たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

認知症を生きる <認知症と暮らす意味とは?>と<認知症になっても役に立てる>を読みながら

2018-05-21 | 健康に生きるとは

180521 認知症を生きる <認知症と暮らす意味とは?>と<認知症になっても役に立てる>を読みながら

 

今朝もイソヒヨドリがベランダの手すりでさえずりをしています。居心地がいいのでしょうか。恋人を待っているのでしょうか。昨日は庭の剪定をしていて隣家の奥さんからきれいにしていますねと言われました。褒められるとお世辞でももう少し頑張ろうと思うのが人情でしょうか。

 

裏庭だとほとんど気づかれることもないので、勝手気ままに庭いじりをしていますが、通りに面したところだと、あまりいい加減にできないと心の中では思いつつ、普段はだいたい伸び放題にしています。花も枯れて、しおれてもそのままです。たまには面倒見てやらないといけないかなと思うのですが、なかなか思うようにいかないものです。たまにきれいにしようと思っているときに褒め言葉がかかると、次はもう少しと思うのところはまだまだ認知症の領域は遠いと自己満足しています。

 

ところで、認知症の簡易判断方法として<「長谷川式簡易知能評価スケール」>は人口に膾炙していますが、今朝の毎日記事にその方が登場していました。私は失礼ながら、もう来世にのんびりされていると思っていたのですが、現役で仕事をされているようで、自ら認知症の発症を公表されたりして、話題になっているようです。

 

毎日朝刊記事<そこが聞きたい認知症と暮らす意味とは? 精神科医 長谷川和夫氏>では、<認知症研究の第一人者で、検査法を確立したことで知られる精神科医の長谷川和夫さん(89)が昨年、認知症の発症を公表した。「普通に暮らす私の姿を見て、認知症になっても大丈夫と安心してもらいたかった」と話す。自ら患者の立場になり、認知症ケアにおける「一人の人間として尊重する」ことの意味をかみしめているという。【聞き手・原田啓之、写真・太田康男】>

 

ただ、その発症の確認方法は、長谷川式とは少し異なるようですね。

<認知症の発症に気付いたのはいつごろですか。

 1年くらい前から、記憶に「確かさ」がなくなったと感じました。例えば外出時に「玄関の扉に鍵を掛けたかな」と気になって家に戻ります。一旦確認して家を出ても、また鍵が不安で戻る。これを1日に何度も繰り返すようになりました。私は50年も認知症に関係する仕事をしているものだから、すぐに「おかしいな」と分かりました。>

 

CT検査等の結果は、<「嗜銀顆粒性(しぎんかりゅうせい)認知症」=1=と診断>ということで、軽いようですし、進行も早くないようです。

 

長谷川氏は、診断結果にショックを受けつつも、認知症になっても症状を自覚して生活すれば、普通に暮らせることを示したかったようです。

<仕方がないと受け入れています。また、私の場合は夕方に疲れてくると認知症の影響が出てくるのですが、午前中は頭がはっきりしています。以前と変わらずに近所を散歩したり、映画を鑑賞したり、教会で礼拝に参加して聖書を読んだりしているのです。毎日楽しいですよ。>

 

<「パーソン・センタード・ケア」(本人を中心とした介護)という理念>を長谷川氏は訴えているそうです。

 

その具体的な内容はここでは明確にされていませんが、長谷川氏は自らの体験から、日本の介護レベルの高さを指摘しています。

<日本の介護はレベルが高く、パーソン・センタード・ケアといえるものもあります。発症後に利用した近所のデイサービスはスタッフの気遣いが行き届いてすばらしかった。利用者一人一人のことを把握し、まめに「いかがですか」「一緒に体操しませんか」と優しく声をかけてくれる。>

 

長谷川氏が体験したような介護の実態は、はたしてどの程度介護の現場で実現できているのでしょう。私がたまに訪問する介護施設では、そのような状況になるにはさらにスタッフが必要ではないかと感じます。ただ、介護職員の多くがまじめに明るく接しようとしているのは感じられます。マンパワーの不足を感じます。

 

ところで、もう一人の医師鎌田實氏は<さあこれからだ/152 認知症になっても役に立てる>の中で、<「蝶の眠り」というすてきな映画>の紹介で、<「アルツハイマーになっても小説を書くことも、人を愛することもできる。美しく、やさしく、可能性に満ちた映画だ」>と指摘しています。

 

他方で、アルツハイマー病の遺伝子をもっていても発症させないカギとして、慢性炎症を防ぐことと提言しています。それを防ぐには糖尿病や歯周病にならないことを勧めます。

 

そしてキーポイントとして、<骨ホルモンのオステオカルシン>に注目し、この分泌を促すには<かかと落としのような骨に衝撃を与える運動がいい。>と自ら実践しています。

 

そういえば、NHK番組でもゴースト血管を防ぐには、かかとおとしがいいと言っていたかと記憶しています。

 

そして認知症になっても大丈夫というのを、若年性認知症の男性の友人の言葉を引用しています。

<彼は「認知症患者にも満ち足りた生活がある」と言う。そのために、(1)ないものねだりをしない(2)小さな目標を立てて達成感に浸る(3)好きなこと、楽しいことを見つけて実行する--を心がけているという。>

 

そうですね。認知症にならない配慮も必要ですが、なってもそれなりの生き方はある、一度限りの人生、気持ちの持ち方次第で活き活きと暮らせますよね。

 

ということで今日はおしまい。また明日。


歩くことの意味 <ふくらはぎが第2の心臓>とか<あと10cm歩幅を広く>とかの話を聞きながら

2018-05-20 | 健康に生きるとは

180520 歩くことの意味 <ふくらはぎが第2の心臓>とか<あと10cm歩幅を広く>とかの話を聞きながら

 

今朝は以前から気になっていた生け垣を剪定しました。剪定もやりだすと切りがないのですが、あまり飽きが来ない作業です。すかすかになりましたが、これで生け垣の中に小さな花園を通りからも見えるようになってきたかと思いつつ、いや日の光が差し込みやすくなり、あの事務所に置いておいた少し大きめのバラの花を植えることができるとほくそ笑んでいます。

 

そういえば、田中陽希さんは大変な歩きの達人ですね。高山植物も癒やされるのか、もの凄いスピードで歩いていても、立ち止まり可憐に咲く花たちと邂逅を楽しんでいますね。彼の歩きはどういう身体能力というか、内臓器官というか、彼の気力というか、感嘆するばかりです。とはいえ、海外のアドベンチャーレースでは、彼以上の強者どもが過酷な歩きをするのですから、人間の能力とはすばらしいですね。

 

私にはとてもあのような歩き方はできませんね。若い時代でも。ただ、彼のように大量の水分補給は必要ないのが取り柄かもしれません?私は高校時代下手な野球を一生懸命やっていて、昔のことですから弱くて練習は軍隊並みで、終わるまで水を飲ませてもらえませんでした。そのせいか、あまり水分を必要としないのです。草刈りなんかで汗を一杯かきますが、23時間、ときには⑷,5時間水分なしでやり通します。

 

90年代後半くらいまではリサイクル法制がなく、缶やペットボトルの処理が廃棄物行政としては大きな課題ということもあり、私は一切この種のものを買うことがなかったので、その後も外で作業するときもこの種の飲料を携帯しない習慣がついてしまったようです。脱水症にならないかの問題にはいまのところ出くわしたことがないので、こういう人間もいるのかなと自分で半分感心しています。ただ、車に毎日乗るようになり、和歌山市など遠出するときは必ずペットボトルで水分を補給しています。眠気を催さないためと緊張感を緩めるためでしょうか。

 

ところで、実は今日の話題として、吉野木材業の歴史というか、江戸時代の裁判闘争について書こうと思いつつ、なかなか読み込む気力がでず、このテーマは別の機会にすることにして、ここ一週間くらいのTV番組で見たことをちょっと思い出しながら、歩くことの意味を少し考えてみようかと思います。それで陽希さんの歩きの話を持ち出したのはいいですが、ずいぶん脱線してしまいました。というか書きながら、どういう筋書きにしようかと着想が浮かぶのを待って、あるいはタイピングの指を動かしながら、次にどう話題を展開しようかと考えているのです。

 

まずはNHKアナウンサー(名前は忘れました)が北ウェールズのたしか世界遺産登録の城塞都市?のようなところまで田舎道を5日間くらい歩く番組でした。ウェールズといっても多くの日本人にはなじみが薄く、スコットランドやイングランド、北アイルランドに比べると訪問したことがある人は格段に少ないように思います。という私も行ったことがないので知ったかぶりはできません。ただ、C.W.ニコルさんがウェールズ出身でよく話題にされているので、気になる風土景観でした。

 

さてそこでは150kmくらいを歩いて行くのですが、牧場があちこちに広がっていて、ときにその牧場の中を歩いて行くのです。それが以前にも紹介した「歩く権利」によって認められている私有地の中に一定幅の歩くことができる通路です。1934年にスコットランドで歩く権利法が長い闘争と難産を経て成立したのです。

 

UKのホームページでも、<Rights of way and accessing land>としてその内容が紹介されています。

 

囲われた牧場の中を歩くことができるなんてすてきですね。身近に生まれたばかりの羊の親子と触れ合うこともできますね。たしか歩いている途中で、羊の出産現場に立ち会うこともでき、とても素晴らしい出会いをしていました。私はなんどか私有地のアクセス権が認められているfootpathを歩いたことがありますが、そういった経験はなかったですね。逆にアメリカでは同種の権利が確立されていないのに、ボストン郊外で立ち入り禁止の立て札に気づかず、足を踏み入れて、銃の危険にさらされるところだったのを途中で気づき、冷や汗もので立ち去りましたのを思い出しました。

 

この歩く権利の歴史はとても面白いのですが、それはまた別の機会にして、別のNHK番組で毛細血管をサーモグラフィーで見ると冷たくなっているというか、血流の流れがよどんでいる、その状態が続けばゴースト血管になり、進行すると認知症や骨粗しょう症になりやすいとか。その原因の一つにふくらはぎが活用されていないという話だったかと思います。ふくらはぎは、第二の心臓といわれ、ふくらはぎが適切に機能していると、下肢の血流をポンプアップすることになるので、血流がよくなるとか。

 

そこで紹介されたのがイタリアでした小さな田舎町のご老人たち。なにかゲームを楽しんでいるのですが、いずれも90代、中には100歳を超えた人がいたでしょうか。元気はつらつです。その健康長寿の秘訣は、毎日坂道を歩いているとのこと。そのご老人のふくらはぎはたれさがることなく、ま、ぴちぴちとまでいかなくてもしっかりしています。そのふくらはぎだとしっかり歩けますし、表情も明るく耳も声もいいですね。やはり歩くことなんですね。

 

もう一つの番組も面白かったですね。タレントと一般の方が専門医の前で、歩かされるのです。その歩き方で、身体能力としての?年齢が割り出され、実年齢と比較するのです。そうすると、最初はすべて実年齢より数歳から10歳以上高い結果となりました。そしてその歩き方だと、人によって違いますが、膝が悪化するとか、転倒の危険があるとか、問題にされます。ところが、その専門医のあるアドバイスを受けてもう一度歩くと、ほぼ実年齢かそれより若い年齢になって、著しく改善されています。

 

タレントやモデルは、一応歩き方はきれいな風には見えますが、私が見てもちょっとと思っていました。その他の人はすべてあまり健康的な歩き方ではないなと思っていました。でも2回目の時はかなり改善していました。

 

その改善の秘密は歩幅でした。基本は身長-100cmが適正な歩幅だそうです。それでヒントは10cm歩幅を広げることでした。その結果身体移動もスムーズになり、つま先、かかとのけりも本来的な働きをして、適切に体全体の機能を生かして体重移動を受け止めているようです。

 

私も最近はほとんど歩かなくなったので、歩幅も狭くなりつつあり、歩くスピードも遅くなってきたと思います。首都圏で働いているときは公共交通機関以外はたいてい歩きでしたので、地下鉄駅間の移動なんかも、すいすいと人を抜いて歩いたり、エスカレーターを使わないで、階段を2段ずつ上がる調子でしたから、健康的だったと思います。当地にやってきて歩こうと思いながら、なかなか実行できません。これらのTVを参考に、健康長寿はともかく、寿命が尽きるまで、そしてぱっとお陀仏になるよう、歩くことを心がけたいと思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


safe, clean and connected mobility <EU 30年代に完全自動運転社会>を読みながら

2018-05-19 | 事故と安全対策 車・交通計画

180519  safe, clean and connected mobility <EU 30年代に完全自動運転社会>を読みながら

 

当地にやってきていつの間にか毎日車に乗っています。たぶん乗らない日がないほど。ドライブが好きならいいのですが、楽しむことはほとんどないのです。なぜでしょうか。過剰な緊張があるためでしょうかね。カナダで車を運転しているときは最初は緊張しましたが、ほとんど緊張もなく運転していました。道路に視覚がほとんどなく、道路脇を歩いている人、自転車やバイクもまずなかったのです。

 

街路を走っているときも、あの前財務事務次官が住んでいる住宅街のように、狭い道路で脇道の角まで塀が立っていて、隅切りがないのですからね。カナダの住宅街は基本、ゾーニング計画に基づき、幹線道路が突き抜ける道がなく、住宅街の中では街路が交差するところでは隅切りといった方法ではなく、大きく開いていて双方向の視野がとても開けています。ある住宅地から幹線道路にでるとか、別の住宅地に入る場合はとても不便ですが、それでも安全性という点では格段上です。他方で、どこから人や自転車が飛び出してくると言った様な道路環境はまずないですね。

 

そう思いながら日々、日本の道路をいやいや走っているのです。でも完全自動運転が実用化されれば、それはうれしいですね。最近の記事で、高齢者の場合、認知症検査?がどんどん増えて、予約が一杯でなかなかとれないとか。75歳以上になると、ますます免許更新が厳しくなることが話題になっていますね。それも心配なくなる?かもとか。ま、私の場合はちょっと厳しいでしょうね。完全自動運転が実用化される前に認知症検査でアウトにならないよう、事前対策しておく必要があるかも。いやいや、これをチャンスとみて、歩き専門なるのもいいかもしれません。田中陽希さんとはいかなくても、好きなところを歩いていれば健康を保てるでしょう。

 

とどんどんと脱線しましたが、毎日記事<EU30年代に完全自動運転社会 工程表を発表>はいま話題の問題について、欧州委員会の意欲的なスタンスを取り上げていますので、これを少し紹介したいと思います。

 

<欧州連合(EU)欧州委員会は17日、2030年代に運転手が要らない完全自動運転の社会を実現するための工程表を発表した。「欧州は安全な完全自動運転で世界のリーダーになる」と表明し、安全などの基準整備を加盟国や自動車メーカーとともに急ぐ。>

 

工程表というと、なんだかほんとに実用化が目前のように感じてしまいます。

 

その工程表ですが、<工程表によると、20年代に高速道路での自動運転や都市部での低速自動運転を実現し、30年代に完全自動運転が標準となる社会を目指す。22年までに全ての新車を、通信機能を備えた「つながる車」とする。>

 

ということですので、20年代のうちに、高速道路や都市部、その後30年代には、あらゆる社会でといったことでしょうか。

 

そのための具体的な課題や達成時期については、<加盟国の安全基準統一などのため、指針作りを18年中に開始する。自動運転車に用いる人工知能(AI)の開発に関する倫理ガイドラインなども作成。必要なインフラ整備のために資金支援も実施する。>とアバウトな表現となっています。紙面が少ないので、要約したのでしょうかね。

 

それで、気になり少しECの記事を見たのですが、共同配信記事が引用している元の記者発表記事かどうかよくわかりませんが、<Europe on the Move: Commission completes its agenda for safe, clean and connected mobility>という記事がありました。この中に記者発表全文とか、詳細な内容についてURLが掲載されていますが、ぱらっと見た限りでは、上記記事に符合するとはいえない(別の記者発表?かな)のかなと思いつつ、内容的にはより面白いかなと思うのです。その部分を引用したいと思います。

 

この記事で唯一画像が提供されていますが、センサーで全方位の安全性を認識・対応するようなイメージでしょうか。

 

そういった自動運転の安全性を確保するAIとかITなどの先端技術を高度化することは今後より加速化する必要を訴えているように思います。

 

この点は<Connected & Automated Mobility>として、

 

Cars and other vehicles are increasingly equipped with driver assistance systems, and fully autonomous vehicles are just around the corner. Today, the Commission is proposing a strategy aiming to make Europe a world leader for fully automated and connected mobility systems. The strategy looks at a new level of cooperation between road users, which could potentially bring enormous benefits for the mobility system as a whole. Transport will be safer, cleaner, cheaper and more accessible to the elderly and to people with reduced mobility. In addition, the Commission is proposing to establish a fully digital environment for information exchange in freight transport. This will cut red tape and facilitate digital information flows for logistic operations.>と鮮明にのべています。

 

他方で、Clean Mobilityも優先課題としており、CO2排出削減を基本的かつ重要なアジェンダにしているてんでしょうか。自動化する中で、とくにトラックなどの排出量の多い車両heavy-duty vehiclesに対して重点をおいています。

 

そうなると、私が80代を迎えることができたら?欧州では完全自動運転車両で、交通事故の心配をせず、アクセルとブレーキを踏み間違う心配もせず、美しい風景を眺めながら列車旅行を楽しむようなことができるのでしょうかね。

 

とはいえ、<自動運転車 そう簡単に実現しないこれだけの理由>といった課題は簡単には乗り越えられないと思いますので、EUを含む(最近は中国でしょうか)全世界のあらゆる産業が競争して、この課題も楽々と解決してくれることを期待しておきましょう。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


スマホ考 <くらしナビ・ライフスタイル スマホで心も視野も狭く?>を読んで

2018-05-18 | 心のやすらぎ・豊かさ

180518 スマホ考 <くらしナビ・ライフスタイル スマホで心も視野も狭く?>を読んで

 

スマートフォン、スマホはいつの間にかどこでもそれを見ている人を見かけることが普通の風景になったように思います。

 

私自身は長く縁のない生活をしてきましたので、いまもってなくてはならないものにはなっていません。ただ、携帯からスマホに昨年暮れようやく変えたのは、打算的理由で、電話がかけ放題で低料金というプランにのっただけです。これはやはり便利です。経済的にもメリットが大きいですね。それにかけた時間や相手先、逆にかけられた相手先・時間が記録されているので、とても重宝します。

 

以前の携帯は家族内の発信目的だけに使っていましたので、逆にほとんど携帯しないのが普通となり、ときにどこにいったかわからない状態が多かったように思います。

 

スマホは買ってみて、アプリなど結構おもしろいものがあり、IPadのときのようにほんの1ヶ月くらいは多少使ってみましたが、すぐに飽きてしまい、ほとんど電話以外では使わない状態です。IPadのときは囲碁ゲームにはまって、待ち時間などではよく使っていましたが、囲碁ゲームの最近の出来具合は知りませんが、当時はあまり賢くなかったと思います(たぶん実質初段未満レベルではなかったでしょうか)。

 

むろんSNSとか、ツイッターとかにも関心がないのと、私には親指で動かすのがどうも趣味に合わないのと、ブランドタッチでタイピングしていないと、どうせさえ働かない頭脳がストップしてしまいそうですから、スマホのタッチパネルは滅多に触りません。

 

と私の偏見的視点を持ちだしたのは、いまなおスマホ利用者の意識がわかっていない立場で、毎日記事<くらしナビ・ライフスタイルスマホで心も視野も狭く?>について、考えるわけですから、その見解の狭量さを事前に承知いただきたいためです。

 

ここでは<電車や駅の構内で迷惑な行為>のひとつとして、<「歩きスマホ」をとりあげ、マナーの問題として言及していこうという意図のようです。

 

まず、電車内でスマホ利用者とのトラブル例を取り上げています。

<今年4月、東京都杉並区の男性会社員(29)は通勤中、JR中央線の電車内でスマホゲームに熱中していた男性に手荷物を当ててしまった。次の瞬間、男性はスマホから目を上げ「いってえな! お前、何ぶつかってんだよ」と激高。胸ぐらをつかまれ、戸惑いながらも「すみません、すみません」と謝って、場をやり過ごした。>

 

梅田啓祐記者は、このトラブルの背景を電車内空間の特殊性と、スマホ利用者の心理から専門家の発言を引用してアプローチしています。

<人間の行動心理に詳しい公立鳥取環境大の小林朋道教授(動物行動学)は「一般的に電車内は逃げ場のない閉鎖空間。乗客は不安、警戒、攻撃意識などの心理が働くので不機嫌になりがちだ」と説明する。特に、他人からの危害を避けるために本能的に確保する1メートル程度の空間を「ボディースペース」と呼び、この空間に侵入されると、防御意識や警戒心は高まる。>

とまず、ボディースペース内では心理的バリアが働いていることを指摘しています。

 

そのうえで、スマホの利用時はいいが、離れると、特殊な心理状態が警戒心・不安感を増大するといった見方をされています。

<小林教授は「スマホは、のめり込んでいる間はいいが、一旦離れると不安や警戒といった意識を増幅させる。その意味では迷惑行為の要因といえるのかもしれない」と見る。>

 

でも上記の事例では、スマホ利用者にとっては、のめり込んでいる恍惚?状態を妨害されたことに激高しているように思います。むろん、ボディースペースでの警戒心が増幅した面もあるでしょうが、それ以上に、利用妨害への怒りではないでしょうか。

 

その意味では、ボディースペース論はいいですが、ボディースペース領域は電車内、とくに混んでいる場合にはバリア機能が働きにくい、換言すれば、スマホ利用で熱中するに適した環境ではないのですから、みずからリスクをまねていると意識することこそ重要ではないでしょうか。

 

私はもちろんスマホなんてものをいじりませんし、長い間、電車、とくに混み合った電車に乗ったことがありませんが、首都圏にいる頃は、日々体験していましたので、そういうとき心も柔軟にして文庫本を半折りにしたり、新聞紙も細かく折りたたみ、体が接触していてもわずかな空間を利用して読んでいました。当然、電車の揺れで横に縦に体が振り回され、読むのを中断されるのはやむなしと思っていました。他方で、電車の揺れで新聞紙を他人に当てるような混み具合だと、読むのも断念していました。そういえばまだイヤホンで音楽などを聞くようなスタイルは少なかったように思いますね。だいたいすし詰めのときは足も宙に浮いていましたね。おそらく30年以上前の話ですが。

 

記者は次にあるアンケート結果を取り上げています。

<鉄道事業者でつくる日本民営鉄道協会が毎年実施している「駅と電車内のマナーに関するアンケート」によると、2017年度は迷惑に感じる行為の1位に「騒々しい会話・はしゃぎまわり等」、2位に「座席の座り方」、3位に「荷物の持ち方・置き方」、次いで4位に「歩きながらの携帯電話・スマホの操作」がランクインした。>

 

歩きスマホ、自転車や車に乗りながらのスマホなどなど、スマホの利用の仕方は以前から問題になっていますが、上記の電車内などでは当然の結果でしょうか。

 

この結果に対する識者の見解を披露しています。

<関西学院大の阿部潔教授(公共圏論)は「実際の被害よりも特定の振る舞いに対する不快感が主な要因となっている。歩きスマホも含め、『公共の場を皆で支える』という意識が薄まり、匿名の他者に対する共感が持たれにくくなっている」と指摘する。>

 

公共空間における自分の振るまいが他者にどうような影響を与えるか、それが不快感を与えるかどうかについて気づかない、あるいは心遣いができない人が増える一方、公共空間における所作やマナーに対する意識が高まっているという両面から問題がクローズアップしているのかなと思っています。

 

あるきスマホの問題は、単なるマナーの問題にとどまらないことはすでに多くの関連事故が発生していることからたいていの人は意識しているでしょう。しかし、視覚障害者の立場に立つと、とても危険であることがより理解できます。その意味では障害者に対する配慮を欠いた行動といってよいでしょう。

 

<全盲の人にとっては切迫した迷惑行為といえる。社会福祉法人日本盲人会連合(日盲連)の総合相談室長、工藤正一さん(69)は「私自身はすでに光を失ったが、通勤時に家族と歩いていても怖さを感じる」と訴える。視覚障害者は、白杖(はくじょう)や点字ブロックを頼りに進むため、歩きスマホの人と一度ぶつかってしまうと方向感覚が瞬時に失われる。立ち止まっているわけにもいかず、誤った方向に進めばホームから転落する危険性もある。日盲連の中には白杖を折られたという会員もいて、熱中気味の歩きスマホに強い危機感を抱いている。>

 

私自身、当地に来る前まで、視覚障害者の後見人として対応していましたが、それはとても不便で、公共空間を利用しているとき、前方を確認せずスマホに夢中になっている人がいることを想定しただけで、身震いするでしょう。

 

記者は<阿部教授は「自ら被害者になるだけでなく、加害者になる可能性があることを十分認識してほしい。公共の場に身を置く際には『すみません』の一言でもいい。声をかけ合うなど他者との共生の作法を身につけることが単に物理的なものにとどまらない『バリアフリー』につながる」と話している。>というのです。声かけはたしかに一つの手段ですが、スマホ夢中者にそんな余裕があるでしょうかね。

 

スマホを・・・ながらで利用したいのであれば、音声入力とか、体に装着できるものを利用して、周囲に対する気配りができる状況で使ってもらいたいものです。

 

さらにいえば、スマホを利用することにより失っている時間、心がありませんかと、自分の心と向き合ってはどうでしょうかと言いたいように思うのです。

 

そんな高齢者の話は知らん、というスマホ愛用者の声が聞こえてきそうですが、ま、双方の考えの違いを理解しつつ、問題点を改善する努力をしたいなと思うのです。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


今森流里山を学ぶ(1) <『今森光彦の心地いい里山暮らし12月』>を読みながら今森流を楽しむ

2018-05-17 | 心のやすらぎ・豊かさ

180517 今森流里山を学ぶ(1) <『今森光彦の心地いい里山暮らし12月』>を読みながら今森流を楽しむ

 

先日、田中陽希のグレートトラバースを見ながら室内ジョギングを終えて、クーリングをその後に放送される「里山」を見ていることを書きました。それぞれ映像に流れる人や生態の動き、それを育む周りの自然の息づかいに長い歴史と心遣いを感じることができます。

 

そんな中、いつも里山の風景が見事に切り取られた写真が登場します。今森光彦氏撮影のものです。さすが里山を愛し自らつくり・あるいは再生している細やかな息づかいを十分に感じさせてくれます。

 

今森氏については、以前昆虫や花などの撮影をされている写真家かと思っていましたが、その活動範囲がとても広いですね。木村伊兵衛賞や土門拳賞を受賞しているのですから、写真家としては別格の存在でしょう。ところが、タイトルの著作によるとペーパーカット作家も名乗っているようで、この著作でも撮影されている作品はまさにプロですね。

 

それだけではないのですね。今森氏は日本各地はもちろん、世界各地で里山はもちろん生態系豊かな土地を訪れ、生態系を育む生息地・生育地としての里山をトータルに理解されている数少ない専門家(生態学者とも違う、里山保全者?といった新たな分野を切り開く人でしょうか)ではないでしょうか。とはいえ私も多くの里山保全の活動や教育を行ってきた人とは30年くらい、いろいろお会いしてその知見を教授いただいきましたが、今森氏はちょっと違う印象です。ではどう違うか、まだ一度もお会いしたことがありませんが、テレビや著作を見ながら、読みながら、少し学んでいこうかと思うのです。

 

ところで、今森氏はオーレリアンの庭といい、Aurelian Gardenとも読んでいますが、後者は軍人皇帝時代のローマ皇帝の名前とか、でも前者がギリシャ語で黄金を意味し、金色の蛹にたとえられ、広い意味でチョウを愛する人たちのことを言うことで、これを採用しているようです。たしかに今森氏なら前者の意味だとわかります。英訳するのが間違いでしょうか。

 

さて本題に入るとして、まだこの本をぱらぱらとめくっただけで読んでいません。読みながら、少しずつ学ぼうかと思うのです。もしかし将来、私の終の棲家?なるものの一つのヒントになるのかななんて甘い考えもありますが・・・

 

今森氏は、23年前に、比叡山の裾野に広がる仰木地区にある堅田丘陵の一角、ひろさ千坪の休耕田をアトリエ用地として取得したようです(著作からはそのように読めました)。

 

ただ、休耕田とはいえ、農地として農地台帳に記載されていると、非農地として農業委員会が認定しない限り(これは簡単ではないですね)、転用目的の所有権移転ということで、農家要件が厳しいので、今森氏はそれに該当するとは思えませんから、農業委員会の許可を得ることは困難かと思います。ただ、平成20年の農地法改正以降、貸借の規制緩和が進んできましたので、貸借なら可能性はあるでしょうね。あるいは他の便法を使われたのか、ま、こういった法的詮索は、里山の美しさを帳消しにしますので、この程度にして、先に進みましょう。

 

アトリエとその周辺の環境というタイトルで、おそらく敷地および周辺環境を平面図上に作画されたものが掲載さています。

 

ここを舞台にして、一年、12ヶ月の四季の変化を描きつつ、その今森流里山の形成過程の一端を示し、また多様なそこからの果実や、生き物の姿をふんだんに登場させて、楽しませてくれます。

 

アトリエは背後にため池がある少し高台に設置したようです。敷地の区画がはっきりしませんが、ため池から見た場合、アトリエがあり、その左側には雑木林が広がり、アトリエの前庭には多様な区画で仕切られたガーデニングエリアを大きく2つくの区画にして、その先に水田を配置するといったところでしょうか。

 

ため池と水田はいわばラムサール条約の湿地に匹敵する環境ですので、これらが連続していることにコリドーとして有効な機能が働くでしょう。大きく広がっている雑木林は野鳥や小動物の住処、隠れ家になるわけですから、捕食されないような場所を確保しつつ、えさの多い水田やため池に容易にアクセスできる位置関係を作っていますね。

 

薪置き場と腐葉土置き場を雑木林とガーデニングエリアの境界線上においていますが、腐葉土は供給源としては雑木林の落葉や枝葉ですので、それを腐葉土にしてガーデニングエリアで土壌肥料として提供するという絶好の場所ですね。

 

蒔き置き場は普通、ストーブや炉の近くに置くと思うのですが、なにかそこには深謀遠慮がありそうな、今森氏の知恵が働いているような気がします。それは著作を読むことによりわかるのかなと期待しています。

 

そういえば私は、子供の頃手伝いで(昔は子供は手伝いをするのが当たり前でした)山から木を運んできて、薪割りをよくしていたことを思い出します。いまはチェーンソーで、あっという間にカットできますが、斧を担ぎ上げ、集中して、一本一本、割っていく作業はきついですが、うまく割れると気持ちのいいものです。

 

草刈りは、当地にやってきて、一時は草刈り三昧の日々を送っていましたので、今森氏の草刈り姿をみて懐かしく感じます。といっても今森氏のように刈払機は基本使わず、大鎌という長さで言えば柄と刃で1.6m以上あったでしょうか。それでどんどん刈っていくのです。

 

以前たしかロシアで刈払機を持った人と、大鎌を使う人とで、どのくらい早く草を枯れるか競争するゲームが放送されていましたが、どちらが勝ったでしょう。後者でした。むろんさまざまな条件次第で、結果は変わりますが、一般的には刈払機の実力は大変なものです。私はエネルギーの消費、排ガスの臭い、刃がこぼれたり、跳ね返ったりして怪我を負う危険など、いくつかの理由で大鎌を選んできました。最大の理由は当時はタイピングがほとんどできないくらい振動に対応できない状態でしたし、静かな環境で草刈りするといろいろもの主にふけることができ、「沈黙の豊かさ」を味わえる心地よさでしょうか。

 

さて今日は今森流里山のスタートラインにも立てなかったような感じですが、今後折り合いを見て続きを書こうかと思います。

 

今日はこれにておしまい。また明日。