180102 AIとの付き合い方 <縮む日本の先に AIと生きる/2 自動運転始まる村の「足」>を読みながら
昨年はAIの進化を伝える情報に日々接してきたように思います。いやスマホなど生活のいろいろな場面でその驚異的な進化を体験することも少なくなかったように思います。今年はその傾向はもっと増えるでしょうね。それは私の寿命の尽きる時まで止まることがないでしょうから、それは観念してというか、それを楽しむ境地でいたものです。
私自身は信頼しつつ疑いの目をもってAIなどの科学技術の進歩を見てきたように思うのですが、案外無意識のうちに信じ込まされていることを体験させられます。
今日の出来事はAIと直接関係がないかもしれませんが、車のナビゲーションシステムの情報からハプニングが起こりました。実家の駐車場の前が一方通行であることを知らないでいたところ(普段は別の駐車場に止めていたのです)、それを知らされて、ぐるっと大きく回って玄関に着けるようにしていました。ナビを見ると私の知らない町の中を通って玄関の前に出るコースが載っていました。はじめは知らないところなので、気にしなかったのですが、近回りなので行ってみようとついそのコースをとりました。
それからが最悪の状況となりました。古い時代からの町並みで、その中に細い道路が通っていました。大丈夫かなと思いつつも、なんとか通り抜けできるだろうと高をくくってしまいました。大通りに出るところまで近づくにつけ細くなっていました。これはまずいなと思いつつも、バックするのも大変で、なんとかなると思いそのまま進みました。
大通りに出る直前で車が動かなくなりました。どうしたのだろうと車を止めて前から見ると、車の左側が大きな石にぶつかっていました。これでは前に進めないはずでした。通りにでる直前の家の持ち主が接触防止のためにか頭大くらいの石をコンクリートで据え付けていました。
石には遠くから気づいていたのですが、ナビが通れるコースにしていたので、通れると思い込んでしまっていたのですね。石のあるところまで来たときは、その先の大通りの通りのことが気になって、石が障害になることを失念してしまっていたようです。
ともかく車は前にはす住みませんのでバックしか方法がありません。でも全身ですらギリギリでしたから、私の未熟な運転技術では退路もふさがれた状態に等しいものです。そんなとき救いの神が現れました。ナビでは救ってくれません。右側の家の方がたぶん石との衝突音か何かで気づいて出てきて、バックするのを助けてくれました。50m以上100mはなかったと思いますが、大変な時間をかけてようやく救出されました。
救い主に感謝、感謝です。
でも車は見事に前部の底と、左側ドアに大きな筋が入ってしまいました。安易にナビを信じて、自分の腕を見極めなかった結果で、自業自得ですね。
AIは視覚、聴覚、頭脳の機能が格段に進んでいますね。私の身近でも感じられるくらいですから、最先端領域では想像できない段階を目指しているのでしょう。
たとえば私自身は、腱鞘炎などでタイピングができなくなることが多かったので、20年以上前からIBMのPCに装備されていた音声入力を初めて以来、なんどもいろいろなソフトを試してきましたが、まともに認識したり、文字化できるのに出会ったことがありませんでした。でも昨年暮れ手にしたスマホの音声入力はかなり難解な文章でも相当程度文字化できびっくりです。いずれこのブログも音声入力にしようかと思ったくらいです。
前置きがいつものように長くなりましたが、毎日の元旦記事は連載物ですが、わたしがこのブログで何度も取り上げてきたAIと人間との関係性について、これから起こるさまざまな事象の一端を示しているように思い、少し書いてみようかと思ったのです。
毎日記事は<縮む日本の先に AIと生きる/2 自動運転始まる村の「足」 ぬくもりは負けない>、<縮む日本の先に AIと生きる/1(その2止) AI導く未来の針路 自宅で夜9時、スマホ面接>です。
<縮む日本>というタイトルに、多くの人の脅威を代弁しているのかもしれません。ただAIに対する意識は十人十色ではないかと思います。むろんAIが代替する業務・作業などは多方面で急速に拡大するでしょうから、いまやっている仕事がその分なくなる可能性は大きいでしょう。
上記の最初の記事で取り上げられた田舎のタクシー運転手の役割も変わることは間違いないでしょうね。
実家でも母親の移動はタクシーですが、介護タクシーでないと、ほとんど乗り降りなどに協力しない運転手がいるそうで、自分は運転手でA地点からB地点に運ぶことだけが仕事と割り切っている人が少なくないそうです。母は車から降りることも歩くこともできません。それでも気にならない運転手が多いそうです。
中には停車した途端、運転席から降てきて後者の手伝いをしてくれる人もいるそうです。そういう運転手の場合は指名も多くつくようです。むろん介護タクシーを頼めばいいのでしょうが、普通のタクシーでもただ運ぶだけだと自動運転車両に取って代わられる可能性は大ではないでしょうか。
さて記事では公共交通機関の代替機能を営むタクシー運転手の業務の将来が、山間地などで自動運転車両の道の駅を中心とする戦略的な導入を図る国交省の動きを報道しつつ、これまでの地域交通を支え得てきた運転手が心温まるサービスをしてその業務維持を図る努力を紹介しています。これらの選択は地域ごとで一義的に決まるのではなく、微妙に地域特性に合ったミックス方式が生まれるようになる気がします。とはいえ、いずれは自動運転車両が中心になるのでしょう。
江戸時代に栄えた駕籠かきや、維新後に普及した人力馬車のように、時代の趨勢に飲まれてしまうのでしょう。おそらく自動運転車両はさらに人間の持つコミュニケーション能力を発揮して、運転中もお客に対応する適切な話題提供も可能になるように思います。
では職を失ったタクシードライバーはどうするのでしょうか。駕籠かきや車夫のように、新たな時代に対応する能力を自然にではなく、政府の支援事業などによりスムーズな職業移転が可能になるような気がします。それには政府の思い切った対応が求められるように思うのです。
もう一つのAI面接官の件は、人事採用の評価の在り方が大きく変わる可能性を示唆していますね。このことは、現在行われている書類選考の基準なりあり方自体が変わることをも意味しているように思うのです。それはハローワークなども含め人材市場の在り方も大きく変革する兆候の一つでしょう。
それは退職判断をするAIの機能ではより複雑さを増すためか、十分機能していないというか、一時判断としてもまだ使えないのかもしれませんが、評価基準の試行錯誤でより実効性のあるものが学習機能で生まれてくると思いますので、いずれはAIに退職勧告が言い渡される、あるいは適切な改善指導を、人事担当者に代わって行うかもしれませんね。
ここまで書いてきて、遅い訪問者が現れ、1時間余り話を自分の家族の話をして帰っていきました。何を書こうとしていたのか、ちょっとあやふやになり、時間も12時が近づき、田舎で一人で考える時間をとることが容易でないことを痛感しながら、今日はいろいろ疲れがたまり、この辺でおしまいとします。 また明日。
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