、多額のお金を出してもいいと思っています。文化財の価値を魅力あるものにする努力が求められていると思います。アトキンソン氏の提案は、まだ緒についたばかりで、より具体的に各地のそれぞれについて競争してはどうでしょう。インスタ?というのでしょうか、よければスマホであっという間に流行するでしょう。悪ければ無視されるでしょうけど。それは仕方がないですね。

 

ま私のブログもそんな感じで、少数の方は多少は賛同していただけているのかなと思いつつ、独り相撲のようなものですから、勝手な言い放題というところもありますが。

 

問題の廃仏毀釈の話しに入る前に、5000字を超えてしまったようで(饒舌すぎました)、少々疲れてきましたので、今日はこれにしておしまい。また明日。

 

 


特集ワイド 紀行作家・バードが称賛した日本 富国強兵と違う明治 貧しくとも「豊饒」 「相互扶助」根付いていた時代

2018-02-21 | 日本文化 観光 施設 ガイド

180221 バードの魅力 <紀行作家・バードが称賛した日本・・・「相互扶助」根付いていた時代>を読んで

 

今日も手の感触が芳しくないようです。とはいえ昨夕の毎日記事は、私が好きなイザベラ・バードを取りあげていましたので、少し無理して頑張ってみようかと思うのです。

 

その記事<特集ワイド 紀行作家・バードが称賛した日本 富国強兵と違う明治 貧しくとも「豊饒」 「相互扶助」根付いていた時代>は小林祥晃記者が紀行先を訪れるなどして熱い思いで書いたもののように思えます。

 

私もこれまでバードについては何度もこのブログあるいはfbで取りあげてきました。原書初版本の翻訳『完訳 日本奥地紀行』全4巻を含めなかなか全部を読み切れないでいますが、随所に彼女の鋭い洞察やユーモア、差別的取り扱いへの鋭い観察などがちりばめられていて、感心させられています。

 

さて記事ではバードの紀行文が改めて注目されているそうです。

 

<「日本奥地紀行」は、46歳の時、東北と北海道を約3カ月かけて馬や人力車で旅した記録だ。米沢盆地では、豊かな自然や農業の繁栄ぶりを絶賛した。>

 

<積雪は1メートル近いが、白壁の日本家屋の町並みが美しい。バードは道路脇に石造りの水路が設けられたこの集落を気に入り、著作でこう表現した。<低い山並みの麓(ふもと)に金山は夢に誘われるような感じで広がっていた>と高く評価しています。

 

他方で<バードは、日本の称賛ばかりではなく、山深い地方の生活や文化は「文明開化に程遠い」とリアルに描く。<(宿の部屋の)蚊帳は完全に蚤(のみ)の巣だった><男たちは何も着ていないに等しい><女たちも上半身は裸で、腰から下に身につけているもの[腰巻(こしまき)]も非常に汚く>といった具合だ。>

 

バードの凄さは、殿様が宿泊するような立派な本陣宿もあれば、蚤シラミが縦横に走る、食事もまともに出ない宿とも言えないようなところでも、それを受け入れ丁寧な観察を続けるところでしょうか。むろんアイヌの集落への道程やそこでの宿泊もとても英国貴婦人が行くようなところではなかったのです。

 

最近注目を浴びていることについて、<なぜ、注目されるのか。バードに関する論文がある文芸評論家、川村湊さんはまず、異文化に飛び込み、見たまま感じたままをつづった体験記としての面白さを挙げる。「女性芸人のイモトアヤコさんが未開の地を体当たりで旅するテレビ番組が人気ですが、バードの著作とつながりがあるように感じます。未知の土地での新鮮な驚きや発見こそ旅の原点。ネット上の観光情報に飽き足りない現代人は、そこに魅力を感じるのでは」>という解説を上げています。おそらく小林記者はそれも否定しないけど、違うと思っているのではないかと推測します。私もそうですから。

 

まず、バードはそもそも日本が平和で安全なところであることを自ら証明しようとして、女性一人(通訳の若い身勝手な男性一人が付きそう)でも、西欧人の誰もが訪れない東北の奥地へ、さらにアイヌの集落へ、訪れるのです。

 

そこはどこも西欧的な文化的・衛生的な生活環境がまったくないところでしたが、それにひるんだり、もうやめたなんて言わないで、頑張り抜くのです。話し相手も、文句を言う相手もいない、助けを求めることもできない中、新天地を目指すのです。通訳とは相性が悪く、まともに一緒に同行できる状況ではなかったと思われますが、他にそんな奥地に連れ添うような通訳は一人もいなかったのでしょう。

 

そのうえ、バードは重い持病をもちときには馬にも乗れないほどの苦痛に耐えながら、あるいは馬も登れないところでは歩いて進みながら、決して旅行をあきらめないのです。

 

バードの生きた19世紀中葉から後半は、ビクトリア時代でイギリス全盛期でしたでしょうが、ジェーン・オースティンが『高慢と偏見』で描いた18世紀末から19世紀初頭と女性の地位はあまり変わらない冷遇された時代であったと思います。それはバードより少し遅れて登場したあのピーターラビットで有名なビアトリクス・ポターも女性の自由な活動が許されない中で、自立の道を童話を書くことにより獲得したのと同じくらい大変だったことを忘れてはいけないと思うのです。

 

でもバードは断固として、一人の女性、一人の人間として、未開の土地を、ある種宣教師的な気持ちで臨んでいたのかもしれません。彼女の視線は客観的に冷静に対象を観察し、しかも背景事情をも考慮しながら、記述しており、その内容は極めて高い価値をもつと思うのです。

 

小林記者は<民俗学者で学習院大学教授の赤坂憲雄>の言葉で、バードの重要性を次のように書いています。

<バードも横浜で<印象的だったのは浮浪者が一人もおらず(中略)みな自分の仕事をもっていること>と書いている。>とか、バードは<子供の顔も、大人の顔も、すべての顔が穏やかで、満ち足りた感じがした!>と、人々が貧しくとも笑顔で生きていることにも感銘を受けた。赤坂さんは「当時の社会は、緩やかな相互扶助の仕組みを持つ、安心感のある社会だったのだと思います。乞食もいたのでしょうが、排除するのではなく、食べ物を分け与えるなど、見えないセーフティーネットに守られていた」と見る。>とか。

そして<「長い間、人々の間に根付いていた独自の相互扶助のシステム、それを壊してきたのがこの150年だったのではないでしょうか」>

 

政府が喧伝する<「明治150年」事業を行う内閣府は「明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要」>ということに対する異なる視点をバードが提供しているというのです。<バードが見た「日本の強み」は、日本人が生活の中で培った文化のように思える。>

 

得るものがあれば失うものもある。得たものだけに注目し、その原動力の輝きだけに焦点を当てるのでは、二の舞になってしまうでしょう。その失ったものをしっかりと認識し、今後の私たちのあり方にどう活かすか、が問われているのでしょう。

 

最近バードを読んでいませんので、あいまいな記憶で書きましたが、読むたびに引き込まれてしまいます。また、別の機会に違った視点で考えたいと思います。


年賀・喪中はがきの是非 <年始のごあいさつ 喪中はがきの風習は必要?>などを読んで

2018-01-14 | 日本文化 観光 施設 ガイド

180114 年賀・喪中はがきの是非 <年始のごあいさつ 喪中はがきの風習は必要?>などを読んで

 

年賀状を出そうか迷い始めたのはもう20年以上前のこと。そろそろわが国でもメールが普及しつつあって、必要ならこれでよいのではと思ったのです。省資源・省エネ的には自然な感覚でした。でもいまもって踏ん切れないでいます。

 

私の若い仲間の一人は最近、堂々と実践しています。彼は一緒に仕事をしていたときも、優秀で情熱もあり、世代は違いますが大きな影響を与えてくれました。でも彼のようにまだ潔いスタートが切れないでいます。

 

そんなとき今朝の毎日記事<松尾貴史のちょっと違和感年始のごあいさつ 喪中はがきの風習は必要?>は、その先を行っている印象で、驚きと共に、そのとおりと賛同したく思います。

 

松尾氏は、以前から辛口のコメントとユーモアも交えてなかなかと思っていましたが、NHKFMの日曜喫茶室を受け持ったときはちょっと無理ではと当初不安視していました。でも

そんな私のいい加減な理解は吹っ飛ばしてくれるほど、軽快で多様で中身も充実させ、新たな内容に入れ替えてくれました。

 

その松尾氏の違和感は、次の通りです。

<昨年の3月に父が亡くなったので、子としてはおよそ1年間の服喪期間中ではある。しかし、周囲が「おめでとう」と華やいでいるときに「喪中ですので」などと言って水をさすのもおかしいし、そんなことを言っている人を見たことがないので、何も考えずに「今年もよろしくお願いします」と応じていればいいのだろうか。>

 

また、松尾氏は年賀状をずっと出していなかったようですね、その立場から重ねて、

<何年も年賀状を出していないので、喪中ハガキも出していない。以前も書いたが、喪中ハガキなど受け取った人の気分を曇らせるからあの風習はなくなればいいとすら思っている。返事を出さないといけないような相手から年賀状が届いてしまったら、寒中見舞いで礼を尽くせばいいのではないか。>

 

松尾氏は過去の根拠法令をとりあげて、喪中のあり方、そして関係者への連絡は個人の選択に委ねられるのが望ましいと、当たり前のことを述べています。実際は社会の慣習・習俗みたいな何かが、このような一連の喪中対応として行われてきたのでしょう。

<その昔は「服忌令(ぶっきりょう)」という法律で喪に服すことが決められていた時代もあったそうで、心の活動まで強制される時代があったのかと驚く。逝った者への思慕や愛情は人の数だけある。あくまでガイドラインとして儀礼という文化が継承されることは大切だが、強制ではなくそれぞれが選択できることが望ましいのではないか。>

 

とはいえ、死亡連絡から葬儀や法要、そして遺体・遺骨のあり方まで、次第に多様な道が選ばれてきて、すでに喪中期間といった習慣もごく一部になりつつあるようにも思えます。

 

縄文時代は異なる形態であったと思いますが、死に対しては厳粛な営みが社会の基盤で会ったのではないかと思うのです。弥生時代、さらに古墳から飛鳥に至るまで、薄葬令が発せられるまで、少なくとも身分の高い社会では殯を厳格に行われてきたのではないかと思います。

 

まったく知らない人、その家族の死について死亡連絡は、社会慣習として行われています。違和感を抱くのはそういうときです。とはいえ私も喪中はがきを最近なんどか出してきました。それでよいのか少し考えていきたいと思います。

 

とはいえ、喪中はがきといったものは、郵便制度を作った前島密もびっくり仰天ではないかと思っています。これはきっと郵政省がある時代に普及させた、また、戦前の貴族社会はともかく庶民の間でそれほど一般的であったとは思われないのです。むろん村社会が確立していたときはほとんどが村の中で生活しているわけで、そういった喪中はがきの必要性もすくなかったと思います。

 

それが印刷はがき、さらにはワープロの普及、ネットの浸透に加えてプリンターの家庭への進出といった側面に加えて、葬儀自体が企業なり事業レベルで営まれるようになったことも、喪中はがきの一般化、拡大が見られたのではないかと思われます。

 

これらと軌を一にして、年賀状の数量も格段に伸びましたね(最近は減少気味だそうですが)。それは庶民の多くが要望した結果からもしれませんが、受け取る側、出す側のいずれも個人の自由な選択を無意識的に奪われているかもしれません。松尾氏の指摘はそのように感じます。

 

ところで、数日前の保阪正康氏による<昭和史のかたち年賀状文化>も、私自身、感じ入るものがありました。

 

保坂氏は<年賀状については、功罪相半ばする論が叫ばれてきた。虚礼廃止の折あまり意味がないのではないか、あるいは、年に1回お互いの安否を確かめ合う意味がある。それぞれがうなずける理由である。しかし私自身に限って言えば、今年は年賀状の意義が改めて確認され、どちらかといえば前者から後者に大きく傾くことになった。>と揺れる気持ちの中で、個々のはがきに意義を認めたようにも思えます。

 

保坂氏の年賀状投函の歴史的経過も面白いですね。私も似たような経験があります。賀状を出すのを辞めようかと思いつつ、年末までに出さないで、元旦以降に配達された人に対して賀状を送ることにしていました。

 

これは実際は大変です。しかも個々のはがきの内容に応えるようにしようとすると、もっと大変です。私のやり方は、印刷(たいていは元旦の日に書いたもの)を個別対応せず、ただ送るものです。それだと後から出す意味もないように思い、結局、最近は年末前に仕上げて賀状を投函しています。

 

とりわけただ社交儀礼で送り合うような年賀状、定型の内容しか記載のないものは、欠礼しようかと時々思うのですが、なかなか踏み切れません。優柔不断ですね。他方で、個人的なことを書いてきたものにも、とくに返礼しないので、これも失礼な話しです。結局、メールの方が即時性があり、お互いのやりとりが出て、本来的かなと思うのです。

 

長く遠ざかっている仲間と年一回の賀状の授受にどれだけの意味があるのか、これからも考えることになるのでしょう。

 

ところで、保坂氏は最後にすばらしい賀状を、そこに心を込めた内容のある伊丹万作の一分を紹介しています。これを読むだけで、年賀状の意味はあるのかとつい思ってしまいます。できたらこういう一文を受け取れる人になりたいものです。

 

<「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃(そろ)えてだまされていたという。(略)だますものだけでは戦争は起こらない。(略)だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど判断力を失い、思考力を失い、信念を失い、(略)自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」>

 

<伊丹万作はこう指摘したあとに、「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう--と結論づけている。>

 

賀状は、はがきであれば、せいぜい数百字でしょう。プリンターを使えば1000字、2000字でも可能でしょうが、肉筆で要領よく心奥を刻めることができる、典型ですね。短いからこそ、本質を突く。私の長い駄文も反省です。