181008 大畑才蔵考22 <桛田荘の石積み護岸跡と小田井について>
最近読み出した小野正敏ほか編『水の中世』はなかなか面白く、その中で、治水・利水の技術論や用水開発の主体を扱った部分はとりわけ興味を持ちました。いずれも紀ノ川中流域にある桛田荘を取り上げています。
畑大介氏は「治水・利水の技術と系譜」という論考で、若宮大路の側溝について、「拉材(らざい)工法」が確認されているという宇都宮氏ほかの文献を紹介しています。鎌倉時代の都市鎌倉はどの実態がどうもよく分かっておりませんでした。この拉材工法による側溝はとても大規模で、側溝というより用排水路的な機能をもっていたのではないかと思うほど、しっかりしていて、都市鎌倉を彷彿させます。江戸末期に訪れた西洋人の目には、退廃し鄙びた田舎町のような若宮大路の状態を描いたり、写真にしたりしていますが、鎌倉時代はなかなかのものだったのでしょうね。
他方で鎌倉時代は、殺傷沙汰が頻繁に起こり、都市鎌倉内でも死人があちこちに散在する状態で、たしか側溝にも死人が結構いたとかどこかで読んだ覚えがありますが、そのとき死人が入るほどの大きさを想像できなかったのですが、この畑氏の指摘で合点がいきました。
またこの拉致工法を見る限り、鎌倉時代でも相当な土木技術がすでに確立していたことがわかります。
治水工法・材質について、畑氏は「蛇籠」を取り上げつつ、中国では紀元前3世紀に都江堰で用いられ、わが国には古墳時代に伝来したとしつつ、その痕跡が近世以前でははっきりしないというのです。この点、小田井堰などで、大畑才蔵がどのような技法を使ったかはまだはっきりしていないように思います。
畑氏は、利水施設のうち池底簿の堤体について版築による方法が13~14世紀には構築されていたことを紹介しています。この点少し奇妙に感じました。というのは古墳の築造には版築がすでに使われていたのではないかと思うのですが、違うのでしょうかね。
紀ノ川下流域にある根来寺大門池の堤体については、15世紀頃の土層に、葉のついた枝が敷き込まれていたのが確認され、いわゆる敷葉工法が中世後期には使われていたことが紹介されています。才蔵はため池築造について詳細に記述していますが、たしかこの工法については触れられていなかったように思います。全体として土木技術的なことを書いていても、より具体的な技法や材質などについてあまり触れていないような印象をもっています。
畑氏は、用水路や堰についても、各地の遺跡記録を踏まえて脇堤防の構造など詳細に記述しています。
そしてようやくたどり着きましたが、石材を用いた治水施設として、かつらぎ町窪・萩原遺跡の紀ノ川護岸施設を紹介しています。そこでは平面図も紹介されていて、護岸には「石出し」という川筋に並行して築造される石積み護岸に、びょこっと飛びでした部分があるのです。船着き場であったかのような意見もあるようですが、まだ解明されていないと思われます。
で、ちょっと思い出したのが和歌山県立博物館編集発行の『紀伊国桛田荘と文覚井』です。そこにカラー写真でその石積み護岸が掲載されていました。みごとな石積みです。傾斜はとても緩やかで30度以下に見えます。高さもせいぜい1~数m程度に見えます。石出しもほんの申し分け程度に出ているだけで、とても船着き場になるような広さではないです。ではなんでしょう。これは今後解明されることを期待して私は謎解きには参加しません。
ここまで長々と前口上を述べてきたのですが、ここから本論です。この石積み護岸は、当然紀ノ川の洪水対策とみるのが普通ですね。ところが、畑氏は触れていませんが、この護岸の位置が興味深いのです。写真で見ると、紀ノ川はずっと下の方を流れています。地名の窪や萩原は河岸段丘のかなり上の方で、山の麓に近い位置になります。ま、近くの宝来山神社の下にある船着き場跡よりかは下に位置しますが、それでも相当高い位置にあります。
もしこれが畑氏を含め護岸ということであれば、この護岸が築造されたとされる17世紀初頭頃は、紀ノ川の流水がその高さまでやってきていたということでしょう。
で、まだ整理できていないので、この桛田荘の水源はなにか、文覚井一の井はだれがいつくったかといった問題は別の機会にするとして、少なくとも17世紀初頭以前、その後も一定の期間、この護岸より低い位置にある土地は水田としても下田とされていたことは容易に想定できます。
実際、1707年から開設工事が才蔵によって行われた小田井用水は、この護岸よりも高い位置、あの船着き場跡より低い位置に築造されたのです。
小田井用水が通水されたことにより、この護岸は不要のものになったのでしょう。最近の97年に発見されたそうですので、その後新たな水田用地の中に埋設されたのではないかと思うのです。
小田井用水は、この桛田荘でも、その用水路より低い位置にあるところに水田耕作を可能にしたと思われます。そうすると、紀ノ川の護岸はどうなったのかといった疑問が生まれますが、その点はまだ論じられていないように思います。現在は国道24号線が走り、そのさらに川側に大きな堤防が築かれていますが、それは戦後か、あるいは早くても明治以降のことだと思います。江戸時代に、紀ノ川の氾濫を現代のような堤防で止めるほどの土木技術は確立していなかったと思うのですが、どうでしょう。
その間、洪水とも戦いながら、桛田荘の水田耕作は続けられてきたのでしょう。文覚井一の井の成立時期で議論の対象となる、文治元年(1185年)検田帳や宝永5年(1708年)伊都郡丁ノ町組指出帳などの水田面積の比較や下田・損田の多さは、興味深いものですが、おそらく下田・損田は小田井成立後も多く残ったのではないかと思うのです。
今日はこの辺でおしまい。また明日。