たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

シェアと所有の未来 <時代の風 シェア経済の拡大 新時代に合う柔軟さを>を読みながら

2018-01-21 | 不動産と所有権 土地利用 建築

180121 シェアと所有の未来 <時代の風 シェア経済の拡大 新時代に合う柔軟さを>を読みながら

 

社会には様々な需要が次々と起こり、それに応じて供給サイトも多様な仕組み・サービス・物資を提供する、そういうことで次第に世の中は変わっていくのでしょうね。行く川の流れも実は同じ水は一つとしてないのでしょうが、同じに見えるのも不思議なものです。私たちの日々もたいして変わっていないようで、大きな変化を秒単位、あるいはその何千分、何万分の1秒で、なにかが変わっているのかもしれません。

 

その仕組みもそれに応じてわずかずつかもしれませんが、変わっていて、それでいてあまり変化がないように見えるのかもしれません。マスコミではニュースを取りあげたり、強調する必要があるのでしょうけど、さほど大きな違いがないのかもしれません。

 

そんな事をふと思いながら般若心経に思い至るのです。

 

今朝の毎日記事<<時代の風シェア経済の拡大 新時代に合う柔軟さを=元総務相・増田寛也>を読みながら、そんなことをつい考えてしまいました。増田氏の趣旨とは違うのですが、私にはそう感じてしまいます。

 

ところで世の中の変化に合わせて新語もどんどん生まれますね。「シェア経済」ですか、わかったようなわからないような用語です。

 

記事では<シェアリングエコノミー(シェア経済)が急速に市場を拡大している。シェア経済とは個人が持っている資産や、時間、スキル(技術)などを個人間で貸し借りする経済活動だ。>

 

この説明だと、これまでの社会でも同様の仕組みというか利用はあったように思うのです。が、個々で取りあげているのは次のようなケースのようです。

 

<空き部屋を旅行者に貸し出す民泊サービス仲介大手のエアビーアンドビー、空き時間に自家用車を使って利用者を希望する場所まで送り届ける配車サービスのウーバーなどが代表的である。>

 

いずれも所有を前提に、利用の新たな形態であることは確かですね。そもそも所有観念が近代的所有権といった観念で独占的支配権、排他的権利みたいな特殊なものを生み出したところに、問題が発生する要素があったのかもしれません。

 

ともかく「シェ経済」の拡大はとどまるところがない状態みたいですね。その背景にネット・スマホの普及が支えているようです。

 

<シェア経済が可能となった背景には簡単にインターネットに接続できるスマートフォンの普及がある。貸主は遊休資産などの活用により収入を確保し、借り主は所有することなく利用ができるというメリットがある。ネットを利用することでグローバルにサービスを提供することが容易であるため、豊富な資金を持たないベンチャー企業が参加しやすいとも言われている。>

 

従来のホテル、レンタカーとの違いについて、次のように指摘しています。

旧来の貸すサービスは、企業によるサービス提供で、<質は、各種法規制と企業(ホテルなど)への信頼で確保されている。>これに対し、<シェア経済は、個人と個人との間のシェアで企業は仲介的存在となり、所有権の移動もない。一方で、個人同士の場合、誰が泊まるのか、どんな部屋なのかといった不安がある。しかし、実名で取引をし、利用者がお互いをレビュー(評価)して、その結果を共有する仕組みがあることで信頼感を高めている。これはスマートフォンの普及によって可能となった実に合理的な仕組みである。>と。

 

このような比較論からの考察は、わかりやすいといえます。ただ、増田氏が従前<「物を所有する」ことがステータスだった>とか、・・マイカーやマイホームが一つの目標だった>として、これに対して、若い世代は所有に淡泊で、<「いつまでも所有し続ける」時代から「必要な時だけ利用する」時代への変化の象徴が民泊やライドシェアの隆盛であろう。>という説明まですると、ちょっとはてなと感じてしまいます。

 

たしかにライドシェアは若者意識の変化として理解できますが、マイホームの話しと民泊の議論はつながらないでしょう。ま、そんな細かい議論をするのが本題の趣旨ではないので、この程度にします。

 

この後民泊の魅力に言及している点は、ごもっともで、これまでのホテル泊はもちろん、民宿といわれた形態でも提供できなかった新たな旅の醍醐味を味わうことができる、魅力でしょう。そういえばすでにヨーロッパではグリーンツーリズムという形態で、90年代くらいから普及している方法が先駆けかもしれません。

 

EUの環境政策にも適合する形で、補助支援があったと学んだ記憶がありますが、もう四半世紀も前の話ですので、その制度内容も曖昧です。

 

いまは民泊と地域創生?とのハーモニーとして民間だけで独自に展開しているようですが、環境政策として、また農業・林業・漁業など一次産業の新たな展開として、また地域の歴史的・民族的な復興として位置づけてもいいのではないかと思うのですが、そういった施策はまだあまり聞きません。おそらく各地で地道に長くやってきたところもあるのでしょう。それをネット・スマホを通じて、全国展開というより、世界中に情報提供することができるとさらに意義ある物になるように思えるのですが。

 

観光という概念が、従来の名所旧跡を訪ねることから、心を癒やしたり、個人的な精神の豊かさを味わうことになりつつあるように思うのです。伊勢参りや富士講といった型どおりにはまらないのが人間の本性でしょう。西欧文明から輸入した「観光」も西欧で作られた「国立公園」「世界遺産」といった場所が持つ貴重な価値にのみ着目するのではない、日本特有の、あらたな観光概念が求められているのでしょう。

 

ちょっと民泊に肩入れしすぎて、本来のシェア経済と所有の問題から外れてしまいました。

 

増田氏はこの関連で新たな用語「コト消費」を使って興味深い指摘をしています。

<「モノ消費」から「コト消費」への動きである。世の中にモノがあふれて差別化が難しくなり、異次元の体験など、新しくコトを提案することが利用者の心をつかむようになった。民泊も安く泊まる手段とだけ考えるのではなく、異次元の体験と組み合わせたメニューを提案することで、魅力は格段に向上するだろう。>

 

「コト」の提案とか消費といっても、あまりぴんときませんね。それを次のような例で明らかにしています。

<国内では、農村部での収穫体験や収穫した野菜、果実を使った郷土料理と組み合わせたり、都市部では近所の特色あるお店を紹介したり、商店街全体で迎えいれたりすれば、利用者に地域の新たな魅力が伝わる。観光庁の調査によれば、昨年の訪日客は2800万人を上回り、今年は3000万人を超えるという。地方には異次元体験メニューの素材が豊富にある。地方創生の有力な武器となろう。>

 

異次元体験メニュー、それがコト消費なんでしょうか。物を消費する時代は終わった、物語とか、日本人がこれまで培ってきたよくいう「おもてなし」を多様な現場で体験してもらうことを指しているのでしょうか。それにしても、内容はなぜか、物が主題になっているようにも見えますね。日本人はやはり物が好きなのでしょう。

 

だいたい海外でお土産物といっても、だいたい定型化していますね。先住民が作ったと思われる物でも、欧米人が作っているというものも少なくないです。それに比べ、わが国は江戸時代の各藩がお国自慢、富国強兵を地産地消ではかったように、どこにいってもその土地自慢の物があります。そういった地域の魅力については、われわれ日本人でも知らないことがほとんどではないでしょうか。

 

またまた脱線していていきました。私のテーマは所有とシェア経済です。もし増田氏が指摘するように、本当に所有の意識が薄らぎ、シェアの意識に多くが変わっていけば、経済構造も、社会も大きく変わると思います。

 

土地建物の所有意識は、わが国ではとりわけ大きいと思います。かりに自宅を所有するとか、そのために長期のローンを支払う負担に悩まされるとか、そういうことがあまり重視されなくなれば、紛争がかなり少なくなるように思うのは軽率な理解でしょうか。

 

ライドシェアのように、いわゆる動産についてのシェアはどんどん普及するでしょう。さらに短期な住居のシェアも増えていくと思われます。しかし、自宅を所有しない、田畑や山林を所有しないという方向性は、今のところ、厚い壁に阻まれているように思うのです。

 

そもそも所有権の構造や意識は、時代によって変わってきたと思います。いま求められているのは現代的な所有権構成ではないかと思うのです。不動産について所有権の溶解というか、シェア的構成が生み出されると、とても興味深いと思うのですが、まだ一富士二鷹三茄子に近い話しですね。

 

一時間となりました。そろそろ本日はおしまい。また明日。


相続と不動産問題 <民法改正案 相続、配偶者へ居住権>などを読みながら

2018-01-17 | 不動産と所有権 土地利用 建築

180117 相続と不動産問題 <民法改正案 相続、配偶者へ居住権>などを読みながら

 

それまでの厳しい寒気に身震いする状態から昨日は打って変わってだんだんと暖かさを感じるくらいになりました。今朝はずっと雨。でも少し温かみを感じるくらいです。1.17の阪神大震災を鎮魂する多くの人、亡くなった方への思いは変わらないかもしれませんが、23年の時の経過に加えて、この穏やかな雨で少し気分も和らげることができるのではと思うのです。

 

死者に対する遺族の思いはそれぞれでしょう。違って良いと思いますし、それが当然。ただ、相続という取り扱いは、国が定める民法で一定の基準があり、それにしたがって取り扱われます。その相続のあり方が大きく変わりそうです。

 

昨日のNHKニュースなどでも取りあげられていましたが、今朝の毎日記事では<民法改正案相続、配偶者へ居住権 高齢化に対応>と、さまざまな相続法の改正のうち、配偶者の居住権をとくに強調しています。

 

ちょっと記事を引用しましょう。

<法務省は16日、死亡した人(被相続人)の遺産分割で配偶者の優遇を図る民法改正案を22日召集の通常国会に提出する方針を固めた。>とあります。

 

鈴木一生記者の記事ですが、その記載からは公式発表ではなさそうですね。誰が取材に答えたかも明らかにしていません。とりあえず法務省のプレスリリースがないか調べてみましたが、やはりありません。

 

関係する「法制審議会民法(相続関係)部会」のウェブサイトを見たら、昨年1219日開催の内容しか掲載されていません。次はとみると<1月開催予定表>で昨日になっています。まだその議事内容も関係資料も一切アップされていません。推測するに、前回開催のときに議論された<要綱案のたたき台(4)>があまり変わらないでリークというか、方針決定されたとして、関係者から各報道機関にリリースされたのかもしれません。

 

重要な法案ですので、このリリースで世論の反応をみるという側面もあるかもしれませんが、基本的には与党の圧倒的多数の議会構成ですので、大きな変更はないのでしょうね。記事では<部会が16日、民法改正案の要綱案を取りまとめた。来月の法制審総会で上川陽子法相に答申される。>ということですから、要綱案の体裁も当日の部会で承認され、答申もまもなくできあがるのでしょう。

 

さて、その内容ですが、<配偶者が相続開始時に居住していた建物に住み続ける権利「配偶者居住権」の新設や、婚姻期間が長期間の場合に配偶者が生前贈与や遺言で譲り受けた住居(土地・建物)は原則として遺産分割の計算対象とみなさないようにすることなどが柱。高齢化を受け、配偶者の老後の経済的安定につなげる狙いがある。>とされています。

 

この改正要綱案の目玉は、自宅所有の夫婦の場合に一方の死亡後の配偶者の経済的利益を保護することに眼目があると言って良いのではないかと思います。一つは居住権保護、もう一つは自宅の贈与・遺贈という2種類の法的処理で、相続財産からある意味除外して、独立の権利に使用というのです。

 

記事は<新設する居住権は、原則亡くなるまで行使でき、譲渡や売買はできない。評価額は、平均余命などを基に算出され配偶者が高齢であるほど安くなることが想定される。現行法でも配偶者が建物の所有権を得て住み続けることができるが、建物の評価額が高額の場合、他の相続財産を十分に取得できない恐れが指摘されてきた。配偶者が居住権を得ることを選択すれば、他の財産の取り分が実質的に増えると見込まれる。>

 

そのほかには、相続人以外の親族が介護した場合の金銭請求権を独立に認めるものです。相続制度に新たな枠組みを付加するのでしょうけど、現代の介護事情に少しでも適合させようと言うことでしょうか。

<要綱案は、相続人以外の被相続人の親族(相続人の妻など)が被相続人の介護を行った場合、一定の要件を満たせば相続人に金銭請求できるようにする。

 

また、現行法では、自筆証書遺言書はすべて手書きでなければいけませんが、財産目録などは手書きするのは大変です。そこで目録についてはワープロ印字でもよいという妥協策を用意したわけです。

<現行で自筆でなければならない自筆証書遺言の財産目録をパソコンで作成することも可能とし、法務局で自筆証書遺言を保管する制度を創設する案も盛り込んでいる。>

これは<遺言書(サンプル)>があり、本文は自筆(たぶん手書き風の印字をそう取り扱う趣旨でフォントを変えているのでしょう)、別紙の財産目録はPC印字になっています。

 

で、私が相続法改正について、とく取りあげることもないのですが、私なりの考えを少し書いておきたいと思い、ついつい書き出しました。

 

そもそも要綱案(4)のたたき台については、すでに日弁連や各弁護士会はもちろんのこと各界からさまざまな意見が出ており、12月の審議会部会で検討されたのだと思いますが、今回のとりまとめされた概要からはあまり顧みられなかったのかもしれません。

 

その意見は<「中間試案後に追加された民法(相続関係)等の改正に関する試案(追加試案)」に対して寄せられた意見の概要(詳細版)>でおおよそわかります。

 

多様な角度から賛成意見が多く掲載されているように思えます。ただ、当然ながら法律婚の配偶者についてのみ優遇策を講じる今回の要綱案は、批判もあります。神奈川弁,札幌弁,京都書士,個人8件と思ったほど多くはありませんが、予想できる反対です。

<法律婚の配偶者だけを優遇する理由はない。夫婦別姓を事実上実現するためや, LGBT等の理由により内縁状態にある夫婦についても,財産形成への貢献度や生 活保障の必要性について変わるところはない。・・・>

 

なお、要綱案は、記事では上記述べた部分が大きく取りあげられていますが、実務上不便な取り扱いを改善する①家事事件手続法の保全処分の要件を緩和する方策や、②家庭裁判所の判断を経ないで,預貯金の払戻しを認める方策などは、日弁連をはじめ多くの支持を得ています。

 

そろそろ本題に入らないと、なかなか終わりません。本題は、増田元総務大臣が提唱している所有者不明の不動産の問題です。この多くは相続と関係して発生していると思います。

 

たしかに配偶者の地位を守るということは、核家族化して、西欧社会のように個人の家庭が中心となっている、そして超高齢化が進むわが国において老後の心配をする配偶者の立場に配慮することは間違いではないと思います。

 

私の経験では、円満な親子関係で、子の間も円満であれば、配偶者の居住権も、自宅の贈与も問題とならないでしょう。その意味では問題発生には家庭内の事情があるように思います。その対策として要綱案のような考え方は一理あるものの、内縁やLGBTとの差別的取り扱いをどうするか、将来に禍根を残すかもしれません。

 

相続問題は個人というか家族の問題かもしれませんが、同時に地域社会に多大な影響を与えることもあります。増田氏が指摘するように、相続登記をしない、あるいは相続届けをしないですむ、現在の法制度では、一向に所有者不明の不動産の問題は解決しません。

 

相続法は公的な制度でないから、そういった問題は登記制度や地方税制度、あるいは土地利用法制で解決すれば良いと考えるのも従来なら縦割り社会(所管官庁の違い)として関係ないといいきってよいのかもしれません。

 

しかし、問題の出発点は、民法の共同相続制です。すでに農地法では相続届け制度を整備しました。しかし、他の分野はまったく議論さえされていないのではないでしょうか。

 

関係者は相続法で取り扱う相続人以外にいません。相続法は資産の承継・所有権の帰属のあり方を定めています。その結果は、さまざまな行政に影響します。固定資産税の納税義務は憲法上の義務の一つでしょう。地方税法で対処すべき事かもしれませんが、すくなくとも現在の異常事態に対処するのに、相続法は我関せずでよいのか疑問があります。

 

おそらくこういった見方は異端でしょう。しかし、身分関係については婚姻届、養子縁組届をするわけで、相続についても死亡届を市町村にするわけですね。不動産の相続について、少なくとも法定相続くらいは届けをするくらいさほど負担ではないと思うのですが、どうでしょうか。

 

その場合の除籍謄本を用意するとかについて、簡便な手続きを地方自治体間で行える制度を用意すれば、よりスムーズに進むように思うのは安易でしょうか。

 

もし現在の状態を放置すれば、ますます過去の不明状態を遡るだけの戸籍の解明が困難なるように思うのです。不動産を所有すること、相続することは、その承継の手続きもしっかり行うことといった意識をだれもがもつようになれば、自然な流れができてきそうに思うのはこれまた安易かもしれませんが、時折夢想しています。

 

 


準公有化とは? <時代の風 深刻な所有者不明土地=元総務相・増田寛也>を読みながら  

2017-12-03 | 不動産と所有権 土地利用 建築

171203 準公有化とは? <時代の風深刻な所有者不明土地=元総務相・増田寛也>を読みながら

 

日曜日は割合同じような生活パターンがこの頃続いています。午前中に事務所に飾る花を何鉢か買ってきて、食後にはNHK囲碁を楽しみ、その後にブログを書くという感じでしょうか。

 

ところが今日は福岡マラソン大会があり、一力7段と本木8段のスリリングな展開を見つつ、ノルウェーの新鋭が快速を飛ばして2時間5分台の快挙を成し遂げ、それに迫るような勢いの大迫選手の伸びやかな走りっぷりに、二つの画面を行ったり来たりで、忙しくしました。惜しくも大迫選手は6分台を逃しましたが720秒台でしたか、素晴らしい走りでした。こういうレース運びを見るのは久しぶりですね。続いてラグビー早明戦も激しいぶつかり合いで甲乙つけがたい戦いぶりで、これを見ているとブログが書けそうもないので、書き終わったら見ようかと思っています。

 

さて毎日記事<時代の風 深刻な所有者不明土地>は元総務相・増田寛也氏が今年に入り何度も採り上げた問題ですね。今日は彼の履歴を披露され、長く土地問題に取り組んでき方なんだと、改めてその思い入れを感じさせてくれました。

 

おそらく国土庁時代は、土地騰貴の大きな流れを前に、その力のなさを十分に痛感したのだと思います。茨城県庁時代は、千葉県がゴルフ場銀座になり、その影響は周辺に飛び火した状況だったのでしょう。上空から見るとまるでゴルフ場で大きく削られた山肌、わずかばかりの緑地しか残っていないのがよくわかりましたね。これは自治体行政としてはたまらなかったでしょう。他方で、自治体にはゴルフ場開発をコントロールする規制権限がなく、いわゆるゴルフ場開発に関する要綱をつくって対応する程度で、焼け石に水といった状況だったと思います。リゾート開発の場合も同じですね。

 

おそらく増田氏は、都市計画など権限の中央集中体制の中で、自治体としてやれることの限界を感じていたのではないでしょうか。なお、法律の建前は、地方公共団体が都市計画決定をするとか、開発許可権限を持つということになっていますので、表面的に見ると、自治体にコントロールする権限があり、民主的な運営が行われているといった意見があるかもしれません。しかし、それはあまりに表面的な見方ではないでしょうか。その手続きの実質、許可基準の実質は、すべて中央官庁で決められ、しかもその詳細は通達で肉付けされていました。

 

そのため乱開発による自然破壊や住民の環境破壊を憂う人たちが都道府県や市町村にかけあっても(当時はとりわけ市町村長は権限が限られていました)、決まり切った都市計画の内容(ま、定番メニューで、地域にあった裁量は許容されていませんでした)で、しかも一見すると地域地区のゾーニングで、一定の開発・建築ができなさそうにみえても、数値基準の裏はいくらでも抜けられるものでした。ま、実質は建築自由の原則とか(五十嵐法大巨樹が命名したと思いますが、見事実体を言い当てています)、開発自由の原則がまかり通って、デベロッパーや建築事業者は、日本全国どこでも一つの基準で開発等ができましたので、一定のノウハウを確立すると、それが全国展開できるものでした。

 

それに加えて金融機関は、不動産価格の暴騰を真に受け、適切な審査もなく、どんどん貸し出していたのですから、アメリカ全土を買い尽くすくらいの勢いがあったかもしれませんね。でも、それはご存じの通り、砂上の楼閣でした。

 

それを増田氏は建設省で都市計画法を担当されていたのですから、まじめな方ですから、なんとかしないといけないと思った中堅官僚だったのでしょうね。その一つというか、都市マスタープランがたしか平成4年頃の法改正で、各自治体独自のコンロロール手段として生み出したり、地区計画制度などの拡充をはかったのでしょうか。これらもほとんど機能しなかったのは、根っこに中央集権が定着していて、ま、いえば、表面的な枝葉の手直しだったからではないかと思います。北米や欧州のように、自治体独自に規制権限を与える勇気は国会も中央官僚も、また受け皿の自治体の中にもなかったように思います。

 

当時、日弁連で全国調査を行い、たしか平成5年でしたか、京都で開催された人権大会でまちづくりのシンポを実施し、都市計画法の抜本的改正を提言したのですが、ほとんどかけ声倒れに終わったように思います。そんなことを増田氏の文書を読みながらつい思い起こしてしまいました。

 

増田氏が現在問題にしている<深刻な所有者不明土地>問題は、私自身、だいぶ以前から気になっていて、おそらくfbでも書いていたように記憶しています。このブログでも昨年少し取り上げたかと思うのですが、はっきりしません。ただ、私が関心をもっていたのは農地や森林が中心で、前者は耕作放棄地として、後者は荒廃する森林として、同種の利用上の問題として取り上げたのです。

 

増田氏の場合は、さすがに統計資料を踏まえて、あらゆる土地利用形態について対象にして、抜本的な対応の必要を訴えています。

 

すでにこの数値はTVなどでも何度も取り上げられているので人口に膾炙していますが、改めて引用します。

 

<実態把握などのために設けた研究会の調査では、昨年度の不明率が全国で約20%、面積が約410万ヘクタール(九州の面積を超える水準)、2040年には約720万ヘクタール(北海道の面積に迫る水準)まで増加することがわかった。>

 

ただ、その主要原因について、<所有者不明となるのは、相続が発生した場合に相続人が税負担などを嫌って登記をしないため、登記簿の名義人と異なるようになることが大きな原因だ。団塊世代から大量の相続が発生するようになると、一挙に増加すると想定される。>と増田氏の指摘・予想は、若干、違うようにも思えます。

 

たしかに相続が一つの契機になっていることは確かでしょう。ただ、増田氏が上記で指摘する<相続が発生した場合に相続人が税負担などを嫌って登記をしないため、登記簿の名義人と異なるようになることが大きな原因だ。>といってよいかは疑問です。登記をしない理由が税負担を嫌うからでしょうか。一体どの税金のことを言うのでしょうか。相続税は騰貴しなくても、課税対象遺産があれば課税されますね。固定資産税なども共同相続人に宛てて納税通知が送られ、場合によっては強制的に徴収することになりますね。

 

税負担を嫌うから、登記をしないという考え方はいかがかと思います。登記しない理由はいくつかあります。たとえば、遺産分割協議ができない、あるいはたいした財産ではないから登記するまでもない、あるいは相続登記義務がないから自由だとか(最近の農地法の改正で相続届を義務づけていますが)、処分するときに登記すればよいとか、いろいろな理由があります。これらをもう少し分析して、それに応じて対応策を検討しても良いかもしれません。

 

ただ、相続登記をしないことが、所有者不明の土地発生の主要な原因の一つであるとは言えるでしょう。

 

では、ほかに何があるか。私は一つは森林・農地(耕作放棄地など)では、隣地境界がはっきりしていないこと、さらに場所がどこにあるかもわからない(というのは昔は代々親が子に自分の山の境界を目印の木や石、林相の違いなどで教えていましたが、最近では親自身も山にいかない、ましてや子は都会に出て帰ってこないというのがかなり多いと思います)。

 

この点、地籍調査が全国的に遅々として進まない(とりわけ森林や古くからの土地利用されてきた地域)ことをどう対処するかも大きな壁でしょう。

 

隣地境界がはっきりしないと、自分の土地がどの範囲かわからないわけで、その土地の所有権と言っても、仮に登記していても絵に描いた餅のようなものになります。そんなことから、登記しない、相続登記が長年行われていない、相続人の行方がわからない、相続人自身が祖先の山があることを知らない?といったこともありうるかと思います。また、昭和50年代頃から全国で広がった原野商法も一躍買っているでしょう。二束三文の土地を一坪●円といった都会の宅地価格に類する売り方をした悪徳商法が林地所有者に林地の実体や管理に関わらない人が登記(分筆された区画)だけ渡されて、一旦、所有者になったものの、その相続では無視されてしまい、所有者が不明になったケースも少なくないと思います。

 

こういってあげれば際限がありませんので、この程度にします。

 

それはともかく増田氏の今回の目玉提案ともいうべきは、<準公有化>です。研究会の解決策はすでに報じられていますが、増田氏は<私見を述べておきたい。土地所有権の放棄制度を創設し、土地の準公有化に向けて一歩踏み出すべきだということだ。>と踏み出しました。

 

その内容はというと<土地は通常の財と同様に個人で所有・利用し、売買も可能である。同時に国民の諸活動にとって不可欠の基盤であり、公共的用途に利用されたり、利用を制限されたりすることもある。このように土地は私有財産であり、かつ国民の共有財産であるという考えを国民が改めて共有する必要がある。>と一般論を述べた上で次のように提案します。

 

<特に土地所有者には、公共の福祉に適合した利活用・管理を行う責務があることを認識してもらわねばならない。この土地所有者としての責務を土地基本法に明記してはどうか。>

 

当然、これで問題解決になるとは思っていないのです。<また所有者の責務を明確化しても、たとえば相続によって居住地から遠く離れた利用・管理が困難な土地を取得した者が、その責務を確実に果たすことは困難だろう。>

 

そこで思い切った提案にでました。<そうした場合は、所有権放棄を認めるべきである。放棄の制度化には、放棄された土地を受け取る新たな組織が必要となる。>個人の財産権保障は憲法上の権利だと、多くの人、いや人権派の弁護士からも、批判の声があがりそうです。

 

それでも増田氏はさらに具体的な提案を持ち出しています。<一案として、公的色彩を持つ新たな組織を設置し、放棄された土地の1次的な受け皿とすることが考えられる。国や自治体に意向を打診し、所有する意思がない場合には、土地に関する情報を公開して競売にかけるか、所有権を取得して自ら利活用したり、賃借人の募集を行ったりするなど、有効利用に努める。取得した土地を常時、最低限管理することが必要だろう。>

 

増田氏が提案する<準公有化>という用語は、法的には何の根拠もないと思います。私自身は聞いたことがありません。大抵の法学者も、弁護士も異論を唱えそうです。

 

だいたい、この内容を見ても、中身もその手続きもあいまいです。

 

増田氏自身も、<このような考えは土地を準公有化することに他ならず、異論も多いだろう。具体化するにしても、どのような土地を引き取るか、管理費をどう捻出するか、所有者負担をどうするかなど、難問が山積している。>とこの考え方や制度自体、まだ思いつきに近い印象を感じさせます。

 

しかし、増田氏はひるまず、未来の国の骨格や土地利用のあり方を考えたとき、大化の改新(これは歴史的事実ではないとの見解の方が有力でしたか?)的な提案が必要と言われます。

 

<他方で国交省の「国土のグランドデザイン2050」によれば、現在、人が住む地域は国土の半分ほどで、50年には居住地域の2割が無居住になる。このような未来が予想されるというのに、土地を国民一人一人の管理に任せておいて本当に大丈夫なのか。国土の適正な管理について熟慮すべき時期である。あえて準公有化を提案したい。>

 

ところで、私は、この曖昧模糊とした考え方に、シンパシーを感じます。

 

地球環境や地域環境を考える必要があるという共通の理解がひろがっています。そのとき物については一定の処分・利用の責任はさまざまな法制により次第に充実してきたと思います。では、土地は、絶対的な権利として個人の自由を抑制してはいけないものかというと、ある種、同様なフィロソフィーが働くと思います。

 

土地もまた利用・管理がそのために一定の基準を満たすものでなければならない時代でははないかと思います。そのとき所有権放棄という個人の意思をどのように擬制するかは、一つ問題ですが、長い歴史の中で、土地利用の継続と、その土地を離れることが所有・管理主体でなくなることは、かなり普及していたのではないでしょうか。

 

公地公民がどの程度普及したかはよくわかりませんが、不適当な土地を与えられたり、租庸調が酷だった場合、多くが逃散するなどして、土地から離れてその利用をしないことと、その帰属主体から抜けられることが同義的な慣行が育ってきたのではないかと思います。

 

近世農業においても、村落内で、借金して田畑が質流れしても、また地域外に譲渡しようとしても(江戸時代の土地売買禁止令は限定的な意味しかなかったと思われます)、村落の誰かが買い戻すなどして、地域共同体でその田畑を維持してきたのではないかと思います。

 

それは水利・刈敷などの里山入会という地域共同体である村にとって、土地は個人所有(保持)とは異なるあり方だったのだと思われますが、それは別にして、欧米の土地所有制度を導入して、所有権絶対といった杓子定規な議論は、わが国が長年培ってきた適正な土地利用のあり方を壊してしまったように思うのです。

 

脱線してしまいましたが、増田氏の議論、もう少し深めていく必要を感じています。そもそも山林では、境界不明・土地の所在不明が大きな問題です。その解決策を出さないと、これまた絵に描いた餅になりかねません。

 

今日は少し長くなりました。この辺でおしまい。また明日


脱所有は? <そこが聞きたい シェアリングエコノミー >などを読みながら

2017-09-27 | 不動産と所有権 土地利用 建築

170927 脱所有は? <そこが聞きたい シェアリングエコノミー >などを読みながら

 

今朝出かけにNHKのニュースが目にとまりました。早朝から地震情報があり、ついFMのバロック音楽を聴いた後、ニュースも雑用の合間に見ていました。ここのところたびたび取り上げられる所有者不明の空き家問題などでした。ちらっと見ただけなので、中身はあまり理解するところまで言っていませんが、画像からは今にも倒れてしまいそうなほど傾いている家、そして大量のごみの山。それを自治体職員などがゴミ袋に詰めているのは見たのですが、家の方は解体したのでしょうか。いずれにしても自治体の条例に基づく代執行なのでしょうかね。その費用は行政負担となるでしょう。所有者がわかれば費用徴収ができるでしょうけど、所有者がわからないからこんな事態になったのでしょう。

 

私もこのブログで耕作放棄地、森林の荒廃地に空き地・空き家が全国至る所で問題となっていることを繰り返し取り上げてきました。これらの問題の多くは所有者の所在不明と、判明している所有者の無責任さが主な原因かと思います。

 

そして所有者が不明になることは今始まった問題でなく、少なくとも公地公民制をとった律令時代から始まっているということも指摘してきました。この点、公地だから私有でないので、直接関係ないとみる向きもあるかと思います。しかし、村上一博ほか著『日本法史』でも指摘されていますが、この公地公民制で6歳以上の公民に提供される口分田は、土地公有主義を示すものではなく、私有主義を示すものとの理解が有力ではないかと思うのです。負担付きの口分田は、ときに農民に過酷となり、逃散が絶えず、休耕田・放棄地は、当時はもちろん、その後も長く続いていると思うのです。

 

なぜこのような過去のことを持ち出すかというと、私有制というのは古代や中世・近世と現代ではそれぞれ内容が相当異なりますが、それにしても個々人にとって扱いやすい場合もあるでしょうけど、扱いきれないことが当然のように生じていたことを少し指摘しておきたかったのです。

 

所有権は個人に帰属する、それゆえ所有権者となった個人は自由にこれを扱うことができるという建前は、常に基本的な前提がありますね。法令の規範と社会規範による制約といったものですね。

 

こういった規範は、私が時々取り上げている大畑才蔵のように、所有者の規範意識がその人の努力と社会秩序によって形成されていれば、きわめて個人としても社会としても有効に機能するように思うのです。

 

しかし、現代の複雑な、そして自由奔放な社会の中では、容易に所有者規範を個々人の中に育むのは容易ではないと思われるのです。といって直ちに私有制の基本構造を変更しようと言った話にはなりませんが、新たな利用秩序を形成する必要を感じるのです。

 

その中で見出しの毎日記事<そこが聞きたいシェアリングエコノミー 早稲田大ビジネススクール教授・根来龍之氏>は少し気になっていましたが、この記事の日は別のテーマを取り上げたので、脇に追いやっていました。今朝のニュースを見て思い出したのです。

 

シェアリングエコノミーといった観念は、類似の概念として縄文時代以降わが国でも、いや世界中で実態生活に使われてきたのではないかと思います。ただ、根来龍之氏が取り上げた「シェアリングエコノミー」は<時間単位のレンタルや個人と個人との間(Peer to Peer)の「シェア」のことです。>とりわけ<後者の場合、企業は仲介的存在にすぎず、所有権の移動もありません。代表的な例が米サンフランシスコで始まった二つのサービス、「Airbnb(エアビーアンドビー)」と「Uber(ウーバー)」=1=です。>とのこと。

 

<いわゆる「民泊」を世界中に広げたAirbnbは2008年に、個人が自家用車を使ってタクシーを代替するサービスを行うUberは09年に始まりました。>と、ある意味自動車や部屋が対象のように見えますが、実は個人と個人の利用契約を企業が媒介するもので、対象物なりサービスはいくらでも広がる普遍性のある企業活動でしょう。

 

<どちらも、部屋の貸手も借り手も、運転手も乗客も、基本は個人同士を信用して短期の契約を結ぶことで成立するサービスで、企業は間を取り持っているだけです。「使われていない資産や能力、時間を一時的に市場化する『個人間の取引仲介サービス』」と言っていいでしょう。>というのですから、これをシェアリングエコノミーと評するのが正確かといった疑問もありますが、そんな概念論をしても意味がないでしょうね。

 

ここでは「使われていない」資産、能力、時間を一時的に市場化するというシステムといった総括していますが、それは暫定的な見方ではないでしょうか。おそらくこのシェアリングエコノミーに適合するような商品化が進むのではないかと思うのです。その意味では使われていない現在のもの・サービスから、新たに生み出すもの・サービスが対象にもなるのではと思うのです。

 

使われていないもの・サービスを有効活用のためにこのサービスが始まったというのは、発祥地がサンフランシスコというエコロジー思想の強い土地柄の性もあるかもしれません。むろん根来氏が指摘するように、SF特有のIT産業が起爆剤となったことも確かでしょう。スマホにSNSという新しい個人識別媒体は、<「実名主義」=2=を原則としています。つまり、ネット上で取引(契約)しても相手が誰なのかが分かるため、利用者同士に「信用」が生まれます。そこが基盤にあります。>というのも理解できます。

 

わが国での普及について、根来氏は<駐車場のシェア>や<空いているスペース、例えば、お寺とか廃校になった学校、企業の会議室などを使ってイベントや研修、会合に使うサービス>、さらに都市近郊の農地も揚げています。残念ながら、農地については、農地法の規制緩和で緩やかになった賃貸借でも、現行法ではここまでは無理かなと思うのです。

 

ただ、この「シェリングエコノミー」は個人の履歴や特性をある程度情報管理して行えば、農地法の厳しい規制をも一定の条件でさらに緩和しうるヒントを提供してくれていると思うのです。

 

いずれにしてもこれは使われていないさまざまなもの・土地・サービスの活用化をはかるノウハウであり仕組みですので、これが有効に機能すれば、また、私たちの意識の中に定着すれば、過度なものやサービスの創出を抑制し、「足をもって知る」という日本人が培ってきた貴重な資産とも言うべきものを復活できるかもしれません。

 

他方で,不用意にもの・サービスを購入し、貯めてしまったり、積んでおいたり、使わなくなったら放置してしまうことに対する、サンクションといったことも、次第に容認できる社会になるかもしれません。

 

土地は先祖伝来だから手放せないといいながら、放置しているような場合、そもそも先祖伝来などという実態がどこまで本当に成立するのか疑わしいのが多くの土地所有の実態ではないかと思うのです。人間の歴史の長さを考えれば、ほんのわずか、場合によって明治維新後、あるいは農地改革以後といった程度が普通ではないでしょうか。

 

1時間を少し回ってしまいました。今日はこの辺でおしまい。

補足

 

所有はある種、独占的であり、最後は個人的な枠内に留まります。他方で所有概念がなくなる、あるいは形骸化すると、人と人との新たな関係が中心となり、その中でもの(土地も含め)やサービスが活用される、そういうあらたなコミュニティーの場になるのではと期待したいと思います。それは現在のSNSなどがより実在的な関係性を持ちうるのではとも思うのです。所有は投資や金融という飛躍的な経済の増大をもたらしましたが、他方でひとのこころは疲弊していないでしょうか。シェアリングエコノミーにはその新たな光を見いだしますが、まだ欠けているものを感じてもいます。



 

 


所有者不明の背景 <「縮小社会」を生きる=増田寛也>を読みながら

2017-07-30 | 不動産と所有権 土地利用 建築

170730 所有者不明の背景 <「縮小社会」を生きる=増田寛也>を読みながら

 

深夜、突然の轟音で飛び起きました。窓は開けっ放しなので(いなかのよさ?)、この豪雨が家の中に入れば水浸しとまでは行かなくても大変です。眠気も吹っ飛び家中の窓を閉めて回りました。時計を見ると午前1時すぎ。これはすごい豪雨なので、NHKを見て警報を見ても何もない。当地の予報は曇りマークで降雨量ゼロ。ゴロゴロ鳴り響く雷の警報もなし。これぞ局地的突発性雷雨でしょうか。一時間くらいは大量の雨だったと思うのです。時間雨量でどのくらいか今度調べてみようかと思います。

 

それでもかなりの量の雨は10分間も継続してない印象で、少し休んでは繰り返す漢字でしょうか。そのあたりも観測所のデータを見ればわかります。ただ、最寄りの観測所といっても隣のかつらぎ町と、河内長野市なので、こういった局地的降雨はなかなか実態を反映するとはいえないように思うのです。

 

そんな思いを抱きつつ眠ってしまうと、今日の目覚めは7時少し前となりました。空は快晴を期待できそうで、猛暑を予感させるのに十分です。花植をしたのですが、どうやら降雨は風がほとんどなかったせいか、垂直方向に落ちていて、今朝植えようとした場所はあまり湿っていないのです。土も腐葉土などをいれているのですが、元の分譲当時の盛り土のためなかなか土壌生態系が育つ状況にならず、花の方もすぐ枯れてしまいます。かわいそうと思いつつ、生きやすい環境になんどかしようと努力している最中です。

 

さて、深夜ばたついたせいか、今日は一日からだが重く、本日の話題もなかなか思い浮かびませんでした。結局、これまでも何度か取り上げた見出しの増田氏が指摘する問題の一部について少しだけ法制度的な視点でアプローチしてみようかと思い、この記事<時代の風「縮小社会」を生きる=増田寛也・元総務相>を選びました。

 

増田氏は「縮小社会」という造語でしょうか、これをキャッチフレーズにして<「縮小社会」と表現すればよいのだろうか。これから経験する人口の急減は日本の歴史上初めてのことといってよい。どんな社会問題が生ずるのか、影響はどこまで拡大するか、想像するのも難しい。>と述べて、その問題のいくつかをここで言及しています。

 

私はその一つ、「所有者不明の土地問題」を取り上げたいと思います。増田氏はこの問題の切り口として登記を俎上にのせています。<土地神話の崩壊と人口減少で地価が下落し、管理が重荷になって、不動産の登記をしない相続人が多い。>

 

問題の土地面積についても、<筆者が座長を務める「所有者不明土地問題研究会」での調査が進み、その面積が全国では九州を上回る約410万ヘクタールに達することが判明した。>この調査方法や算定方法が妥当かは一応横に置いても、相当な面積の土地があるということは想像できます。

 

この解決策の一つとして、増田氏は<既存の所有者不明の土地について、所有者探索の円滑化策や公共的な利活用策を実現するとともに、これ以上増加しないよう、登記の義務化を実現したい。>と述べています。

 

もう一つ増田氏は根本的な対策として<わが国独特の「強い土地所有権」を見直す必要もあるのではないか。所有者の責務を明確化したり、放棄された土地や寄付された土地の受け皿を整備したりするなど、民法(物権法)の所有権概念の抜本的な検討が不可欠だと思う。>と指摘されていますが、具体的な処方箋については言及されていません。

 

実はこの問題は久しく議論されてきていますし、一部は最近の森林法や農地法の改正で、実際に制度化されています。宅地分野では空き家対策法が一つの例でしょうか。

 

ここでは森林法と農地法の改正の内容と、その運用実態について、少し取り上げたいと思います。登記義務化という点は、婉曲的な相続届け制度ができましたが、これさえさほど大きな効果が上がっていないようにも思えますので、相続についてはより実効的な登記代行措置といった制度を検討する時期に来ているのではないかと愚考しています。この3点についてそのアウトラインを書いてみようかと思います。

 

所有者不明の土地の中で、森林地と農地はその比率が高いのではないかと思います。前者は林野庁が、後者は農水省が、それぞれ長年にわたり取り組んできましたが、最近の法改正を紹介したいと思います。

 

まず森林法は平成234月改正で、<森林の土地の所有者届出制度>を設け、新たに土地所有者になった場合、その日から90日以内に管轄市町村長に届出を義務づけました。個人、法人を問わず、売買や相続等により森林の土地を新たに取得した方は、面積に関わらず届出をしなければなりません。

 

残念ながら、この届け出制の実施状況は林野庁の情報からは入手できませんでした。法制度の運用実績については農水省は割合丁寧に報告している(たまたまウェブ情報が手に入りやすいだけかも?)と思います。

 

この改正の大きな柱の一つは、「森林・林業再生プラン」の実効性を確保するために、制度化した3つがありますが、所有者不明問題と関係するのは<所有者が不明の場合を含む適正な森林施業の確保>です。

 

これによると

<① 路網等の設置のために必要な他人の土地について、土地所有者等が不明の場合でも使用権の設定を可能にするため、意見聴取の機会を設ける旨を公示すること等により、手続を進められるよう措置する。

森林所有者が、早急に間伐が必要な森林(要間伐森林)の間伐を行わない場合に、所有者が不明であっても、行政の裁定により施業代行者が間伐を行うことができるようにするなど制度を拡充する。>

 

ということで、路網等の設置のために必要な土地を対象に、使用権の設定を可能にする、公示等の措置を設けています。もう一つは要間伐森林で間伐が行われていない土地を対象に(いまば農地の遊休農地に類似するものですね)、行政の裁定による施業代行者の間伐を認める制度です。

 

これは画期的な制度ともいえます。しかし、これらの運用実績を公表しているのかわかりませんが、いまのところウェブ情報では見当たりません。私自身、林業事業にかかわってきましたが、この事業の実施を寡聞にして知りません。

 

路網整備は森林・林業再生の骨格とも言うべき事業ですが、その事業実施の壁となっている一つが所有者不明の土地があることは容易に理解されると思います。それが一定の手続きで使用権設定が可能となると、まさに増田氏が指摘する所有権制限の実効的措置の一つとなりえるのですが、どうもこの制度が活用されているようには思えないのです。

 

この使用権の設定は、知事が行うことになっていますが(森林法第50条第2項)、それ以上に詳細な内容は省令で定めているようです。知事が担い手ということは、大規模な路網整備を前提にしているのでしょうか、林道整備自体が環境保全の見地から容易でない状況ですので、どの程度活用できるのか疑問です。

 

もう一つの要間伐森林ですね。これはその対象を絞り込むというか、認定することが簡単ではないと思うのです。遊休農地や耕作放棄地はかなり具体的な要件を設けて対象を明確化できるようにして、担当する農業委員が判断できるように相当程度はわかりやすいと思います。しかし、この要間伐森林というと、日本の大規模造林政策で植林され間伐されないで、すでに樹齢50年を超える針葉樹がどのくらいあるか、統計数値があると思いますが、膨大です。他方で継続的な間伐が行われているのはさほど多くないのです。すると、どのような基準で「要間伐森林」とするかによっては、ほとんどの森林が当てはまるかもしれません。

 

私はこの要間伐森林の定義規定というか、その要件を定めた指針的なものなりを見たことがないので、なんともいえませんが、基準設定はある種線引きですので机上ではできるでしょうが、基準があっても現場で運用するのは大変なことだと想像できます。

 

それよりなにより、この行政主体は市町村長ですが(森林法第10条の102項)、全国各地の自治体で、この林業業務を主体的に取り組めている割合はどのくらいあるのでしょうか。そのような状況で、仕組みは、市町村長が当該森林と認めて通知し、所有者不明の場合知事が裁定するのですが、第一段階の市町村長の認定自体が容易でないと思います。新たに実効的な組織を設置しないと絵に描いた餅なるおそれが高いと思うのです。

 

もう一つ、昨年改正された<森林法等の一部を改正する法律案(概要)>では、共有林について、<共有林の立木の所有者の一部が所在不明であっても伐採・造林ができるよう、所在不明者の持分の移転等を行う裁定制度を設ける。>となっています。

 

これは要間伐林という対象の限定はないのですが、共有林を対象にして立木所有者の一部が所在不明の場合他の共有者が伐採・造林しようと思っていてもできない不便さを補うものです。

 

とはいえ、これも行政の裁定制度を使うのですが、まず市町村長が共有者の一部が不確知であることを公告することになっていますし、その上で知事に裁定申請する建て付けになっていますが、これを担うだけのスタッフがいるか心配です。それと平成23年改正法の制度運用がどのような結果となっているのか、十分な検証を踏まえたものなのか懸念されます。

 

次に農地法の対応ですが、農水省の<遊休農地の解消について>で解説されています。農地法も平成の大改革という制度改革をしたものの、あまり大きな実績をあげれていないように思います。

 

それで今回は平成25年改正ですが、

まず、<平成25年の農地法改正により、耕作放棄地対策が強化されました。>として、

 

<【対策強化のポイント】

•既に耕作放棄地となっている農地のほか、耕作していた所有者の死亡等により、耕作放棄地となるおそれのある農地(耕作放棄地予備軍)も対策の対象となりました。

•農業委員会は、所有者に対し、農地中間管理機構に貸す意思があるかどうかを確認することから始めることとする等、手続の大幅な改善・簡素化により、耕作放棄地状態の発生防止と速やかな解消を図ります。

•農地の相続人の所在がわからないこと等により、所有者不明となっている耕作放棄地については、公示を行い、都道府県知事の裁定により、農地中間管理機構が借り受けることができることとなりました。>

 

最後の所有者不明の対応がほぼ森林と同様の取り扱いでしょうか。ただ、農地については、農業委員会委員が最近は積極的な働きかけを農地所有者に行っている実情が見られるように思いますので、森林ほど放置されたままではないように思えます。

 

農水省は、運用実績を報告しているので、ある程度その実態が浮かび上がりますが、問題の所有者不明への対応についてはわずかに2つの事例が挙げられていて、その大変さが窺えます。ほかにもあるのかもしれませんが、この事例を見る限り、容易に裁定が行われるとは思えません。

 

上記の事例1では静岡県東伊豆の農地が対象となっていますが、1889㎡です。これを大きいとみるか、ですが、1反にも満たない土地ですので、それでも大変な作業量・時間を要していることが窺えるのです。所有者は70年前に死亡し、関係者も全員死亡して、隣接農家への病害虫や鳥獣被害など悪影響も大きかったことがこの手続きに至ったことが推測できます。第2の事例5反未満ですが、耕作条件がよいというのが、利用権設定までうまく進んだのではないかと思われます。

 

この制度自体は、けっして悪いものではないと思いますが、現在の所有者不明の土地問題を解決する抜本的な策とはなりえないように思うのです。

 

最後に、登記問題について、私なりの大ざっぱな意見を述べますと、要は地籍調査と同様にというと語弊がありますが、相続については、登記代行制度を設けることを検討する必要があるという考えです。その場合所有者不明を前提に、一定期間内に相続登記が行われていない場合、登記を管轄する法務省と戸籍を管轄する総務省などの連携で、新たに設置する登記代行システムで、一定の資格ある者が戸籍・除籍等の徴収管理を行い、登記申請を行い、これらデータ資料は一元管理を行うといった大ざっぱな流れです。その費用は、一応は税金で賄うとして、一定以上費用がかかる場合で、土地に資産価値があるときは換価処分して換価金で費用に充当するといったことです。

 

ま、思いつきですので、所有権と登記および戸籍に関わる重大な問題ですので、多くの人が関心を持ち議論して、さらなる検討を期待する次第です。

 

さて今日は1時間半が過ぎています。この辺で終わりとします。

付記 所有者不明の背景を書くつもりが、制度説明をしているうちに、失念しました。これはまたの機会に