たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

海から見た日本 <『宮本常一講演選集8日本人の歩いてきた道』をちらっと読みながら> 

2017-12-29 | 日本文化 観光 施設 ガイド

171229 海から見た日本 <『宮本常一講演選集8日本人の歩いてきた道』をちらっと読みながら> 

 

今日は中央構造線の橋本から紀ノ川沿いを西に走り、南海フェリーに乗って徳島からは吉野川沿いをさらに西に走りました。

 

吉野川は、神武東遷のときから、熊野から吉野を経て吉野川を渡ったと言われているとおり、古い歴史を持ちますね。ま、伝承と受け流せばそれですみますが、それでも天武・持統朝にはよく訪れた由緒あることは万葉集にもあるので確かなのでしょう。

 

その吉野川が五條から橋本(当時はおそらく別の地名でしょうね)当たりで紀ノ川に名称が変更になったのはいつからでしょうか。紀伊の国ができたころでしょうかね。では、四国三郎といわれる吉野川はいつからそう呼ばれているのでしょうか。なにか吉野川はずっと繋がって一本の川であったということがあったのではと思いたいところですが、地形学的にはありえないのでしょうね。紀ノ川と徳島・𠮷野川を分断する紀伊水道が生まれなかったらどうなっていたのでしょう、なんてことをフェリーの中でふと考えてしまいました。

 

そのフェリーの乗船時間は2時間余り。高速道路を走れば時間は短くなりますが、私のように首・腰痛持ちだと、耐えられません。このフェリー乗船時間は最高の骨休みです。いつも横になっています。外国でなんどもフェリーに乗りましたが、こういった横になれる場所は経験がありません。まさに日本人の伝統的な生活様式が生んだものでしょうか。むろん

日本でも長距離の場合は寝室付きですので、これは別ですね。

 

こういったフェリーに乗ったことがない方のために一言付け加えますと、大部屋のような座れる場所ですが、たいていの人は横になっています。年末年始の時は込み合いますので、雑魚寝状態ですね。ま、山小屋風でしょうか。庶民的といえばそうだと思うのです。

 

お金に余裕のある方はフェリーを使わない?、あるいはフェリーに乗ってもグリーン券?を買って有料の椅子席で休むのでしょうか。

 

私はこの雑魚寝的空間が割合平気です。小さなお子さんは泣き叫んだり、人の寝ているところをまたいでどんどん歩き回ったりします。外国人はめったに見かけません。仰天するかもしれませんね。アジア的雰囲気でしょうか。アジア人なら大丈夫かもしれません。

 

さてその雑魚寝的雰囲気の中で、一寝入りもしますが、それ以外はだいたい本を読んでいます。今日は冒頭の書籍でした。

 

喧噪な雰囲気ですが、宮本常一の体験的な話、コクのある話、日本人の本質に近づくことができるような話に、埋没しました。

 

いま寝る前にこのブログを書いていますので、正確に内容を再現できるわけではありませんが、いくつか興味を覚えた点を書き記したいと思います。といっても睡眠時間もあったので、実際のところ1時間程度くらいしか読んでいませんから、300頁あまりのほんの一部しか読めていませんので、ほんのさわりです。

 

宮本氏は、日本は海に囲まれた国だから、海からこの国、人を見ることが大切だというのです。そのとおりですね。記紀を含め日本の歴史書には、どうも海からの視点が十分でないように思うのです。

 

それは海人には文字を必要としない生活があり、文字を残していないことも大きな影響があると思います。文字を残さなかったとはいえ、その海の民が伝えた、形成した文化・文明は多大なものがあるように思えますね。

 

宮本氏は、多くの鋭いまなざしをもって各地でヒアリングを重ねて、彼独自の見方を低k評してくれているように思えます。その中で面白いと思ったのが筏です。古代の海の民はどのような乗り物で海洋に出たのでしょうか。宮本氏は道具がない時代、筏をうまく組み立て、時には2層に重ねることで、大海原でもわたることができたのではないかと指摘していたと思います。これまで世界各地で多くの人が古代人の海洋航海に素朴な船でチャレンジしてきたと思いますが、筏も結構有効なものだったかもしれません。

 

筏は底が平たいですね。そこが西洋船との違いだと宮本氏は指摘します。東南アジアでは、

船底が平らなのが普通で、その平坦な船底だからそこで生活もできる、現在もそういった平底の船で生活している人は各地にいることからもいえるのでしょう。技術の進展で巨大化する船でも、平底を起点に板を重ね、天井に大きな梁を渡す構造が和船の基本スタイルとして長く発展してきたというのです。

 

で、ここからが生活文化に関係してくるのですね。平底船の日本への導入は、男女が海で共同して働くことが漁民の中でも一つのグループとして成立したというのです。それに対し、別のルート、これは男性だけが海に出て漁をし、女性は決して海に出ないという方式、琉球あたりからの南方ルートでしたか、ずっと北上していくのですが、なぜか瀬戸内海では両者が併存していたというのです。

 

この海の民は、海で魚を獲るだけでなく、交易やさらに海賊行為も行ったというのです。

 

そして生贄ということが象徴的な意味合いで語られています。記紀の中にも、「 持衰(じすい)」という存在が期されていますが、航行の安全を祈願する、祈祷するそういう祈祷師的な存在が必ずいたというのです。持衰は船の舳先に立ち、船の安全を祈祷する神的尊大だったといのです。しかし、海難にあったときは、持衰は海の神を鎮めるため、生贄として海に投じられる危うい存在でもあったのですね。

 

そういえば、記紀の中に、日本武尊が関東を征伐するために赴く際、東京湾を渡ろうとして、嵐に遭遇して危うい状態になったとき、弟橘媛が身を捧げ海に飛び込むシーンがあったと思うのですが、それもこのような伝承を踏まえた話でしょうか。横須賀の走水にある伝承記録ですね。

 

で、話が落ち着きませんが、今日のお題のポイントは、元々は血を捧げる、生贄が重要な儀式であったのが(これは南米など世界各地でも見られますね)、ある時点から血から水に変わったという点です。それまでは動物の生贄に血を神に捧げることが行われていたのが、血は汚れたもの、忌み嫌うものになり、水になったというのです。それは米作、しかも水田で作られる米栽培が普及したことによるというのです。

 

陸稲の方は焼き畑耕作がかなり早い段階から導入され、血をささげることとも両立したのでしょうが、水田の場合は水こそ貴重なものとなり、水を呼び込むことと雨水の予想というか祈願こそ求められるようになったということでしょう。

 

それにかかわったのが海の民というのです。

まだきちんと理解していない中で、記憶の中でいろいろ断片的に残っていることを適当に書きました。さらに興味深い話があったのですが、どうも脈略がはっきりしません。

 

中央構造線の断層付近を走行したので、頭の中にも断層というか断裂が生じて、せっかく宮本氏がきちんと整理した開設をしていたのを、目茶目茶にしてしまったかもしれません。

 

もう一時間を優に超えたようです。そろそろ時間となりました。また明日。


相撲騒動を考える <日馬富士暴行 貴乃花親方、協会と溝深く・・・>などを読みながら

2017-11-19 | 日本文化 観光 施設 ガイド

171119 相撲騒動を考える <日馬富士暴行 貴乃花親方、協会と溝深く・・・>などを読みながら

 

私が子ども時代、外で遊ぶことがもっぱらでした。あらゆる運動にみんなが夢中でした。自分たちで考えて、たとえば階段から飛び降りる競争でどこまで高い位置から飛び降りることができるかなんてのもありました。その中でとりわけ相撲は人気がありました。しょっちゅう仲間内で取り組みがされ、私は割合強かったように記憶しているのですが、実際はどうでしょう(その後大学相撲部出身者と何度か相撲を取りましたが一瞬で負かされました、当然ですが)。大鵬・柏戸時代でしたが、私は柏戸の一本気な相撲に惹かれました。

 

さて話変わって、折角盛り上がってきた相撲人気に再び暗雲みたいな変な状況になっていて、連日「日馬富士暴行」事件の報道が繰り返されています。

 

ここでは、毎日朝刊<日馬富士暴行貴乃花親方、協会と溝深く 黙して語らず>のような協会と親方との問題、親方と弟子の問題は触れないことにします。単にこの暴行事件について飛び交う情報の整理をして、事実はどうなのか、事実を踏まえて適切な批判をすることでないと、相撲の将来を考えたとき改善することにつながらないと思うのです。

 

事実経過を毎日記事<クローズアップ2017日馬富士関暴行 「キレた横綱」混迷 証言食い違い/報告遅れ>と<日馬富士暴行リモコン、灰皿で殴打 個室モンゴル勢のみ>を基に、整理してみたいと思います。

 

この中に経過を表にしたものがありますので、これをとりあえず基礎にしますが、不確定な事実も記載されていますから、その点は除きます。

 

1025日深夜、酒席で、日馬富士関が貴ノ岩関を殴打(ビール瓶で殴打は不明)

1026日~29日福山巡業などに貴ノ岩関が参加して相撲を披露していた。

1029日、巡業後、貴乃花親方が鳥取県警へ診断書とともに被害届を提出

112日、福岡県田川市長を表敬訪問し、貴乃花親方は「10勝以上を」と貴ノ岩関への期待を語った。

115日~9日 貴ノ岩関が入院

119日、貴ノ岩関について診断書作成

1110日 休場届を提出。診断書は13日に提出。

 

さて、暴行傷害事件を扱っていますと、関係者の言い分は大きく食い違うことがよくあります。自分の体験したことだから間違いないと確信を持っているので、なかなかやっかいです。また、第三者で客観的な立場で見ている人の証言も、当事者との関係で、あるいは事件当時の騒乱の中で適切な認識・記憶が再現できるかというと、これまた必ずしも全面的な信用を置くことができません。場所とその周辺にある様々な物件(ここでは机や食器やリモコン、灰皿、ビール瓶など)の変動、当事者の刻々変わっていく動きなど、微細に再現することは容易でありません。

 

で、いま二人の関取の言動について、言動がマスコミを賑わしていますが、関係者の証言によるものではないかと思います。まったく誰かの証言も聞かないで取材報道することはあり得ないと思いますので、誰かが話していることは確かだと思います。むろん当事者の関取が直接、あるいは関係者に話している(いわゆる伝聞)もあるでしょう。しかしながら、上記の事情から、これらの証言(法的な意味で使っていません)には信憑性を根拠づけるものに乏しい段階だと思っています。

 

その意味で、ビール瓶、リモコン、腹皿で殴打とか、さまざまな情報は、現時点では参考にしかすぎないと思いますし、その情報が上記119日付け診断書を基にしているのだとすると、慎重に検討する必要があると思います。

 

今日はこの話題を取り上げたのは、診断書というものについて少し触れたいと思ったからです。診断書は1029日に鳥取県警に提出されたものと、119日付けで作成されたものがありますね。話題になっているのは、後者は<「脳しんとう、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋(ずがい)底骨折、髄液漏の疑い」で全治2週間とする>内容で、前者では少なくとも<右中頭蓋(ずがい)底骨折、髄液漏の疑い>という記載はなかったようですので、その違いをどうみるかという点です。

 

まず、<右中頭蓋(ずがい)底骨折、髄液漏の疑い>と記載がありますが、この部分はTV放映などでみた診断書では2行目に一緒に書かれていて、1行目の脳しんとうなどと異なり、断定診断ではなく、疑いだということです。

 

MRICT検査で容易に骨折や髄液漏が診断できる場合もあるのでしょうから、今回の場合は疑いですので、はたして確定診断できるものかが問題だと思います。

 

ところで、暴行直後に作成された診断書には、そのような記載がなかったことをどう考えるかですが、その診断が夜間当直などで暫定的だったと見ることもできますが、対象が脳です。脳しんとうという診断があったかどうか明確でないですが、頭への殴打というのは争いがないところで、当然、貴ノ岩関が医師に主訴しているはずです。その殴打が鈍器などを使って行われたとの主訴であれば,症状にもよりますが、MRICT検査を念のためにでもとることをすすめるのが本来ではないでしょうか。仮に当直医が担当したとしても、日中の検査を指導ないしすすめるのが普通ではないかと思います。

 

脳への打撃は、直後でなく、しばらく経過して変調が現れることは、私自身も事件を取り扱った経験がありますし、医師なら常識でしょう。

 

ましてその診断書をもって被害届を提出するわけですから、その時点で骨折等の疑いがあるような自体ではなかったと思われます。その疑いがあれば、巡業の中止を指示するのが医師の責務ではないかと思います。

 

巡業中の貴ノ岩関の相撲を取る様子からは、体調の変異は考えられません。むろん一定期間経過後に現れる場合もあるので、この巡業中の様子だけでは判断できないと思います。

 

ただ、113日の田川市長との会談時に元気だった様子にもかかわらず、2日後に入院し9日退院したというのですが、9日付けの診断書からはその状況が感じられません。

 

<脳しんとう、左前頭部裂傷、右外耳道炎>の診断は、この時点で入院を根拠づけるものか、気になるのです。殴打後すでに10日ちかく経過していたのですから、入院時のもう少し具体的な症状を記載するのが望ましいように思います。そして当該診断書を退院時に記載することを依頼されたことが窺えますが、それは休場届の理由付けのためと言うことが説明されていたはずだと思うのです。そうであれば、当該症状が相撲をとることができない程度であることをも指摘して記載するのが望ましいように思います。

 

当該2通の診断書を作成した医師が同じであれば、とりわけなぜ119日付けで、疑いを抱いたかを根拠づける必要があると思います。エビデンスによる医療と昔から言われてきて、また診断書も医学的見地からだれもが納得できる内容にする必要があると思うのですが、これら2通の診断書は、必ずしも十分なものとはいえないと思うのです。

 

急がしい医師が、常に満足のいく内容の診断書を作成すべきとまではいいません。患者が日本を代表する伝統的な行事である相撲の力士についてです。とりわけ慎重に対応する必要があると思います。

 

この件はとりあえずこの辺でおしまい。


人の認識力 <松浦武四郎著『アイヌ人物誌』とイザベラ・バード『アイヌの世界』を垣間見て>

2017-09-26 | 日本文化 観光 施設 ガイド

170926 人の認識力 <松浦武四郎著『アイヌ人物誌』とイザベラ・バード『アイヌの世界』を垣間見て>

 

今朝も秋模様が窓の下の谷間に漂っています。垂れ下がっていた稲穂はとっくに刈り取られ、田んぼは薄茶褐色となり、あぜ道の四囲を飾る彼岸花の赤色が美しいと思っていたら、それもいつの間にか枯れかかっています。モズでしょうかヒノキの梢で高鳴きしています。

 

そんなのんびりした感じも事務所に入ると、雑用が次々とあってうまくはかどらず、あっという間に6時を過ぎました。今日のブログはと思いながら、新聞記事を追ってみましたがどうもぴんときません。感度が鈍くなっているようです。といって読書の方もなかなか時間がとれず、中途半端なままです。

 

それでも時折、気になる見出しの2冊、取り上げてはわずかを読んではまた元に戻しています。なかなか読み込めず、二つの異なる見方を気にしつつ、その意味合いをいろいろかんがえながら、いつも中途で終わっています。今日もむろん中途半端な状態ですが、とくにテーマも浮かばないので、取り上げてみようかと思ったのです。

 

松浦武四郎、著者紹介では、1818年に生まれ88年に死亡しています。伊勢国一志郡須川村で生まれ、33年、つまり16歳の時から日本国中を遊歴したのです。その彼が最初に蝦夷地である北海道に最初にわたったのは44年ですから、まだ27歳でしょうか。以後何度も北海道の内外を渉猟し、アイヌ人の実態を見聞きし、幕府や松前藩の役人たちによる植民地支配的なやり方を批判的に見るとともに、アイヌ人の勇猛で義に厚い倫理性の高さに強く惹かれるのです。彼の行動はまさに私人としてボランタリーに行ったものです。維新後、その才能を買われて新政府の開拓判官に任用されたのですが、そのアイヌ政策(同化)に同調できず辞任し、以後清貧に甘んじて著述をもって余生を過ごしたとのことです。

 

その著作の一つが『アイヌ人物誌』です。これは訳本で、原書は『近世蝦夷人物誌』です。その名の通り、アイヌの個人個人をとりあげて、その人物を幕府や松前藩の役人や関係者による非道な行為と、それに従いながらも高い倫理観を持ち続けるアイヌの人々の生き様を描写しているのです。

 

明治維新までの40年代から60年代までのアイヌ人の様子について、個々の人物を通じて見事にその生き方をとらえていると思うのです。この詳細はまた別の機会にしたいと思います。

 

他方で、バードの完訳『日本奥地紀行』にある『北海道 アイヌの世界』は、東北地方を描いた部分も見事ですが、このアイヌの世界は彼女の細やかな観察眼と、相手の心をくみ取る洞察力ともいうべきものがふんだんに発揮されているのです。バードが北海道を訪ねたのは78年ですので、武四郎が見た時代からさらに10年以上経過しているものの、まだ新政府の政策が行き届いていたわけではないので、環境的にはそう大きな違いはなかったと思われるのです。

 

同じものを見ても、バードの場合、まさに多面的な視点であり、対象も多彩です。おそらくこれだけの紀行文を現在でも書ける人はそう多くないのではと思うほどです。「アイヌとの生活」では集落の置かれた環境から、アイヌ人の住まいの作り方、酋長をはじめとするそれぞれの座る位置や役割、歓待方法を通じてアイヌの礼儀正しさを見事に描写しています。

 

独特の信仰からひどい耕作の仕方、身体的特徴の微細なまでの描写など、あげるときりがありません。そして何よりも、アイヌ人の素直で従順、そして真摯なまでの思いやりなど、バードはその自然の造詣とともに、心を打たれた様を具体的に記述しています。なぜヴィクトリア時代という世界最先端の国からやってきた彼女が日本人でも僻地で野蛮な土地と言われた北海道に足を向け、そこに住むアイヌの人々をここまで高く評価できるのかは、彼女の見事な観察眼と人間愛がなけば不可能であったかもしれません。

 

武四郎も人物評価は見事ですが、彼自身、おそらく基本的な教育を受けておらず、人からの聞き取りを残すこととかが基本であったのではと思うのです。自分が直面する事実をいかに認識し、描写するかについては、当時の日本の文学というか書物の中では未体験な領域だったのではと思うのです。江戸時代には紙が相当普及し多くの人が文字を書くようになったと思いますが、それでもどのように書くか、いやなにどどのように認識するかは、まだまだだったように思うのです。

 

古文書などでさまざまなものが残っていますが、バードのような観察がなされたものは皆無ではないでしょうか。

 

私たちは、その意味で、イザベラ・バードが明治初期にわが国にやってきて、しかも日本人でほとんど見知らぬ、東北の辺鄙な地域からさらに北海道、しかもアイヌの集落まで探索して、残してくれたこの紀行文は珠玉の品と思うのです。残念ながら私がいまの能力ではその一端も簡潔に紹介できないのですが、いずれ機会を見て。

 

そんなところでちょうど一時間となりました。今日はこの辺でおしまいです。

 

 

 

 


畑と畠の穀物 <森浩一著『日本の深層文化』中「粟と禾」>を読みながら

2017-07-09 | 日本文化 観光 施設 ガイド

170709 畑と畠の穀物 <森浩一著『日本の深層文化』中「粟と禾」>を読みながら

 

今朝も寝床の中で少し読書を楽しみました。毎日その日の気分で書籍を選ぶので、同じ本の場合もありますが、だいたい違っています。寝床で読むので、あまり凝らないようにしているからかもしれません。いや、持続力がないのかもしれません。

 

ともかくここ何日かは見出しの本を読んでいます。森氏の書籍は、どのくらい読んだでしょうか。読んだというかつまみ食いでなく、興味を持ったところだけ読むというくらいで何十冊かは読んでと思います。とても幅広く中身も濃いので、きちんと全部読むだけの力量がないため、通読となるとほんのわずかです。でも、考古学というか人間味溢れる森氏の著作は惹かれています。残念ながら森氏の存在を知り一度は講演を拝聴したいなと思っていたら、他界されました。

 

で、いま時折読んでいる見出しの本、まじめな探求者による深い洞察の一端を知ることができます。で、見出しの「粟と禾」といった現代日本人があまりぴんとこないテーマから始まり、「野」や「鹿」「猪」「鯨」を取り上げています。

 

で、今回は最初の「粟と禾」をテーマにします。森氏いわく、この文字を読めましたかという、ユーモアも含めて、私も提案したい質問です。最初の文字が「あわ」というのはわかるとおもいますが、どういうものかイメージできる人は少ないでしょう。粟おこしを食べたことがあればむろん加工したものとしてわかるでしょう。でも粟そのものを知っているかと聞かれると、現代ではほとんどの人が見たことがないように思います。

 

森氏は、さらに「粟田」という言葉に注目します。稲田と対比されるような言葉でしょうか。水田のことを稲田と表現されることはあっても、米田とは呼ばれることはないですね。米は稲が田んぼで実って収穫され脱穀された後食べれる穀物として稲の実ともいうべき意味づけで呼ばれるわけですね。

 

では先の言葉の「禾」はなんと呼ばれるのでしょうか。森氏は著名な学者がこれを「イネ」と呼ぶことに不満を述べています。日本は稲作文化の国という凝り固まった考えからでてきたものと指摘するのです。たしかに辞書には「イネ」という表記もありますが、「アワ」が正解だというのです。では同じ「アワ」なのになぜ漢字が違うのかですね。禾は田で作られているときの植物の名前、それが育って収穫された実が粟となるというのです。

 

で、森氏の突っ込みはここからどんどん深化するのです。稲田は水田にできるのだから、その表現はいいとしても、なぜ粟田なのかです。粟は畠にできるものですね。

 

で、こんどはハタケという言葉を追求するのです。記紀の成立する前は、「陸田」といったとして書紀の神話第5段の第111)を引用しています。これはハタケと発音されていたというのです。

 

森氏は、万葉集も取り上げます。彼は考古学者ですので、考古学的考察はきわめて緻密ですが、それだけにとどまらず記紀を含めたあらゆる歴史書を読み込んでいると思う節があるのです。万葉集などは基本書なのでしょう。

 

大伴家持が749年に百姓のため、雨の降ることを願って作ったと記されている歌(18-4122)の一節「宇恵之田毛 麻𠮷之波多気毛」を引用して、「植えし田も 蒔きしハタケも」とみてよかろうというのです。

 

ただ、これだと田んぼは「田」なのに、ハタケは「波多気」と漢字を別に扱っているともいますね。ハタケという言葉に対応する倭語が成立するのが遅かった?のか、記録上は千葉県の吉原三王遺跡から出土した8世紀後半の「吉原大畠」などのようです。この場合ハタケは畠という文字が使われていたということですか。

 

ではもう一つの「畑」はというと、それより遅れて、飛騨や信濃の焼き畑地帯で必要から生まれたのであろうと、推測を述べています。ということは古い史料がないようなのです。私なんかは、「畑」こそハタケかな、なんて思っていたのですが。

 

で、そのことはさておき、森氏は、「粟田」という地名をとりあげます。粟田は古くからの京都の地名であるというのです。平安時代の百科辞書、『和名類聚抄』には「上粟田郷」と「下粟田郷」が記載されていて、両者併せての粟田郷は、鴨川の東、東山三十六三峰中央部一帯に近い広大な面積だったようです。北は北白川も含んでいたようですから、私が居住していた場所も粟田郷だったかもしれません。

 

粟田と言えば、粟田口という、東海道などの終着点であり出発点でもある重要な場所として有名ですね。京都でも有数の高級ホテルが並んでいますね。この粟田という場所は、あの坂上田村麻呂征夷大将軍が亡くなった場所でもあるとの薨伝があるそうです。それから粟田氏という名前の著名な人が次々と取り上げられていますが、ま、これは参考ですね。

 

で、ちょっと森氏の探求から離れて、別の観点から「粟田」について私の文字イメージなどを書いて見ようかと思うのです。

 

さて「粟」という文字を分解すると、冠の部首・「西」という文字の旧字(真ん中の縦棒が直線2本)と脚の部首・「木」で成り立っています。この旧字を使っている文字を探ってみると、「栗」「票」「要」「覆」「覇」という文字がでてきました。他方で、この旧字単独では現在使われていません(そのため個人名で旧字があったりすると、相続手続きなどで要注意です)。

 

このうち、粟と栗に注目してみたいと思います。粟は「米」が脚の部首で、栗は「木」です。この旧字の西には特段の意味がないのかもしれないのですが、栗は縄文時代からの主食の一部であり、粟もおそらく縄文後期にはそういう位置にあったではないかと思います。アワは「阿波」とも表記されていたようですから、倭語の漢字を適用するとき、なにか共通性を見いだしたのでしょうか。

 

注目したいのは、粟の脚部が「米」となっている点です。米と同等に近い評価を受けていたのではないかと、その言葉から感じています。「田」でない点は気になりますが、「粟田」という単語で表していたのかなと思っています。他方で、栗は、まさに脚部の「木」からなる実ですね。それも重要な主食として重宝されていたのですね。

 

ここで森氏の「栗野と栗栖」という項目で書かれている部分を少し援用したいと思います。

 

「クリ(栗)は、古代人にとってその実(子)は貴重な食料になるし、材は柱や板として重要な建築材になり、価値の高い有用植物だった。縄文時代から人びとはその育成に手を貸していた。栽培にたいして、植栽していたといってよかろう。」というのです。

 

そして材を作るために植栽されている栗林と、クリの実の収穫を主な目的として植栽する場所として栗栖(あるいは栗栖野)があったというのです。さきの粟田郷に隣接して栗野郷があったとのこと。

 

縄文時代の陸上の食料として栗は最も普及していたのでしょうが、弥生時代以降はその座を粟が取って代わったのではないかと思っています。

 

森氏は、江戸時代の農学者である宮崎安貞の『農業全書』には粟について、「一段に夫婦年中の食物ほどあるものなり」と述べているとして、「一段(991㎡)を植えると、夫婦二人の一年分の食料になるという」と指摘しています。

 

私が関心を寄せる、江戸時代の天才的な農業土木技術者で一百姓を貫いた大畑才蔵は、米は作りますが、年貢に出すものとして位置づけ、正月とか特別の日以外は食べず、粟・黍など多様な穀類その他作物の耕作方法について丁寧に日記に残し、後継者の道しるべにしています。

 

それは、百姓だけだったかというと、そうとも限らないと思っています。森氏の指摘では、「新嘗と新粟嘗」の項で、「新嘗祭」といいうと、米の豊作を祝うことが今では当然のように思われていることを踏まえて、「とくに神事にからんでの穀物は粟だったし、何よりも「ニイナメ」に「新粟嘗」とわざわざ粟の字を挿入していることに注意すべきである。」と指摘しています。『常陸風土記』にそのような記載があるのですね。

 

そして森氏は、記紀の神話でも、稲に加えて粟がいずれもでてくることを指摘しています。私もそうだそうだと思う次第です。

 

で、森氏は稲作を中心とするわが国の文化についての考え方を見直そうとしているように思えるのです。私も同感なのです。むろん、米は好きですし、水田の重要性を多様な意味で強調する立場でもあります。しかし、米食はどんどん減っている現状をどう考えるかといったとき、日本人は元々雑食だったのではないかと思ってしまうのです。そば、小麦、大麦(記紀にもでてきます)など、なんでも食することができる柔軟性のある国民ではないかと。だから、外国に行ってもあまり食に困らない?(私の場合先住民の食べ物は残念ながら苦手ですが)のではと勝手な推測まで働きます。

 

現在見直されているのは五穀米とか十穀米とか、古代米とか米といっても多様です。ましてや多様な食材に適応できるDNAを古代から受け継いできているようにも思うのです。

 

そろそろ饒舌になり、話の骨子がわからなくなってきましたが、もう一つ付け加えたいと思います。「田」と「畑」(なお畑毛や畑ケの表記もありますね)、「畠」の意味合いです。

 

田は水田を意味しなかった、稲田をのみ示すものではなかったという点は、森氏の話でもおおよそ理解できたかなと思うのです。では畠と畑はどうしてできあがった言葉かなともう一つ疑問に思ってしまいます。陸田であるハタケも、田のいう点では共通しますが、水田と区別する必要ができ、畠なり畑という漢字が当てられたのかなと思うのです。その場合焼き畑耕作は縄文後期には長野などで行われていたとも言われており、火を使う耕作という意味合いで、部首の偏に「火」を当てたのかなと思うのです。でもなぜ、「畠」という部首の冠に「自」を当てたものが歴史資料としては先に出てきたのか、これも不思議です。

 

そこの謎解きは今後に楽しみに残しておいて、「畠」という言葉自体、現在ハタケという農地としてはほとんど使われておらず、「畑」になっていますね。実際、焼き畑耕作は日本全国で相当広範囲に行われていて、伝統的農法としては合理的でそれなりの生産性の高い農法であったと思うのです。戦後初期ころまで東京の奥地では行われていたようです。火を入れるということは百姓にとって自然なことだったのかもしれません。

 

で、「畠」の「自」という文字も、自然に作るといった意味合いがあったのかどうか、それこそ妄想のたぐいです。

 

そろそろ時間となりました。今日はこの辺で終わりとします。

 

 


竹と人の歴史景観 <NHK 世界里山紀行 中国・雲南 竹とともに生きる>を見て

2017-06-10 | 日本文化 観光 施設 ガイド

170610 竹と人の歴史景観 <NHK 世界里山紀行 中国・雲南 竹とともに生きる>を見て

 

今朝は久しぶりにぐっすり寝入ったのか、目覚めると6時でした。ゆっくり起床前の読書もなく、花に水やりなど早朝の作業をてきぱきとやっていきました。今日は終日晴れるようですから、だんだん暑くなっていくのでしょうけど、わが家は南西側に下り斜面でしょうか、朝のうちは斜面側(裏手)には日が当たらないので、結構過ごしやすいです。玄関側は日当たりがよく、ここに植えている花はだいたい元気がいいです。裏庭の場合はちょっと元気がないかなと、これも日照の影響かと思いつつ、土壌の影響も大きいのかなと勝手に思っています。

 

そろそろ土壌の分析とまではいかなくても、土壌の成分を少しは理解して、花の成長に役立つことでもしてやろうかと思っています。これは来年までにという趣旨ですが。川口由一流自然農法だと、なるべく人が手をかけないのがいいのですが、それは耕作放棄地や里山のようなところでは妥当するとしても、分譲地の貧弱な残土では少しは考えないといけないと思っています。だいたい、川口さんが本拠としている土地は、纏向ですから、大和朝廷以前から水田の長い歴史のある由緒ある農地です。なかなか同じに扱うことはできないように思うのです。

 

さて稲作の起源については諸説あり、また日本での栽培開始時期も同様で、なかなか定説がないようにも思えます。とはいえずっと以前、雲南省の稲作が伝わったという説が有力視されていたような記憶があり、雲南省の名前はその段々畑(あるいは棚田)にはなんとなく懐かしみのようなものを感じてきました。(なお、現在では、ウィキペディア「稲作」によると、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域が稲作の起源とされているようですが)

 

そんな思いを抱いていたとき、NHKアーカイブで10年前放送の<世界里山紀行中国・雲南 竹とともに生きる>が再放送され、録画していたのを昨夜見ました。1時間40分でしたか、淡々とその村人の暮らしを映し出しているのですが、見飽きませんでした。

 

私自身、当地にやってきて約8年くらい竹とともに日々を送り、しょっちゅう怪我だらけになりながらも、竹とのつきあいは気に入っていました。うまく活用できないままで終えたのは残念ですが、今の仕事を辞める決断ができたら、また再開したい気分です。なぜそう思うのかはわかりませんが、もしかして、幼い頃、まだ田舎の生活の中には竹が生活の中にある程度活かされていたからかもしれません。壁は竹で骨組みをつくり土や漆喰できれいにしていたと思います。竹で作られた籠もまだ普通に利用されていました。プラスチックが普及する以前は、風呂桶など、多種多様な生活用品に竹で作られていました。竹は重宝され、大事にされていたように思うのです。そしてその加工技術も相当な技量が伝承として引き継がれていたのでしょう。

 

ちょっと話が脱線しますが、愛読している「この国のすがたと歴史」は、網野善彦氏と森浩一氏の対談を掲載していますが、たしかこういう一説があったように思います。百姓というのは、農民のことをだけ言うのではない、農民は稲作や畑作など農業をやっているだけでなく、生活用品、衣食住のすべてを自分たちで作っていた技術力を持っていたというのです。その技術力というのは、徐々に明らかになりつつある縄文文化の精緻で高度な技術力を継承してきたものがあるといったことです。むろんその中に、専門的な職人集団が形成されることもあり、その場合はさらに高度な、それは現代の職人でも容易に到達できないほどのものになっていたというのです。

 

で、NHK番組の<竹とともに生きる>は、その技術力の精緻さとか高度さとかは別にして、竹を生活全般の中で活かしている素朴で、誠実な生き方、はたラクということがいかに自由で想像力をかき立て、人のために役立つことをしているかを、自然な感情として生まれているかを、雲南の人々の暮らしを通じて示してくれているように思いました。

 

とりわけ当時、60代初頭の初老の姿は、見事なほど竹とともに生きている人生を表してくれています。思い出す中でいくつかを紹介したいと思います。

 

彼は村を流れる川の浅瀬に、竹で組んだ籠を置きます。3時間くらいでしょうか、妻とのんびりと川辺に座ってただ待ちます。そして浅瀬に入っていき、籠の中に魚(ドジョウ?)が2匹いるのを確かめ、引き上げます。それを持ち帰って料理するのも彼です。妻は恰幅がよく、彼はやせ細っていますが、主として働くのは夫かなと思ったりします。そこには男女の差別とか役割分担というのがあるわけではなく、自然な二人の采配があるのかなと思えます。

 

彼はたしか2000坪の竹林を先祖から引き継いだとのこと。その竹の維持・管理、拡張そして時代へ承継することが彼の大きな目標のようです。竹は日本と違い何百種もあるようですが、高さ20mにも達する巨大なものもあるようですが、普段利用するのは少し小ぶりです。面白いと思ったのは、彼が竹を扱う道具はすべてナタです。ナタで竹の幹を何度も打ち付けて伐倒します。わが国は道具もまた精緻でその種類の多さがすごいです。むろん竹には竹用のノコギリ(これも何種類もあります)があり、きれいに素早く切れます。林業者はチェーンソーを使うでしょうね。ナタは、枝を切ったりするときに使いますが、この種類もめちゃ多いのです。そして伐倒竹の細断(造林)や、竹垣などの用途に合わせて、様々なせん断用機会できれいに素早く行います。

 

でも彼はすべて一本のナタで伐倒し、また、竹細工用の細くて薄くするのも、同じです。ナタ一本で器用にやり遂げる、これも高度な技でしょう。ある意味、特別の道具に頼らないでもやっていけるわけです。

 

ところで、多くはなんでも個々人が竹林を所有し、利用していますが、社会インフラとなると共同作業が必要です。なんと竹の入会地(共有地)があるのですね。わが国にもあったのかというと、例外はあるかもしれませんが、まず竹の共有地はなかったのではと思うのです。入り会い紛争は、古い歴史がありますが、多くは芝山、草山、篠山、蒔山など肥料や燃料用に村人が共同利用するところでした。

 

この雲南の村では、竹で橋まで作ってしまうので、竹の共有地が必要だったのでしょう。橋脚に使う竹の切り方、設置の仕方が、半端でなく面白いのです。大きな竹を何本も橋脚用に切り倒すのですね。大勢の村人が共同作業です。そして伐倒竹の途中に、ナタで縦に幹を裂くのです。変なことをするなと思っていたら、そこを中心にして竹を折り曲げて、既存の橋脚の周りを裂いた部分を巻き付けて、橋脚の部分と、それを支持する部分に分けて川底に打ち付けるのです。大胆ですね。

 

そしてこのような竹を中心とする生活は、自然生態系ともうまくつきあっています。田んぼで田植えをしている大勢の女性たちのすぐそば10㎝くらいの竹林の一角に、大きなフクロウがじっとしています。かれらもそれを見過ごしています。彼らにとってこのフクロウは神なのです(名称があったのですが忘れました)。フクロウは様々な害虫を食べて駆除してくれ、田畑を守ってくれているのです。こういった生物との多様な共生のあり方、多様な生態系の維持には、何千の歴史を積み重ねてきた雲南の農耕生活、働くということ、生活するということ、なんのためにかということ、教えられるものを感じます。

 

なぜか息子の存在が見当たりませんでしたが、彼の孫が中学生くらいでしたか、彼の仕事ぶりを毎日付き添い、彼の作業を見ながら、時折彼から指南を受けながら、黙ってついて行っていました。その孫が取材に対して、自分が祖父の後を継ぐというのです。そして一年後には一人で竹を伐倒し、長い竹を持ち帰り、すぐに籠を編み出しました。

 

そして彼に新たな孫が生まれました。その孫がすやすや寝ている揺りかごも、彼とその孫少年が一緒に作ったものです。彼は新たに生まれた孫のために、竹を根っこから掘り出し、4本ばかり別の土地に植えました。その孫のために竹林を増やしてやるというのです。

 

素朴ながら活気のある雲南の家族の物語でした。あれから10年どうなったでしょう。

 

今日はこの辺で終わりとします。