たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

四大公害病訴訟 <イタイイタイ病 病苦も古里の歴史>を読んで

2018-05-09 | 司法と弁護士・裁判官・検察官

180509 四大公害病訴訟 <イタイイタイ病 病苦も古里の歴史>を読んで

 

今日はどうやら調子が良くないですね。さきほどまで打ち合わせをしていたのですが、いろいろな電話対応や雑務もあって、仕上げなければいけない仕事があるのに、どうも一休みが必要です。ブログ書きはそういうときに役立つこともあるのですが、簡潔にしないと気分転換になりません。武田のシャイアー買収も興味深いと思ったのですが、これは込み入りそうなので、あきらめて表題にしました。

 

70年当時であれば重い課題ですね。いまでも苦しんでいる方がいますので、重くないとはいいませんが、やはり振り返ることができる問題になったかと思います。

 

毎日記事<イタイイタイ病病苦も古里の歴史 公害病認定50年、父の闘い語り継ぐ>も、苦しみをふるさとの歴史と捉えて、語り部となっている小松雅子氏を取材したものです。

 

<富山県の神通川流域で発生した「イタイイタイ病」(イ病)を国が初めて公害病と認めてから8日で50年となった。患者と遺族らでつくる「イタイイタイ病対策協議会」(イ対協)の初代会長で、半生を被害者救済にささげた故・小松義久さんの次女雅子さん(62)はこの日、「イ病は忘れてはならない古里の歴史です」と中学生に特別講演し、語り継ぐ責務を強調した。【森野俊、田倉直彦】>

 

病苦と訴訟で闘ったご本人はすでにお亡くなりなって、次の世代がその価値を継承しようとしているのですね。

 

ところで、四半世紀以上前でしたが、この四大公害訴訟を研究者、告発者、医師などの立場で立ち向かった先人と一緒に飲み会談し、雑魚寝したことを思い出しました。宇井純、原田正純など諸先輩が弁舌を振るい、大いに飲み酔っ払い、その当時の話を力説されました。懐かしい話でしたが、すっかり忘れてしまいました。多くの方が物故者となられましたが、当時でもまだ青年のような心意気をお持ちだったように思うのです。

 

70年頃は、この四大公害訴訟も私も関心を持ち、未熟ながらいろいろ書籍を読み勉強したものです。でも生きた諸先輩の語りは「公害原論」や「水俣病」を文字で追うのとは全然違っていましたね。

 

それはともかくイタイイタイ病の歴史の一端が紹介されています。

< 小松さんや住民は、国の公害病認定に先立つ1968年3月、原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を求めて提訴に踏み切った。

 だが財閥企業相手に鉱毒被害を訴える行動には、反発さえあった。「米が売れなくなる」「嫁が来なくなる」。小松さんは「裁判に負けたらここに住めない。戸籍をかけた闘いになる」と決意を固めた。無言や脅迫めいた電話がかかってきた。黙って聞いた後、決まって下を向いて黙考する姿に雅子さんは胸を痛めた。72年の勝訴確定後も患者に寄り添い続けた。「だめだったか」。訃報を聞くと、真冬の深夜でも雪を踏みしめ、亡くなった患者のもとへ駆けつけた。

 小松さんは母、祖母ともイ病で失い、自身も85歳で亡くなる2010年2月の数カ月前から入院。原因物質のカドミウムの影響で腎臓が悪く、体の痛みもあり、「やっと患者の気持ちが分かった」とつぶやいたという。一方でイタイイタイ病資料館の開館(12年)が決まると喜びをかみしめた。「真実を真実として伝えてほしい」>

 

公害病って何という時代でしたからね。原因物質を特定して、排出源としての特定企業自体の工場内での発生機序、排出から被害発生までの因果関係を被害者が証明しないといけないとの立論が支配していましたから、大変なことでした。

 

当時の先端的法学者はさまざまな法理論を生み出し、支援する役割を担ったと思います。いま記憶のままに理論を思いつくまま書き出すと、ぼろが出そうなので、今回は差し控えます。

 

記事では<67~69年は四大公害病訴訟の提訴も相次いだ。68年提訴のイ病第1次訴訟はいち早く原告が全面勝訴し、72年控訴審で確定。それまで企業側は科学的証明が不十分として因果関係を否定してきたが、イ病訴訟原告は、地域の発症率などから原因を推定する疫学的手法で立証した。>とそれまでの個人ごと、原因物質ごとの因果関係立証から、疫学的因果関係による立証によりこれを代替する役割を裁判所が認めていったことを取り上げています。

 

このような疫学的因果関係論は一時相当人口に膾炙されたと思いますが、最近はどうでしょう。今回の福島第一原発事故での損害賠償論でどのような活用がされているのか、私は事件をフォローしていませんので、なんともいえませんが、相当後退してきた印象です。

 

<元環境事務次官で一般財団法人「日本環境衛生センター」の南川秀樹理事長は、当時の住民運動や国の施策について「原因企業に公害防止や患者への賠償などを負う義務を確立させた。国の環境行政にも汚染対策事業を盛り込むきっかけになり、他の公害対策に大きな影響を与えた」と話している。【鶴見泰寿、森野俊】>というのはたしかに事実でしょう。

 

ただ、あくまで原因物質を特定し、その定量分析結果を踏まえて、閾値を超える排出を追求するということが、いつのまにか疫学的因果関係の基本要素になったような考え方が支配的になってきて、そこにこの考え方がある意味で使われにくくなったようにも感じています。

 

本来、疫学的証明は、原因物質の特定は必須ではないはずです。多様な有害化学物質が、特定できないものも含めて大量に排出され、それぞれの原因物質の定量分析結果では閾値を超えない程度のものであっても、それは疫学の因果関係証明としてはそれだけで否定されるものではないはずです。

 

四大公害訴訟で重要な役割を果たした疫学的手法、改めて問い直される時代かもしれません。

 

そんなことを考えながら、30分で終わらせました。また明日。