たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考22 <桛田荘の石積み護岸跡と小田井について>

2018-10-08 | 大畑才蔵

181008 大畑才蔵考22 <桛田荘の石積み護岸跡と小田井について>

 

最近読み出した小野正敏ほか編『水の中世』はなかなか面白く、その中で、治水・利水の技術論や用水開発の主体を扱った部分はとりわけ興味を持ちました。いずれも紀ノ川中流域にある桛田荘を取り上げています。

 

畑大介氏は「治水・利水の技術と系譜」という論考で、若宮大路の側溝について、「拉材(らざい)工法」が確認されているという宇都宮氏ほかの文献を紹介しています。鎌倉時代の都市鎌倉はどの実態がどうもよく分かっておりませんでした。この拉材工法による側溝はとても大規模で、側溝というより用排水路的な機能をもっていたのではないかと思うほど、しっかりしていて、都市鎌倉を彷彿させます。江戸末期に訪れた西洋人の目には、退廃し鄙びた田舎町のような若宮大路の状態を描いたり、写真にしたりしていますが、鎌倉時代はなかなかのものだったのでしょうね。

 

他方で鎌倉時代は、殺傷沙汰が頻繁に起こり、都市鎌倉内でも死人があちこちに散在する状態で、たしか側溝にも死人が結構いたとかどこかで読んだ覚えがありますが、そのとき死人が入るほどの大きさを想像できなかったのですが、この畑氏の指摘で合点がいきました。

 

またこの拉致工法を見る限り、鎌倉時代でも相当な土木技術がすでに確立していたことがわかります。

 

治水工法・材質について、畑氏は「蛇籠」を取り上げつつ、中国では紀元前3世紀に都江堰で用いられ、わが国には古墳時代に伝来したとしつつ、その痕跡が近世以前でははっきりしないというのです。この点、小田井堰などで、大畑才蔵がどのような技法を使ったかはまだはっきりしていないように思います。

 

畑氏は、利水施設のうち池底簿の堤体について版築による方法が1314世紀には構築されていたことを紹介しています。この点少し奇妙に感じました。というのは古墳の築造には版築がすでに使われていたのではないかと思うのですが、違うのでしょうかね。

 

紀ノ川下流域にある根来寺大門池の堤体については、15世紀頃の土層に、葉のついた枝が敷き込まれていたのが確認され、いわゆる敷葉工法が中世後期には使われていたことが紹介されています。才蔵はため池築造について詳細に記述していますが、たしかこの工法については触れられていなかったように思います。全体として土木技術的なことを書いていても、より具体的な技法や材質などについてあまり触れていないような印象をもっています。

 

 

畑氏は、用水路や堰についても、各地の遺跡記録を踏まえて脇堤防の構造など詳細に記述しています。

 

そしてようやくたどり着きましたが、石材を用いた治水施設として、かつらぎ町窪・萩原遺跡の紀ノ川護岸施設を紹介しています。そこでは平面図も紹介されていて、護岸には「石出し」という川筋に並行して築造される石積み護岸に、びょこっと飛びでした部分があるのです。船着き場であったかのような意見もあるようですが、まだ解明されていないと思われます。

 

で、ちょっと思い出したのが和歌山県立博物館編集発行の『紀伊国桛田荘と文覚井』です。そこにカラー写真でその石積み護岸が掲載されていました。みごとな石積みです。傾斜はとても緩やかで30度以下に見えます。高さもせいぜい1~数m程度に見えます。石出しもほんの申し分け程度に出ているだけで、とても船着き場になるような広さではないです。ではなんでしょう。これは今後解明されることを期待して私は謎解きには参加しません。

 

ここまで長々と前口上を述べてきたのですが、ここから本論です。この石積み護岸は、当然紀ノ川の洪水対策とみるのが普通ですね。ところが、畑氏は触れていませんが、この護岸の位置が興味深いのです。写真で見ると、紀ノ川はずっと下の方を流れています。地名の窪や萩原は河岸段丘のかなり上の方で、山の麓に近い位置になります。ま、近くの宝来山神社の下にある船着き場跡よりかは下に位置しますが、それでも相当高い位置にあります。

 

もしこれが畑氏を含め護岸ということであれば、この護岸が築造されたとされる17世紀初頭頃は、紀ノ川の流水がその高さまでやってきていたということでしょう。

 

で、まだ整理できていないので、この桛田荘の水源はなにか、文覚井一の井はだれがいつくったかといった問題は別の機会にするとして、少なくとも17世紀初頭以前、その後も一定の期間、この護岸より低い位置にある土地は水田としても下田とされていたことは容易に想定できます。

 

実際、1707年から開設工事が才蔵によって行われた小田井用水は、この護岸よりも高い位置、あの船着き場跡より低い位置に築造されたのです。

 

小田井用水が通水されたことにより、この護岸は不要のものになったのでしょう。最近の97年に発見されたそうですので、その後新たな水田用地の中に埋設されたのではないかと思うのです。

 

小田井用水は、この桛田荘でも、その用水路より低い位置にあるところに水田耕作を可能にしたと思われます。そうすると、紀ノ川の護岸はどうなったのかといった疑問が生まれますが、その点はまだ論じられていないように思います。現在は国道24号線が走り、そのさらに川側に大きな堤防が築かれていますが、それは戦後か、あるいは早くても明治以降のことだと思います。江戸時代に、紀ノ川の氾濫を現代のような堤防で止めるほどの土木技術は確立していなかったと思うのですが、どうでしょう。

 

その間、洪水とも戦いながら、桛田荘の水田耕作は続けられてきたのでしょう。文覚井一の井の成立時期で議論の対象となる、文治元年(1185年)検田帳や宝永5年(1708年)伊都郡丁ノ町組指出帳などの水田面積の比較や下田・損田の多さは、興味深いものですが、おそらく下田・損田は小田井成立後も多く残ったのではないかと思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


大畑才蔵考その21 <第2回大畑才蔵顕彰フォーラム>を終えて

2018-08-18 | 大畑才蔵

180818 大畑才蔵考その21 <第2回大畑才蔵顕彰フォーラム>を終えて

 

本日、かつらぎ総合文化会館「あじさいホール」で、110名の参加を得て、第2回大畑才蔵顕彰フォーラムが充実した内容で終えました。

 

第1部 基調講演では、前田正明氏(県立博物館 主任学芸員)による「紀の川中流域における井堰や用水路の歴史」では、現かつらぎ町の笠田、当時、桛田荘(あるいは賀勢田荘かせだのしょう)といわれた地域を中心に、中世から近世にかけて水利と農地利用のあり方が資料と絵図などでわかりやすく解説していただきました。

 

紀ノ川沿い、とくにかつらぎ町は降水量が少なく、水源を確保することが非常に厳しい状態であり、多くのため池によって田んぼへの用水を確保し、目の前に流れる大河・紀ノ川は利用できなかったことが示されました。

 

とくに地形的な説明はありませんでしたが、河岸段丘で、紀ノ川水位が低いこと、近世以前では技術的に大容量の河川流を堰き止めるような土木技術が確立していなかったことがあるかもしれません。さらにいえば、秀吉、さらには徳川政権による統一支配が確立するまでは、荘園支配で、紀ノ川に沿って横断的に荘園をまたぐような用水計画など想定外だったのでしょう。

 

他方で、ため池の築造や修復には、秀吉による高野焼き討ちを止め、高野山に21000石を安堵させた応其上人が成し遂げて、その17世紀初頭の新田開発に寄与したとされています。ただ、それ以前からこの桛田荘では北方の小高い山地を越えた先に北東から南西に流れる静川(現穴伏川)に井堰をつくって、山越えで低地に用水を供給し、相当程度の水田化が鎌倉末期ころから室町期ころまでに成立していたようです。

 

とはいえ、前田氏の説明では、穴伏川自体、小河川で水量が限られており、井堰から取水する用水量がわずかな水田でも足りない状態でしたから、簡易な分水装置を用意したり、自国を決めて分配するといった状態でしたから、とても優良な水田ではなかったようです。

 

それでも穴伏川に井堰をつくって、用水を確保することは、桛田荘と隣接する名手荘などと大変な水利の争いとなり、どんどん井堰を作る競争状態になったようです。

 

他方で、桛田荘は、穴伏川の水利権を先占していた立場を主張していたようで、左岸の水利を確保しつつ、名手荘などに一部、右岸からの用水を認める采配をしています。それは当時の水田耕作にとって主要な肥料であった芝草などの採取を名手荘などが入会権をもっていたと思われる山への立入採取を認めることで、和議したようです。

 

いすれにしても賀勢田の荘は、ため池、小河川の水利だけでは、優良な水田としては成立しなかったのでしょう。

 

その意味で、紀州藩として行った小田井用意水は、画期的な大量用水の確保だったと思われます。

 

ところで、前田氏は、小田井が供用される前の段階の、桛田荘東村について、明治期の一筆ごとの地図を踏まえて、地番ごとに照合して、小田井用水路の南方にも相当程度水田があったとし、小田井用水通水後には用水路の北方(標高の高い場所)、従前の田んぼより南方(低い場所・紀ノ川沿い)に田んぼが拡大したと指摘していました。これは素晴らしい言及だと思います。

 

小田井用水路の位置は、背ノ山のトンネル部分を除けば、おおむね当時変わらない流路となっています。小田井用水路より標高の高い位置に水田が増えたのはなぜかについて、前田氏は、従来の小河川用水により水田化していた箇所が小田井用水によりまかなわれた結果、文覚井(もんがくい)からの用水はその標高の高いところに利用されるようになったというのです。

 

この点は、才蔵自身が、たしか詳細な費用効果分析の中で、従来のため池や用水を、小田井通水により、必要がなくなり、別に利用できるところには利用し、そうでないところは田畑化して、小田井用水による田畑の減少をまかなったり、築造費用にあてることを考えていたことに相通じるように思います。

 

前田氏は、今日の講演ではとくに言及しませんでしたが、文覚井といわれる井堰について、その成立が上記のように13世紀後半以降と見立て、文覚が活躍した12世紀末から13世紀初頭ではないことから、文覚による築造には疑問をもっていると思われます。上記の水戦争の中で、文覚が神護寺を差配し、その名称を使えば、古い時代に権威ある人間が築造したと言うことで、対立者に納得させようとしたのではないかと愚見としては思っています。

 

余分な話が長くなりました第2部 対談では、

会顧問で元橋本市郷土資料館館長の瀬崎浩孝氏、前田正明氏、紙芝居で地元の歴史紹介をされてきた中本敏子氏により、「大畑才蔵ってどんな人?」が瀬崎氏の熱意あふれる解説もあり、結構、迫力がありました。

 

そこで中本さんが質問した大畑という姓を名乗ることができた、あるいはそのよう姓のいわれはという点は答えがなかったかと思います。

 

私も調べたわけではないので、根拠がありませんが、彼が根拠とした学文路(かむろ)は平地がほとんどなく、小高い山を段々畑として利用されていますが、おそらく当時からそうではなかったかと思います。ですから、大きな畑をもっていたということはないはずです。たしか才蔵日記にも彼の所持農地が暗示されていたと思いますが、わずかだったと思いますし、仕事の報償としてもらった田畑もさほど多くなく、それも洪水で流されたはずです。

 

ではなぜ大畑か、基本、畑が多い地域で、農地拡大に貢献していたから、藩から大畑という名前を授かったのではないかと勝手な想像をめぐらしています。

 

他方で、名主の役割を現在の区長なりと同列に扱うのは誤解の元になりかねないと思います。前田氏が指摘したように、当時の年貢は村請で、村の中で誰かが割り当てを納められないとき、5人組、最後は名主の責任になるわけですから、大変です。また、村は司法・行政・立法すべてを地域の中で担っていたので、その名主を含む役員は大変な仕事だったと思います。

 

才蔵はたしか10代後半から杖突という名主の補佐役をしていましたが、これは藩行政の地域事務を一手に引き受け、その農政に関する事務をやっていたはずです。そのため才蔵の農書の中で、税制についてのあり方を詳細に論じることができるのだと思うのです。

 

他方で、龍之渡井や伏越などについて、その農業土木技術が高く評価されていますが、才蔵の自筆の書には、その技術的な解説はありません。たとえば、より高度な技術を求められる通潤橋などについてはその技術書が詳細な絵図で示されています。ま、19世紀初頭ですから、100年以上後ですから、一緒にはできませんが。

 

川を渡す用水樋の発想送は、かなり古い時代からあったと思いますが、橋脚を川の中に用いない方法は、龍之渡井が初めてなのか、土台が岩盤であることに技術的困難性があるのか、私にはまだよく分かりません。

 

いつの間にか一時間が過ぎました。今日はこれにておしまい。また明日。


8月18日 第2回大畑才蔵顕彰フォーラムの案内(会場変更)

2018-08-09 | 大畑才蔵

うっかりしていて、広報がおそくなりました。

私が所属する「大畑才蔵ネットワーク和歌山」が、

来る8月18日 第2回大畑才蔵顕彰フォーラムを開催します。かつらぎ町が後援です。

シンポに参加希望の方はこちらからおねがいします。

 

会場変更!! 大勢の参加が見込まれるため、会場が下記の3階研修室から1階のAVホールに変更となりました。

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平成30年度

●第2回大畑才蔵顕彰フォーラムが開催されます。

 日時/平成30年8月18日(土) 14:00~

 場所/かつらぎ総合文化会館「あじさいホール」3階研修室

     (かつらぎ町丁ノ町2454)

お申込みはメールフォームにて。

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内容は
 
第1部 基調講演で
前田正明氏(県立博物館 主任学芸員)による
「紀の川中流域における井堰や用水路の歴史」
 
第2部 対談で、
会顧問で元橋本市郷土資料館館長瀬崎浩孝氏、前田正明氏、紙芝居で地元の歴史紹介をされてきた中本敏子氏による対談で、
「大畑才蔵ってどんな人?」を語り合います。
 
どんな才蔵の姿が浮かび上がるかたのしみです。
 
 

 


大畑才蔵考その20 <洪水への対策をどう考えたか 紀州流とは>

2018-08-01 | 大畑才蔵

180801 大畑才蔵考その20 <洪水への対策をどう考えたか 紀州流とは>

 

西日本豪雨はこれまでの経験知が通用しない気象、地形、地質、河川管理、異常気象の伝え方、ダム操作、避難指示などの伝達方法、避難所のあり方など、その他あらゆる問題が次々と取り上げられています。自然の脅威に対して万全はあり得ないのですが、被災で受け甚大な被害を真摯に受け止め、将来の備えを少しでも前進することを期待したいと思います。

 

ところで、江戸時代の治水技術として、関東流と紀州流といった異なる手法があったとか、明治期くらいから専門家から行政、そして巷間に至るまでいつの間にか浸透しているように思えます。私もこのシリーズで何度か取り上げましたが、そのような流派的な治水技術が確立していた痕跡はどうも見当たらないと思うのです。それでもこういった対立軸を使うことによりなんらかの意義を認めるのであれば、それもいいでしょう。

 

ただ、紀州流の定義を土木技術的に確立させ、それがどのような形で実現され、それがその後の土木技術の発展にどのように寄与したかといった、技術の発展を示しつつ、将来の技術革新に役立つような議論であって欲しいと思うのです。

 

さて、私が取り上げる大畑才蔵については、彼の自筆の古文書が大畑家に残されていて、橋本市は「ふるさと創生事業」のなかで、大畑才蔵全集編纂委員会を設置し、これら大量の古文書を活字化するだけでなく、重要な部分を現代訳し、さらに解説をして、1300頁を超える書籍『大畑才蔵』を刊行したのです。これは橋本市としても、市民としても自負してよいと思うのです。

 

今回私が取り上げるのは日本農書全集第65巻に掲載されている『積方見合帳』という原書は『大畑才蔵』でも取り上げて中にあるものです。才蔵(一部は才蔵の子孫でしょうか)が多くの自筆書を残していますが、狭義の治水に関してはさほど多くないと思います。現代で言う利水に関してはため池や用水路の築造に関する部分が極めて多いと思います。とはいえ、難関の井堰や龍之渡井などの技術的な解説はほとんど触れていないと思います。農業土木の天才といわれつつ、なぜその最も重要な部分について記録に残さなかったのか、そこが残念です。測量技術については、自ら考案した水盛台による測量方法を詳細に記述しているところから、彼の能力からすると、そのような記録を残すことは可能だったと思うのですが、・・・この点は前にも取り上げたので、この程度にします。

 

さて、本題の洪水対策についての才蔵の考えがここに書かれていますので、いくつか拾ってみましょう。

 

古文書を活字化したものを引用してもなかなか理解できないところがありますので、現代訳を引用します。

 

まず、紀州藩の洪水対応に問題があると指摘しています。

「全体に紀州藩領では、領主の指図がないと農民たちは竹木などの植え付けはもちろん、堤防の土固めもしないためだろうか、川筋が浅く見える。大水が出るときには、堤防へ直接川の水流が当たり危険に思われる。川表に薮などが植え付けられた堤防とは各段に見劣りする。」

 

ここで才蔵は、各地を調査していく中で、紀州藩領の洪水対策の不備を指摘しています。洪水時の流水の勢いを抑制するのに川辺には竹木を植える必要を説くのです。現代では森林の手入れが行き届いていないところで竹木が繁茂していますので、竹木の役割が分かり肉なっています。しかし、コンクリート式堤防ができる前は、竹木が洪水対策の一つとして有効だったわけです。むろん繁茂しすぎないよう間伐したりして適度な間隔が必要でしょう。

 

また才蔵は、川筋の浅さに気づき、それが堤防の土固めがしていないか、十分でないことを指摘しているのです。さてこの堤防はどこのことをいっているのか特定されていませんが、紀ノ川の大河ではそのような堤防があったのか、私は疑問に思っています。むろん一部はあったと思いますが、当時の土木技術で連続堤防を構築することは困難だったと思います。

 

それにしても土固めの不備を指摘しているところが、土木技術者の鋭い目線ではないでしょうか。さらにいえば、川底の浚渫の必要も指摘していたかもしれません。

 

洪水時の流水の勢いを抑えるのに、堤防を唯一の対策とはまったく考えず、竹木や藪の植生を考えていることに注目したいと思います。

 

才蔵は竹木の植え付けについても、緻密な観察を元に、次のように指摘しています。

「竹木は大型の塙(堤防の一部で川岸に突き出た部分)の代用にもなっているように考えられる。柳の木は深さ一間ほど掘り込んで植え、地表の上へ二、三尺も出しておけば生長しやすいものなので、少々川水の当たりが強い岸際に構えても、植え方次第では生長するものと思われる。」

 

柳の木を植えるのに、深さ1.8mですか掘り込むというのですね。大変でしょう。

 

高野山領のことを言っているのかと思いますが、

「寺領の川端に住む百姓たちのやり方を見ると、川原の中の水勢の強い箇所や低い箇所にはまず柳を植えて、 一、二年後土がたまったならば、次に細竹を植え、地面の土溜まりがよくなればさらにそれらの箇所の外側へ竹木を植えだして、内側を畑にするか、よい藪に仕立てているのである。」

 

当時は、竹木も藪もちゃんとした洪水対策の手法だったのですね。

 

才蔵は、さらに川端の空き地へ竹木を植えることの治水と土地利用のメリットを指摘しています。

 

ここでは、連続堤防で直線的に素早く流水を下流に流し、さらに海に流すといったある時期から採用された河川管理手法ではなく、流水の勢いをそぐこと、その方策として竹木の植栽とその後の土地利用を提示しております。

 

最近起こっているような異常豪雨には対応できるとは思えないですが、自然の脅威を柔軟に受け止める、おそらく長い歴史の中で培ってきた手法を改めて再確認しているように思うのです。

 

私たちが現代、新たな脅威とされている異常気象も、常日頃から自分たちの生活環境や周囲、さらに源への意識を持ちつつ、それぞれが抱えている身体的な弱点を考慮に入れて、事前に、できるだけ早期に、リスクを知り、対応する不断の努力が、一人だけでなく相互に助け合いながらやっていく必要があるのではとふと思いました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 


大畑才蔵考その19 <作図の技術と歴史を少し考えてみる>

2018-07-09 | 大畑才蔵

180709 大畑才蔵考その19 <作図の技術と歴史を少し考えてみる>

 

今日調停成立を見込んでいたのが、内容が執行力の点で不十分と言うことで、次回に延びました。当事者代理人は了解していたのですが、裁判所が調停の執行力にこだわり、成立ができませんでした。裁判所からすると、調停の内容がもつ執行力に重点がおかれるのは分かりますが、本件は行政許可手続との関係が問題となっているので、その早期退所が必要なため、不十分な内容と知りつつ、当事者双方了解したのですが、裁判官の理解を得られませんでした。

 

もう少し事前に協議しておけば良かったのですが、いろいろ事情があり、裁判官対策を怠った結果なのでやむを得ません。今度は行政への説明が必要となりました。そんな疲れた一日で、急な土砂降りもあり、あまりブログを書く気分になれない状況です。こういうときは才蔵さんにでてもらい?勝手な議論を展開することにしました。

 

大畑才蔵という江戸中期の農業土木技術者として偉大な業績をあげたことはこれまでも触れてきました。とりわけ当時、紀ノ川という大河川から取水して長大な灌漑水路を建設した功績は高く評価されて良いと思います。

 

彼が当該灌漑事業について言及している古文書では、その事業に必要な水量を田んぼ一枚でどの程度必要か、その田んぼの土質や広さを考慮に入れて計算するなど、受益面積と受益水量を算定しています。他方で、灌漑用水を通すことにより、つぶれる田んぼ、他方で不要となるため池などの収支も当然、計算に入れています。

 

とりわけ彼の有能さを示すのは、作業する農民の繁忙期を避け、集中的に事業を行うため、事業区間を区分しつつ、その区間に必要な土量を計算し、一人当たりどのくらい運べるかを考慮して、区間ごとにどのくらいの作業人数を投ずれば良いかを割り出していくのですね。いまでは当たり前ですが、極めて合理的な算術を使って、集中的、効率的に事業を実施しています。

 

ところで、今日の話題である作図ですが、ポンチ絵にもならないような作図しかのこっていないようです。紀ノ川という大河を堰き止める取水する、堰・圦口は相当精巧な作図があっても良いと思うのですが、見当たらないようです。いや、世界灌漑遺産登録された「龍之渡井」もそうです。子供でも書けそうな絵はあっても、構造を示すような作図はないようです。

 

では、江戸時代までにそのような作図はあったのだろうかとふと考えてしまいました。あの前方後円墳、前方後方墳など、世界的にも奇妙な形状で、しかも世界最大クラスの規模のまで建設したというのに、作図は残っていないようです。

 

しかも前方後円墳も多様な形態がありますが、大規模な大仙古墳や誉田山古墳などでは、そのスケールがほぼ類似していて、高度な計算や測量、そして構造図の作図(少なくとも頭の中で)能力ながないとできないようなもののようです。

 

話は違いますが、日本庭園は当初は中国のものを模倣したり、鎌倉期では多くの中国の禅僧が庭園を普及していますが、室町期くらいからはまさにわが国特有の庭園が広がっていったのではないかと思うのです。その場合も庭園の作図は残っていないのではないでしょうか。現在では公園や庭園はデッサンから作図、それも詳細な図面が用意されますね。でも当時はそのようなものがない中で、現在まで評価されて残っている多くの庭園が造られてきたのでしょうね。

 

また話がずれますが、戦国末期は、多くの城が作られるとともに、水攻めが有効な戦略としてとられていますね。備中松山城、若山太田城、埼玉の忍城とか、でしょうか。これらはまさに大河川を堰き止め、堤防を築き、一気に城の周りを冠水させるわけですね。

 

すごい土木技術だと思うのですが、その技術は戦時秘密として残っていないようです。作図もないのではと思います。それで現代人はいろいろその構造を解明しようと苦悩しているようですね。

 

と長々と書いてきましたが、戦国時代の軍事機密はわかるのですが、作図というものがのこっていないのか、作図の能力がなかったのかふと考えたのです。いや頭の中で考えていたのかもしれません。

 

作図の経験がなかったのかもしれません。城に関しては、たとえば安土城とか、一部残っているとか聞いたことがありますが、真偽は不明です。まったく作図の能力がなかったとは思えないのですが、作図の技術の伝達がなかったのかもしれません。空海ですら、唐から多くの土木技術を学んできて、満濃池の修復を指揮したというのですが、その技術を示すような作図は残っていないように思います。

 

おそらく明治維新になりようやく欧米の設計図といった手法が導入され、次第に作図もだれもが習得できるようになったのではないかと思うのです。

 

18世紀後半、解体新書を描いたのも、たしか絵師が作画したと思いますが、まだ医学知見がない時代ですから、模写しても十分とは言えなかったと思います(むろん画期的なものであることに異論はありませんが)。

 

才蔵には絵師もおらず、またそういった土木技術書の原書もないわけですから、いくら頭脳明晰でも作図するには無理があったのでしょう。それよりも作図というか、地形図・地質図はもちろんのこと、設計図・施工図もない中で、巨大プロジェクトを実現したのですから、やはりすごいことだと思うのです。

 

ちょうど一時間となりました。これにておしまい。また明日。