180329 墓石・墓地を考える <身じまい練習帳 新しい葬送のかたちを考えたい>などを見聞きして
先日、わが家の目の前に林立するヒノキの梢に停まった野鳥の同定ができなかったことを書きました。杉木立とつい滑ってしまいましたが、語感がいいので、そうなったのですが、あくまでヒノキです。目の前にあるスギとヒノキの混交林は、スギがまだ若木ですが、ヒノキは古木の外観です。といっても手入れをしていないためで、貧弱な様相です。
ともかくその野鳥の名前、今朝はっきりわかりました。お腹がしっかり赤茶に見えていまして、アカハラかなとか思ってしまいましたが、濃紺の背広を着ていますので、つまりイソヒヨドリでした。隣の家の電線に止まっていたのではっきりわかりました。それで今度は、わが家の前のヒノキの梢に飛んできたので、こんどはばっちりと確認できたのです。
仕事が一段落して、ぽかぽかしたいい日和でしたので、近所の墓地を少し散策しました。実は、事件の関係者の墓石があり、どんな状態かを確認する意味もあって出かけたのです。ところが、依頼人から聞いた場所がよくわからず、墓地内をうろうろしてしまいました。
ちょうどそのとき石屋さんがきていて、ある墓地区画に小さな穴を開ける作業をしていました。以前あった墓石を除去して(改葬か、墓じまい、なのか?)、新たに墓石を準備しようとしているのでしょうか。以前、墓地のそばに経っていた巨木を伐採した際、誤って墓石の方に倒れたため、墓石の一部が損傷した事件を引き受けたことがあり、いろいろ墓地について調べたことがありますが、建立場面を見るのはあまり経験がありませんので、本来の墓石探しをしながら、その作業を見ていました。
ともかく本来の墓石を発見しました。さすがに彼岸の季節ですので、たいていの墓石は生花などが活けられていて、華やかでした。が、当の墓石は、壊れた容器が墓石の上に置かれてあったり、相当以前に活けたと思われる枯れ果てた跡が残っていて、長く供養に来ていないことが一目瞭然でした。
そして竿石には、故人の戒名・俗名が彫られているわけですが、建立者である両親の名前があるのみで、その子息2人も亡くなって10数年経過しているというのに、名前が彫られていません。竿石に彫る場所がない場合、霊標を新たに建立してそこに彫ることも一般に行われていますが、それもありません。
通常、墓に納骨すると、その戒名が竿石あるいは墓標に彫られるわけですが、これらがないということは一体、どういうことでしょうと思ってしまいました。子息は、一人は障害のある長男で、もう一人は跡を継いだ三男で、妻がずっとすぐ近くの自宅に住んでいたというのに、どういうことかと思ってしまいました。
両親は、障害のある長男が一人では生活できないことを心配して、全財産を三男に残し、長男の世話を任し、残りのきょうだいしまいはそれを承諾したのですが、三男は金遣いが粗く、ほとんどの財産をなくしてしまい、一時は自宅にも住めない状況で、妻とも離婚して子供も一緒に出て行ったのです。
それでも他のきょうだいしまいの支援で借金を返し、なんとか自宅に住み、後妻と暮らし、長男の世話もするようになりました。しかし、亡くなったときはほとんど財産が残っていませんでした。
その結果でしょうか、墓地も見捨てられたような状態です。かなりの土地を保有していた両親としては、墓地を建立し、永く世代継承されることを祈ったのでしょうが、なかなか思い通りにならないものですね。
と前置きが長くなりましたが、毎日記事<身じまい練習帳新しい葬送のかたちを考えたい>は、長らく錬成していた最後のものです。
<栃木県鹿沼市・・・珍しい土葬具>や<熊本県人吉市・・・無縁墓><石川県輪島市・・・火葬場で出る残骨灰の供養会><中国の新しい霊園>などを多くを見てきた<社会部編集委員・滝野隆浩>は最後に次の言葉を残しています。
<「墓も葬儀も要らない」でいいのかどうか。みんなが得心する社会の規範のようなもの、新しい時代の、新しい葬送のかたちについて、私はもっと考え、議論していきたいと思っている。>
私も四半世紀前から、いろいろな葬送を見聞きしてきました。中国も含め外国も。なにが誰のために必要かは、それぞれが考えていくべきことでしょう。と同時に、自分の葬儀・墓については、自分なりの意見を持っておくべきと思っています。私は、四半世紀前以上まえからほとんど気持ちが変わっていません。何を見てもその考えに今のところ影響がないようです。
自分一人を考えてみれば、亡くなった後に行われる葬儀を含む葬送は、この世に生を受け、一生を送らせてもらった自然に最も敬意をもちたいと思っていますので、その天地自然にできるだけやさしくありたいと思うのです。それは生きているときもそうですが、死んだ後はとりわけそうあるべきとおもっています。といって亡くなった段階では自分は何もできません。
仮に行方不明になったとしても、遺体を探したりする必要性はまったくないですし、そのような費用があればより救われるべき人・ものに使われるべきと思っています。
私には墓地も墓石もいらないのです。葬儀も不要です。むろん延命措置なんてことはわたしにとって無用の長物です。長生きを希望するか、そんな気持ちもさらさらありません。ただ、天から授かった命、できるだけ大事にしたいとは思います。自然の寿命を感じて、空海のごとくにはいかなくても、自ら死を受け入れることこそ本望ではないかと思うのです。
死をタブー視したり、そのことを考えるのを避けたいなんてことは私には理解できません。とはいえ、理解しようと努力はしますが。遺言は相談があれば一応、おすすめしますが、私からするとたいした意味がないと思っています。仕事上、なんども関係してきましたが、それ以上に大切なことは生死の決定や死ぬ前にすることではないでしょうか。むろん死後に問題が生じる可能性があれば、その配慮が必要でしょうから、遺言書も意味がないとはいえません。それより子育て力を注ぐのが本論でしょう。といってもお金や地位があり継承問題があれば、どんないいきょうだいしまいでも、争うことを見てきた身としては、これが世の中かもしれないと思ってしまいますが・・・
どんどん脈略がなくなってきました。今日はとくに書く話題がなく、安直にほんとは重要な問題であるのに、取り上げてしまいました。もう時間となりました。
本日もまた中途半端ですが、おしまい。また明日。
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