たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

報道を見た感慨あれこれ <時代の風 所有者不明の土地>など昨日から今朝にかけての報道を見て

2017-03-26 | 不動産と所有権 土地利用 建築

170326 報道を見た感慨あれこれ <時代の風所有者不明の土地=増田寛也>など昨日から今朝にかけての報道を見て

 

今朝は穏やかな日和というか、少し暖かく感じてしまいました。ほんのちょっと枝打ちをするともう汗ばむほど。実はヒノキの細い幹が大きく曲がりながら伸びていて、いままでその枝張りの具合を気にしながらも、夏場は日陰になると思い残していたのですが、周辺の少しきれいにするついでに、そこもバサッと3本のヒノキの枝打ちをしました。ぶり縄で登るのですが、曲がっていると体が回転しそうになるので、一方の手は幹を掴んでおかないといけません。少々緊張しながら、やり終えました。

 

さて、今日はとくにこれだという記事もないと思いつつ、いやいやそれぞれ興味をそそる部分もあり、えいやと気になったものを全部、とりあえずまな板に載せてみようかと思っています。できあがりは、てんこ盛りの雑多さで困惑させるか、いろいろあって面白いと思うかは、それぞれの読み人の感覚でしょうか、いや筆者のお粗末なできによることは否定しませんが。

 

最初に見出しの<所有者不明の土地>について取り上げたいと思います。この問題は、これまでもブログで何回か言及しているので、増田氏が指摘するような現状については、とくに目新しい話しではないでしょう。私の記憶でも、遅くとも四半世紀以前から問題になっていたわけですから。いやさらに本質的なことをいえば、仮称「大化の改新」で始まった公地公民制であっても、所有権の把握が容易でなかったわけですね。むろん従前の私有地を取り上げて国有化し、それをみんなに分け与えることですら、うまくいかなかったわけですね。

 

所有権制度については、維新後に初めて近代的所有権が導入されたという理解が一般ですが、それが妥当するか疑問をもっています。そのことはちょっと脇に置いて、維新政府が当時ほとんどの土地は農地とその土地利用に随伴する関係にあった林地でした(奥山は別)が、その土地所持に所有権を認めると引き換えに、地租を課したことにより、近代所有権が確立した、あるいはその後の旧民法の所有権制度の法典化により、確立したといわれるかもしれません。

 

しかし、そのとき認められた所有者は人口比で100分の1程度だったとも言われています。そして、農地改革で、3町歩以上の地主について(北海道や在地していない地主など別)極めて廉価で小作人に譲渡されましたが、そのとき地主小作関係がほとんどの地域で問題となり、農地委員会裁決を経て解決したものがある一方、かなりの程度ではっきりされなかったというか、隠蔽されたものがあったと推測しています。

 

なぜこのようなことが所有者不明に関係して言及するかというと、その理由や背景を簡単に説明できるわけではないですが、このような所有権制度についえt規範的意識を理解する前提を欠いたまま、所有者になった人が少なくないと感じているからです。

 

もう一ついえば、相続制度も影響していると感じています。旧民法では家制度を確立させるため、多くは長男一人が相続するという家督相続制度を用意しました。戦後、日本国憲法の下で、家制度、家督相続制を廃し、新民法で共同相続制、さらに子がない場合に代襲相続制を用意しました。

 

これらはある意味では形式的平等を認めることができ一定の合理性があるものの、所有権という制度自体が公共の福祉の制限を伴い、一定の責任をも負担するということについて、適切な教育の機会や知識の普及のないまま、国が(一方的にと一応指摘しておきます)決めた法律による制限以外は自由勝手でよいといった思想もいつの間にかはびこってしまったように思うのです。

 

増田氏によると<本年1月に筆者が座長となり自治体や不動産鑑定士など関係士業団体、研究者をメンバーとし、関係する各省をオブザーバーとして「所有者不明土地問題研究会」を発足させた。>ということで、それ自体は前向きに評価してよいと思います。ただ、なぜか登記だけを問題にしているように思うのです。むろん売買による所有権移転といった場合は登記手続きが一般に行われるのと比べ、相続の場合に登記されないことが多いのは確かですし、とくに農地、林地ではかなりの割合になっていることから、また、東日本大震災の復興事業に支障となったことからも、(相続)登記に着目することは正鵠を得ていないわけではありません。

 

しかし、なぜ相続登記が行われないかについては、単に登記の懈怠といった問題にとどまらず、相続紛争や、長い間登記されていないこと、利用されていない遠隔地の問題など、多様な背景があります。

 

そして私自身、時折経験しますが、生涯単身、あるいは夫婦がいても子どもがいないといった場合に、兄弟姉妹が残っていてもさほど親族的な結びつきがないと、そして高齢で亡くなった場合、兄弟姉妹もすでに亡くなっているだけでなく、それらの子も亡くなっているということもあります。相続人を探し出すだけでも大変な作業となります。こういった場合欧米では遺言制度が割合利用されてきたかと思うのですが、わが国では所有権思想とその相続制度への理解が必ずしもよく理解されないできたため、また、遺言書に対する理解も進んでいないこともあり、まだまだ遺言書を残すということは少ないように思うのです。

 

で、所有者不明の土地問題は、同時に、多くの場合、農地であれば耕作放棄地、林地であれば荒廃した森林、宅地建物であれば倒壊寸前の空き家やゴミ捨て場となった宅地などなど、数々の社会問題をおそらくは数十年前から起こっています。それを放置した?行政の対応に問題の一端があるようにも思います。

 

所有権というものについて、登記義務を課すといった小手先の対応では解決するものではないと思っています。むろんそれだけでも一つ前進ですが、より本質的な議論をするときではないかと思うのです。

 

ちょっとこの問題を長く書きすぎたので、他の問題をどの程度言及できるか、少々心配になって来ました。とりあえず今日、この後取り上げるのは

2番目として、東芝の巨額損失の背景と、東芝改善の見極め

3番目として、<コンビニ弁当ドローン宅配!? 米セブンの試験好評>

4番目として、『ドラッグと分断社会アメリカ-神経科学者が語る「依存」の構造』の書評

5番目として、『安倍三代』の書評

6番目として、<姫路の私立こども園不正 運営ずさん隠蔽周到>

です。

 

東芝問題もこれまで何回か取り上げてきましたが、昨夜BS1の経済フロントラインで「巨額損失・東芝の誤算」として、ウェスチングハウスWHの原発事業についての誤算の背景を取材し、解説した報道がありましたので、ちょっと言及してみたいと思います。

 

東芝がWHを買収して子会社にしたのが2006年で、いわゆる原発ルネッサンスと言われ、わが国では地球温暖化対策の切り札として、国が全面的に支援し、事業の将来性が最も高かった時期ではなかったでしょうか。そしてアメリカもブッシュJrらしい?スリーマイル島原発事故以来事業停止状態だった原発事業を再スタートさせる施策にでてときでした。オバマ政権ではあり得ない選択でしたでしょう。

 

それよりも何よりも、当時WHは原発建設について、最新技術をうたい、短期間で安価に出来る、そしてエネルギー効率が格段に違う新型炉の事業化をPRして、全米のみならず世界市場を狙って意気揚々だったわけですが、そのWHを東芝はどのような合理的な裏付けがあったのか不明ですが、信頼し、他の競争業者が相手にしなかったのに、評価額の倍近い価格で買収したのですから、不思議というしかありません。

 

そして今回NHKが取材したの原発事業が行われている現場でしたが、工場労働者を含めだれも取材に応じる人がいませんでした。大幅な工事の遅れ、大量のレイオフという事態も、WH自身からの回答ではないようです。取材で得た情報では、WHの新企画の中核であったモジュール規格が、工場でほぼ製品化し、現場で組み立てるということでしたが、実際は製品化したものが基準に適合しないなど杜撰なもので、現場でやり直しをするという、それだけで手間と時間がかかる、大本の新規格によるコストダウンや工期短縮が破綻したというのです。

 

このこと自体、はたして福島第一原発事故による規制強化とどう関係するか、私は疑問を抱いています。それ自体あまり詰められていないように思うのです。WH自身、凍結していた30年間、原発建設の経験がありません。施工業者も当然、そうでしょう。それを一挙に新企画の事業化といった危険な綱渡りといってよい事業について、一体東芝はどのように的確に判断できたのでしょうか。東芝自身がこれまで建設してきた原発炉とは全く異なる炉型であり、かつ、建設方式もむろん経験のないものです。なんという大ばくちをうったものかと思うのは、まだ資料が公表されていない段階では、早計といえるかもしれませんが、信じがたい経営陣の判断です。

 

この点、経済フロントラインでコメントした崔 真淑氏は、買収そのものには言及せず、福島以後も事業拡大を継続した経営判断について疑問を投げかけ、トップの判断に異議を述べる社外取締役など、第三者的な意見を言える経営組織の必要性を指摘していたように思います。

 

東芝のように超大企業の舵を切るのは、実際、大変困難な判断だと思います。しかし、少なくとも福島以後は日本だけでなく世界中で原発事業の推進に大変革が迫られていたのですから、途上国的な規制制度をいまなおもつ中国などの市場で受け入れられたとしても、WHの事業遂行について、きちんとコントロールする必要があったと思いますが、WHは自社の独立性を固辞して東芝の介入を阻止したと言われています。そうであれば、より一層、コーポレートガバナンスの徹底を図るべきだったと思うのです。残念です。

 

さて、東芝は風前の灯火で、上場廃止になる瀬戸際にあると思いますが、日本取引所グループは企業審査体勢を強化して、東芝の審査に当たるとのこと。日本の屋台骨の一角を占めるとはいえ、安易な容認は避ける必要があり、公正な審査を期待したいと思います。

 

次の<コンビニ弁当ドローン宅配!? 米セブンの試験好評>は、やはり人気の的ですね。ドローンの利用価値は多様に考えられてよいと思います。とりわけへき地や災害時での利用など、現在試験的な試行過程だと思いますが、より行政的なサポートにより、可能な制度化を期待したいところです。宅配というのは、どちらでもよいと思いつつ、ネット販売も含め今後の配達システムのあり方を大きく変えるかもしれないと注視しています。

 

毎日・日曜の本棚は割合好きでよんでいます。今日は<内田麻理香・評 『ドラッグと分断社会アメリカ-神経科学者が語る「依存」の構造』=カール・ハート著>が面白いと感じました。

 

ドラッグの効用と有害性・依存性について、自ら体験してきた著者の神経科学的考察という視点は、新たな切り口かと思います。タバコと違法ドラッグとどこが違うのか、といった質問はまじめに考える人であれば、悩ましい問題と思うのです。国がどのような基準や政策で、違法・合法を決めるのか、その場合のサンクションは何が適切か、また治療のあり方など、その有害性と依存性をどう神経科学的に考察すると、本質が見極められるかというか、本質に近づくかといったことに関心を抱きます。いつか読んでみたい書籍です。

 

さて<中島岳志・評 『安倍三代』=青木理・著>は、安倍首相の国会答弁・対応などを見ていると、少し腑に落ちる家系図というか家系と安倍氏の成長の関係を示しているかなと思うのです。安倍首相は、昭恵夫人と同様に、どうも普通の人といった雰囲気を感じつつも、本質は戦前の体制を擁護するような政治家のリーダーを固執するようにも見えるのです。

 

森友学園問題などで、質問者などに対して、しきりに繰り返すレッテル貼りといった美しくない表現、激高して、関係しないと述べて、関係していたら総理の職ばかりか議員の職もなげうつといった極端な発言、不思議な方です。小泉政権のときたしか官房副長官として登場したときは、若々しく、理路整然としていて、下手な政治家よりずっとまともと思ったりしていたこともあります。むろんその意見に同調するわけではありませんが。

 

で、『安倍三代』では、いつも注目される母方の祖父、岸信介氏と異なり、父方の祖父、安倍寛(かん)氏について、安倍首相はほとんど語っていない(私はこの紹介で初めて知りました)点を指摘しています。

 

<寛は戦前・戦中に衆議院議員を務めた。彼は平和主義者で反戦を貫き、東条内閣の方針に真っ向から刃向った。庶民目線で「富の偏在」に憤り、権力の専横に全力で抗(あらが)う反骨者として地元から敬慕された。>これだと岸伸介氏とまるっきり反対ではないかと思ってしまいます。

 

寛氏の子、晋太郎氏は<バランスのとれたリベラル保守の政治家だった。極端を嫌い、独善を避けた。その政治姿勢は地元の在日コリアンにも受け入れられ、幅広い信頼と共感を獲得した。

 晋太郎がよく口にする言葉があった。「オレは岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子なんだ」。晋太郎は、戦争に反対した父を誇りにしていた。>そうですね、晋太郎氏のイメージはまさにそうです。そこがどうも子である安倍首相と大きく違うように思うのです。

 

この点、<政治家になる直前に生まれたのが次男・晋三だ。彼は凡庸で目立たない子どもだった。政治家になった晋太郎は忙しく、子供と触れ合う時間はほとんどなかった。代って晋三を溺愛したのが岸信介だった。

 著者は、晋三の関係者を訪ね歩く。同級生や母校の教員に取材をするが、ほとんどの人の印象に残っていない。どこを調べても若き日に自らの意志によって政治意識を育んだ様子は見られない。ましてや現在のような政治スタンスは見られない。>

 

つまりは母方の祖父の影響が大、しかも父はほとんど家にいないわけでしたので、安倍首相にとってはあまり好ましい父親と映ったかどうか、それと反対に日常的に接していた祖父信介氏であったとしたら、その影響は極めて大であったかもしれないと思ってしまいました。

 

最後までやってこれました。<兵庫・姫路の私立こども園不正運営ずさん隠蔽周到 30項目違反>これは酷すぎますね。私のブログで、森友学園の小学校設立認可に関連して、私が経験した保育園設置認可と借地契約の問題を少し取り上げたことがあります。松井知事は、こういった認可制度では、申請者が教育者で性善説で対応すると言い訳気味に話していました。しかし、そのような言い訳は果たして妥当するのでしょうか。

 

この姫路の市立こども園園長の事例はとりわけ酷く、まるで独裁者的で、しかも園児を保育する責任者の意識が皆無に近いと言ってよいかと思います。しかし、園長が教育者として熱心であったとしても、経営者としては素人です。会計士なりが作成した資金計画があったとしても、それは会計士としては過去の事業を会計基準に則って、適正な会計処理することは専門領域として信頼できますが、将来事業の計画については、専門的な知見があるとはいえないと思います。むろん同種事業を多数経験していて、需給予測もきちんとデータで収集し、資金確保の方法も合理的な裏付けがあるのであれば、その会計士の資金計画も妥当性があるといえるでしょうが、会計士が作成したものだから、信頼性が高いといったのでは、審議会の審理の意味がなくなります。これは森友学園の問題ですが、この市立こども園も同様の問題を抱えていると思うのです。

 

この園設立を認可するに当たり、収支計画を適切にチェックしていれば、このような独裁的かつ無謀な定員外の園児を入園させたり、保育士の無理な確保もありえないことだと思います。こども園の園舎建設や敷地確保の資金繰りが杜撰なものであったことが推測されます。行政の事前チェックの責任が大だと思うのです。むろん園の開設後のチェックもなってなかったわけですから、猛省を促されるべきでしょう。白鷺城のあの美しい白さに恥ずかしくないのか、姫路市は全面的な見直しを検討してもらいたいです。

 


不動産の私的所有のあり方 <社説 持ち主不明地 増加に歯止めかけよう>を読んで

2017-02-27 | 不動産と所有権 土地利用 建築

170227 不動産の私的所有のあり方 <社説 持ち主不明地 増加に歯止めかけよう>を読んで

 

今日は一体なにを忙しくしていたのだろうと、夕方になってはたと気がつきました。あれやこれや雑務に追われ、整理しつつ、法律相談など来客対応で、とくになにもしたということもなく、一日が終わりそうです。ある訴状を書き上げるつもりが、まったく手もつけられず、その他もろもろも今日は残りの時間をブログに回して、明日がんばろうかと思っています。

 

さて今日のブログのテーマを何にしようか、この時間になって記事を眺めていても、ぴんとくるものがなく、社説をとりあげることがなかったような気がしたので、見出しの記事、どう扱うか、少しネットサーフィンして、まだ整理できない頭の中で書き始めようかと思います。

 

この社説では、持ち主不明地の増加を問題にしており、それが90年代初頭から顕著になっているとしています。不明地というので、土地を対象としつつ、空き家については空き家対策特別措置法が施行され、一定の条件で対策が講じられるようになったことを指摘しつつ、土地についても新たな方策が必要としています。

 

ところで、なぜ持ち主不明地が増大しているかは、はっきりとした理由が検討されていません。強いて言えば、所有者死亡に伴う相続登記が一部の調査結果で、11~30%となっていることから、相続登記がなされないことが要因の一つととらえているようにも見えます。

 

<問題の根っこには、人口減少と都市への集中がある。>と、人口流出という土地と人との関係の断裂といったものが地殻変動的に生じていることが問題の本質とみているようにも思えます。

 

この問題を簡単に一義的にとらえることでは実態を把握できないように感じています。一部の統計資料を取り上げたり、人口動態の推移をピックアップしたりするだけでは的確な情報とはいえないように思います。

 

といって私自身もこれだという情報を持ち得ていないので、批判のための批判をするつもりはありません。ただ、私的所有権のあり方について、そろそろ本格的な議論をしてもいいのではないかと、この所有者不明の土地を例にとって少し私見を思いつきで述べてみたいと思います。

 

上記の実態を反映していない相続登記の促進について、二つの取り組みが紹介されています。一つは<京都府精華町は、死亡届が提出された際、登記や社会保障などの手続きを併せて案内することで登記の届け出数が増加>と、<日本司法書士会連合会は、・・・転出によって住民登録が抹消された住民票の除票の保存期間を現在の5年からもっと長くすることで、所有者を捜しやすくなる>制度手直しを提言しているといいます。

 

それぞれ現状に即した、一歩前進というか、行政努力を図っているところでしょうか。しかし、私は、そろそろ私的所有権のあり方について、多様な・本旨的な変革が必要とされる中で、とりあえず所有地不明問題の解消という明確な目的のために(それは社説で指摘しているように将来の災害復興対策等重要なソフトのインフラ整備として不可欠という趣旨もあります)、いくつかの抜本的対策を考える必要があると思っています。

 

いま所有者が死亡した場合に、相続登記を義務づける規定はどこにもありません。不動産登記法は不動産所有権の権利移転(相続という一般承継も含め)について、登記を義務づける規定はありません。登記をするかどうかは権利者の自由に委ねています。登記法の精神は基本的には実態の変動、現状に適合するように登記されることですが、制度的にはその担保がありません。

 

ここからはあくまで相続だけ主眼として、検討します。人が死亡したとき、相続登記がなされない理由はなんでしょう。費用がかかるといった経済的理由は、相続登記に関しては特に軽減しているので、通常は考えにくいと思います。手続きが難解だという理由も、通常の核家族での死亡例であれば、だれでも簡単にできます。司法書士の手を借りるまでもなく、法務局の窓口は親切に書類作成に協力してくれます。そこは裁判所とはかなり違います(裁判官は法廷ではかなり一般の方からの訴訟進行には親切に対応しているのを見かけますので、裁判所が不親切というわけではありません)。

 

ではどんな場合に相続登記がされないのでしょうか。それは簡単にすべてを語ることができないでしょう。一つは、戦前の家督相続の場合は戸主一人が家の財産を全部相続する家督相続制でしたので、簡便でしたが、戦後の民主化で生まれた憲法の下で、民法は家制度を廃止し、平等思想に配慮しつつ、配偶者・子・親・兄弟姉妹の親族関係の中で、扶養関係をも加味しつつ、複雑な相続制度になったと思います。

 

そのような新しい制度を的確に学ぶ機会もなく、突然、相続分割といった問題に直面すれば、ときには容易に遺産分割がすすまず、放置されることもあるでしょう。農地や山林、湿地、池沼といった場合にはその利用価値の激減に伴い、関心が湧かない一方、適切な配分や利用方法の話合いの仕組みもなかなか確立しないまま、今日に到っているのではないかと思うのです。

 

それに加えて、地租改正は私的所有権が確立したと評されるのが一般の理解ですが、江戸時代以前に行われた検地が境界確認として有効でなかったと同様に、地租改正以降に行われた測量も大同小異で、現在かろうじて細々と実施されている地籍調査で確立するまでは、多くの境界は判然としない状態に置かれています。

 

先祖の所有地とされる登記が残っていたとしても、それがどこにあるか分からない、その境界がわからないといったことは山林では、相当数あります。農地でも最近は増えているでしょう。宅地・雑種地の場合は、地籍調査が進まない地域では、境界が画定しないことから、土地利用も放置され、空き家状態ないしはそうでなくても建替が困難なところもあるでしょう。

 

それぞれについて、個別に具体的な手法を、さまざまな専門領域の関係者、それは従来、業として専門に行ってきた士業に限るのではなく、より広い分野の知見・知恵を働かして問題解決の施策を検討すべきだと思います。

 

私自身は特別の有効策はありませんが、私的所有権の制限が基本だと思っています。一つは、相続登記の義務づけです。

 

現在の法令の中で、死亡したとき、相続の届け出という制度をとっているのは、唯一農地法だけではないかと思います。まず、同法3条の3を以下に挙げます。

 

(農地又は採草放牧地についての権利取得の届出)

第三条の三  農地又は採草放牧地について第三条第一項本文に掲げる権利を取得した者は、同項の許可を受けてこれらの権利を取得した場合、同項各号(第十二号及び第十六号を除く。)のいずれかに該当する場合その他農林水産省令で定める場合を除き、遅滞なく、農林水産省令で定めるところにより、その農地又は採草放牧地の存する市町村の農業委員会にその旨を届け出なければならない。

 

これは耕作放棄地対策の一つとして、最近の「大」改正で生まれた制度ですが、あくまで権利移転が合った場合の届け出義務ですし、農業委員会に対して行うだけです。しかもこの義務違反があっても以下のとおり過料の制裁に過ぎません。

 

第六十九条  第三条の三の規定に違反して、届出をせず、又は虚偽の届出をした者は、十万円以下の過料に処する。

 

農家を代表する農水省が立案する農地法改正ですから、農家から不満や抗議が出そうな改革など到底無理な話です。いや農業族といわれる政治家が許さないでしょう。

 

ついでにいえば、農水省は、この相続の届け出もお願い調でしか、農家に求められないのです。それが現在の農業行政の実態でしょう。

 

耕作放棄地40万haといわれる(この数字は長年同じで実態調査は的確にやられているとは思えません)農地ですら、この状態ですから、なんらの相続届け出義務のない、山林や宅地などは一切、それぞれの自由に委ねられています。

 

しかし、全国に利用されない建物(空き家でなくても)、利用されない宅地、これらはいずれも荒廃状態ではないでしょうか。同様に、農地・山林の荒廃状態は惨憺たるものです。それでいて、再開発だとか、いろいろなイベント事業のための開発ラッシュ?、新たな宅地造成、マンションや戸建て住宅の新たな建築は増えています。利用しようと思えば簡単に利用できる既存の宅地を、権利関係が不明だとか、境界が不明だとかを理由に、はっきりしているところで新たな開発がどんどん行われています。

 

放置された宅地、農地、山林は、負の遺産として残り続けます。それはだれのせいか、考えてみませんか。所有者が所有者として果たすべき義務を果たしていないといえないでしょうか。

 

空き家対策特別措置法は、限定された条件の下、所有者の権利を制限し、あるべき所有の方法・利用の適正化を求め、行政の所有者に代わる役割を積極的に認めました。

 

同様に、土地自体についても、まずは相続登記や境界確認という割合、権利侵害の少ない領域で、その義務化を進め、一定の条件の下、行政ないし第三者機関が代替して行うことを考える時期に来ているように思うのです。

 

話が飛びますが、班田収授法は私有地をなくし、全国を国有地として全員に土地を付与して耕作させて、租税収入を得ようとしましたが、荒廃した土地だったり肥沃でない土地だったりすると、負担に耐えられず逃亡したり放棄したりで、100年程度で自然に崩壊したのではないかと思います。

 

地租改正以降の私的所有権も、江戸時代までに醸成しつつあった私的所有概念を破壊し、無理な家制度の導入や、戦後も極端な個人的所有権とアンバランスな農地法・森林法や都市計画法・建築基準法などの土地利用規制とがあいまって、適切な私的所有権概念が日本人の中に意識化できないできたように感じています。

 

個人の努力や自由意志に委ねるのでは、かえって私的所有権の適切な利用を阻害することになりかねないと思っています。

 

その意味で、繰り返しますが、相続登記手続きの義務化については、より簡便に行う制度設計がまず必要ではないかと思います。住民票の保存期間延長や除籍謄本などの入手方法の簡便化などは些末な対応ですが、これも無視できないと思います。まずは相続制度の簡易なあり方や、遺言制度を含め生前に行う相続仕組みの普及・円滑化が必要ではないかと思います。それはある意味、相続の意識化と、その準備のための権利関係の確認・調整を前倒しすることに繋がると思っています。

 

もう一つは、地籍調査です。より簡便な方法を多角的な角度で行う仕組みが必要でしょう。AI機能を活用するのも検討してよいと思います。そして土地の種類に応じて、境界確定の手法を簡易化したり、GPSなどIT技術で大きく代替するのも一つではないかと思います。

 

むろん既存の制度枠組みを大きく変えない工夫をして、私的所有権のコアを保障しながら、現在の不明所有地問題解消の早期解決という公共の福祉、公益に合致する範囲で、その整備を本格的に検討する必要を感じています。約1時間半書きまくりました。勝手な意見ですが、またいつか整理してみて、より実現性のある提案ができればと考えています。


スズメバチ事件の顛末 その2

2016-10-19 | 不動産と所有権 土地利用 建築

問題2について ・・・巣がある竹藪の所有者に要請できるか(土地所有者になんらかの責任があるか)

 他人が土地所有者に何かをいえるかといった問題は、いろいろでてきますね。民法で有名なのは、隣家の竹木の枝が越境したら、その所有者に枝を切らせることができるというのがありますね。根の越境だと、こんどは自分で切り取れるというのが面白いですね。では竹藪にスズメバチの巣がある場合、他人が所有者に駆除するよう求めることができるでしょうか。

日常竹藪を通行している人が通行の利益侵害のおそれを理由に危険除去という意味で求めることができそうな理屈が浮かびそうですね。では法的根拠は?

崖が崩壊の危険があるからとの理由で予防措置を求めることが認められる場合がありますが、通常、擁壁設置とか、宅地造成の盛土や排水措置とかに欠陥がある場合でしょう。宅地造成規制法施行令の基準が参考になりますね。人の手が入って危険状態を作り出した場合ですね。他方で、台風・地震などで土砂崩れ、崖崩壊のおそれがでたからといって、所有者になんとかしてとはいえないですね。

ではまったく所有者は責任がないといえるのかはもう少し考えてみたいと思います。たとえば空き家が全国的に問題になっていますが、柱が傾き、屋根瓦が落ちているといった倒壊寸前とまでいえなくとも、相当危うい場合、一定の予防措置ないしは解体その他適切な措置を講じる義務が出てくる可能性はあるのではないかと思うのです。条例の中にはかなり実効的な対応手続きを講じたものもありますね。とはいえ、これもやはり人の手が一度は入ったものの、放置された状態ですね。

さて、本題のスズメバチの巣は、確かに自然の営みです。その巣を作る契機はいろいろあるでしょうが、竹木の場合手入れしないで放置されている状態のところが多いように思います。スズメバチも好んで人が手入れしている竹木林や工作している農地には近づかないように思います。換言すれば、適切に利用・耕作していれば、スズメバチの巣もできない、その放置の責任はないのかといった考え方も一応はありうるでしょう。

農地については、平成21年改正農地法で、耕作放棄地(あるいは遊休農地)の所有者に、利用の責務を新に制度化しました。耕作主義の農地のあり方としては遅きに失する対応ですが、でも竹木は対象外ですね。ただ、竹林について、たとえば長岡京のタケノコと言った農産物としても著名ですが、農地扱いも可能で、実際、竹林を一旦農地に認めた実務取扱もありました。ま、この議論は別の機会にして、やはり仮に利用の責務を認めたとしても、放置したことから、スズメバチが巣を作ったこと、危険を惹起したことについて、所有者に責任を問うのは無理があるように思います。他方で、自宅の建物なんかに巣を作られたら、当然、ご本人は家族の安全を考え、率先して駆除し、あるいは駆除してもらいますよね。

とはいえ、所有者たる者、自分の支配管理する場所から人の健康、場合によっては生死を招く恐れのあるスズメバチの巣を放置するのは、少なくとも道義上、許されないのではないかと思います。

いろいろ回りくどい話しをしましたが、要は、所有者である以上、スズメバチの巣を駆除するのが私の抱く、自然の道理です。法的には他人が竹林所有者に、駆除を求めることは特段の事情がない限り、無理と考えます。さて、特段の事情とは、・・・いずれ具体化できればと思います。このような空想的議論は、後で思いついたので、即座に、スズメバチの退治に出かけました(これ、生物愛護の精神が欠けていないかはやはり気になります)。