たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

自分の健康とは <養老孟司・評 『健康診断は受けてはいけない』>を読んで

2017-04-02 | 健康に生きるとは

170402 自分の健康とは <養老孟司・評 『健康診断は受けてはいけない』>を読んで

 

今日も穏やかで暖かな一日です。今日も午前中荷物運びをして、少々疲れたもののブログを書く時間が割合早くとれたので、600字を目処に書いてみようかと思います。

 

毎日日曜版は「今週の本棚」が楽しみです。今回は養老孟司氏の書評。そういえば養老氏は以前も取り上げました。やはりパイプの煙以来、なにかとそのエッセイは気になります。

 

とはいえ以前、養老氏を私が関係する会でお招きして、講演をして頂いたとき、期待が大きかった分、内容が少し物足りない印象でした。というかお忙しい方でしょうから、引っ張りだこで準備も十分でなかったのかもしれません。講演の内容があっちこっちに流れ、その意図、主旨を理解するのになかなか骨が折れました。とはいえさすが養老先生、観客席は満杯で、皆さんの拍手の大きさからも好評でした。主催者としてはなによりでした。

 

余談はその程度にして、養老氏がとりあげた書籍のタイトルがいいですね。著者は「ガンと闘うな」というお医者さんで、今度は「健康診断は有害無益だ」と主張する内容とのこと。

 

これは私自身も同感なのです。素人が言ってもそれは影響がないですが、著者も、評者の養老氏も医学の専門家です。養老氏も自ら健康診断を受けていないと告白しています。その意見は一つの科学的根拠によっているところがいいです。

 

<私は人体を理解しようとして、ほぼ諦めた。ヒトの始まりは一ミリの五分の一の大きさの受精卵である。それが数十年経(た)つと数十キロの個体に育つ。その中に脳ができて、意識が生じ、その意識があれこれ言う。その発育過程全体が論理的に理解できるだろうか。>

 

この人体の不思議に挑戦してきたのが医学ですが、この指摘だけで納得する人はいないでしょう。しかし、長く医学部(解剖学)で多くの医学生を世に送り指導してこられた養老氏だからこそ、重みのある発言ではないでしょうか。

 

この点、医学における診断・治療といっても、基本的にはデータが基本的な根拠だと思います。TVなどで症状の診断・治療を研修生に回答させるNHK番組だったと思いますが、いかに医学生の能力が高いか、緻密かが垣間見られるとともに、その適切な診断や治療方法の選択の難しさの一端を知ることができます。しかし、彼らも膨大なデータで得られた疫学的因果関係を基礎にして、病理的解析を加えて適切な医療知見を生み出してきた先達や社会システムによって得られた成果をある意味利用しているにすぎないというといいすぎでしょうが、活用させてもらっているのでしょう。

 

養老先生は、見事に、著者の主張の根拠に迫るのです。まず<健康診断は有害という主張は、それをシステム化している日本の世間の常識に反する。それならその主張には相応の根拠が必要である。じつは欧米のデータはそれを示す。>とデータの根拠を示すのです。

 

そして返す刀で、<なぜ著者は自分でデータをとらないか。その理由はよくわかる。データを自分でとるには人手と手間、つまり研究費が必要である。それを出してくれるのはシステムを動かしている人たち、たとえば厚生労働省、製薬会社、医学界。個人ではとても太刀打ちできない。あとは自然に理解できるであろう。>と述べて、プロとしてのメスをしっかり本質に切り込んでいます。

 

最後がいいですね。<意識は自分の身体を十分に理解できるようにはできていない。それを理解できると思い、できるように語るのは、現代人の傲慢である。そう思うから、身体のことは身体に任せるのである。>ここでつい相槌を打ちたくなるのです。

 

私はなぜ健康診断を受けないのか、養老先生ほど、高度な意識ではありませんが、現代の医学的知見ではまだまだ人の健康を診断することは困難だと思っています。むろんさまざまな成人病やガンの初期段階での診断の可能性はある意味高まると思います。しかし、健康診断を定期的に行っているから大丈夫といった判断は過信以外の何物でもないと思っています。

 

少し飛びますが、たとえば子宮頸がんの診断なども、疫学的データからは、その診断の効果がさほど高いともいえないことが以前の医学文献で見た記憶があります。

 

といって素人考えで、いろいろなウェブ情報を基に、自分の症状をあれこれ悩んだり、効果的な治療を喧伝する医師に頼ってしまうのも、これまたいかがかと思うのです。

 

私自身、素人であることを自覚しつつ、自分の体の変調を常に意識し、あるときは多種多様な診断をしていただくこともありました。そのとき発見が遅ければ、それは自分の天寿と思っています。日々、自分の体のそれぞれと対話して、どうかなとお伺いをたて、大丈夫そうな範囲で生活を送る、いまどきの高齢者の一人の生き方かなと思っています。

 

体を構成する60兆の細胞を理解するということは、とりあえずあきらめ、対話の喜びを感じる方に生きる楽しみを感じた方が私らしいと思っています。むろん健康診断といった検査データも一つの対話だと思うので、それを一つの手がかりにするのもいいでしょう。それは人それぞれの生き方でしょう。

 

今日も短く終わることが出来ました。残念ながら600字というまとまったものには到底近づけませんが、これも徒然なるままに書き連ねる「たそかれの散策」の心意気か、あるいは限界か、それは読者の判断にお任せします。ただ1時間600字といういま掲げているテーマの1時間というのは優にクリアしていますので、こんどは600字に挑戦して、痺れ感の続く指の回復を待ちたいと思います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿